世良田次郎三郎元信(伊賀越え)
信長が明智光秀の謀反により本能寺で横死したとの情報を聞いた家康。
兄と慕っていた信長の死により気が動転するが、三河に帰る決意をする。
その為には信長が一度殲滅した伊賀を越えなければならなかった。
信長の弟分として周知されている家康、伊賀は彼を無事に通すのか?
天正10年(1582年)6月某日
京、本能寺にて織田信長が明智惟任日向守光秀の謀反により壮絶な死を遂げる。
この衝撃的な事件はまとまりかかった日ノ本をまた混迷の戦国乱世へと引き戻すのではと庶民の間には不安の空気が立ち込める。
しかし信長の死に衝撃を受けたのは何も庶民だけでは無かった。
それは家康が堺見物を終え、京の信長のもとに帰ろうと思った矢先である。
家康と懇意にしていた京の豪商・茶屋四郎次郎がもたらした本能寺の報は家康を堺見物という楽しい観光気分から一転し絶望という名の深淵に家康を投げ込んだ。
家康は兄と慕っていた信長の死に動転し、また光秀が自分を生かしておくわけがないと覚悟を決め、京にある徳川家ゆかりの寺「知恩院」にて自刃をする決意をする。
その決断に焦ったのは家康に付き従っていた三十余名の供回りであった。
家康は今回の安土城を初めとする、京・堺見物に酒井忠次を初め本多忠勝や井伊直政、榊原康政などと徳川家の主だった将を京・堺へと連れて来ていた。
「平八郎(本田忠勝の事)!その手をどけよ!明智討ちをしたくても我らはこの人数!落ち武者狩りの槍の餌食になるくらいなら、わしは知恩院で信長殿の後を追う!」
平静ではいられない家康の体を忠勝はガッチリと掴んで離さなかった。
「殿!殿はいまや三河、遠江、そして今や駿河と三ヵ国を治める太守でござりまするぞ!ここで殿を死なせては我らは国元で殿を待つ領民たちに何といえば良い詫びれば良いのですか!!それに一度国元に帰り、兵を上げ光秀を討つという手もござりまする!」
酒井忠次や本多忠勝の必死の説得で家康は先ほどまで動転し喚いていたのが嘘のように沸騰していた血の気が頭から徐々に抜けて行き、冷静になっていくのを感じる。
「正成よ!ここから光秀めの勢力圏を極力通らずに三河へ戻るにはどの道が一番近い?」
伊賀出身の服部正成は言いづらそうに家康に答える。
「恐らくは、伊賀を越え、白子から船かと。」
その場にいた徳川家臣団の顔が雲って行く。
それもそのはず、実は前年にあたる天正9年(1581年)に信長は伊賀殲滅を図り、伊賀に住む民を戦闘員、非戦闘員関わらず大量虐殺をしていたのだ。
「天正伊賀の乱」と後に呼ばれるこの事件の起こりは天正6年(1578年)にあった。
伊勢・北畠家の当主・北畠具教が隠居城として伊賀内部に築城させていた丸山城が事の発端である。
具教は築城途中にして「三瀬の変」という事件で北畠一族を自分の養子に皆殺しにされたのだ。
具教の養子の名は北畠信雄。
織田信長が伊勢を兵を使わずに手中に収める為に送り込んだ信長の三男であった。
その織田信雄(北畠信雄)が伊賀侵攻の為に丸山城の修築を命じた事で事件は動き始めた。
織田信雄はこれを機に伊賀を攻め取り自分の手柄にしようと考えていたのだが、丸山城の修築に伊賀の危険を感じた伊賀の郷士たちに丸山城は思わぬ先制攻撃を受ける。
伊賀者が丸山城を修築している大工や守備兵に夜中、攻撃を仕掛けて、混乱した信雄の軍勢は伊勢へと逃げ帰ってきたのだ。
この伊賀の攻撃に烈火の如く怒った信雄は伊賀の忍びを殲滅せんと八千の兵をもって伊賀へ攻め込んだ。
戦は数である。
信長も秀吉も家康も小人数で大人数を相手にする戦を経験はしてはいるが、基本的には人数を集め頭数を揃えて戦に臨んでいる。
今回、伊賀へ攻め込んだ信雄も流石の伊賀の忍びも八千の兵と戦をするよりも、降伏するであろうと思っていた。
