二 『主と師』
ここは、妖怪が出そうに見えたあの森の中ではない。住宅街だというのに、妖怪は当たり前のように屋根の上に乗っていた。
「頼むよキジマル!」
「えぇ、京子様!」
実戦に慣れた二人の声が頼もしい。真っ先に飛び出すキジマルは数多の妖怪の体を切り裂き、そんなキジマルから離れすぎないように京子がその後を追いかけていった。
猿秋は慣れているのかいないのか、まったくその場から動こうとしない。よくわからないが、飄々とした態度で真っ直ぐに妖怪を見据えるステラの手を繋いでいた。
「あるっ、主!」
何か指示を──そう思って声をかける。イヌマルはまだ、それがないと動けないほどに新米だった。
「今日は初日だから、キジマルと姉さんの戦い方を真似してみなさい」
猿秋はそんなことしか言わない。酷い人だと思ってしまうが、真似をするだけならば簡単だ。
キジマルの姿を視線で探すと、豆粒くらいの大きさのキジマルが屋根と屋根の間を飛んでいるところだった。
もうあんなところに──。追いつけるのかと不安に思う。
「主っ、行っていいんですね?!」
丸腰の猿秋に向かって再度尋ねた。猿秋は式神と違って刀を持っていないどころか、片手をステラで塞がれていた。
「そうだね。俺たちがピンチになったら、また戻っておいで」
どうしてそんな風に言うのだろう。キジマルと京子は一心同体に見えるが、自分はまだ猿秋と一心同体になれていなかった。
「行きますっ!」
大地を蹴り上げる。傍にいた妖怪はすべてキジマルと京子が倒してしまったが、キジマルが向かっていない方向にはまだキジマルが倒していない妖怪がいる。
イヌマルは、自分の手に光を灯した。粒子が徐々に形となって、イヌマル専用の大太刀が顕現する。
「ッ!」
ステラが息を呑んだように、イヌマルの大太刀は他のどの刀よりも美しかった。
細部まで装飾が施されているにも関わらず、自分の体に異様に合った柄を握り締める。キジマルがそうしているように、自分の血が覚えているように──イヌマルは殴るように刀を振り下ろした。
あっという間に肉体がちぎれる。悪臭を放ちながら飛び散っていく妖怪の肉片の数々が、大太刀の攻撃力の高さを物語っている。
「はぁっ!」
休む間もなく横に払った。掠っただけだったが、ぱっくりと裂けた妖怪は瘴気を撒き散らしながら消えていった。
「──臨・兵・闘・者・皆・陣・裂・在・前」
その瘴気を消す為に、陰陽師である猿秋が九字を切った。どす黒い色をした瘴気は綺麗に消えていき、後には何も残らなかった。
振り返ると、ステラの手を繋いでいない方の右手を前に出した猿秋が微笑んでいた。
人差し指と中指を立てて、横、縦、横、縦、横、縦、横、縦、横と──そうやって空間を切った猿秋は疲れた様子もなくそれを真似するステラにも笑みを向ける。
「そうそう、その調子」
「主ぃ、なんでそんなに呑気なんですかかぁ」
毒気が抜かれた。こんな人が自分の唯一無二の主だった。
「ふふっ」
「えっ、なんで今笑ったんですかステラ様」
「だって、今のイヌマルの顔、サルアキとまったく同じ顔だったから」
「えっ?!」
「やっぱりサルアキの式神なんだね。ねぇサルアキ、わたしもイヌマルみたいな式神欲しい」
「駄目。ステラはまだ陰陽師じゃないからね」
「じゃあ陰陽師になる」
「そう簡単になれるようなものじゃないよ。陰陽師の子だってまだ実戦には出てこないのに」
「いつになったら陰陽師になれるの?」
「あと一ヶ月かなぁ。俺も姉さんも十歳からだったし」
「なら待てない。今すぐになりたい」
「だーめ。九字もちゃんと切れないのに、無茶を言わない」
「切る。今から切るからちゃんと見てて」
「今から切るって」
困ったように眉を下げる猿秋は、イヌマルと同じように妖怪の気配を感じて顔を上げる。
