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深潭逆乱舞  作者: 朝日菜
第一章 星の目覚め
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序幕 『イヌマルの目覚め』

 苦しい。だが、何故苦しいのかはわからない。


 何も見えなかった。苦しい以外の何かを感じることもなかった。体を動かすこともできず、体とはなんなのだろうと不意に思う。


 何もわからなかった。わからないことは一つだけではなかった。なのに誰も答えてくれない。誰も、この水底まで下りてこない。孤独に沈んでいるのだと思った。



『──る、イヌマル』



 聞いたことのない声。なのに何故か安堵して、このまま眠り続けようとさえ思う。


「イ、ヌ、マ、ル」


 何かに触れられた。何が、何に触れたのかさえわからなかった。


「……ぁっ」


 穴が空いて空気が入る。刹那に苦しさが消え去った。苦しかったのは、呼吸を一切していなかったからなのだと思った。


「あはは。まだ寝惚けているのかな」


「…………」


「目を覚まして、イヌマル」


「────」


 その声が、とても落ち着く声だということに気がついた。目を覚ましてと言われたから、その言葉の意味を知っているはずがないのに目を覚ます。


「やっと起きた」


 目の前に正座する人間の男は、そうしてにっこりと微笑んだ。


 一つに結んで、後ろに垂らされた緑色がかった黒色の髪。傷一つついていない真珠のように美しい肌。なのに年相応の──二十代の男にちゃんと見えるのは何故なのだろう。

 無害そうな顔は男性の人間性をよく表しているようだった。右も左もわからない自分に苛立つこともなく、ただ黙って自分が落ち着く瞬間を待っている。


「……あの」


「初めまして。俺は三善猿秋みよしさるあき、お前の主だ」


「……ある、じ」


「そして、お前の名前はイヌマル。この三善家に仕える式神しきがみだ」


 知っていた。たった今彼の術で召喚されたばかりなのに、何故かそのことを知っていたのは──自分が三善家に仕える式神だからだろう。


「……はい」


 承知しているという意味で顎を引いた。基本的なことは流れている血が知っていた。


 イヌマルは首を回して辺りを確認する。今自分たちがいる場所は家のようだ。人が住んでいる形跡がある。だが、詳しいことは生まれたばかりの自分にはわからなかった。


「お。来たんだね」


 今度も知らない声だった。女の声。視線を移すと別の部屋から猿秋と大差ない年齢の女性が顔を出す。


「姉さん。ちょうど良かった、この子はイヌマル。俺の新しい式神だよ」


「ふぅん、あんたはイヌマルって名付けたんだね。新しい名じゃないか、どうして先代の名を使わなかったんだい?」


「姉さんの式神がキジマルだからね。合わせてみた、桃太郎みたいに」


「猿がいないじゃないか。……あ、まさか」


 女性が黄色の双眸を細めた。イヌマルはその意味がわからなかったが、猿秋を見つめて理解する。


「そう。猿は俺」


 自分を指差す猿秋に向かって、女性が呆れたような表情を見せた。話はよくわからなかったが、微笑む猿秋を見上げてイヌマルは思わず笑みを零した。


「無理に笑わなくていいんだよ、イヌマル」


「酷いなぁ姉さん。……あ、イヌマル。この人は俺の姉の京子きょうこ。もちろん俺と同じ陰陽師おんみょうじだよ」


 言われなくても、彼女からも陰陽師の気配がしていた。

 自分たち式神を使役して、妖怪を倒す陰陽師──。そんな宿命を背負って生まれてきた我が主たち。


