二十 『いってらっしゃい』
四月二十五日早朝。ステラは最後までイヌマルの説得に従わなかった。
自分たちは本当に主従なのだろうか。本物の主従だったら言葉を交わす必要なんてない。いや、そもそもすれ違うことなんてない。
過ごした時間があまりにも短かったせいなのか、イヌマルの万の言葉はステラの一つの意志の前で儚く砕け散った。
ステラは三善家に傷がつくことを過剰に厭い、京子はステラの心に傷がつくことを過剰に厭った。そこにイヌマルという名の式神はどこにもいなかったのだ。
「いってらっしゃい、ステラ」
また帰ってくるかのような言い方だったが、イヌマルはこれが今生の別れであることを知っている。ステラはきっと、この町にはもう二度と帰ってこない。京子が亡くなったら話は別かもしれないが、そこで会えるのはステラとイヌマルだけだ。そこに京子はいない。そんなことがあっていいわけがない。
「…………いってきます、キョウコ」
それでもステラはそう答えた。ステラにとってのイギリスは、行って帰ってくる場所らしい。そんなところに一人で行かせるのだと思うと胸が異様に痛くなる。
「主、俺も行く」
気づけば口に出ていた。
「えっ」
改札へと向かおうとしていた足を止め、ステラはぎょっとイヌマルを見上げる。
「一人じゃ危ないから送るよ」
「……うん、ありがと」
言うと、ステラが顎を引いた。この件で初めてステラがイヌマルの言うことを聞いた気がした。
「ステラ」
京子がもう一度星の名である彼女の名を呼ぶ。
「何度も何度も言うけれど、あんたはあたしの……三善家の家族だからね」
彼女の傍まで歩き、両膝を折り、彼女の両肘をしっかりと握りしめて告げた京子はステラのことを心の底から想っている。それがちゃんとわかるイヌマルだから、なんとも言えない苦さが自分の体内を駆け巡った。
「……うん。わかってる。すごく嬉しいよ、キョウコ」
耐え切れずに涙を流したステラのそれは、嫌になるくらいに綺麗で粒がきらきらと輝いている。頬を伝うそれの数は今まで見てきたものよりも多く、胸が強く締めつけられる。それほどまでに大切だと思った少女がステラだったのに。
唇を噛み締めて、改札を通る彼女の後ろを無言でついて行く。式神に切符は不要だ、見えていない人が大半なのだから何もせずに通り抜ける。
「イヌマル、ステラ様を頼みましたよ」
振り返ると、京子の傍らに立っていたキジマルの瞳がイヌマルを捉えた。キジマルも、京子や猿秋と同じ黄色い瞳を持っている。そして、イヌマルも彼らと同じ瞳を持っている。
自分の瞳を見たのは、この二十五日間で一度だけだった。京子も、猿秋も、キジマルも、自分たちの瞳を一度に見たことはないだろう。
「当たり前だ!」
叫んだ。そんな自分の手を握ってくれた幼いステラだけが、三善家の姉弟と三善家の式神である自分たちの黄色い瞳を一度に見ることができていた。
「ステラ!」
歩き出すステラに声をかける。これが本当の本当に最後だろう。幸せはいつまでも続かない。
「何かあったらいつでも帰ってきていいからね! 待ってるから! あたしらはあんたのこと……いつまでも待ってるから!」
歩き出そうとする京子の肩をキジマルが掴んで引き止めた。その強さがキジマルにはあって、その強さがイヌマルにはなかった。
「キョウコ、ありがとう!」
大きな声が改札に響く。伝えたいと思って出された声は遠くまで伸び、小さく木霊する。
「何かあったらキョウコも呼んでね! わたし、絶対行くから! 迷惑じゃないなら……っ、絶対帰ってくるから!」
それがステラの本心なのだと、イヌマルは今初めて知った。それを知るには少しだけ遅かった。なんとも言えなくなって背中を見せて歩き出したステラの後を再び追う。そしてまた振り返り、全力で手を振る二人のことをステラは一生知らないのだと思って全身を刻む向かい風に突き動かされた。
「主!」
彼女を呼ぶ。彼女の荷物を手に取って、彼女を抱き上げて、改札の前で手を振る二人を視界に入れさせる。
「っ……!」
ステラの瞳がきらりと揺れた。涙を流すことはもうしなかったが、頬に張り付いた涙の跡が彼女の心のすべてを表していた。
*
電車を何度も何度も乗り継いで、最寄りの空港まで辿り着く。ここまで長い旅だった。だが、ステラにはまだ旅が残っている。陸から空へと旅に出たステラは、もう完全にイヌマルの手を離れてしまった。そうなってしまったらイヌマルにできることは何もない。ただステラの無事を祈るだけ。そんなことしかできないなんて式神失格だと思った。もう彼女の式神でもなんでもないが。
空港の中から見上げた青い空に、ステラが乗った飛行機が浮かんでいる。今はまだ大きいが、これから夜空の星と変わらない大きさになるのだろうか。そして、イヌマルが知らない異国の地に降り立つ。
子を見送る親のような気持ちだった。これから陽陰町に帰らないといけないのに、空港のソファから一歩も動けない。
電車ではなく瞬間移動で帰ることもできるのに、何故か力が抜けて自分ではどうすることもできなかった。
「イヌマル」
「ッ?! キジマル?!」
声に驚く。そんな自分の声にキジマルは驚いていた。
「……まったく、無事なら早く帰ってきてください。今何時だと思ってるんですか」
