秀頼の誕生、そして太閤の死
豊臣秀頼の誕生、そして秀吉という天下人の死は日本に暗い影を落とす。
文禄2年(1593年)太閤(先の関白)・豊臣秀吉の嫡男が大坂城で産声を上げる。
幼名を拾丸と名付けられたその子は、天正19年(1591年)に若くして死没した鶴松の幼名が捨であった為、捨ててしまった命を「拾う」という意味合いで名付けられた。
それではなぜ鶴松にそもそも「捨」などという名前を付けたのかという疑問が残る。
これは当時の慣習で「捨て子は育つ」という迷信にあやかったものであった。
さて、この拾丸が産まれた時、豊臣秀吉は大層喜んだ。
この時の秀吉は齢56歳、恐らく生涯にもう自らの子供は出来ないであろうと本人も諦めかけていた時に出来た子供である。
その上、自分の跡を継がせられる嫡男なのだから、これが喜ばずにいられようか。
秀吉の子「捨」と「拾」の二人を産んだのは淀の方と呼ばれる女性であった。
淀の方は、織田信長の妹、お市の方と近江(現在の滋賀県辺り)の戦国大名・浅井長政との娘であり、美貌、血筋共に一流と謳われた女性である。
信長からみたら姪御であった。
さて、ここで少し話はそれるが、豊臣秀吉という男は大層な女好きであった。
英雄色を好むというが、秀吉にはだいたい20人近くの側室が居たと云われている。
勿論、家康にも側室は大勢いた。
元々松平家という家は三河の名家である。
名家という元々の身分が高い家康は自分とは全く逆である身分の低い女性を好んで側に置いた。
しかし、元々の身分が小者という低い身分から天下人となった豊臣秀吉は自分とは真逆の身分が高い姫を好んで傍に置いた。
秀吉は若い頃に手が届かなかった身分の高い女性を好んで蹂躙したのだ。
傍に置いたと言えば聞こえは良いが、その多くは大名の人質として連れてこられた娘達であり、秀吉は特に若い生娘を好んだ。
家康はこれとはまた逆で後家(未亡人)を好んだ。
ポルトガルから来た宣教師ルイス・フロイス。
彼は秀吉についてこう評していた。
曰く優秀な武将で戦闘に熟練していたが、気品に欠ける。
曰く極度に淫蕩、また悪徳に汚れ、獣欲に夢中。
曰く抜け目ない策略家。
曰く他者に本心を明かさず、また偽ることが巧みで、悪知恵に長け、人を欺くことに長じているのを自慢としていた。
曰くほとんど全ての者を汝、彼奴呼ばわりした。
さて、そんな秀吉であるが、鶴松没後もう自分に子供は出来ないであろうと、自らの姉の長男で武将としては適正に欠き、小牧長久手では家康に惨敗した甥っ子の豊臣秀次を自らの後継者とし、帝王学と関白職を授け、自らは関白を退職した人物が名乗る「太閤」を名乗った。
そんな秀吉に思いもかけず子供が出来たのだ。
当時50代後半の秀吉はいささか老衰の気があった。
無意識に失禁していたなどという事もあった。
自分の生い先が最早長くはないと自ら悟った秀吉はどうにかして自らの息子・拾に自分が築き上げてきたモノを譲れるかを考えた。
秀次は自分の甥、何とかして平和裏に秀次に与えた天下を拾に譲らせるには・・・
秀吉は考えた末、生後2か月の拾と関白・秀次の娘の婚姻を決めたのだ。
拾丸はこうした権力者による時代のうねりに翻弄された生を受けたのである。
婚姻を結んだとはいえ秀吉は不安でたまらなかった。
もし、自分が死んだあと拾丸が害されたり、追放されたらと考えると夜もなかなか眠れない。
若い頃自分が様々な人を騙して成り上がって来た為、歳を取ればとる程、疑い深くなっていった秀吉。
当時、日本は文禄の役とよばれた朝鮮侵略の真っただ中。
「唐入り」と呼ばれたこの戦、諸大名はこの戦いに多くの財産と将兵をつぎ込んでいた。
唐入りは元々は信長の野望の一つである。
唐入りを成功させる事で名実とも信長を超える。
秀吉にはそういった野望があったのだ。
そもそも秀吉は信長を嫌っていた。
嫌いというより妬んでいた。
気品のある顔立ち、世界を視野に入れた戦略眼、富国強兵を合理的に行える政策発想。
信長の目は常に世界を見ていた。
自分だって生まれさえ良ければ・・・
信長に嫉妬を覚え、秀吉はわざわざ明智光秀の動きを知ってこれを無視し「本能寺の変」を起こさせ、機会を図って毛利と和睦し「中国大返し」を為し自作自演の敵討ちを行った。
