十八 『命ある限り』
百鬼夜行から三日が経った、四月二十二日。生き残った陰陽師と《十八名家》の大人たちが残りの力を振り絞って行ったのは、百鬼夜行で犠牲になった者たち全員の葬式だった。
一日に行われる葬式は一つの家のものだけではない。午前にはすべての家の陰陽師の、午後にはすべての家の《十八名家》の葬式が執り行われる予定となっていた。
三善家は午前の部に入れられており、猿秋だけではなく、滅多に顔を合わせることがなかった彼の両親や親戚を弔う時間はあっという間に訪れてしまった。
彼らとついに別れなければならない。その覚悟を決めたはずなのに、イヌマルが訪れた葬儀場には、彼らの棺がどこにもなかった。それは当然三善家だけではない。すべての家の故人の棺を葬儀場に入れることができなかったせいで、一生に一度だというのに棺のない葬儀が営まれることになっていた。
「ステラ、イヌマル。離れたら危険だからあたしの傍にいるんだよ?」
「はい」
「……うん」
「いい子だ。……っと、人が凄いね。いや、こうして大勢でいる方が今は安心するんだけど」
呟くように京子が言う。イヌマルは京子の式神ではないのに、イヌマルは京子とまったく同じ意見を持っていた。大勢でいると一人ではないと実感できるから、葬儀場を多くの陰陽師が埋めつくしているのを見て変に安堵してしまったのだ。
だが、ステラもイヌマルと同じであるはずなのに、ステラが多くを語ることはなかった。誰よりも大切だった師匠である猿秋とその両親たちが亡くなって、京子が葬儀の準備で忙しくしている間もずっと、黙って何かを考えているように見えた。
正式に彼女の式神になったと思っていたイヌマルにさえ何も告げない。そんな彼女の感情が読めない。不安になりたくないのに不安に思う。ステラは猿秋以上にイヌマルの心を乱す主だった。
いや、まだ、信頼関係が結べていないだけなのだろうか。思っているだけで言葉で結ばれたわけではない自分たちのこの関係は、もしかしたらとてつもなく脆いものなのかもしれない。猿秋のように、ある日突然失ってしまうものなのかもしれない。
ぞっとした。その表現が、何よりも悲しいことだったが──一番適切だった。
イヌマルは何一つ心を曝け出すことのないステラから視線を逸らし、最前に飾られた供花を眺める。祭壇には亡くなったすべての陰陽師の遺影が隙間なく並べられていた。すべて──本当にすべてだと京子の態度を見て知っていたイヌマルは、思わずすべてのそれを細部まで見てしまう。
その中に彼がいないか。それだけが今のイヌマルの頭を支配しており、ほとんどの陰陽師が大人であることを確認する。ほとんど、それがイヌマルの心を抉った。たった一名だけどう見ても大人ではない少年の遺影があったのだ。
それはあの日イヌマルたちと共闘した結希という名の少年ではない。結希の顔は覚えているが、遠目から見てわかる髪の色が結希の色と全然違っていた。
髪色が桑茶色で温かさを感じる。対する薄花色の瞳は一見冷たそうに見える。結希はそのどちらも黒だった。黒の少年はあんな危険な場所にいて危険な目に遭っていながら、その命を落とすことはなかったのだ。
そのことを知って安堵したかった。それでも安堵できなかったのはステラと同じ子供が亡くなってしまったからだろうか。
そこまで他人の痛みに嘆くような自分であったことに驚いて、心優しい猿秋とステラの影響なのかと考えて、不意に、遺影の少年が他人に見えないことに気づく。
会ったことはないのにどこかで会ったような予感がした。しただけで本当に会っていないのに。たった二十二日しか生きていない自分の記憶力をイヌマルは心から信じていたのに、やはりどこか見覚えがある。
誰だろう。この数日で会った三善家以外の人間は──。
「ッ!」
電流が走った。いる。一人だけ。遺影の少年とまったく同じ特徴を持つ男性が、一人だけいる。
「きょ、京子……様……」
恐る恐る声をかけた。
「ん? どうしたんだいイヌマル、今さらそんな顔して……一体何に怯えているんだい?」
穏やかな声を作ってイヌマルを安心させようとする京子に対して申し訳なく思う。そんなことをしなくてもイヌマルはちゃんと一人で立てる。赤ん坊ではないのだから。
「あ、あの……あれ……」
怯えを殺した。恐ろしいという感情も殺した。唾を飲み込んで指を差し、「あの子」とさらに言葉を続ける。
「あの子? どの子のことを言っているんだい?」
「真ん中にある遺影の、男の子、彼ってまさか……」
瞬間に京子も把握したようだった。彼が亡くなったのは事前に聞かされていたのだろう。「あぁ」と驚いた様子もなく相槌を打つ。
「真ん中にある時点で大体はわかると思うけど、あの子は結城千羽。町長で王でもある千秋様のご子息だね」
やはり。やはり──そうだった。
桑茶色の髪も、薄花色の瞳も。高貴なという表現は適切ではないのかもしれないが、纏う雰囲気は非凡なもので、そこが明らかに酷似している。
王であることに相応しい人間であることが写真から見ても伝わるほどに、千羽は神々から愛されているような容姿と微笑みを持ち合わせていた。人を惹きつける朗らかさと人を導く厳かさを同時に纏うことができる少年。世界中のどこを探しても彼のような少年はいないのではないかと思うほどに眩しい。
そんな彼が、百鬼夜行で亡くなった? まだ成人にほど遠い年齢に見える、どちらかと言えばステラに近い年齢に見える彼が、亡くなった?
