十二 『決意』
狂えないのか、それとも──。それとも、もう、死んでいるのか。
猿秋が言いかけたのはそのことだった。戦わなくてもいいから早く来て欲しい、そう思ってしまうほどに誰の気配も感じない。
既に死人が出ていることは京子の口から聞かされていた。だから、その可能性が充分に高いことを猿秋もステラも感じていた。
それでも口に出さなかったのは、言霊の力を信じているからだろうか。口に出すと本当のことになってしまうから、その事実を見聞きするまでは口に出さない。そんな無言の決意を勝手に感じてしまう。
「…………」
火照った体が冷やされていった。悪い方へと考えていると、心臓も急激に冷やされていく。
視線を上げると、濃い瘴気が氷柱の上を支配している空を覆っていた。月や星がないどす黒い空だ。希望と絶望が入り乱れているこんな世界で本当に明日は来るのだろうかと思ってしまう。
「……主」
ぽつりと彼のことを呼んだ。猿秋は近づくこともなくその場にずっと突っ立っていた。
「……ステラ様」
ステラは猿秋に寄り添っていた。猿秋の心が折れるなんて生まれた時は思いもしなかったが、こんなことになってしまうと折れても仕方がないと思う。
そんな二人をたった一人で守らなければならない自分がすべきことではないのかもしれない。それでも、すれば二人を守れるかもしれない。
そして、この町を、人々を、救うことができるのかもしれない。
「──俺、やってみます」
一か八かの賭けにまた出る。そんな選択肢しか残されていないのだと思ったから、氷柱から体を離して背筋を伸ばす。
「やるって、何を?」
ステラが怖々と尋ねてきた。
「死ぬ気で──戦う」
そんな彼女が息を呑んだ。彼女が嫌がることを言っている自覚があったから罪悪感は当然あるが、そういう運命なのだと言い聞かせていないと自分自身だって立っていられなかった。
「イヌマル、本気で言ってるの?」
代わりに息を吐いた猿秋は、今もなお陰陽師たちの気配を探ることをやめていなかった。心が折れたのかと思ったが、彼はもしかしたら、まだ諦めていないのかもしれない。
そう思ったら胸の奥底からさらにやる気が溢れ出てきた。百鬼夜行は待ってくれない、発生した瞬間から決戦なのだ。物事を深く知っているわけではないイヌマルでもそれだけはわかるから、きっと血が覚えているのだろう。
「もちろんです」
自分であって自分ではない誰かがそう言った。自分の血の中に式神という存在の集合体がいるのだろう。そんな彼らが口を出しているのだと思った。
もう二度と足を止めない。力を入れると流れていた血が止まった。だが、力を入れて戦うと疲労が早まることを知っていたからすぐに抜く。
血は、止まったままだった。
「戦うんだね、限界を超えて」
「そんなのダメ!」
遮ったステラの手がイヌマルの服の裾を握り締める。引き止められると思っていたが、その力強さはイヌマルの想像以上だった。
「そんなの絶対……許さないから!」
イヌマルが本気を出したら振り解けるが、どうしてだか振り解けなかった。自分はこんなにもステラに甘かっただろうか。猿秋がステラに甘いからだろうか。
「ステラ、落ち着いて」
「落ち着けない! だって、そんなことしたらイヌマル死んじゃう!」
「そうだね。それは俺も嫌だよ」
「じゃあ止めてよ! なんで止めてくれないの?!」
「止めても聞かないでしょ? イヌマルは俺の式神じゃないんだから」
「サルアキ……待って、待ってよ」
「ステラ。俺たちは充分待ったよ」
「待ってない、だって、まだ、誰も来てない」
言葉にしたら誰かが来てくれるのだろうか。ステラが何かを話す度に意思が揺らいでしまいそうになるが、イヌマルは一歩ずつ前へと進む。
「イヌマル!」
「ステラ様のことは置いてかない」
「そういうことじゃない!」
「イヌマル。俺は本当に止めないよ」
「俺も主のことは止めません」
「そうなの? ……俺たちって、変なところで似ちゃってるね」
