十一 『狂えない人』
「──ッ?!」
びくっと震えたステラの気配に遠のきかけた意識が気づく。全身を痛めたイヌマルは飛び起き、その全身と自分が悲鳴を上げた。
「いいいいっだぁ?!」
だが、痛い痛いと言ってられるような状況ではない。ステラが危険な目に遭っているなら、今すぐ助けに行かないといけない。
「ステラ様……! 主……!」
這ってでも行く。必ず助ける。だが、ステラを襲うような妖怪が視界に入る限りではどこにもいなかった。そんな気配さえなかったが、ステラの視線は一箇所に固定されている。その隣にいる猿秋の視線も、固定されている。
彼女も、猿秋も、何かを見ている──?
「っ」
瞬間に冷気がイヌマルを襲った。寒い。思わずくしゃみが出てくるほどに。
「はぇえ……?」
なんだこれは。雪の妖怪がどこか遠くにいるのだろうか。
気を抜くと寒さで動けなくなってしまいそうだった。痛くても立ち上がれ、そう自分を叱咤してうつ伏せになり、腕に力を込める。信じられないほどに震えたが、足にも力を込めて無理矢理立ち上がった。
「ステラ様ぁ……! 主ぃ……!」
走り、アスファルトの地面を蹴る。屋根に飛び移って辺りを見回し、大切な二人が見ている景色を見る。
遠くの方に、地面から生えたかのような巨大な氷柱があった。家と家の間から上手いように生えているそれの先端に、妖怪が閉じ込められている。
「…………な、んですか、あれ」
「半妖だ。イヌマル、お前の作戦が成功したよ」
「あれが?!」
「いや、あれじゃなくて。あれ」
それが本体に見えるほど、大きくて、冷たくて、恐ろしい氷柱。その先端の、さらに先端に立っている女性がイヌマルの瞳でも捉えることができた。
「あれが……」
米粒ほどの大きさだが、群青色の長髪が風に靡いているのが見える。彼女は自身の真下に閉じ込めた妖怪を見ていたが、すぐに町役場へと視線を向けた。
「……いつの間にあそこまで中に」
「あの人たちは地面を走りながら戦うことができるからね……。死角に入っていたのかも」
「じゃあ、他にも来てるかもってこと?」
「その可能性は充分にあるかもね」
「じゃあ俺はなんの為に打ち上げたんですか?!」
「大丈夫。意味ならきっとあるからね、イヌマル」
「意味……?」
「この世のすべてには意味があるんだよ。覚えておくように」
猿秋へと視線を移すと、猿秋はこんな状況であるにも関わらず微笑んでいた。それが猿秋の強さなのか、弱さなのか、イヌマルにはわからなかったが──ステラは真っ直ぐな瞳で猿秋のことを見上げていた。
そんなステラのことは信用できた。
「うわっ」
瞬間にまた氷柱が生える。地面から生えたそれはまた別の妖怪を捕らえており、その数はどこからどう見ても数十匹は確実にいた。
氷の欠片が空から降ってくると錯覚するほどに空気が冷え切る。吐く息が白い。二人を地面に下ろして走り出さないと体を温められないほどに。
「イヌマル、大丈夫?」
「だい……いや、厳しいです」
大丈夫と言い切ることはできなかった。どんなに情けなくても、大丈夫と言い切ってしまうときっと二人を危険に晒す。
「わかった。じゃあ、戦闘を避けよう」
瞬間に猿秋が切り捨てた。
「えっ、避ける?! なんでですか?!」
さすがに避けると言われるとは思ってもおらず混乱する。猿秋は一体何を考えているのだろう。馬鹿なんじゃないだろうか。
「イヌマルは俺たちの希望だ。だから、失うわけにはいかないんだよ」
「でも、倒さないと終わらないんじゃ……」
百鬼夜行はそういうものだと、目の前にいる猿秋本人から聞かされた。倒さずにどうやって終わらせると言うのだろう。
「最後の最後に悪を倒すのはお前だ、イヌマル。俺はお前を信じてるよ」
さっきのステラとまったく同じ目をしていた。九歳の少女と同じ目をすることができる猿秋の真っ直ぐさが、イヌマルは結構好きだった。
「避けるのはいいですけど、どうやって妖怪を避けるんですか?」
「少ないけど札を持ってる。これで気配は隠せるよ」