信長の親類縁者は大方家臣にした。
姪の娘は側室に、信長が礼儀作法の一環として推奨した茶の湯は茶聖と呼ばれた「千利休」を切腹させたことにより自分は茶の湯すらも支配しているという優越感。
豊臣秀吉とは僻みと妬みの塊であった。
そうやって天下を手に入れ、今まで自分が機嫌を伺っていた大名衆が自分の機嫌を伺うという快感。
第二の秀吉が現れないように厳しく検地も行わせ、刀狩令も出した。
後は自分の天下が揺るがぬよう諸大名の力を削いでおくだけ。
それに都合が良かったのが「唐入り」であった。
そんな秀吉が野望を為さんとしていた真っ最中に、年老いて初めて「野望」とは違う「夢」が生まれてしまった。
自分の子に自分の全てを残すには果たして婚姻だけで良いのだろうか。
もっと確実な方法はないだろうか。
そんな時、ふっと耳に心地よい家臣の言葉が聞こえたのだ。
「秀次殿には消えていただきましょう、殿下の後継者となれるのは御拾様のみで十分でございます。」
秀吉はそう呟いた家臣を見る。
そこには近江・佐和山城主にして豊臣政権下の五奉行筆頭・石田三成が膝をついて頭を下げていた。
石田三成は戦国の世にあって「武力」でもなく「知略」でもなく「政治手腕」で成り上がったいわゆる政治家である。
中国大返しの際もいち早く走路を確保し、沿線の村々に炊き出しを命じ、秀吉の天下取りを陰から支えた男の一人であった。
彼はとても合理的な思考を持ち、また秀吉により取り立ててもらったという恩に報いる為だけにその力を振るうといった男である。
その為、武功で秀吉に認められようとする武将にあまり過度な力を付けさせないように讒訴(言いがかり)したり、罠を張り大名を改易(領地没収)させたりと秀吉に権力が集中するように行動していた為、多くの武将から内心で嫌われていた。
秀吉は最初、拾丸が生れた時、秀次に対して「日本を5つに分け4つを秀次が治め1つを拾丸に治めさせてくれ」と言っていた。
そして次に秀次の娘と拾を許嫁にすると決めた。
しかし、石田三成という男は拾丸が男児として産まれた瞬間に秀次を殺害する理由を考えていた。
そして今まさに秀吉は少しずつ耄碌し拾丸に全てを与えたいと考えるようになっている。
三成にはそれが解っていた。
秀吉の考える事の先の先を読み用意をしておく。
必要なら使い、不要なら切り捨てる。
それが石田三成であった。
そういった三成の性格は槍働きでのし上がってきた「いくさびと」とは水と油の様に合わないのは当然である。
不安を増す秀吉と比例するかの様に関白・秀次の恐怖も増していった。
拾丸が生まれ秀吉の言うがままに全てを受け入れているのに一向に秀吉の猜疑心が自分に向いているのだ。
実は秀吉と秀次の認識は違っていた。
秀次ははじめ秀吉から「秀次が5分の4を治め、拾に5分の1を治めさせてくれ」と言われ即座にこう答えた。
「御拾様のご成長のあかつきには関白職を即座に譲り、日本の全てを御拾様に返上させていただく所存でございます」
と。
秀次は血判状も作成した。
しかし、すでに三成の計画ではどんな行動をしても秀次が生き残る手が無かったのが秀次の不運であった。
いや、運の悪い所と言えば、そもそも秀次は秀吉の親類縁者として生を受けた時に既に運が悪かったのだ。
幼い頃から秀吉の都合で人質、養子などと様々な家を転々とされ、それでも立身出世をしていく叔父・秀吉に少しでも認めてもらおうと、秀吉と家康が刃を交えた、小牧・長久手の戦いで自信満々に自分の策を秀吉に献策、半ば強引に強行したが、結果は惨敗。
共に出陣した武将は次々と討たれ、馬すら失い徒歩で帰陣するという大失態を犯したのだ。
そこまでの大失態を犯しながらも死を賜らず、大激怒で済んだところを見て自分にはまだ価値があると踏んだ愚者・秀次は小牧長久手の戦いで戦死した家臣の代わりに新たな家臣を自分に遣わしてくれと秀吉に使者を派遣する、これが秀吉の決定的な失望と怒りを買った。
秀吉は秀次の使者の口上を聞いただけで使者を切り捨てようとしたのだ。
そして秀吉はいよいよ秀次に自分の行いを顧みて反省するよう厳しい戒律を送りつけたのであった。
秀次は戦国武将として暗愚であったが、秀吉の戒律を守り奉公を続けていた。