しかし普段は家々で秘密主義の伊賀衆が一致団結し、信雄の大人数と伊賀の小人数を逆手に取り局所攻撃作戦で信雄を伊勢へと追い返したのだ。
忍びの民はあまり群れる事が無い。
忍びの業は家々で厳しい修行し、初めて修める事の出来る門外不出のものであるからだ。
しかし、伊賀の民は織田信雄という大敵を伊賀から追い出すためになりふり構わず一つになり伊賀を守るために戦をしたのだ。
この事件は信長の逆鱗に触れてしまった。
信長はまず信雄を安土に呼び出し勝手に伊賀に侵攻したことを激しく叱責した。
「うぬは何故、わしの許可も取らずに何故伊賀を攻めたのだ?」
信雄は顔を真っ青にし震えながら「申し訳ございません」と頭を下げて連呼するだけであった。
「申し訳ございませんで、兵の家族にうぬは顔向けが出来るのか!!!このたわけが!!貴様の増長が兵の家族を悲しませるという事を考えなかったのか!!」
信雄は打ち首を覚悟した、自分の功名心の為にいたずらに兵を損じてしまったのであるからだ。
「父上、三介(信雄のあだ名)も父上の覇業に少しでも役立ちたかったのでしょう、どうぞ御勘気を御鎮め下され。」
信雄と信長の間を取り持ったのは既に織田家の家督を継いでいた織田信忠であった。
「奇妙(信忠の幼名が奇妙丸という)よ、この天下布武の覇業に忍びの者が協力をせずまして反抗しこれを撃退したとなれば非常に不味い。織田家が伊賀の忍びに手が出せぬと噂が流れれば天下布武にも支障が出る」
信忠はそれでは、と信長に進言する。
「兵馬を整え3年後に軍を起こし伊賀を殲滅されるが宜しいかと思います。後々の禍根は断っておくべきかと。」
信長は信忠の言葉を聞き入れ信雄を許し、信雄に兵馬を養い3年間の時節を与えた。
「うぬに機会を授ける、織田に歯向かえばどうなるのか見せしめとせぃ、しかしこれで仕損じれば三介、貴様の命は無いと思え」
信雄は涙交じりで信長と信忠に礼を言い、さっそく伊勢に戻り兵馬の鍛錬に力を入れるのである。
3年後の天正9年に信長は大将を信雄とし、自身は後見人として、信雄の副将として甲賀出身の滝川一益や丹羽長秀といった織田家の宿老を付け、信長は後陣でワインを飲みながら5万の軍勢を信雄に与え、伊賀の里を殲滅した。
この時、伊賀にいた者は非戦闘員含め三万名近い老若男女達が殺害されたという。
忍びにはくノ一といった女忍者や少年兵もいた、老人は技を極め軍働きをしたので、信長がこれを警戒し皆殺しにしたのは軍人として妥当であると言わざるを得ない。
伊賀殲滅の大きな理由は伊賀に住む一人一人がもはや忍びではないか?と疑わしいのだ。
信長は此度の戦は後々に禍根を残さぬために疑わしきは全て殺害する事にしたのだ。
生き残った伊賀者は当然信長に恨みを持ち、常に信長への復讐の機会を狙っていた。
その怨みの矛先は信長が横死した今、実際に戦には参加していなかったが、信長の寵愛を受ける弟分である徳川家康にも向いていたのだ。
その上、家康を殺害し首を持って行けば明智光秀から報奨金が出ると言うのだ。
「伊賀は易々と我らを越えさせてはくれまい。」
家康がぽつりと言う。
「しかし行かねばなりませぬぞ?」
忠次がそれに答える。
「某が先導いたします。蜻蛉切の名に懸けて殿には指一本ふれさせませぬ。」
忠勝も伊賀越えの決心を固める。
茶屋四郎次郎も供をするという。
「あても少しでも役に立てるなら家康公のお力になりとうございますわ。」
皆が自分の為に命を捨ててくれるという事に家康は嬉しく思いその想いに感謝をし、必ず生きて三河へ帰る決意をするのだ。
家康はまずは飯盛山城に仮陣を置き、今後の行動指針を決定する。
服部正成は周囲の探索と索敵を行い、酒井忠次、井伊直政、榊原康政、本多忠勝といった徳川四天王の面々で軍議が繰り広げられていた。
「まずは農民の姿に身をやつし、京を抜けませぬとどうにもなりませんな。」