「少ないけど……って」
「うん。だから、使いどころを間違えると全滅もあり得るね」
ステラの視線が猿秋を捉える。そんな便利なものがたくさんあったらどんなに良かっただろうと──そう思って、ないものねだりはできないとも思った。
「わたしは、まだだと思う」
「どうして?」
「あそこに半妖がいるから。妖怪がみんな半妖のとこに行くなら、まだ、必要ないでしょ?」
「……うん、そうだね。そうだけど」
イヌマルも、多分、猿秋も、地面に堕ちた彼女のことを忘れられなかった。
半妖は決して最強ではない。負ける時は負けるし死ぬ時は死ぬ。雪の半妖が弱者に見えるわけではないが、彼女たちの力に頼り切ることは自分たちの死に直結しているような気もする。
こうして何度も立ち止まってしまうのは、きっと良くないことなのだろう。
走りながら考えた。みんなが生き残る方法が、生まれたばかりのイヌマルには何度考えてもわからなかった。
この町のことを深く知っているわけではない。陰陽師のことも式神のことも知り尽くしているわけではない。
イヌマルは手探りでやっているのだ。力技でやっているのだ。だから、考えることは得意ではない。だから、何も思いつかない。誰か、たった一人の強者がすべてを指示してくれたらどんなに良いだろうと思う。
そんな強者は多分この町には存在しない。存在するとしたら、それは、イヌマルだ。
自分が生き残ることが勝利への鍵となるのなら、何がなんでも生き残ろう。ステラと猿秋を守る為に最後の最後まで生き残ろう。
氷柱が発生して爆音が轟く。地面が揺れたが誰も転けることなく駆けていく。
「ステラ」
「なっ、何?」
少しだけ息が上がったステラの声を最前線で聞いた。
「この札を託す。いつどこで使うのかは任せるよ」
「えっ、な、っ、なんで?」
「俺が持っていても使わなきゃいけない時に使うことができないだろうしね。ステラは俺たちが守るから、いざと言う時に使ってほしい」
「……サルアキ」
瞬間、遠くの曲がり角から妖怪が姿を現した。雪女と思われる半妖の射程圏外にいたのだろう、攻撃を食らっているようには見えず、眉を顰める。
無傷だけでも恐ろしいのに、あそこにいるのはかまいたちや土蜘蛛と同等の強さを持つであろう妖怪だった。それを、イヌマルは、避けなければならない。
「路地裏に入ります!」
「ッ?!」
「っ」
気づいていなかったのだろう。息を呑む二人を先導し、狭い路地裏の中へと入る。
数少ない経験上路地裏の方が妖怪が出没しやすかったが、夜中になった瞬間から出没してきた妖怪たちは、路地裏に入るようなサイズではない。絶対とは言えないが、妖怪の気配がない以上入るしかない。
「あっ! 主!」
「何?! どうしたの?!」
「俺ここの土地勘ないです!」
「ここどころか全部にないでしょ! そこ右!」
「はい!」
「でそこ左!」
「はい!」
「真っ直ぐ走って!」
狭い道だが、多方面に伸びている道のせいで迷路のようになっている。猿秋はこの町のことを本当によく知っているとしみじみ思うが、この町で生まれてこの町で育った猿秋にとっては造作もないことなのだろう。
上手いように妖怪を避けたイヌマルは、くしゃみをし──恐る恐る視線を上げた。
「あっ、主?」
「何?」
「何って氷柱の真下なんですけど!」
「そうだよ。でも、逆にいないでしょ?」
「た、確かに……」
「あの人は先に行ったのかな?」
「行っただろうね。気配ないから」
「…………」
ぐるりと視線を巡らせても、氷柱の端と端が見えない。とても強力な半妖なのだろう──痛む全身を冷やす為に氷柱に抱きつき、イヌマルは腑抜けた声を上げた。
「イヌマル、大丈夫?」
「はい! 大丈夫です!」
「サルアキ、陰陽師は?」
「…………」
すぐに答えると思ったが、猿秋は黙る。それだけで、どれほど不味いのかを二人は知る。
「……狂えないのか、それとも」
その表情は、今まで見てきたどの表情よりも悔しそうで泣きそうな──悲しい表情だった。