十九 『悲しみの連鎖』
なんでもない日常が来ると信じて疑わなかった。百鬼夜行に対する悲しみを葬儀の日に一区切りつけ、新しい未来に進めると信じ切っていた。
実際、新しい未来に進んでいるのだろう。それでも、葬儀が終わった二日後の四月二十四日。その日に新しい訃報が来るとは三善家の誰も予想していなかった。
「は? 綿之瀬五道が死んだ? どういうことだい、死因は?」
電話に出た京子が慌てる。ステラと交流を深める為に三善家にいたイヌマルは、彼が誰であるのかを視線でステラに問いかけたが──絶句するステラには答える余裕がないようだった。
「わからない? 施設が崩壊したって……爆発?! 何馬鹿なことを言っているんだい、そんなわけ……本当なのかい?」
出てくる情報一つ一つが信じられない。「わかった、とりあえずそっちに行くよ」そう言って通話を切った京子はステラへと視線を移した。
「聞いていたと思うけど、綿之瀬五道が死んだらしい」
「……うん」
「奴が運営していた養護施設が崩壊したらしくてね、奴だけが……巻き込まれたと」
「……う、うん」
動揺している。悲しみというよりもそっちの感情の方が強いらしい。
「ちょっと現場に行かなくちゃいけないから、留守番頼んだよ。イヌマル、あんたはステラを頼んだよ」
断る理由のない頼みを聞くが、綿之瀬五道という存在を知らないイヌマルにとって、気になることしかない案件だった。
「主……」
彼女はもう〝ステラ様〟ではない。声をかけるとステラがゆっくりと視線を上げる。
「……綿之瀬五道、って?」
聞いてはいけないような。彼女の式神として知らなければいけないような。
「わたしが〝クローン人間〟ってことは、聞いてるでしょ?」
「もちろん」
「ゴドウさんは、イギリスから来たわたしを一時期引き取って、このお家に預けてくれた人なの」
「じゃあ、つまり……」
猿秋は生前、ステラが祓魔師の〝クローン人間〟として陰陽師になる為にこの家にやって来たと言っていた。そして、代わりに自分の〝クローン人間〟をその祓魔師の家に預けていることも話していた。
「……つまり、昔からこの家に深く関わっている人、ってこと?」
「……うん」
頷かれた。そんな人が爆発した施設に巻き込まれて死んだということか。
「その人のこと主は知ってるの?」
「知らないけど、キョウコたちはわたしのことでずっと連絡取ってたから……」
ステラの声色が低くなった。それくらい重要な人が亡くなったということだった。
「……ねぇ、イヌマル」
「ん?」
「サルアキが死んで、おじさんとおばさんも死んで、ゴドウさんも死んで」
「ちょっ、主!」
嫌な予感がする。ステラが悲しみの淵に沈んでしまうのなら、その手を取って支えてあげたい。引っ張りあげて、生きていてほしいと願っているから手を伸ばす。
「ねぇ、イヌマル」
聞いてと言われているような気がした。聞きたくないのに彼女は口を開いてしまう。
「──わたしはもう、要らないよね」
そんなことはないのに、ステラの紺青色の目は何よりも悲しみに支配されすぎていて否定する言葉が喉の奥で引っかかった。
*
「ただいま」
遅くに帰ってきた京子は、五道が亡くなったと聞かされて出ていった夕方からまったく動いた様子が見られない二人を見下ろして、ぎょっとした表情を見せる。
「ふ、二人とも大丈夫かい? 悪いね、今すぐご飯を作るから……」
「キョウコ、ゴドウさんはどうなったの?」
そんな京子の言葉を遮って尋ねたステラは京子の黄色い瞳をじっと見つめていた。黄色い瞳は猿秋にそっくりな三善家特有の瞳だった。
「亡くなったのは本当らしい。施設のことをどっから嗅ぎつけてきたのか知らないけど、炎竜神家の人間が内部で暴れたらしくてね。あたしが行った時はもう直されていたけれど、綿之瀬家の頭首さんが焦っているのが見えたから、少し不味いかもしれないよ」
「……やっぱり?」
「ステラ。あんたは絶対悪くないし、あんたのことはあたしが守る。だから心配しなくていいよ」
「心配するよ。だって、わたしはこの家の家族なんでしょ? だったら、できることはさせてほしいよ」
二人の会話についていけない。まだ自分が知らない、知らされていない何かが隠されているのだろうか。
「そうは言ってもね……」
「どういうことなんですか、京子様」
口を挟んだ。京子はイヌマルへと視線を移したが、説明する気がないのか首を左右に振っていた。
「わたしの存在が罪ってこと」
そんな言葉を一体どこで覚えてきたのだろう。ステラへと視線を戻すと、悲しみは少しだけ掻き消されているように見えた。悲しみよりも、この家に迷惑をかけていることを憂う瞳だった。
「罪、って」
ステラは確かに、他の人間とは違う生まれ方をした少女だ。人の手で勝手に作られた少女だ。それが人道的ではないというのなら、それが罪だというのなら、ステラの存在は各方面から否定される。彼女は自分の大切で絶対な主なのに。
イヌマルの絶望を敏感に感じ取ったのだろう。ステラは京子のように首を左右に振って否定する。そんな力が彼女にまだ残されていることが喜ばしかった。彼女にまだ生きる気があると知ることができて一人で安堵し、ならば何故あんなことを言ったのかと、そう思って──
「だからわたし、この家を出る」
──衝撃を受けた。
「は?! ちょっとステラ、いきなり何を言い出すんだい?!」
「でも、そうすることが一番いいでしょ?」
