終幕 『Breaking Dawn』
アイラと真は八月の下旬まで古城にいるらしい。ティアナとレオもそれまでの間は古城にいるが、イヌマルたちの前に姿を現す頻度は明らかに減っているように感じた。
「イヌマル、お願いがあるんだけど……」
ティアナとレオの気配を探っている時に声をかけてきたのは、ステラではなく花だった。
「え、花? 何?」
花から声をかけられることも頼みごとをされることも決して珍しいことではない。だが、表情が深刻そうなのは初めてのことだった。
「そんなに怯えるような話じゃないよ。えっと、髪を切ってほしくて」
「…………お、俺の?」
「違う違う! ぼくの!」
「え?!」
そっちだとは思わなかった。花の髪は京子や猿秋譲りの綺麗な緑色がかった黒色の長髪で、それを切るなんて発想はイヌマルにも──もちろん花にもないと思っていたから。
「なっ、なっ、なんで……!?」
「うーん。暑くなってきたから、かな?」
花は思い切り視線を逸らしている。嘘を吐いているようだ、それを無理矢理吐かせるつもりは一切ないが、花が何を考えているのかは気になる。じっと花の表情を見つめていると、花がそっとイヌマルを見上げた。
「……男らしくなりたくて」
小声でそう言った花は、照れくさそうだった。
「なっ、なんで……!?」
「えっ、そこ驚く……!?」
花が男らしくなりたいと思う気持ちも、イヌマルが驚いたことに驚いた花の気持ちも、よくわからない。
「だっ、だって花は可愛くて優しくて天使みたいな女の子っぽい……」
だから花は古城の住人たちの癒しになる。中庭に咲いている花のように、その名に相応しい──とても綺麗な少年なのだ。男らしくないことを気にしているのなら、そのままでいいと言わなければ。
「それ!」
「それ?!」
「そういうのを卒業したいなって……だってぼくもう十三歳だよ?! 大人の男になりたいの!」
「……な、なるほど」
花は冗談で髪を切りたいと言っているわけではなかった。かなり真剣に考えて、相当な覚悟を持って美しい髪を切ろうとしているらしい。
その勢いに押されたイヌマルは言われた通り髪を切る準備をして、花のさらさらの髪に触れる。切るのはもったいないと思うくらいに、イヌマルにとっては手離したくない髪だった。
「は、花? 本当にいいのか?」
「いいよ、イヌマル。思いっ切りやっちゃって!」
頼んできた時はまだ迷いがあるように見えたが、今はイヌマルの方が迷っているような気がする。その迷いを払うような花の声量はイヌマルの背中を押していた。
「行くぞ!」
花に負けない覚悟を持ってイヌマルも叫ぶ。
「お願いします!」
改めて花の覚悟を受け取ったイヌマルは、花の髪を人房持って鋏を入れた。
ざくざくと音がする度に花がもぞもぞと動こうとするのは、本能が拒絶しているからだろうか。その間は鋏を離して片手で花の頭をしっかりと抑える。大人しくなった瞬間にまた鋏を入れると、花の髪は肩までもない短髪になった。
「お、終わったぞ……」
長い長い息を吐く。花以上に切るイヌマルが緊張していたらしい。
「ご、ごめん……」
その様子を見て申し訳なくなったのか、花がおずおずと謝罪した。
「……自分で髪切ったことなくて、グロリアに頼むのは恥ずかしかったから……イヌマルに頼んだんだけど……」
照れくさい。恥ずかしい。そういう感情があの花に芽生えているらしい。
これが思春期というものなのだろうか。年齢は該当しているが、真っ只中の人間と話す機会がなかったイヌマルにははっきりとしたことがわからなかった。
「大丈夫! 次があったらまた切るから!」
とりあえずそう言っておく。イヌマルがこの古城に来たばかりの頃、イヌマルの同性は花しかいなかった。女性に囲まれて女性のように育った女性の名前を持つ花は同性のイヌマルが珍しかったらしく──そして日本人の見た目を持つイヌマルに親しみを覚えたらしく、早い段階から懐いてくれていた。
そんな花が同性にしか頼れない、男性らしくなりたいと言うならイヌマルは全力で協力しよう。そう思って拳を強く握り締めた。
「あ、ありがとう」
花はイヌマルの勢いに押されつつも礼を述べる。そして短くなった髪の毛先に触れ、「変な感じ」と歯を見せて笑った。
「────」
花が成長する度に、その姿は猿秋に似ていく。当たり前だ。花は猿秋の〝クローン人間〟なんだから。
ただ、その笑顔が猿秋に似ているとは思わなかった。花が二十五歳──猿秋の享年と同い年になった時イヌマルの目の前には猿秋と同じ風姿をした花がいるのだろうが、その時イヌマルは一体何を思うのだろう。
イヌマルは、猿秋の式神だった期間よりもステラの式神である期間の方が遥かに長い。
それでも今でも猿秋のことを考えて、思い、悼んでいる。それはきっとティアナにも言えることだ。
別れは必ず訪れる。その別れを生まれてすぐに味わっただけで、その別れは何も特別なことではない。ただ少し会えなくなるだけだ。最近はそう思えるようにしている。
「クカカカカッ! イヌマル! 遊べ遊べ遊べ! 相手してやる!」
「クヒヒヒヒッ! こてんぱんにしてやるよぉ!」
感傷に浸っていたイヌマルを現実に連れ戻したのは、古城を遊び場にし始めたマクシミリアンとマクシーンだった。
ジルが生きていたらこの二人には好き放題にさせなかったのだろうか。いや、ジルならばニコニコと笑いながら遊ぶ彼らを見守るだろう。だからティアナは何もしないのだ。
「クカッ?! だっ、誰だ!」
「クヒッ! 花だよぉ。髪切ったんだよぉ」
「うん……そうなんだ。似合うかな?」
花はずっと、マクシミリアンやマクシーンのような悪魔を退治していた。そんな二人と花がすぐに仲良くなることはないと思っていたが、意外と友好的な悪魔に花は心を開き始めている。
「クカカッ! 似合う似合う似合う!」
「クヒヒッ! 素敵だよぉ!」
古城の息は、この二人の騒がしさによって吹き返したかのようだった。二人に褒められた花は嬉しそうに破顔して、「良かったぁ」と髪全体を触る。
イヌマルは、これも夜明けだと思った。
『この世のすべてには意味があるんだよ。覚えておくように』
今だから、百鬼夜行が起きたのは古城の住人たちに出逢う為だったのかもしれないと思える。猿秋はあの時イヌマルに本当に大切なことを教えてくれたのだと理解して、感謝した。