それ以外に生きる術が無かったのも秀次の不幸の一つであろう。
唯一秀吉に意見が出来、秀吉の暴走を止める事の出来たのは秀吉の実弟・豊臣秀長という人物だけであった。
秀長は秀吉とは違い道理の通る人物でもあり、情にも篤く諸大名も秀吉との執り成しに彼を頼る事が多かった。
秀次も諸大名にならい秀長や秀吉・秀長の実母でもあり、自らの祖母・大政所に頼りながらも豊臣一門として誇りをもって生きていた。
しかし天正19年(1591年)事態は急変する。
秀長が病で死去するのだ。
その上、秀吉の後継者として誕生していた鶴松も相次いで死去する。
大政所もすでに亡く、この天下の二大事件が秀次の心の奥底に眠っていた天下への野望心くすぐる。
想定通り秀吉は唯一残った血縁者・秀次を後継者として関白を譲ることを決めた。
関白・豊臣秀次の誕生である。
余談ではあるが秀次の任官はとても急であった為、朝廷は大慌てで秀次の官位を上げていった。
秀次は「無能」と馬鹿にされていた自分に頭を下げる諸大名、美しい側室に囲まれ気分は有頂天と言っても過言ではないだろう。
しかし、その春は2年で終わったのだ。
御拾丸誕生。
一度春を味わってしまった秀次はその気分を惜しみながらも、自分の命と春を比べ、命を取ったのだ。
その筈だったのに何故か秀吉の自分への風当たりが日に日に強くなっている。
理由が全くわからない。
様々な大名にも相談してみた。
秀次は中でも伊達政宗とは懇意にしており、秀次の家老は元・政宗の家臣であったというほどであった。
そういった秀次の潔白を訴えるための「相談」を三成は謀反の為の「相談」であると秀吉に報告する。
秀吉は大いに怒り、秀次を高野山へ追放したのであった。
大坂城へ弁明に行っても追い返され高野山に追放された秀次の心中は絶望であった。
その間、三成によって高野山に追放された秀次が相談した大名や親しくしていた文化人、家臣や側室は次々と追放、監禁、切腹などと粛清されていった。
そして文禄4年(1595年)高野山に福島正則・池田秀雄・福原長堯三名の使者が秀次に対して賜死の命が下った事を告げたのだ。
彼の辞世の句は源氏物語をどこか自分に重ねた「磯かげの松のあらしや友ちどり いきてなくねのすみにしの浦」という句であった。
秀吉に尽くしながら秀吉の猜疑心と三成の策謀により殺された豊臣秀次、享年28歳の人生であった。
この後、石田三成の暗躍により秀吉は秀次の係累を全てを処刑する、秀次の子供、側室、侍女、乳母ら合計39名もの命が三条河原の露に消えた。
この時に秀次に目をかけられ、側室になった大名の息女が多くいた、そういった大名達は豊臣家に面従腹背を始め、秀吉に次ぐ実力者であった徳川家康に近づくのである。
この時、拾丸は僅か2歳であった。
人間の死は突然訪れる。
それは誰にも予測出来ない。
小者から天下人にまで上り詰めた太閤・豊臣秀吉。
この男の寿命ももう長くはなかった。
慶長3年(1598年)春、秀吉は自分にとって最後の春であると察して大々的な花見を催す。
醍醐寺の諸堂を再建し、庭園を造営、各地から700本とも云われる桜の木を集め境内に植えさせ花見大会を行ったのだ。
世に云う「醍醐の花見」である。
この頃、御拾丸は豊臣秀頼と呼ばれるようになっていた。
秀吉はこの花見に正室・北政所を筆頭に愛妾を多く引き連れ花見をおおいに楽しんだ。
輿の順番や秀吉の盃を受ける順番などで秀吉の側室達は表面では美しい顔をし、裏では般若の如く争っていた。
秀頼の生母・淀の方は側室の中でも唯一秀吉の子を産んだとして一目置かれていたが側室は側室。
盃争いでは、正室の北政所には立場はかなわずとも秀頼生母のプライドもあり、先輩側室達に嘗められる訳にはいかないと女の戦いに必死であった。
特に淀の方と松の丸の盃争いは後世の語り草になる程の者である。
松の丸殿の出身は京極氏であり、京極氏は松の丸のおかげで出世できたと言っても過言ではない程に落ちぶれていた。
松の丸は淀の方とはいとこ同士であり、そもそも京極氏は浅井氏の主筋に当たる家柄であったのだが、下剋上の煽りを受け実家は落ちぶれた上に、本能寺の変の後、明智方に付いた事により京極家は決定的に落ちぶれていくはずだったのだが、捕らえられた松の丸を秀吉が気に入り側室にしたため京極家は大名として復活したのだ。
