十四 『砦』
「──すうっ」
なるべく落ち着いて息を吸い込む。結界が破られた瞬間を見ても動揺せずにいられたのは、自分がまだ実体を持ってこの空に存在しているからだった。
大丈夫だ。猿秋とステラは傷ついていない。他の三人がどうなったのかは知らないが、今はなるべく考えないでダイダラボッチの脳天だけに集中する。その脳天を捉えることができるほどに高い位置まで、イヌマルの体は飛んでいた。
もう少しだけ空を飛べば、陽陰町全体を覆う結界に手が届くかもしれない。それほどまでに高い空で、イヌマルは自らの大太刀を振り翳し──
「はぁぁぁああぁぁあああぁあッ!」
──その、人と似ても似つかない頭部に向かって振り下ろした。
あまりにも巨大過ぎるが故に、外すことはなく。あまりにも巨大過ぎるが故に、当たった瞬間自らの骨が悲鳴を上げる。いや、骨だけではなく、身さえ飛び散ってしまいそうだった。
危ない。死ぬ。死んでしまう。怖い。それでも、自分がやらなければこの町に住む全員が死んでしまう。
何かを少しでも誤れば全身が四散してしまうような攻撃だったが、ここはやはり、イヌマルだった。
大太刀を持って生まれ、式神の女王から異端だと言われ、ここまで飛んでも身が持つイヌマルだったから、雷に打たれたかのような衝撃を受けてもその身を保っていられたのだ。
ダイダラボッチの身を真っ二つに裂きながら落ちていく。その時間が長ければ長いほどに速度が加速して威力は衰えるどころか増していく。
やがて、豆粒が見えてきた。一つも欠けずに五つ揃っているその豆粒は、二つにわかれるダイダラボッチの図体を驚愕の瞳で見上げている。
「主! 気をつけて!」
どれほど叫んだところでイヌマルの声はきっと地上に下りるまで届かない。それでもイヌマルは叫び続けた。
ダイダラボッチが消えた瞬間、また妖怪は湧いて出てくる。その時にはもう、自分たちを守ってくれる巨大な結界はない。
「あるッ……! 主ぃっ……!」
頼む。お願いだから。今すぐに気づいて何か対策をしてほしい。
風が強く目を刺激し続けて、耐えられずに閉じてしまった。陰陽師の気配を感じていると地面との距離感が掴めるが、自分が着地するまでに何をしているのかはわからなくて不安になる。だが、未だに空にいる自分でさえわかるほどに、妖怪の気配が次々と辺りから溢れ出していた。
「主ぃっ!」
瞳を開ける。全員の表情が視認できるほどの距離まで落ちているのがわかったが、ダイダラボッチの巨体を既に真っ二つにしていることには気づけなかった。
「イヌマル! おいで!」
猿秋はイヌマルのことを待っていたらしい。着地したイヌマルを手招きして、隣にいたステラと共に町役場まで駆けていく。
イヌマルはその後を追いかけた。ダイダラボッチが来る前から町役場の中に入りたがっていた結希とスザクも追いかけていた。
だが、結界のせいで中に入れなかった雪女は、それでも町役場の中に入ろうとはしなかった。
背中をイヌマルたちに向け、彼女は再び町役場を目指す妖怪たちを待ち伏せする。
応援なんて最早望めないのに、彼女はどうしてたった一人で全方位から来る妖怪を迎え撃とうとしているのだろう。
「雪さんッ!」
「いいから行けッ! キミたちにはないのかもしれないが、あの子には成すべきことがあるのだろう?! 成したら百鬼夜行が終わるのならば、私はいくらでもこの場に残って戦い続ける! この命が尽きてもだ!」
猿秋の心がそうだったように、雪女の心も決して折れはしなかった。イヌマルは雪女の説得を諦め、彼女が無事でい続けてくれることを祈る。