「確かに。なんでなんですかね?」
「二人とも! なんで! なんでなの!」
悲しい声が虚しく響く。悲しいのはステラだけではない。イヌマルだって、猿秋だって、ただただ悲しい。
「そんなに心配しなくても大丈夫だよ。これから向かう場所はあの子が通った道でもあるから」
「でも……」
「早く行かないと振り落とされちゃう。そうだろ? イヌマル」
「はい。振り落とされます」
否定せずにいると、ステラがゆっくりと、口を閉ざした。
ステラは諦めたのだ。イヌマルが生きる未来を、猿秋が生きる未来を、そして、自分自身が生きる未来を。
それでもステラだけは生きて返す。イヌマルがあまり生きられなかったあの日常へと。
言葉には出さなかったが、イヌマルはそう決意していた。言葉には出さなかったが、多分、猿秋もそう決意していた。
言霊の力を信じていても、これだけはステラの前で言うことができずに口を閉ざしたまま走り出す。
雪女は一体どこまで行ったのだろう。彼女の為にも行かなければならない場所が、イヌマルの心の中には存在していた。
「氷柱、結構あるね」
猿秋の言う通り、一つ目の氷柱を通り過ぎてもまだ氷柱が残っている。
あれから何発も撃ち続けていたのだろう、彼女の体力がまだ残っていたら驚いてしまうほどに人間の力を超越している。
半分妖怪と言っても半分は人間であるはずなのに。
妖怪の力があまりにも強すぎる彼女たちが二人しか来れないなんて、あり得ない。
そんな根拠のない自信がイヌマルの背中を後押ししていた。猿秋が普通の陰陽師だと言うのなら、猿秋よりも強い陰陽師が来てくれるとも──まだ、思っていた。
「っ」
体が痛いと叫んでいる。痛みを冷やして誤魔化していたが、早くも消えてしまったらしい。そんな自分の脆さを強く思い知った。
「イヌマル、俺がいることを忘れないでね」
「もちろんです、主」
「……わたしも、いるから」
「ありがとう、ステラ様」
そんな自分の些細な変化に気づくこの二人を失いたくない。ステラだけではなく、猿秋のことも必ず日常へと返してあげよう。
そんな力が自分にあると魔法をかけて、家や電柱を巻き込みだした氷柱と氷柱の隙間から見えた町役場の結界に目を凝らす。
「あっ……!」
未だに妖怪が壁を作って中へと侵入しようとしていたが、一部分だけ、妖怪がいない箇所があった。それは、イヌマルたちの正面で。雪女の半妖が町役場まで辿り着いた証だった。
「ッ!」
町役場はもう猿秋とステラの肉眼でも捉えることができる距離にある。
ようやく現在の禍々しい姿をその両の目に映した二人は、鋭く息を吸い込んで結界が破られていないことをすぐさま確認した。
「主! ステラ様! 結界を張ってください! これ以上はいつ来てもおかしくないですから!」
「わかった!」
「っ、イヌマル! 気をつけてね!」
「大丈夫! わかってるから!」
ステラの言葉を翼にして高く飛んだ。結界の頂点には手が届かないが、妖怪が群がっている頂点には届く。
「──ッ!」
ずっと納刀していた刀を抜いた。
自分の手によく馴染む大太刀だ。その大太刀を振り翳して、頂点の妖怪の頭部に当てる。感触は充分あった。力を込めたら落下したまま真下にいる妖怪も巻き込んで真っ二つにできる。
「ほわぁっ!」
情けない声を出して着地した。そう思ったらその真下に妖怪がいた。
「ぼぇっ?!」
驚き、自分が地面ではなく妖怪の壁の中間地点にいることに気づく。今までは垂直だったが、ここからは斜めにもいるせいでやろうと思えば滑り落ちることができそうだった。
「飛べ!」
瞬間に女性の声が響き渡る。妖怪を蹴って斜めに飛ぶと、さっきまで自分がいた場所を凍てつくような吹雪が襲っていた。
「あれは……」
落下して、着地したのは凍った妖怪の真上で。斜めに群がっていたものだからそのまま無様に滑り落ちる。
「ぎゃああああ?!」
