一 『黄昏時』
「ただいま、サルアキ」
そう言って、塀の上から飛び降りようとステラが僅かに腰を浮かす。
「ちょっ……?!」
ワンピースの中が見えたわけではない。ただ単に幼い少女がそんな高所から飛び降りることが何故だか異様に怖かったのだ。
「うわああああ!」
慌ててステラの着地ポイントへと体を動かす。そういうことが瞬時にわかるのも式神の血なのだろうとイヌマルは思った。
「ぐへっ!」
下手くそながらに両腕でステラを受け止めて、大太刀よりも重いことに驚く。人間はこんなにも重いのか──そして、咄嗟に体が動くほどにひ弱なのかと思って、自分たち式神の存在意義を再認識した。
「だいじょうぶ……?」
何度聞いても可愛らしいと思うその声は、本気でイヌマルを心配している。
「それは俺の台詞だから! 何してんの大丈夫?! どこも怪我してない?!」
ステラの肉体は柔らかい。人間とほとんど同じ容姿をしている式神の肉体も柔らかいと言えば柔らかいが、男女の差なのかそれともステラが幼すぎるだけなのか本当の本当に柔らかい。
「わたしは……だいじょうぶ」
紺青色の瞳を見開いたまま答えたステラは、イヌマルの着物の裾を強く強く握り締めて頷いた。
「ステラはいつもそこから帰ってくるから心配しなくても大丈夫だよ」
「何かあってからだと遅いだろ。ステラ、いい加減そこから帰ってくるのは止めな」
「だって、近道だから」
「だってじゃない。あんたのランドセル、他の子よりもボロボロじゃないか」
ステラは不貞腐れながら、背負っていた赤いランドセルの肩紐へと手を動かす。ステラを下ろすと、京子の言う通り、おかしな道を通って来なければ絶対につかないであろう傷が無数についていた。
「別に、ボロボロでもいいよ」
「そう言ってなんでもかんでも雑に扱って……。物は大切に扱うんだよ?」
「はぁい」
「ほんとにわかってんのかい?」
縁側へと上り、猿秋の元へと駆け寄るステラはもう京子の話を聞いていなかった。
そんなやり取りを何度も何度も繰り返していたのか、京子は気にする様子もなく呆れたようにため息をつく。猿秋は、膝の上に乗ってきたステラの話を微笑ましそうに聞いていた。
「ステラ様! ここが駄目なら他にどこに行けと言うのですか!」
京子が黙るのを待っていたように見えるキジマルは、中断させられて行き場を失った太刀を鞘にしまう。
イヌマルもキジマルに倣い、ステラが試合中止にすることを望んでいると──
「式神の家があるでしょ?」
──非道にも続行を言い渡された。
「確かに。では、そちらに向かいます」
「えぇっ?!」
「ほどほどにするんだよ? 黄昏時になったらすぐに呼ぶからね」
「承知致しました」
襟首を掴みながら頭を下げたキジマルによって、式神の家へと戻される。間髪入れずにキジマルが襲いかかってきた。
「うわああああ?!」
「逃げるな!」
「待て待て待て待て違う違うわからないんだ! 何をどうすればうぎゃぁぁぁぁああああ?!」
「情けない声を出すな! 貴様それでも三善家に仕える式神か?! 猿秋様の式神なのか?!」
びくんっと全身に電流が走った……ような気がした。だが、確実に心の臓を鷲掴まれた。
大急ぎで逃げていた足を止め、振り返り、キジマルが振るう太刀を見つめる。
「俺は──」
三善家の式神。その眷属である三善猿秋の式神だ。
「──あのお方の式神だ!」
高らかに声を上げた刹那、鞘にしまっていた大太刀が眩い光を発生させる。気づけばそれを抜刀していた。気づけばそれを、キジマルの太刀にぶつけていた。
「ッ!」
キジマルは飛び退いたがそれで止めるような男ではない。舐め回すようにイヌマルの大太刀を観察し、そして、憧れるように瞳を輝かせる。
「そうだイヌマル! その調子だ!」