妖怪は、遠く離れた電柱にしがみついていた。魚のような一つ目をこちらに向けて、二本の足にも手にも見える肢体を離す。
「イヌマル」
「はいっ!」
片手に持ったままだった大太刀を掲げた。いつ来てもこれで迎え撃てる。実績はまだないが、自信は確実についていた。
「来るよ」
「はいっ!」
猿秋の読み通り、道路に落ちた妖怪は赤々しい太陽を背にしてイヌマルの方へと疾走した。二本しかないからかたいした速度ではなかったが、油断して倒すことができなかったら猿秋とステラが大怪我を負う。
最悪の場合、死ぬかもしれない──そんなことを考えたから気合いが入った。
「──ッ!」
間合いに入る前に自分から詰めた。全力疾走、小さなあの体を上から殴るのではなく横から殴る──そんなイメージを作って構え直すと、急に妖怪が空へと飛んだ。
「ヴぇっ?!」
軽い体だったからか、自分の間合いよりも遥か彼方の空中にいる。そのままイヌマルを飛び越えて、無防備な猿秋とステラの元へと妖怪が再び疾走した。
「なっ!」
読みが甘かった。どうしてあのまま真っ直ぐに突っ込んでくるなんて思ってしまったのだろう。
「主ッ! ステラ様!」
声をかけたところできっと意味はない。すぐさま足を止めて追いかけた。
早くしないと二人は死ぬ。たいした速度ではないと侮っていたが、イヌマルの計算だと間に合わない。
「逃げてください!」
出てきた言葉はそんな言葉だった。違う。もっと他に言うべきことがあるはずだ。けれども何も出てこない。がむしゃらに走ってはいるがこれが正解なのかもわからない。わからないのに答えを出してくれる師はいない。キジマルは遥か遠く、自分の方がまだ救える可能性を持っていた。
猿秋は危機感のない表情で妖怪を見下ろし、ステラは怯えた表情で妖怪を見下ろしている。猿秋のその余裕は一体どこから来るのだろう。どうして自分はこんなに馬鹿みたいに焦っているのだろう。わからない、本当に。何もかもわからないのに、顕現したばかりの自分にもわかることがいくつかある。
猿秋が主だということ。だから絶対に守らなければならない存在だということだった。
一方のステラは主ではない。だから優先順位は猿秋よりも低かったが、イヌマルはこの時、猿秋よりもステラを守りたいと思ってしまった。
九歳という幼い少女が浮かべた表情は、そういう表情だったのだ。
「……ッ! 気をつけて!」
何を口走っているのだろう。だが、イヌマルの体は疾走しながらも刀を構える動作をとっていた。
わからないのに、これもわかる。きっと血の記憶なのだろう。あまり深くは考えずに、血が覚えているままに手足を動かす。
「──シッ!」
歯と歯の間から空気を吐き出した。同時に刀を目にも留まらぬ速さで横に薙いでいた。
目の前に妖怪がいたわけではない。まだ遠くにいたはずなのに、その妖怪が真っ二つに切れる。
イヌマルがたった今やったのは、斬撃を飛ばすという人間離れした技だった。
「……!」
驚愕の表情を浮かべるステラが無事であることを確認し、安堵した刹那にたたらを踏む。
「りん──」
いや、二人はまだ無事ではなかった。
嬉しそうに拍手をする猿秋の隣で、ステラが九字を切っている。今しがた教わったばかりのそれを、まだ消えていない妖怪に向かって唱えている。
「──臨・兵・闘・者・皆・陣・裂・在・前ッ!」
舌が上手く回っていない時もあるのに、ステラが唱えたその九字は初めてにしては流暢なものだった。だからか強力な九字となり、未だに動いていたそれを消滅させていく。
「ッ」
隣にいた猿秋も、これには驚きを隠せなかった。
イヌマルが大太刀持ちだと判明した時でさえたいして驚いていなかったのに、齢九歳のステラが切った九字の威力には驚く。それくらい、ステラが成し遂げたことは常識で考えたらあり得ないことだった。