そんなことがあるのかと絶望した。きっと誰よりも守られるべき立場の人間であるのに、誰よりも最前線に出て戦っていたのだろう。そういう推測をして、ただただ悲しいとだけ思う。
千秋とその妻の朝羽は今どれほどの悲しみにくれているのか。王であるが故に彼の目の前には故人を偲ぶ余裕さえないほどの仕事が山積みにされているのだろうか。
あれほど救いたいと願った結希を救うことは、できた。それでも、救われなければならなかった命が失われたことは、主を亡くした衝撃に近いものを感じた。
「優しいんだね、イヌマルは」
不意に頭を撫でられる。イヌマルは確かに生まれたばかりの式神だが、子供扱いされるような存在ではない。背も京子より高く、見た目も二十代半ばの京子と大差ない。それなのに優しくしてくれる。自分が今どんな状況だろうと、京子は必ず優しくしてくれる。
そんな京子になりたいと思った。ステラのことはよくわからないが、そんな京子になって、ステラの傍に居続けたいと心から思った。
*
「イヌマル、ステラをよろしく頼むよ」
「はい、京子様」
葬儀場に式神はほとんど来ていなかった。それでもイヌマルがここにいるのは、ステラの保護者が京子以外にいないからだ。
その京子は三善家の代表としてステラに構う余裕はなく、ステラの面倒を百鬼夜行が起きたあの日からイヌマルはずっと見続けていた。
だから、式神の家にはまったくと言っていいほどに帰っていない。主に呼ばれなくても主の傍に行くことはできるが、キジマルは一度飛んできただけで京子に呼ばれない限りは京子の傍にいようとしなかった。それが原因でキジマルとはまったく会っていない。むしろ式神ではないイヌマルが京子を支える場面が増えていた。
キジマルはどういうつもりで今この瞬間を過ごしているのだろう。同じ家とはいえまったく別の主従関係はよくわからない。
少なくともイヌマルと猿秋、そしてステラとの距離は近い方なのだろう。手を繋いで彼女と家に帰ろうとした刹那、「ちょっと待った」と京子に肩を掴まれた。
「うげっ。な、なんですか京子様ぁ」
「いや、すっかり伝え忘れていてね。ステラ、少しの間二人で話してるけどどこにも行くんじゃないよ?」
「……うん」
「ステラ様、すぐに戻ってくるんでってうぎょえぇ?! なんでそんなに引っ張るんですか?!」
明らかに落ち込んでいるステラを置いて遠くの方には行きたくないのに、京子がイヌマルを遠くまで引っ張る。互いに視界に入っているから文句は言えないが、片時も離れたくないと思う彼女と離れると──やはり不安に思ってしまった。
「今日、ステラの誕生日なんだ」
ステラに聞かれないほどに遠くまで来て告げられた事実を飲み込むのに時間を要する。そして、さらに耳を疑う。
「……たん、じょうび?」
その言葉の意味をイヌマルは何故か知っていた。
「そう。十歳の。帰りにケーキを買ってあげようと思うんだけど、十歳の誕生日の思い出が家族の葬式だけじゃ嫌だろう? だからどこかに連れて行ってあげてほしいんだ」
「京子様……もちろんですけどなんで今それ言うんですか?! もうちょっと早くに言ってくれたら俺なんでもしましたよ?!」
「す、すまない……実はあたしも色々あって忘れていてね」
「確かに色々ありましたけど……」
色々あった。それでも、誕生日は決して忘れてはならない。
その上相手はステラ・カートライトなのだ。グロリア・カートライトの〝クローン人間〟として、親もなく生まれてきてしまった子供なのだ。