オタク気質と京子が称したように、キジマルは式神や刀のことに関すると少々言葉遣いが荒くなっていた。
それを止める京子はおらず、最早止めてほしくないと思い始めたイヌマルは鞘を放り投げて大太刀を構える。
「来いッ!」
情けない声はもう二度と上げない。情けない姿を他人に見せてはならない。
式神は陰陽師の写し鏡である。
主である三善猿秋の為に、イヌマルは、一刻も早く強くならなければ──。
「その心意気、良しッ!」
キジマルは笑っていた。怖い笑みだった。オタク気質と言うより戦闘狂とも言えるその性質は、イヌマルの弱い心を攫っていく。
きっと、猿秋にもそんな弱い心がある。そんな彼を式神として守り支えていきたいと思った。
例えそれが自分の意思ではなく、式神としての本能だとしても。
「──ッ!」
巨大な刃でキジマルへと襲いかかった。ここは狭い三善家の庭ではない。広大な森の、開けた土地の上に建つ式神の家だ。思う存分戦える。
今の今まで戦い方なんて知らなかった。だが、刀に触れて、振るって、時間が経過していくほどに血が戦い方を思い出す。血が、何もかも覚えている。
キジマルの太刀がこの身に届かなくても、イヌマルの大太刀ならばキジマルに届く。
イヌマルの大太刀がキジマルの身を掠めた刹那、イヌマルは動きを殺して大太刀を下ろした。
「…………終わり、ですね」
残念そうに呟くキジマルは、初めて会ったキジマルだった。イヌマルは微笑みで応え、キジマルへと手を伸ばす。その手を固く握り合った。
「ありがとう、キジマル」
「礼は不要です。私は貴方の教育係ですので」
「あははっ、随分と乱暴な教育係だったなぁ」
「まだ教育終了してませんよ。何勝手に終わった気になっているんですか」
「えっ」
「実戦がまだでしょう? 黄昏時が来る前に終わってしまいましたが、いつ呼び出されるかはわかりません。とりあえず鞘を取ってきなさい」
慌てて遠くの方へ放ってしまった鞘を取りに行き、式神の家へと戻っていくキジマルの後を追う。大太刀のせいで家に上がる機会を失っていたが、ようやく中に入れてもらえる。
イヌマルは安堵し、キジマルに倣って縁側から居間へと入った。三善家と違って畳の匂いがする。悪くない、というかむしろ大好きだ。
「この家にはまだ他の住人がいますが、どこかに行っているようですね。後で挨拶をしておきなさい」
「わ、わかった」
「貴方の部屋はここです。前々から貴方が召喚されることは聞かされていたので、そこそこ綺麗にしてたんですよ?」
「あ、ほんとだ」
中を覗くと、日本家屋だというのに全身鏡が置かれていた。他に置かれているものはなく、押し入れを開けると中に布団が入っている。
「なんでこれだけ?」
鏡について尋ねると、キジマルは呆れたようにため息をついた。
「身嗜みを整えろ、という意味ですよ。いつまでも主に恥じぬ式神であるように、よく見ておきなさい」
「あぁ、なるほど」
鏡を覗くと、見知らぬ誰かと目が合った。
キジマルが黒鳶色の長髪であるのに対し、自分は眩いくらいの乳白色で短髪だ。……いや、短いのは両端だけで後ろ髪は一つに括られている。ステラが真っ直ぐに伸びる白い髪ならば、自分は犬のように柔らかそうなくせのある白い髪だった。
鶴のように真っ白な着物には金色の鎖が無数に巻かれており、首輪のような金属製のチョーカーが存在を主張するように光っている。
頭にも鎖の輪っかが天使の輪のように乗っかっており、長方形の小物が垂れた犬耳のようにぶら下がっていた。
「これ……俺?」
「は? ……そうですね、それは貴方です」
「キジマルと全然違う」
「そりゃそうですよ。私は貴方ではありません」
鏡の中の自分とキジマルは、まったく同じ──いや、猿秋と京子とも同じ、金にも見える黄色い瞳を持っていた。
