七 『真夜中の探偵』
夜が来る。魔物たちが騒ぎ出すあの夜だ。月が出て、星々は輝き、元から静かだったこの町をさらに静寂なものにさせる。明るいが、深すぎる闇が広がっている。そう思うような景色だった。
日本にいた時は黄昏時が一番恐ろしかったが、今はそうではない。何かが出そうな──それこそ亜人が出てきそうなおどろおどろしい雰囲気が滲み出すこの時間帯が妖怪の一種である式神のイヌマルは恐ろしかった。
「結局、なんの手がかりも得られなかったな」
三件目の現場の調査を終え、宿に帰ってきたティアナは窓の外を見て呟いた。クレアはイヌマルが手渡した手術器具を掌に乗せ、「そうですネ」と相槌を打つ。
彼女が今調べているものは半日程度でわかるものではないらしく、そもそも検査する為の道具が揃っていないせいで通常の倍の時間がかかってしまうらしい。わかる頃には倍以上の被害者が出てしまうだろう。そのことがわかっていたから全員が沈黙したまま帰宅していた。
「ティアナ、俺はとりあえず今晩ずっとこの町を見張ってみる。例の件は頼んだ」
「わかった。死ぬなよ」
「生きて帰る」
「……イヌマル」
不安そうな表情を見せるステラへと視線を向けて微笑んだ。大丈夫だ、そう言い切ることはできず、それを証明する為のものも持っていないイヌマルは微笑むことしかできなかった。
「信じて、主」
それでもこれだけは言える。ステラを信じさせるほどのものをイヌマルは持っている。
「俺は、百鬼夜行を生き抜いた式神だから──だから、必ず帰ってくる」
あの地獄を経験したから、まだ生まれて一年しか経っていなくても充分な戦力だと自負していた。幼いステラだけでなく、成人に近い年齢のティアナとクレアとグロリアのことも守れる自信があった。
「信じてる」
泣かないように必死に堪えているステラに笑って送られるような自分になりたい。そんな風になれるまで一体どれほどの歳月がかかり、一体どれほどの誰かを殺さないといけないのだろう。
「ありがとう、主」
ただそれだけを言う。イヌマルとステラの絆を真っ二つにすることはこの世界に住むどんな生物でもできるようなことではなかった。
宿の窓を開け、冷たい風が吹く真夜中のイギリスの田舎町を見据える。空気は変わらず土っぽく、そんな匂いがぷんぷんする。そんな町にまた飛び込む。
「イヌマル」
声をかけたのは、ステラではなくグロリアだった。
本当にイヌマルのことが見えるようになった彼女はイヌマルの肩に手を置いて、「祈りを」と綺麗な日本語で告げる。振り返ると、大人びたステラの瞳がイヌマルのことを映していた。
「祈り……?」
「アナタが無事に、この場所に帰ってきますように」
その台詞は、妙に言い慣れているように聞こえた。日本で宣教師として活動していたのだろうか。シスター服を着ていなくても、悪魔がいなくても、彼女はシスター兼祓魔師のグロリア・カートライトとして真っ直ぐに今日も神に祈る。
「ありがとう、グロリア」
彼女はイヌマルの大事な家族だ。ステラと同じ顔を持っているからむやみやたらに抱き締めることはできないが、そうしたいと思うほどにイヌマルはグロリアを好いている。
目と目があった。ティアナは顎を引いてイヌマルの背中を押し、クレアは手術器具をしまって腕を組む。その目は輝いていなかった。グロリアがあまりにも輝いた瞳を持っていたからそんな風に映っていた。
「イヌマル」
駆け寄ってきたステラに抱き締められる。自分からすることは滅多にないしステラからすることも滅多にないが、やはり抱擁は心地良くて安心する。
「本当に、気をつけて」
「ありがとう。行ってくる」
腕を離した。微笑んだステラはグロリアに抱き寄せられ、窓から落ちるイヌマルを見送った。
すぐさま屋根に飛び移ったイヌマルは、辺りをぐるりと見回す。
宿の電気は自分たちの部屋と少年の部屋だけがついていた。他の建物もほとんど明かりがついており、人通りはまったくない。それでも犯行に及ぼうとする愚者がいる。そいつの気持ちが何一つ理解できなかった。
「ッ」
冷たい風が吹く。そろそろ夏が訪れるのに、そんな気配が微塵もないほどに町に夏のようなものはない。
屋根を飛んで隣の建物に乗り移った。イヌマルは式神だ。どんなに大きな音をたてようとほとんどの人間は聞こえない。
この町の外れにある──グロリアがかなり毛嫌いしている聖職者たちにはイヌマルの姿が見えるかもしれないが、彼らはこの町を捨てて森の中へと消えている。この町でイヌマルの存在を見つけることができるのは片手で数える程度しかいないだろう。
その中に、イヌマルたちと同じ宿で暮らすあの少年がいた。その少年が最初の現場を見つめていたこと。これらは多分、偶然ではない。
だいぶ走って宿へと視線を移す。少年の部屋は今でも明かりがついており、少年らしき影が動く。
その隣に立っていたのは、女性らしき影だった。あの髪を二つに結んでお下げにしているような女性のシルエットは、ティアナのものだろう。