 そんな二人を見比べて再び笑った。二人は、誰が見てもよく似ている姉弟だった。


「よく笑う子だねぇ。うちのキジマルとは大違いだ」


「キジマルは姉さんみたいな子だからね」


「あたしが一切笑わない無愛想な女だって言いたいのかい? 失礼だね」


「嫌だな、そこまでは言ってないよ」


 猿秋はにっこりと笑っている。まるで、自分の写し鏡のように。


「まぁ、話はこれくらいにして……姉さん。キジマルを呼んでくれる? 家に案内させないと」


「あぁ、そうだね。黄昏時までまだ時間はある──」


 京子はそこで言葉を切った。右手は服の下にある胸に突っ込まれ、そこから紙切れが取り出される。



「──馳せ参じたまえ、キジマル」



 その声は、猿秋と同じくらいに心地良かった。


 眠気を堪えて座ったままでいると、自分のものではない式神の気配が途端に現れる。

 顔を上げると、京子と自分との間に男型の式神が姿を現した。


「──!」


 息を呑む。彼が美しかったからではない。いや、彼は当然のように美しかったが──自分と同じ血が流れている、それを強く感じたのだ。


「京子様……」


「おはよう、キジマル。新人だよ、挨拶しな」


 振り向いたキジマルは座るイヌマルを視界に入れる。鳥の羽のように長く美しく無造作に跳ねた黒鳶色の長髪が揺れた。

 京子と同じく猿秋と大差ないような年齢に見えるキジマルは、軽そうな生地でできた黒い着物を来ている。それは自分が服にも当てはまっており、イヌマルは真っ白な──鶴のような着物の裾を握り締めた。


「……なんだ、男ですか」


「女が良かったのかい?」


「当たり前じゃないですか。まぁ、男でもいいですけど──見た目年齢があまり変わらないのも気に食わない」


「あぁ、そうだね。並んでみると同い年の友人みたいだ」


 イヌマルは、自分がどんな容姿をしているのかを知らない。今目に見えているものすべてがイヌマルが知っていることのすべてだ。


「武器も同じ太刀なんですかね。他の刀を使用してくださった方が戦闘の幅が広がって有利になるかと思ったのですが」


「そういえば、三善の式神は全員太刀だね」


「きっとそういう血なんだよ。イヌマル、式神としてのイロハはすべてキジマルから教わりなさい」


「あ……はい」


 上手く言葉が出てこない。他の三人のように喋ることができないのはどうしてだろう。


「何落ち込んだ顔してるんですか?」


「喋れ、なくて」


「そんなのは当たり前です。貴方ついさっき生まれたんですよ? 人間で言うところの赤ちゃんなんですよ? で、そんな生まれたての貴方の教育係を任された私の名前はキジマルです。貴方は?」


「……イヌ、マル」


 初めて自ら名乗る。そんな名前に永遠に縛られる妖怪の一種が自分たち式神だった。


「なるほど。良い名ですね」


 今までの態度のせいで褒められるとは思ってもみず、イヌマルはぽかんと惚けながらキジマルを凝視する。


「どんな顔をしているんですか。さっさと立ちなさい、見た目年齢が同じくらいならば甘やかしも手加減もしませんよ」


「ッ!」


 慌てて立った。初めて故にバランスを崩した。


「あーあ。気をつけなよ」


「キジマル、イヌマルをよろしく頼む」


「……えぇ、猿秋様。殺さない程度によろしくしておきますね」


「ッ?!」


 キジマルは、冗談なのかそうではないのかよくわからないが笑っていた。その笑みには猿秋のような柔らかさがなく、笑顔にも種類があるのだと知る。だが、キジマルが今どんな感情でそんな顔をしたのかはわからなかった。