そんな絢爛豪華な花見も終わり、その後半年も経たない内に秀吉は病に臥せてしまう。
秀吉の病状は日に日に悪くなる一方であり、一日中床から起き上がる事もしなくなっていった。
そんな秀吉を目の当たりにした諸大名の誰もがもはや回復の見込みはないだろうと考え、気の早い者などは博多に密使を送り、密かに朝鮮よりの撤兵準備を始めるほどであった。
豊臣政権の重臣たちは大坂城の秀吉の病床傍に控え、秀吉の意識回復とその際の主命に備えている、ここで下される主命は恐らく最後の遺言であろうと。
そんな中、大坂城で一人、秀吉の死を今かいまかと爪を噛みながら心待ちにする男が居た。
内大臣・徳川家康である。
世良田次郎三郎元信と共に小牧長久手を戦った後、家康は断腸の思いで秀吉に臣従するふりをする。
いわゆる面従腹背だ。
共に北条家を滅ぼし、天下を取った後、家康はじっくり秀吉が死ぬのを待つ事にしたのだが、秀吉はそれを察したのか、家康から父祖伝来の地である三河、家臣と共に切り取った遠江・駿河、本能寺の変の後、羽柴家と戦うために刈り取った甲斐等を取り上げ、京より離れた北条の旧領である関東に追いやったのである。
家康の爪を噛むという癖は元々あったものではない。
本能寺の変で信長が死に、命からがら伊賀を越えた頃から自然と噛むようになっていた。
次郎三郎などは「天下を望む人物が爪を噛むものでは無い」と何度も諫めるが、その時は止まるがまた始まってしまうといった、爪を噛むのはもはや家康の心の病でもあった。
そもそも家康の関東異動は表向きは100万石の加増という栄転であった。
しかし関東の地は長きにわたり後北条氏が税収を「四公六民」という低税率で治めていたので、家康が税率を急に上げると一揆が起こりかねないといった事情のある土地であり、秀吉はそこに目をつけ領民の反乱を理由に家康を切腹まで追い詰める腹づもりだったのだ。
家康は秀吉に辛酸という辛酸を嘗めさせ続けられたのだ。
「正に人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとしだな。」
家康が次郎三郎に対し呟いた。
「殿の重荷を半分でも某がお持ち致しますよ。」
そこにはもはや爪を見なければ区別がつかない程に家康に似た次郎三郎が居たのだ。
「お主には大いに助けられている、わしがここ迄長生きしていられるのもお主のおかげと言っても過言ではあるまい。」
家康が次郎三郎に言う。
「いやいや、殿の人徳の結果です、某の役割など少ない少ない。」
次郎三郎が謙遜するように言った。
そんな会話をしていたら、ふすまの外から声がした。
「太閤殿下の御遺言を通達致します。殿下の御寝所までお越しください。」
家康は秀吉と最後の対面に臨むのである。
次郎三郎はそんな家康の一代舞台を付き人の間で待ちながら心の中で応援する。
秀吉の寝所には家康の他に加賀大納言・前田利家、会津中納言・上杉景勝、備前宰相・宇喜田秀家、安芸中納言・毛利輝元、その他に石田三成、浅野長政、前田玄以、増田長盛、長束正家が呼ばれていた。
秀吉の遺言状には家康、利家、景勝、秀家、輝元を五大老に任じ、秀頼を補佐する事、三成、長政、玄以、長盛、正家を五奉行に任じ大坂城にて政務を司る事、特に徳川家康には伏見城にて国政を執り行うことなどなど、要約すれば
「家康は国元に帰らず大坂で秀頼の補佐をし、五奉行はそれを見張れ」
と言われている様なものであった。
この家康にすれば面白くもない遺言状に諸大名は改めて忠誠の証である誓紙血判を提出し、秀吉は安堵したかの如く、後日この世を去った。
時に慶長3年8月某日であった。
辞世は「つゆとをち つゆときへにし わかみかな なにわの事も ゆめの又ゆめ」
享年62歳であったと言われている。
天下はこの一大事をきっかけに大きく動き出そうとしていた。
この時、秀頼未だ5歳であった。
ここまで読んでいただき誠に有難うございます。
誤字脱字等ございましたらご指摘いただければ幸いです。
これからも『闇に咲く「徳川葵」』をよろしくお願いします。