イヌマルはティアナにあの少年のことを託していた。クレアやグロリアよりも少年と年齢が近そうに見えるティアナ。クレアやグロリアよりも意外と人と話せるティアナ。ジル・シルヴェスターの〝クローン人間〟である、ティアナ。
彼女のことを考えたら思考が尽きない。足を止めて空を仰ぎ、町に変化がないことを確認してイヌマルは町中を見回した。
中心地に宿をとっていて本当に良かった。町の端から端まで見渡せるこの場所は町のシンボルである時計台で、イヌマルは今日の出来事を一つ一つ整理していく。
三件目の被害者も、一件目と二件目の被害者と共通する外見的な特徴がなかった。血液型も睨んだが、ティアナたちの地道な身辺調査でバラバラであることが確認されている。
唯一共通していたのは、学校だった。この町に一つしかない学校に、学年はバラバラであれど同時期に通っていたことはティアナたちが確認している。
それでも、本当に狙われる理由がそれだけならばこの町に同条件の女性は大勢いる。その全員の様子を監視するほどイヌマルは化け物ではない。イヌマルの体はこの世界でたった一つだけだ。
「……絶対に今日見つけてやる」
呟いた。また風が吹く。土っぽい匂いがまた鼻に襲いかかり、他の匂いを消していく。
血の匂いが滲み出しても気づけないのではないだろうか。不意にそう思って、体を強ばらせた。
それは駄目だ。危険だ。五感を奪われたら人は格段に弱くなる。
少なくともすべての能力が人よりもほんの少しだけ優れたイヌマルはそうだった。
鼻を擦り、自分の匂いで鼻をリセットしようと足掻く。だが所詮は自分の匂いだ。わからない。まだ土のような匂いがする。
視線を巡らせるが何もなかった。まだ人々が起きている時間帯だからだろうか。町が寝静まった頃に犯行に及ぶのならわかりやすいが、卑劣だとも思う。真なる闇夜でしか生きることができない魔物ならば多少の同情はしてしまうが、それでも殺すという結論は変わらない。
「──こんにちは。貴方が犯人ですか?」
瞬間に心臓を刺されたかのような感覚が全身を走った。鼻が効かない、それでも感覚はきちんと機能していたはずなのにまったく気配に気づかなかった。
視線を下ろすと、時計台を見上げている青年と目が合った。青年は微笑み、手招きをしてイヌマルを地面に下ろそうとしている。
「……ッ!」
理解できなくて警戒心を顕にした。彼は誰だ。そして何故自分を〝犯人〟と言うのだろう。
青年はまったく笑みを崩さなかった。見た目の年齢はクレアの年齢に近いだろうか。彼もまたイヌマルより背が高く、体格に恵まれている。細身に見えるがそれ以上の筋肉があるのだろう、そう思うほど彼が醸し出す雰囲気は一般人のものではない。
顔はやはり彼に似ており、驚くほど精巧に作られた人形のように美しい。美で人が亡くなってしまうなら即死してしまうほどに、青年は綺麗だ。そんな美しさは暗いグレーの長髪でさらに強調されており、青年もまた不自然に青い瞳をまばたきさせる。
その立ち姿は宿に残っている少年と似ていた。ステラとグロリアほどではないが、兄弟のように見えるくらいに似ていたのだ。
「え、えっと……」
「おや。貴方は中国人なのでしょうか?」
「日本人です!」
「そうですよね。良かったです、それは日本の伝統衣装ですもんね」
見た目に驚いて気づくことに遅れたが、彼が話している言語は日本語だった。あまりにも流暢でそのことにも驚いてしまう。どうして彼は話せるのだろう。
「とりあえず下りてきてください、犯人さん」
「はんっ……?! 俺はなんの犯人なんですか?!」
「決まっているでしょう。この町で起きている連続殺人事件のですよ」
「違います!」
まさか自分が犯人扱いされるとは。一瞬でもそのことを考えたことはあるが、いざ犯人扱いされると頭の中が真っ白になってしまった。
「違うんですか? そんなに怪しいのに?」
「それを言うならあんたも充分怪しい!」
「私は探偵です」
「は?」
心の底から何を言っているのかわからなかった。探偵という言葉の意味は当然わかるが、イヌマルが知っている探偵とは似ても似つかない。私服なのに探偵と名乗る人間がこの世に存在するなんて知らなかった。
「本当ですよ。見えないかもしれませんが」
「俺は犯人じゃない。見えないかもしれないけど」
「あぁ。まぁ一応知ってます」
「は?!」
「貴方のことは弟から聞いて気になっただけなんで」
「弟……」
「レオです。レオナルド・ネグル。私はグリゴレ・ネグル──本物の探偵です」
にっこりと微笑み続ける彼はやはり未だに怪しい。信じられないが、あの少年──レオの兄だということはすんなりと信じることができた。
「とにかく、下りて話をしませんか?」
このままだと埒が明かない。イヌマルは意を決して飛び降りて、自分よりも背が高いグリゴレを見上げる。
「いい子ですね」
子供扱いされているような気がした。だが、自分が童顔で彫りの深い彼から見たらそうなのだろうと納得した。