本当に、祈ることしかできなかった。半妖の仲間は誰も来ないと言ったその口でそう発破をかけたことを。最後の力と言っても過言ではなかった攻撃をダイダラボッチに使ったことを。イヌマルは決して忘れていないから大丈夫だと断言することはどうしてもできなかった。
だからこそ、ボロボロになった拳を握り締めて前を向く。ボロボロになった体に鞭を打って歯を食い縛る。
雪女がそう覚悟を決めたなら、自分だって、覚悟をするべきなのだ。
雪女は自分の成すべきことを成す。結希も自分の成すべきことを成す。
自分の成すべきことは、すべての妖怪を倒すことだ。その為に生まれてきたことを悟っているから、雪女と同じようにイヌマルはすべてを結希という名の少年に託した。
「主! 俺は反対方向に行きます!」
「わかった! なら俺もそっちに行こう!」
「はいっ! ステラ様!」
「っ」
「ステラ様はどうしますか?!」
「イヌマル……。もちろん、わたしも、残って戦う!」
ステラの意思は揺らがなかった。どれほどの地獄を見ても、揺らがなかった。
いや、自分たちは本物の地獄を見ていないのかもしれない。運良くと言うべきなのか、イヌマルがいたからこそ回避できた悲劇が幾つもあるからだ。
「わかりました! じゃあ、行きましょう!」
未だ遠くにある町役場には入らずに、イヌマルはそのまま迂回した。
傍にいたスザクは緋色の瞳を見開いて離れていく三人を視線で追ったが、結希はまったく気がつかなかった。本当に、成すべきことがあるかのような真っ直ぐさで、自分の周りで起こっていることにほとんど興味関心を抱いていない。ダイダラボッチのようなものがまた現れない限り、彼の足を止めることは誰にもできない。
その頬が涙で濡れていたことを、その目が充血していたことを、イヌマルはちゃんと知っている。それが彼の足を突き動かしているのだろうと思って、やはり、彼を支えずにはいられなかった。
地獄を見た側の彼なのだろうが、それでも──いや、だからこそ生じた迷いなきその走りがイヌマルに勇気を与えていた。
「ッ! もうあんなところまで!」
今よりも速度をあげないと、絶対に間に合わないのではないか。そう思ったのは結界の内側だったはずの場所に巨大な妖怪がいたからだ。
出入り口は雪女が守っている側の一つしかなかったはずだが、窓ガラスも、初めて視界に入った小さな扉も、そもそも何もない壁でさえ破られる恐れは充分にある。
「主! 先に行ってます!」
「頼んだよ、イヌマル!」
またそうやって自分を送り出してくれる猿秋に、心の一部を救われていた。だからこそ、誰がなんと言おうと自分の主は三善猿秋ただ一人だけなのだと思った。
「ありがとうございます、主ッ!」
「イヌマルッ! 気をつけてね!」
その家族であるステラのことは必ず守る。猿秋の為にも、命に代えてとまでは言わないが──それほどまでに強く思っている。
体が悲鳴を上げているせいで速度はかなり落ちているが、通常の式神とは大差ない速度で町役場と妖怪の間に滑り込んだイヌマルは、一息つく暇もなくずっと担いでいた大太刀を振るった。
どこまでも暴力的なその攻撃は、ボロボロになった体でも一切変わらない。戦いの中で進化する余裕がないほどに──いや、進化しなくても充分通用してしまうからこそ、ただただ大太刀で殴るような攻撃で余計に疲弊してしまう。
何か大切なところが壊れてしまわないと、半永久的に動くことは叶わなかった。そして、その大切なところはもう既に壊れているのだと、何故か客観的に理解した。
自分の体なのに自分のものではなくなっているようだった。少しでも攻撃をしかけるタイミングが狂えば、今の状態が一気に崩れていくことも、客観的に理解していた。
だから、自分のものではなくなってもいいと──すべての妖怪を殲滅するか、結希がこの町を救うかでこの戦いを終わらせない限り、他人のものでもいいとさえ思いかけた瞬間