 そんな感情がいつかわかるのではないかと思って、キジマルの後を追おうとする。瞬間に手を握られた。すぐに辺りが森と化した。


「え?」


「いわゆる瞬間移動です。大丈夫、これは貴方にもできることですから」


「なんでこんなところに……」


「血が覚えているはずですよ」


 口はそう動いたのに、本能はキジマルの言う通りだった。

 ここは、帰ってくる場所だ。そう本能が言っている。何故帰ってくる場所なのかはわからないが。


「あそこが私たちの家──陰陽師様が式神の家と呼ぶ場所です」


 キジマルが指差す方向へと視線を向ける。森の中には確かに、何故か懐かしいと感じる日本家屋の家が建っていた。


「行きましょう。まだ昼間ですが、あと一時間もすれば黄昏時です。この森にも妖怪が出現しますよ」


「俺たちは……」


「はい?」



「──俺たちは、妖怪を殺す」



 そういう宿命を背負って生まれてくると、これもまた血が覚えていた。


「えぇ、そうですよ」


 肯定される。


「手を出しなさい」


 歩きながらそう命令された。右手を出すと、その手首を握られる。いや、脈を測られている。


「ッ?!」


「これは……」


「な、何?」


「式神が使用する刀の種類を調べています。大体見た目年齢や性別によって違うんですけど、私は太刀です。貴方も多分太刀です。室内戦には向かないので注意してくださいね、基本は外で戦うんですけど。……あ、刀の種類はいくつかあって、子供は短刀、若者は打刀か脇差、私たちのように成人を過ぎたような者には太刀、そしてそれが女性の場合は薙刀です。ごく稀に大太刀を使用する者もいますが、それにこの法則は当てはまりません。まぁ、使用者自体少ないんでなんとも言えませんが……私が知る限り大太刀を使っているのは千年を生きる子供の姿をした式神だけですね」


 早口でそう捲し立てるが、キジマルはいつまで経ってもイヌマルの手を離さなかった。


「キジマル?」


「手をこんな風に振りなさい」


「え?」


「いいから早く」


 言われた通りに何かを払うように手を振ると、淡い光が灯った何かが目の前に出現する。それは何故か異様に大きく、隣に立つキジマルに視線を戻す。彼は、口をあんぐりと開けながらそれを見つめていた。



「……大、太刀」



 絞り出された声は、震えていた。


「えっと……これが?」


「これって言うな! 今すぐ戻るぞ!」


「え?! うわっ!」


 掴まれたままの手首を引かれた。戻ってきたのは、日本家屋ではない──普通の一軒家である三善家だった。


「京子様! 猿秋様!」


 大太刀を強奪し、腰を抜かす目の前の主人たちに向かってそれを見せる。大太刀はもう淡い光を身に纏っておらず、キジマルによってその刀身を顕にされた。


「それ……」


 京子が震える手で大太刀を指差す。猿秋は、未だに状況が飲み込めていないような表情でまばたきを繰り返した。


「大太刀ですよ大太刀これ!」


「わかったから黙りなさい、貴方先代のせいでちょっとオタク気質だからそれ以上は聞きたくないよ」


「ぐっ」


「あとそれイヌマルに返す」


 渋々返された大太刀を受け取り、それの重さに驚く。だが、意外と重いというだけで──決して戦えないというわけではなかった。


「そっか。イヌマルは大太刀か」


 猿秋が手を叩いて喜ぶ。京子も手を叩いて喜んだが、式神のキジマルは今までのイメージにそぐわず不貞腐れていた。


「イヌマル」


「あっはい」


「私と戦いなさい」


「えっ」


 無理だ。生まれて間もないのにキジマルと戦えるわけがない。


「無理じゃないでしょう。すぐに黄昏時です、実戦前に手合わせを」


「えぇ?!」


 本気だ。キジマルは本気でイヌマルと手合わせをしようとしている。何故そうなったのかは定かではないが、キジマルは片手に太刀を握り締めていた。


「無っ理!」


「無理じゃない!」


 辺りを見回し、ガラス戸から外に出る。当然のように追いかけてくるキジマルを猿秋と京子は止めようとはせず、本当に、実戦前に手合わせを──



「ここはだめ、キジマル」



 ──予想外のところから、可愛らしい声が聞こえてきた。


 視線を上げ、自分の身長よりも高い塀の上に座る少女を見据える。

 猿秋と京子とはまた違う──日本人離れした顔の造形。柔らかそうな月白色の髪も、紺青色の双眸も、日本人にはまったく見えない。同じく紺青色の可愛らしいワンピースが似合うのはこの世で彼女ただ一人、そう思うくらい彼女という存在は美しかった。


「ステラ」


 そう猿秋に呼ばれた彼女は微笑む。それが彼女の名前ならば、名前も日本人離れしているようだ。


「おかえりなさい」


 なのに彼らは他人ではない。イヌマルは、謎の少女ステラを見上げたまま息を呑んだ。

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