「え? あ、あぁ……ごめん」
辺りを見回すと、青かった空は綺麗に黒く染まっていた。夜中だ。日が暮れていたことにまったく気がつかなかったらしい。
「貴方の気持ちはわかりませんが、貴方がそんな調子だとステラ様もきっと困りますよ」
「でも、主にはもう会わないからわからないよ」
「わかります。陰陽師様と式神はそういうところもきちんと共有しているんですよ?」
「でも、俺と主は主従なんかじゃ……」
「ないってどうして言い切れるんですか。貴方は二十五日前に生まれたばかりの式神なのに」
「でも、こういうのって血が覚えて……」
「生まれてから得たばかりのものより血を信じるんですか、貴方は」
「キジマルはさっきから何が言いたいんだ?」
意味がわからなかった。キジマルは何故自分とステラを主従関係として結びつけたがるのだろう。
「言いたいことならたった一つですよ。私は貴方に心底同情する、生まれてから一ヶ月も経たないうちに主と離れ離れになった赤ん坊の貴方をね」
「…………」
本当に意味がわからなかった。そんなことを言いたいだけならば、今すぐこの場から去って放っておいてほしかった。
「赤ん坊だから私が教えてあげますよ」
もう何も聞きたくない。
「貴方がまだその場から動けないということは、それほどステラ様に自分の元から去ってほしくないと思っていたということです」
そんなことを言いたいだけならば本当に今すぐ去ってほしい。
「そして、それがステラ様の本心です」
「じゃあどうすれば良かったんだよ!」
何もわからないくせに。何もわからないと自分で言っていたくせに。勝手なことを言って自分の心を掻き乱さないでほしい。
「答えはどうすればいい、ではありませんよ」
「は……?」
「ステラ様がどうしたかったか。そして、貴方が今、どうしたいかです」
「……そんな」
それを口にするのはわがままだ。瞬時にそう思った。自分のわがままをこれ以上ステラには言いたくなかったから、一線を超える前に口を閉ざした。
それでも、叶うならばわがままを言って困らせて、自分の傍にいてほしかった。例えそこが三善家ではなくても、町の片隅で慎ましく生きていければ幸福だった。
「イヌマル。私は京子様の次に貴方の幸せを望んでいます。そして、同じくらいステラ様の幸せを望んでいます」
「……キジマル」
「京子様の不幸も、ステラ様の不幸も、貴方の不幸も、私はもう見たくない」
「…………自分が今何を言ってるのかわかってる?」
確かめた。するとキジマルは微笑んだ。彼の微笑みは珍しいもので、イヌマルは思わず息を呑む。
「──幸せになってください、イヌマル」
式神の自分が誰かから幸せを望まれるなんて今まで思ってもみなかった。イヌマルが思ってもみなかっただけで、イヌマルよりも長く生きたキジマルは知っていたのかもしれない。
「京子様もそう思っていますよ」
立ち上がった。キジマルは手を伸ばす。
その手を握って、離した。
温かくて大きな手を離して得るものは、小さな星の欠片ただ一つ。それでも、イヌマルにとっては何よりも大切な星の欠片だ。
「ありがとう」
もう二度と迷わない。いかなる時もステラの傍にいて命ある限り彼女を守る。そう土地神に誓ったから揺るがない。
「いってらっしゃい」
その言葉を風にして、イヌマルは飛んだ。瞬間移動をして見た空は青く、何故そうなのかがわからなくて心底驚く。
イヌマルが飛んだ先は空中だった。星の元へと飛んだはずなのに何故ここにいるのかもわからなくて、心臓が異様に音を立てる。
視線を下ろすと、自分のことを驚愕の表情で見上げる少女と目が合った。
猿秋と京子とはまた違う──日本人離れした顔の造形。柔らかそうな月白色の髪も、紺青色の双眸も、日本人にはまったく見えない。同じく紺青色の可愛らしいワンピースが似合うのはこの世で彼女ただ一人、そう思うくらい彼女という存在は美しかった。
「主!」
イヌマルにそう呼ばれた彼女は微笑む。本当に、心からの彼女の笑顔。久しぶりに見た彼女の笑顔。
「おかえりなさい」
彼女はそう呟いた。両手を広げ、イヌマルの着地を待ちわびる。
「ちょっ……?!」
彼女の腕の中に落ちるわけにはいかない。ステラを押し潰してしまうから怖くて怖くて仕方がない。
「うわああああ!」
慌てて着地ポイントをステラからずらす。そういうことが瞬時にできるのも式神の血なのだろうとイヌマルは思った。
「ぐへっ!」
着地は慣れているはずなのに、変な声を出して両足を地面につける。
「だいじょうぶ……?」
隣に立っていたステラは、戸惑いながらもじっとイヌマルの姿を眺めていた。大丈夫、自分は本物の式神だ。自分は本物のイヌマルだ。
「それは俺の台詞だよ」
自分たちの周りには多くの外国人がいた。ステラは彼らと似たような外見をしているが、その中にいてもステラのことは見分けることができる。
何故なら彼女は、ステラ・カートライトだから。イヌマルが大切だと思う、ステラ・カートライトだから。
「わたしは……だいじょうぶ」
また微笑んだ。その理由をイヌマルは知っている。
「イヌマルがいてくれるから」
その声と、言葉が、何よりも心地良かった。