「ステ……」
猿秋が声をかける直前になって、ステラの膝が折れる。
それの流れがゆっくりと見えていたイヌマルは、ステラが落ちてきたあの時のように彼女の体を受け止めた。
「……ナイスキャッチだ、イヌマル」
「すみません」
「ん? どうして謝るんだ?」
「え? だって俺、あんな失敗……」
「あぁ。確かにあれは失敗だったね」
「うっ」
「うん。けど、お前はちゃんと取り返した。だから俺はお前を褒めるよ、偉い偉い」
「ちょわっ?! な、なんで撫でるんですかぁ」
ステラを受け止める為に両膝をついていたイヌマルは、飼い主が愛犬にするかのような撫で方をする猿秋に不満を抱く。だが、何故だか妙に気持ち良くてされるがままになってしまった。
「偉い偉い」
「何してるんだい? そこの三人は」
呆れた様子の京子がキジマルを連れて戻ってくる。二人の方は終わったらしい、自分たちの方も妖怪の気配がない以上は終わったも同然だが。
「イヌマルが偉いから褒めてたんだよ」
「偉いって?」
「斬撃を飛ばして妖怪を仕留めた。ステラが九字を切ったから、ステラも偉い偉いだね」
「はぁっ?!」
ステラの頭も撫で始めた猿秋は、驚愕の表情を浮かべる京子とキジマルに向かって「ん?」と聞き返す。
「斬撃を飛ばした?! 九字を切った?! 何言ってるんだ、本当なのかい?!」
「大太刀だけに留まらずそんなことまで?! 京子様、この式神ちょっとおかしいですよ! 徹底的に調べ上げましょう!」
「二人とも、うちの式神をイロモノみたいに言わないでくれ。ステラも才能があったみたいでなによりじゃないか」
「そうは言うけどねぇ、猿秋。それが本当ならイヌマルは他の式神とは違うってことになるんだよ?」
「そうですよ! 前代未聞です! 冗談なんかじゃないですよ、本当に調べた方がいいですって!」
「別に前代未聞ではないと思うけどね。前例がほとんどないだけで、大太刀持ちは片手で数える程度にはいるし、長生きした式神はみんな斬撃くらい飛ばせるだろう?」
「千年以上の歴史を持つ陰陽師が何万と顕現させた式神の中からたったの五人だぞ?!」
「そうですよ! それに、イヌマルはついさっき生まれたんですよ?! 全然長生きじゃないじゃないですか!」
猿秋が京子とキジマルの勢いに呑まれることはなかった。「まぁまぁ」と言って二人を落ち着かせる動作をし、「ステラが疲れてるから早く帰ろう」と提案する。
「ったく。この話は後でちゃんとするからね」
「その時は私も同席させてください、京子様」
まだ諦めていないようにみえたが、二人は一応落ち着いたみたいだった。
あんなに激しい嵐だったのに、一瞬で鎮めさせた猿秋の方がイヌマルは気になる。
三善猿秋という名の陰陽師は、一体どんな人なのだろう。
まだ何も掴めていなかったが、これから知れるのだと思ったら心が一気に満たされた。
受け止めていた状態からステラを抱き上げて猿秋の後を追いかけるイヌマルは、自分と同じく猿秋を尊敬の眼差しで眺めるステラに気づく。
「ステラ様は、主のことが好き?」
だから思わずそう尋ねた。ステラはイヌマルに視線を移し、綺麗な紺青色のそれにイヌマルの心を吸い寄せる。
「うん。好き」
嬉しそうに破顔したステラは、月並みな言葉だと思うが世界で一番可愛かった。
語彙力を失ってしまうくらい可愛らしいステラに好かれている猿秋が、自分の主なのだと再度思った。
「イヌマルは?」
「俺も好き」
だから誇る。自分の主が三善猿秋であることを。
「ねぇ、イヌマル」
「ん?」
「わたし、陰陽師になれたかな?」
「もちろんなれたよ。主と同じ気配がする」
彼女の師が、三善猿秋であることを。