「イヌマルッ!」
ステラの、身を引き裂かれるような悲痛な叫び後が何故か急に自分の耳に届いてきた。
「ッ」
慌てて妖怪の攻撃を避けて、後方に飛んで下がる。だが、今までの妖怪と違ってそんなイヌマルを奴らはあっさりと追いかけてくる。
「──ッ」
調子がズレた。何故自分を正気に戻したのか──あろうことかステラを詰ろうとした瞬間、猿秋が張っていた結界が視界に入る。
瞬間、正気をなくした時以上にゆったりとした時間がイヌマルの中に流れ込んできた。
ステラを守るように、そして、自分自身も守るように張られた大きな結界。それを囲んでいる、イヌマルが取り逃した妖怪たち。
取り逃したつもりは一切なかったのにそこにいるということは、別の方向からやってきたのか──それとも単に、イヌマルの視野が狭くなっていただけなのか。
とにかく、数多の妖怪に囲まれた二人を守る結界は、あと少しで破られてしまいそうだった。
「主ッ! ステラ様ッ!」
妖怪のことに気を取られて、肝心の主君をお守りすることを忘れていた。そんなのは式神失格だ。ビシャモンから異端者扱いされても文句は言えない。
むしろ、自分は失敗作だったのではないだろうか。失敗だったから、他の式神たちと何もかもが違うのではないだろうか。
こんな時なのに二人とはあまり関係のないことばかりが脳内を占拠する。酷い奴だ。死んでしまった方がいいのではないだろうか。
いや。
『イヌマルッ!』
あの叫びは、イヌマルに救いを求める声だった。そんな声を無視して死ねない。猿秋と先代の式神のことがあるのに、何度も何度も自分に死ねという呪いをかける自分自身のことが嫌になるが、あの二人のことは、何がなんでも守り抜く。
あの二人は、イヌマルのたった一つしかない光なのだから。
とてつもなく長い時間のように思えたのに、視界に入った瞬間からまったく動かなかった攻撃をすぐに受け止める。
「ッ! イヌマル!」
二人の様子を確認している暇はなかった。なにしろ囲まれているのだから、すべての妖怪を跳ね返さないと意味がない。いや、跳ね返してからが本番だとさえ思う。
「イヌマル……! 良くやった! 偉いぞ!」
ここに来てようやく猿秋の声が聞こえてきた。結界が壊れないように、歯を食いしばって耐えていたのだろう。まだ何も解決していないのにその声を聞いただけで安堵する。
「はぁぁぁあっ!」
何度目かの雄叫びを上げた。猿秋が張っていたヒビ割れた結界の真上を陣取り、大太刀ですべてを薙ぎ払う。だが、イヌマルの重さに耐えかねて今の今まで攻撃を凌いでいた結界は、破られてしまった。
落ちる。着地しようと体勢を整えようとした瞬間に、猿秋に抱き止められて驚く。
「ある……」
「まだだ。頑張れ、イヌマル」
何かを言う前に言葉を掻き消された。確かにそうだ。だって、今の妖怪は追い払ってもすぐに追いかけてくるのだから。
瞬間に影が二人を覆う。猿秋に放り投げられたイヌマルはすぐに体勢を立て直し、肩を食い破られた猿秋の苦痛に歪んだ表情を視認した。
「あるっ……じ」
「ゃ……」
小さく漏れ出たのは猿秋のすぐ後ろにいたステラだった。
見方によってはステラを庇ったような形でいる猿秋は、そのまま前へ進もうと足を動かす。それでも一歩も動かない。ステラから、妖怪を引き剥がすことができない。
「うわぁぁああっ!!」
信じられない光景だった。そんな光景を見たくなかった。
突進するイヌマルは大太刀で妖怪の胴体を真っ二つに裂き、猿秋とステラを両脇に抱えて高く飛ぶ。だが、いつの間にかどこにも着地をする場所がなかった。
最後の砦であった町役場は、たった今、妖怪に陥落されたのだった。