十三 『結界』
稲妻のように駆けた少女が振るう刀は、襲いかかる妖怪たちに次々と致命傷を与えていく。素早さもあり、仕留める技術もある。そんな式神を連れた少年の九字で妖怪たちは消えていった。
「──ッ!」
後ろにいるステラが息を呑む。少年に憧れたと言っても過言ではないほどに、彼女は少年を食い入るように見つめている。
それほどまでに二人は強かった。見た目の年齢と強さがまったく釣り合っていないからこそ、ステラが視線を外せない。ステラが求めている強さを持った子供という理想があの二人には詰まっているのだと、この一週間彼女を見てきたイヌマルは思った。
くるくると回転して地面に着地したスザクは、怪我こそ負っていなかったが疲弊していた。それでも膝を折らない。そういうところも彼女の強さの一つなのだろう。ステラではないが見習わなければと感じてしまう。
「結希様! いかがいたしますか?!」
イヌマルやステラには未だに目もくれず、果敢に挑む二人に倣ってイヌマルも妖怪を数体屠った。素早さや技術は劣ってしまうが、力だけなら誰にも負けない。
猿秋の九字で消えていく妖怪を確認することもなく、イヌマルは再び地面を蹴った。
「中に入る! 開けて!」
「承知いたしました!」
何も承知いたしましたではない。だが、結希と呼ばれた少年も、スザクと呼ばれた式神も、決して迷いがなかった。
まるで、何が正解なのか──何をすれば百鬼夜行が終わるのかをわかっているような真っ直ぐさだった。
「どういうことですか?! 主!」
斬撃を飛ばして一部の妖怪を屠ったイヌマルは、落下しながら猿秋に尋ねる。着地すると、既にスザクが動き出していた。
「わからない。けど、結界の中に入りたいなら入れてあげよう、イヌマルならできるでしょ?」
「はいっ!」
真下の妖怪を屠っても、上の妖怪が足場をなくして落下するだけだ。安全に中に入りたいのならば、一つの方角に固まっている妖怪をすべて屠らなければならない。
それが、スザクだけではなくイヌマルもいたら──きっと敵う。
町役場に辿り着く妖怪は、こうしている間にも増えていた。進むも地獄、引くも地獄、四方八方を囲まれてしまっている。
あれほどの強さを持っているから何かあるのではないかと勘ぐってしまうが、単純に一番近くにある結界の中に逃げたいのかもしれない。そんな彼らと共にステラを逃がせたら──いや、逃がす。チャンスは今しかないのだとイヌマルの本能が告げていた。
「あっ、あれ……!」
今まで遠くにあったはずの冷気がまたやって来る。両手から発生させた氷を何もない空中に張ってその上を滑る雪女は、反対側から一周してきたらしい。いつの間にか増えていた二人の少年少女を視界に入れて、不快そうに眉間に皺を寄せていた。
「キミたち! 一体どこから来たんだ!」
「雪さん!」
「ゆ、雪さん……? ッ! いいから早く中に入れてやれ!」
視界に入っていたら射程圏内なのだろうか。イヌマルの背後を視界に入れていた雪女は吹雪を吐き出し、これ以上妖怪が町役場に来るのを防いでいる。
「はっ、はい!」
主ではないのに、その口調のせいか思わずそう口走っていた。彼女がしていることの功績を見たらどこからどう見ても偉大だが、彼女は陰陽師でもないのに。
それでも、今この時を共に戦う仲間だった。
猫又の彼女を守れなかったからこそ、余計に仲間だと思っていた。
再び地面を蹴り、既に何体か倒していたスザクの遥か上を行く。
スザクは素早い上に攻撃が的確だが、体格に恵まれていないからか妖怪を倒しきるのにある程度の時間を要していた。刀を振り、巨大な斬撃で攻撃をするイヌマルとは正反対の式神だろう。
そんな巨大な斬撃から致命傷を逃れる妖怪は、多数いる。スザクはようやくイヌマルの存在に気づいたのか緋色の瞳を見開いて、僅かに頷きイヌマルが倒しきれなかった妖怪に致命傷を加えていった。
建物などの物を巻き込むと聞こえてくる爆音は、雪女の氷柱だろう。その音と、次々と消えていく妖怪の気配に気づけたら、また誰かが来てくれるだろうか。
「開いた!」
結希と同じように休む暇もなく九字を切り続けていた猿秋が歓喜の声を上げる。隣で九字を切っていたステラからは何も聞こえなかったが、見ると、余裕のない表情をしていた。
「ありがとう!」
声変わりしていない声を上げて走っていく結希を町役場の結界は阻まない。陰陽師と式神、そして一般人だけが通れるこの壁を、妖怪だけが通れないのだ。
「みなさんも行きましょう!」
その言葉は、逃げることを考えている人間のそれには聞こえなかった。スザクが何を考えているのかがわからず、かと言ってそれを尋ねる暇はない。
「主! ステラ様!」
二人の背後に立って殿を務めた。二人はイヌマルの意図を察して結希とスザクの後を追いかけていく。
「雪さんも!」
イヌマルは、彼女のことも仲間だと思っていた。なのに、彼女が発した言葉はイヌマルの想像を遥かに超えたものだった。
「私は行けない。半妖、だからな」
「えっ?」
半分妖怪の血が流れている。それだけなのに、雪女は味方なのに、今も妖怪から狙われているのに──行けない?