忠次が家康に伝える。
「四郎次郎よ農民の衣装を用意できるか?」
茶屋四郎次郎は呉服店の店主である、その位はお手の物であった。
「一両日お待ちいただければ皆様の分の御衣裳を用意させて頂きますさかい。」
家康は四郎次郎の働きに「感謝する」と一言礼を言い、その晩は飯盛山城で夜を明かすのだった。
本能寺の変は根来の次郎三郎と本多正信の下にも伝わっていた。
そして家康が今窮地に立たされている事も正信は知り、いてもたってもいられない状況といった風であった。
「次郎三郎よ、わしはなりふり構っていられん。単刀直入に申す。今こそ家康様に仕えてはくれぬか?」
次郎三郎はしばし考え
「弥八郎よ、俺は信長公の目を見たという話をしたな?」
正信は唐突に何を言い出すのかと不思議に思ったが次郎三郎の話に合わせる。
「あぁ、燃えるような革新的な目であったと申しておったな。」
次郎三郎は続ける。
「信長公は日ノ本を根本から変えるつもりであった、あれはそういう目だ。恐らく世界というものを知っているのであろう。それに比べ徳川殿は信長殿に憧憬を持つ童の様な眼をしていた。到底信長公の跡目を告げるとも思えんのだが。」
正信が激昂する。
「殿は領民の為、家臣の為、共に畑仕事を行い、領民と同じ食事をとる事の出来る御方である。根本から信長公とは違うのだ。」
次郎三郎は深く考え
「急激な革新が無くとも、今を生きる民人の為の政治か。わかった、差し当たり、家康殿が伊賀を無事に抜ける手伝いはしよう。」
布施孫兵衛と津田月信の両名は自身が率いる鉄砲隊にいくさ支度を始めさせる。
両名は次郎三郎に鉄砲の扱いから撃ち方、当て方、手入れ、鉄砲戦術などの全て仕込まれていた次郎三郎の家臣であった。
彼らの次郎三郎への忠誠心は並々ならぬものがあった。
根来寺を本拠とする次郎三郎の一行も千にも届く大所帯となっていた。
「根来衆はしばらく俺の友に任せようと思う、おぬしらも知っている男だ。」
皆が「誰でしょうか?」と聞くと
「次郎三郎の兄ちゃん、久しぶりでこんな大所帯をおいらに任せるとはさすがに豪気だねぇ。」
やってきたのは鈴木重秀であった。
「ここの守りは雑賀の孫一では不足はあるまい、各々方は重秀殿の指南の下鉄砲の腕は磨き続ける様に!孫兵衛!鉄砲隊200を先行させ徳川殿を護衛せよ!月信!鉄砲隊200をもって徳川殿の道を切り開け、俺は鉄砲隊100を率いて伊賀へ向かう!」
正信は重秀がここに居る時点で以前よりいざという時の為に次郎三郎が手を打っていた事を知り涙しながら
「恩に着る、次郎三郎、わしは今日の日を生涯忘れんぞ。」
次郎三郎は正信に答える。
「弥八郎よ、そなたは本来であれば三河一向一揆が終わった時に家康殿の下に帰りたかったのであろう、しかしこの俺の人生に付き従い数々の戦場を歩き回った、よく19年もの間、俺と共にあったな。まぁ家康殿を助けるくらいしても罰は当たらんだろう。」
次郎三郎はそのまま正信に問う。
「弥八郎よ、徳川殿がこの難所を越えるとすればどの辺りが一番厄介だと思う?」
正信は地理を思い出し答えた。
「伊賀に一番近い山道、御斎峠から音羽の間ではなかろうか?」
次郎三郎が満足げな顔をして「おれもそう思う」と答えた。
次郎三郎は孫兵衛に200の鉄砲隊を率いらせ九度山から奈良に抜け、若草山を経由して家康の先回りをするように指示を出す。
孫兵衛は精鋭200の鉄砲隊を引き連れ駆けに駆けた。
月信には200の鉄砲隊をもって音羽から先の伊賀までの道のりの露払いを命ずる。
月信も孫兵衛と同じ道順を辿り次郎三郎の命令に従う。
次郎三郎と正信はその後を続くように鉄砲隊100を連れ伊賀の里に向かい出立する。
次郎三郎と孫兵衛・月信の道順の違いは孫兵衛方は伊賀者に悟らせないように、伊賀を通過させないという事である。