「どう? 身嗜み、整ってる?」
「整ってますよ大丈夫。むしろさっき顕現したのにもうボロボロだったら殴りますよ」
「殴るんだ……」
「そりゃあもうボコボコと。あ、もちろん冗談ですが」
キジマルならやりかねない。そう思って口を噤み、自分と似たような髪色を持つステラのことを思い返した。
「……そういえば、あの子は誰? 三善の人じゃなさそうだけど」
ステラ、とも、ステラ様、とも呼べずに曖昧に尋ねる。
キジマルはイヌマルの意図を汲んだらしく、「ステラ様は」と口を開いた。
「要するに居候です」
「なんで三善家に?」
「話せば長くなってしまいますが、ざっくり言うと陰陽師になる為にイギリスからやって来たんです」
「陰陽師に……なる?」
「えぇ。ステラ様はイギリスで祓魔師として生まれ、齢一歳で渡日、陰陽師になる為に猿秋様に師事している我らが仕えるべき主の一人なのです」
「陰陽師ってなれるんだ」
「どうでしょうね。もちろん一般人はなれませんが、ステラ様には祓魔師の血が流れているので……見込みはあるみたいですよ。一応」
「じゃあ、いつかは式神を持つんだ」
「えぇ。野良の式神はいないので、貴方同様ステラ様自身が新しい式神を召喚することになるでしょうが」
「新しい式神かぁ」
どんな子が来るのだろう。自分が生まれたばかりで、ステラもまだ未熟なのに、今からそれを楽しみにしてしまう。
「何ちょっとわくわくしてるんですか。今来られても困りますよ、貴方が全然育ってないのに」
「えっ、俺ってまだ育ってないの?!」
「実戦の経験値が圧倒的に足りてないんですよ? 貴方はまだ、私のサポートを必要としているんです」
「なるほど……」
そうかのか。そうだとは思わなかった。
「……願いが叶うなら、ステラ様が式神を持つ日は遠い未来であるといいな」
「どうして?」
「あのお方に、妖怪と戦う運命を背負わせたくないんですよ」
「妖怪……」
イヌマルはまだ妖怪を見ていない。これから見ることになるらしいが、それがどんなものなのか想像もつかない。
「黄昏時はもうすぐです。庭に出ておきますか」
「さっきから黄昏時黄昏時って言ってるけど、どうして? 黄昏時って何?」
「日没直後の時間帯のことです。妖怪は、その時間から夜に姿を現す──」
瞬間に辺りが赤に染まっていく。視線を縁側から外に向けると、日が沈み──毒々しい茜色がこの世界を支配し始めていた。
「──黄昏時です」
キジマルの声色で気が引き締まる。
「これが……」
唾を飲み込んだ。何か良くないことが起こる、そう本能に訴えかけるほどに茜色が毒々しい。血が騒ぎ、不安で不安で仕方がなくなる。
烏の集団が飛んでいった。世界中が茜色に包まれた。
「聞こえてきますよ」
風が吹く。キジマルの声の邪魔をした。
「聞こえるって、何……?」
「我が主たちの声が、です」
どくんっと心の臓が騒いだ。思わず心臓の上に手を置いて、息苦しさに慌てて空気を吸い込んでみる。それに意味はまったくなかった。
『──馳せ参じたまえ、イヌマル』
これだ。細胞まで騒ぎ出しているのがわかる。
慌ててキジマルの方を見やると、キジマルは慣れた様子で吹き荒れる風に身を任せていた。
「キジマ──」
視界が歪む。怖い。死にそうだ。何も見えなくなった。ここはどこだ。どこにいる。自分はどこに連れ去られるんだろう。
「──ッ!?」
視界が一気に明るくなった。だが、決して眩しさに目を細めることはなかった。
目の前に我が主である猿秋がいる。その隣にはステラがいて、京子やキジマルもちゃんと自分たちの傍にいた。
「あっ」
息を呑む。美しかったからではない。あまりにも醜悪な見た目をした妖怪と呼ばれる存在が、瘴気を撒き散らしながら自分たちのすぐ傍にいた。