「入れないんですか?!」
「そう言ったつもりだ。だから、キミたちだけで逃げてくれ」
「なんですか! そんなのできないですよ!」
「できるできないの話ではないだろう。行け、命令だ」
そんな命令に従わないのがイヌマルだった。
主の命令にも従わないイヌマルが、雪女の命令に従うなんてあり得ない。
「イヌマルッ!」
「先言っててください! 俺はまだ戦えますから!」
だから残った。結界の中に入ってもまだ距離のある町役場まで駆けていく結希の為にも、疲弊したスザクやステラの為にも、猿秋には行ってほしい。そんな願いを込めて、息を呑んだ。
「なんだ、あれは……」
瘴気は百鬼夜行発生時から変わらずにどこを見ても大量に浮遊している。だが、町の端の森の中に──瘴気が吸い込まれていくのが町役場の結界に乗ったイヌマルの目にも見えていた。
「……雪さん、雪さん」
「……なんだ?」
「半妖は、雪さん以外にもいるんですか?」
「いる。だが、ほとんどがここには来れないだろう」
「え、なんでですか?」
「見えるか? あれ」
雪女が指差したのは、同じく町の端から町役場に向かおうとしている巨大な餓者髑髏だった。
「あっ、あれを倒しているんですね!」
「違う。あれが私の妹だ。向こうにはあの子とあと一人がいるんだが、森が近いからかさっきから全然こっちに来ない。足止めを食らっているんだろう。あっちも同じだ」
また別の方向が差される。目を凝らすと、闇夜に紛れた黒き一反木綿が浮遊していた。
その背には、何人かが乗っている。
「あの子たちにはあの子たちの役割がある。だから来れない、だから、私がここにいる。後の子はみんな避難しているよ」
「…………」
猫又の半妖について、言うべきなのか言わない方がいいのか真剣に悩んだ。こんなに悩んだ日はこの一週間でないと断言できるほどに、迷った。
「そんなことよりもあいつだ。実体を表したぞ」
イヌマルが葛藤している間にも瘴気は膨れ上がっていたらしい。その中から、徐々に徐々に妖怪と思われる体が出てくる。
「あれは?」
「あの巨体だ。ダイダラボッチしかあり得ないだろう」
聞いたことのない妖怪だった。そして、割れた瘴気の中から本格的に姿を現したのは、見たことのない妖怪だった。
「戦ったことってあるですか?」
「あぁ。定期的に最北端から出てきては町役場へと向かってくる……あいつも災害みたいなものだな」
慣れているのだろう。ダイダラボッチを特別な妖怪だと感じていないせいで、頼もしさが増している。
「キミの方こそダイダラボッチを知らないのか? というかキミは一体何者……」
「雪さん! あいつどうすればいいんですか?!」
「……あぁ、ダイダラボッチはきっとここまで来るだろうな」
「誰か、戦いを挑みますかね」
「どうだろうな。ダイダラボッチは積極的に人を襲うような奴じゃないんだ。普段は放置するわけにもいかないから倒すんだが、今回は……」
「敵わないなら……逃げてほしいですよね」
「そうだな。人は十人十色だ、挑む奴が出ないように町役場の放送室を使うか……その前に、奴が来るかな」
「町役場の放送室?!」
聞き捨てならない単語を聞いた。それがあるならもっと早くに言ってほしかった場所が、この目的地にはあったのか。
「ど、どうした? 急に」
思えば、未だに放送が聞こえていた。
『緊急避難命令! 緊急避難命令! 町内に残っている人々は、陽陰学園生徒会の指示に従って地下に避難せよぉ……っ!』
最初に聞こえていた台詞と異なっている。何が異なっているのかと思って、《十八名家》が抜けているのだと気づく。その《十八名家》がどこに行ってしまったのかと思って、もう、壊滅状態であることを察してしまう。