次郎三郎と正信は名張を抜け敢えて伊賀を経由し、伊賀で里の棟梁方と談合した後、御斎峠から音羽に向うと言う事であった。
その頃家康たちは農民の落ち武者狩りなどにあっていた。
先頭を歩く茶屋四郎次郎は農民に惜しげもなく金子をばらまき、それで撤退すればよしとし、欲をかいたものは徳川四天王の槍や刀の錆になっていた。
光秀は家康の首に高額の懸賞金をかけていた為、金で動く者は次々と現れた。
それでも京・近江を抜け山道に入ったあたりからは農民の気配が徐々に少なくなっていく。
「一体どうしたというのだ?」
家康は不安にかられる。
正成が声を低くして答える。
「間もなく伊賀の領内です。」
その瞬間一同に緊張が走る。
伊賀者はもはや金では動くまい、執念だけで家康の命を狙ってくるであろう。
家康の供回りは僅か四十余名。
伊賀者に襲われれば全員無事という訳にはいくまい。
御斎峠に入った瞬間周囲の空気が変わった。
完全に殺気に囲まれたのである。
相手の数はおおよそ200名、さしもの家康も万事休すかと思った。
「伊賀の者よ、わしが徳川家康である、覚悟は出来ておる顔を見せてはくれぬか?」
家康の問いかけに伊賀の代表数名が家康の前に現れる。
「お主には直接的な恨みは無いが、織田信長の弟分と言う事を呪いながら死ぬが良い。」
伊賀の棟梁の一人は家康に刃を突き刺そうとする。
その素早さに徳川家臣は付いて行けず家康も死を覚悟した瞬間。
ズドン!!
一発の銃声が伊賀の小頭の刀を打ち落としていた。
「何奴だ!」
伊賀の小頭の忍刀を見事打ち落としたのは布施孫兵衛であった。
「伊賀忍さんよ、このあたりでわしらを知らぬお主らではあるまい?」
伊賀の忍びはなぜ根来の傭兵が徳川家康を助けているのかさっぱりわからなかった。
「俺ら根来の傭兵部隊は頭の命令で動く集団よ!その頭の参謀殿が徳川殿を助けたいと頭に泣いて頼んだのだ、頭がそれを見過ごすはずは無いんだよ。」
先駆け部隊として200の鉄砲部隊がそれぞれ伊賀忍を標準に納めていた。
「さて、伊賀忍さんよ、どうする?今頃お頭の100の鉄砲隊が伊賀の里に向かっているが、根来と和議を結んだほうが得策じゃないのかい?」
その後すぐに伊賀上忍の藤林長門守と百地丹波の連署により伊賀者の家康襲撃中止命令が下される。
これは次郎三郎と正信の功績であった。
久方ぶりに再会する本多正信と徳川家康。
「殿、これより先はこの次郎三郎が率いる根来衆が道案内を務めます。常に周囲には鉄砲隊500が臨戦状態に入っておりますれば、ごゆるりと三河迄お戻りください。」
家康は正信に聞いた。
「お主ももうよい、徳川に戻って参れ!わしには忠義の家臣も必要であるが友もやはり必要なのだ!」
正信は涙を流しながら
「もったいなや、そのお言葉・・・」
忠勝や忠次、直政などと徳川の主だった家臣は久々にゆっくりと眠りにつくのである。
無事伊賀を越えた家康一行は伊勢の白子から船に乗り、三河の大浜へと舞い戻る。
その際伊勢から三河へと家康一行を船で運んだのが伊勢商人の角屋七郎次郎秀持という男であった。
次郎三郎は伊勢で正信と別れるつもりであった。
「弥八郎よ、俺の役目はここまでだ。今までなんだかんだ言って楽しい年月を過ごせてこられたのもお主のおかげだ、改めて礼を言う。」
次郎三郎の急な他人行儀の挨拶に尋常ならざるものを感じた正信は
「次郎三郎!!根来衆共々、家康様にお仕えしてはくれぬか!?」
次郎三郎は正信に答える
「徳川殿は三ヵ国の大大名、俺なんかが仕えなくても天下に手は届くさ。」
そこに酒井忠次が割って入る。
「それがし、徳川家筆頭家老・酒井忠次と申す、次郎三郎殿、何卒徳川に仕えてくれぬか?そなたの風貌殿の面差しを思わせるものこれあり。鉄砲隊の采配も光るものがある。殿の影として徳川の為に働いてはくれぬか?」