そんな彼女の誕生日を、誰よりも自分が祝ってあげたい。きっとそう思っていたであろう猿秋たちがこの世界にいないのだから、彼らの分までイヌマルがやらなければならないのだと痛感した。
「じゃあ、任せたからね」
「はい! 任されました!」
「大きな声出すんじゃないよ……。あくまでもケーキを出すまで秘密にしてほしいからね」
「えっ、祝っちゃダメですか?」
「ダメというか……。多分、今のステラは祝われてもあまり嬉しくないと思うからね。一日中祝うことよりも、一気に祝った方がいいんじゃないかって思ってさ」
「なるほど、確かに……。やっぱり京子様はわかっていますね……」
「逆にイヌマルは何かわかるかい?」
「え?」
わかる、その意味が自分が認識しているもので合っているのかがわからなくて混乱した。
「ステラの気持ちだよ。何もなければあんたは猿秋の式神のまま、老いた猿秋を看取ることになっただろう。けれどそれはもう叶わない、三善家の陰陽師が式神よりも減った以上、野良の式神も増えてしまうだろう。けれど才能溢れるあんたには野良になってほしくない。だからあたしはあんたの主にステラを推すし、ステラの式神にあんたを推す。そうして新たに契約を結べば、あんたたちは正真正銘の主従になる」
「契約?!」
「うるさいよイヌマル……。声を抑えて」
「す、すみません……。でも契約って! 主従って契約しなきゃいけないんですか?!」
「二代目はそうだね。初代は召喚者が主を指名して呼ぶから必要ないだけで」
「主を……指名……」
「どうしたんだいイヌマル。さっきからオウム返しばかりして」
「ッ! いえ! なんでもありません! 俺ステラ様の元に戻ります!」
京子の返事を聞かずに走り出す。聞いてしまった。多くのことを知ってしまった。
一人で大人しく待っていたステラは、イヌマルへと視線を移して目を開く。そんな彼女を担いで走った。町の端に存在する葬儀場周辺は何もない。葬式を思い出させるような物が何もない場所まで彼女を運ぶことに時間を要し、ようやく下ろした彼女を見下ろす。
「いっ、いっ、イヌマル……?! な、な、何……?」
振り回されたステラは目を回していた。そんな彼女を抱き締めて、彼女がどれほど小さくて儚い少女であるのかを知る。
彼女が生きていることが奇跡だった。千羽の死を知ったせいで余計にそう思う。
「ステラ様! ステラ様! ステラ様ッ!」
感極まって狂うのではないかと思うほどに名前を呼んだ。
「なっ、ほ、本当に何……?! どうしたの……?!」
普段のステラが戻ってくる。それほどまでにイヌマルが狂ってしまったのだろう。だが、イヌマルとしては狂っているつもりはなかった。人ではないこと胸に込み上がってくる感情をどう処理していいかわからないだけだった。
「主ッ!」
初めて彼女のことをそう呼ぶ。痒いところに手が届かない、そんなもどかしさは彼女をこう呼ぶことで解決した。
「──ッ!」
丸い紺青色の瞳が見開かれる。
「俺は主の式神になる! 主が俺のこと要らないくらい元気でも! 苦しくて辛い時も! 嬉しい時も、悲しい時も、主のことを傍にいて命ある限り主を守る! 絶対に! 土地神に誓う!」
これが契約になるのかはわからなかったが、イヌマルは彼女と神にそう誓った。京子の言うどこかに連れていくことはこの町に不慣れなイヌマルにはできなかったが、主従関係であることを声に出して誓うことはできる。
誕生日プレゼントもお金も持っていない。あるのは心と刀だけ。それをステラに捧げると誓うこと。
それが最大の贈り物だとイヌマルは信じて疑わなかった。