「いいわけないだろう! そんなことをして一体何になんだい?! あたしは絶対に認めないよ!」
「キョウコが認めないだけでしょ? ワタノセの人たちは認めてくれると思うよ」
「いいや、許さない! この家からあんたがいなくなるなんて絶対に許さないからね! 家の為にあんたが犠牲になるなんてあり得ないだろう?!」
「キョウコ、落ち着いて」
「落ち着けるわけない!」
「お願いだから」
結局、イヌマルと京子はステラのお願いには弱いのだろう。だから二人揃って黙ってしまう。イヌマルは口を開く余裕さえなかったが。
「大丈夫だよ、キョウコ。わたしは本当に大丈夫」
「大丈夫って、一体何が大丈夫なのさ……。行く宛なんてないだろう? 骸路成家も受け入れる余裕なんてないだろうし」
「ううん、そこには行かないよ」
「え? じゃあどこに……」
困惑する京子は、ステラが答えを言うまでもなくその答えに辿り着いたのか一瞬で表情を強ばらせる。「……まさか」、そんな声が漏れたがイヌマルは彼女の式神であるにも関わらずまったくわからなかった。
「──イギリスに帰る」
その選択肢も衝撃的だった。
京子は自分が出した答えと彼女の答えに齟齬がなかったことを認め、長い長いため息を吐く。内に溜めていた毒を一気に吐き出したかのようなものだった。それで毒が抜け切ったわけではないが、京子はそれを悟らせることなく背筋を伸ばした。
「ステラが決めたことなら止めたくはないけど、ステラはそれで後悔しないんだね? 嫌だってみじんも思っていないんだね?」
散々引き止めるようなことを言っていたが、イギリスという単語は彼女を納得させることに充分な効果を発揮していた。
ステラは五道が亡くなったと聞かされたその瞬間からこの決断をたった一人で下したのだろうか。まだ十歳になったばかりなのに、大人顔負けの決断力に感服する。
「もちろんそうだよ。向こうに帰ることを嫌だって思ってるわけじゃない。けどもちろん、この家のことを嫌いになったわけでもない」
嫌いじゃないと強調したステラはやはり誰よりも優しい子だった。そんな彼女が主で良かったと思うのに、別れが刻一刻と迫ってきている。
ステラがイギリスに帰るということは、京子との別れだけではない。イヌマルとの別れも示唆していることをイヌマルは肌で感じていた。
「わたしのことが色んな人に知られちゃって、キョウコやサルアキや、おじさんやおばさんが悪者扱いされるなら、わたしはイギリスに帰りたいの」
「まだ、悪者扱いされると決まったわけじゃないよ」
「でも、だめかもしれないんでしょ?」
「……ステラ、あのね」
戸口から動かなかった京子は歩を進め、リビングの中央に座るステラの傍で膝を折る。
「あたしは今、三善家の頭首なんだ」
「うん、知ってる」
「ステラの件に関しては、家の名に傷がつくことを承知で受け入れたと思っている。だから、今回の件で家の名に傷がついてもいいと……あたしは思う」
「それは、だめだよ」
そうだ。それはきっと、ステラにとっては本意ではない。
「頭首としてはダメじゃない。けどね、ステラ。あたしはさ、あんたが傷つくことが一番怖い」
そして、そんな未来になってしまうことは京子にとっては本意ではないのだ。
「あたしはね、この件で一番傷つくのはあんただって思ってる。そんなのは絶対、父さんも母さんも猿秋だって望んでない。そうなっちゃいけないって思うよ」
その黄色い瞳には揺るぎない信念が込められていた。その信念という名の熱のせいで、焦げてしまいそうだった。
ステラはそれを一心に受け止め、それでも焦げずにイヌマルの傍にいる。彼女は頷いた。京子のそんな思いを受け止めた。
「ありがとう、キョウコ」
「……ステラ……っ」
百鬼夜行以来、初めて京子が涙を流す。ステラと別れなければならない、そう理解した瞬間にイヌマルだって涙を流してしまいそうになる。
「時間がないと思うから、明日行くね。連絡してくれる?」
「……あぁ、すぐに」
何度も何度も頷いて、立ち上がった京子は足に力が入らないのか覚束ない足取りで戸口に置いていた鞄を取りに行く。その中に入っていたスマホを出して、廊下に出た。
「主……」
ようやく言葉にする。いや、名前を呼んだだけなのだから何も言葉に出せていない。
「……イヌマル」
瞬間、ステラの瞳が緩んだ気がした。それは、少しでも嫌だと彼女が思っている証拠だった。
「主!」
思わず彼女を抱き締める。相変わらず小さな体だ。この腕にすっぽりと入ってしまう。
「嫌なら……今のうちに嫌って言って」
震えてしまいそうだったが、イヌマルよりもステラの方が震えていた。
「嫌じゃないよ」
「でも」
「嘘じゃない。イヌマル、わたしは、わたしのことを必要としてくれた人たちがみんな死んだこの町に、いることができない」
「俺にとっては誰よりも必要なのは主だよ」
「……また新しい主を見つけて」
「なんで」
「…………ごめんね」
「主!」
ステラが腕の中で身を捩った。嫌がられた、もうどうすることもできない。
イヌマルはステラを手放して、呆然と彼女を見下ろした。リビングに戻ってきた京子は、「いいってさ」と最低限の報告をする。
「待ち合わせ場所はロンドン。そこから列車で二時間だそうだ」
確実になった別れは、再びイヌマルの心を抉る。自分はもう二度と主を持つことができないかもしれない、そう思ってしまった。