冷たかった。〝気持ちいい〟の次元をとっくのとうに通り過ぎた冷たさが自分の体を襲ってくる。
「大丈夫か? キミ」
イヌマルと同じく妖怪の滑り台の上を滑って下りてきた雪女の半妖は、言葉とは裏腹にまったく心配していなかった。
「だっ、大丈夫! 問題ないから!」
「なら良いが。……死ぬなよ、キミは」
「それも大丈夫! 俺は死なない!」
「無様な姿を見せたのにか? 次は多分助けてやれないぞ」
どこか責めるような表情でそれを告げる雪女は今まで何を見てきたのだろう。
イヌマルよりも地獄を見てきたように見える雪女は凍えるような息を吐き、それで自らが行く道を作った。振り返りもせずに駆けていく彼女の背中は神々しく、自らの妖力を辿って狙ってくる妖怪を極限まで引きつける。瞬間、彼らも同様に凍らせた。
「……ッ!」
強く、美しく、惹きつけられる。妖怪が彼女から目が離せないのも理解できてしまうくらいに。
「イヌマル!」
振り返ると、猿秋とステラも町役場まで辿り着いていた。結界はちゃんと張ってある、それで永遠に無事だとは思わないが。
「主ぃ!」
「すっごい、氷漬けにされてるね……これはもう俺の手にも負えないかな」
じっと氷柱を果てまで見上げて、どうすれば良いのかと困惑している。半妖たちの戦闘にはどうやってもついていけない──そんな諦めと羨望が見え隠れした表情だった。
「向こうがあっちの方に行ったので、俺はあっちの方に行きますね!」
「うん、行ってらっしゃい」
抜刀したまま駆けていく。雪女も大量に妖怪を地獄に落としているが、イヌマルも先ほどの一撃で多くの妖怪を屠っていった。視界に入る限りで動いている妖怪は一匹もいない。
それでも、勝てるとは微塵も思っていなかった。
反対側から大量に妖怪の気配がしている。町の中心部に存在している町役場には、全方向から多くの妖怪が集結しているのだ。
だからまだ、勝っていない。戦力は、まだまだ欲しい──。
全速力で駆けて別の方向から町役場の結界を見上げると、雪女の氷から逃れていた妖怪が一斉にイヌマルへと目玉を向けた。そんな瞬間が今まで一度もなかったせいで、心臓を握り潰されたような感覚が走った。
そんな感覚のせいで気づくことに一瞬遅れる。だが、この気配は間違いなく式神のものだった。そして、陰陽師のものだった。
「──ッ?!」
誰だ。ようやく胸に灯った希望を簡単に絶望には変えたくない。そう思うのに、まだ妖怪が残る方向から駆けつけてきたのは──ステラよりもほんの少しだけ年上に見える少年だった。
「えっ」
猿秋も、ステラでさえ驚いている。怪我らしい怪我がまったく見えない式神と陰陽師の二人組は、イヌマルたちにまったく気がついていなかった。
「な、なんであんなに小さな子が……?! 本当に一人なのか……?! ほっ、保護者は?!」
「おっ、おちけつ! おちけつ主!」
「イヌマルも落ち着いて!」
「はい!」
そんな三人の動揺にも気がつかない。そんな黒髪の少年は、ピンク色のツインテールが目立つ少女の式神を連れていた。
そんな二人が死なずにここまで来れた事実にも動揺してしまう。何故だ。何故子供の二人がここまで来れて、大人が誰も来れないんだと──そこまで思って嫌な予感を無理矢理消し去る。
それでも何故だが消え去らない。九歳のステラがまだまともに戦えないのに、十歳ほどの少年が猿秋のように戦えるとは思えない。
式神の方も、持っているのは大太刀ではなく打刀だった。だから余計に信じられないと思ってしまう。あの二人に強さの欠片も見当たらなかったから。
「イヌマル!」
「っ、はい!」
背筋を伸ばして走り出す。あの二人のことも守らなければならないと心の底から思ったからだ。
悪を倒し、弱き者を救う。それが自分たちだと思ったから、二人に襲いかかる妖怪たちに自らの大太刀の切っ先を向けた。
「スザク!」
少年の声が町役場前の広場に広がる。瞬間、目に見えぬ速さで駆けたのが──スザクと呼ばれた式神だった。