「そこに行けば、現状を伝えられるんですね?!」
「あ、あぁ……。だが、この放送をかけているのは陽陰学園の方だからな。向こうとスピーカーの奪い合いにならないようにコンタクトを取らなければ」
「む、無理だ……そんな時間ないじゃないですか……」
「…………そう、だな」
雪女はそのことを知っていたから、間に合わないと判断したのだろう。何もかもが上手くいかない。そして、まだ避難していない誰かがいるのだと──イヌマルは遅れて気がついた。
「うわっ」
思わず声が漏れる。ダイダラボッチが踏み出した一歩、それがあまりにも大きくて、十歩もあれば辿り着いてしまうのだと悟った。
「イヌマル!」
ついて来てないことに気づいたのだろう。猿秋の声が聞こえてくる。
「主!」
「ッ!? こんな時に……いや、こんな時だからこそなのか……!」
猿秋の位置からでも見えるダイダラボッチは、二歩、そして三歩、その度に町役場までの距離を詰めていた。
「早い……?!」
「雪さん! 来たらあいつの足を止めてください!」
「それは言われなくてもちゃんとやるが……その後はどうするんだ?!」
「俺があいつをぶっ叩きます!」
それができるのがイヌマルだった。
あの巨体に届く高さまで飛べる脚力を持っているのも、あの巨体を真っ二つにすることができる強さを持っているのも、そしてそれができる刀を持っているのも──そもそも今この瞬間で元気よく動ける式神がイヌマルだけだった。
「……任せるよ、イヌマル」
「……本当にいいんだな?」
二人に向かって大きく頷く。五歩目で既に雪女の射程圏内に入ったダイダラボッチは、雪女の最後の力を振り絞った氷柱に両足を取られて止まった。
「くっ……! おい、少ししか持たないぞ!」
「充分です!」
チャンスはたったの一回だけ。だが、そのチャンスを逃すような自分ではないとイヌマルは強く信じていた。
「どこから来るんだその自信は……って、おい!」
駆け出していく。他の妖怪はダイダラボッチを恐れているのかぱったりと町役場に来なくなったが、妖怪が一斉に襲いかかってきたような相手がダイダラボッチだ。
「結希様ッ! お待ちください!」
「ッ、ステラ!」
先に行っていた三人も気づいたのだろう。せっかく結界の中に入れたのに、結界の外から飛び出してくるような勢いで駆けつけてくる。
「キミたち! 来るな!」
雪女の言葉に聞く耳を持たない結希とステラは猿秋と並び、陽陰町を囲む山々よりも巨大なダイダラボッチを息を止めてじっと見上げた。
「そこから出るなよ! いいな!」
せめてという気持ちで釘を刺す。
イヌマルはそんな出来事をすべて把握したまま、地面を──いや、大地を蹴った。
「高い……!」
今まで飛んできた場所よりも高く、空を駆ける。それでも山々を超えるダイダラボッチには届かない。それが悔しいと素直に思うが、悔しいと思うだけでは勝てなかった。
「ッ!」
今度は空を蹴った。それが土壇場でできるイヌマルだから、ダイダラボッチを軽々と超える。その頃にはもう、足止めをしていた氷が意味をなしていなかった。
だが、もう充分だ。今の今まで耐えていたことが奇跡のようにも思える。
ありがとう、豆粒以下の大きさになった雪女に感謝を込めるが──ダイダラボッチが振るった拳を防ぐことができなかった。
イヌマルを吹き飛ばしたのではない。
あれだけの妖怪が壊そうとしていた町役場の不動の結界を、真上から叩き割ったのだ。がらがらと崩れていくそれを上空から為す術もなく眺めている自分は、なんと滑稽なのだろう。
せめて、下にいる全員が無事であるようにと祈った。