「わしからも是非願いたい。」
なんとそこには家康が立っていた。
「影武者云々は置いといてわしは以前、三方ヶ原の折にそなたに助けられている。根来の集団くらいはわしが面倒を見よう、どうか世良田殿、徳川にお力をお貸し願えぬか?」
家康が一介の傭兵に頭を下げたのである。
徳川の家臣たちがにわかにざわついた。
三か国の太守が一傭兵に頭を下げているのだ。
これを断れるほど次郎三郎は図々しくは無かった。
「そこまで懇願されては致し方ない、古の諸葛孔も三回懇願され仕えたと云うしな。微力ながらこの世良田次郎三郎元信、家康殿、いや今からは殿か、それと徳川家繁栄の為に死力を尽くします。」
こうして家康に瓜二つとまで謳われた影武者・世良田次郎三郎元信は誕生したのであった。
次郎三郎だけではない、根来は全滅したという形で全て徳川家に取り込まれた。
伊賀忍びはその諜報能力を高く買われ、本多正信の影の働きを一手に担う事になる。
次郎三郎が家康の影武者として初めに修練をされたのは常に家康と共に行動すると言う事であった。
家康と共に過ごし、家康と同じものを見て、同じものを食し、同じ戦略を練る事により本物の家康と見分けがつかない程の高度な家康の贋作を作り上げたのだ。
次郎三郎は元々、勘の鋭い男でもあったためか、家康のしぐさや思考を真似する事は簡単に出来たのだが、文字の習得にはかなりの時間を要した。
特に次郎三郎が苦戦したのが花押である。
花押とは現代風に言うと書類にする「サイン」であり、ペンが無かった時代、筆先などを工夫し独自の花押を作り、書状に花押を書くのが本人を確認できる証拠であった。
信長などは花押を面倒くさがり「天下布武」の印鑑で書類を済ませる事もあったが、「麟」という花押もしっかり持っており、使用していた。
生来、鉄砲しか触ってこなかった次郎三郎に筆を工夫するという感触は難儀以外の何物でもなかったのだ。
力加減一つで穂先が曲がったり、墨の付け過ぎで手紙が滲んだり、次郎三郎は長期間に渡り、文字と花押には悪戦苦闘するのである。
その甲斐があってなのか、花押や文字を代筆できるまでになった次郎三郎は家康の代理人を務められるほどに成長していた。
そんな次郎三郎の努力の結果が実を結んだ一つの事件は「小牧・長久手の戦い」であった。
天正12年(1584年)に起こったこの戦が次郎三郎にとって「徳川家康の影武者」として初めて参戦した戦である。
この戦に家康は側室の一人である阿茶の局を伴い本陣にて采配を振るっていた。
そもそもこの戦は代理戦争であった。
明智光秀を山崎で討ち取った羽柴秀吉が織田家の勢力を吸収して態度も領地も大きくなっていく中で、それを不満に思った織田信雄が当時既に戦名人と謳われた徳川家康に助力を求め起こした戦であった。
小牧長久手の戦いは織田家の後継者争いに、口を出せなかった家康にとって、信長の後継者を気取り、大きな顔をしている秀吉に対して顔に泥を塗ってやるいい機会である数少ない機会であったのだ。
秀吉は家康の戦上手を警戒しこの戦に十万近くの兵を動員していた。
対する家康は信雄の兵と合わせても三万程度の兵しか動員できず、兵力差では秀吉に有利かと思われた。
しかし秀吉の甥である羽柴秀次の武将としての無能さや羽柴家に吸収されたばかりの織田家の宿老たちの独断のおかげで家康はこの戦で勝利を拾う。
この戦で家康は本陣を全く動いていないのだが、次郎三郎が局所局所の戦場で采配を振るった為
「家康公が様々な戦場に神出鬼没している」
などという噂が流れ、次郎三郎の初陣としては上々であった。
この戦には雑賀衆や根来衆が参加していたのだが、次郎三郎は雑賀衆とは積極的に戦う事はしなかった。
しかし今根来衆と呼ばれている集団は次郎三郎たちが立ち上げた根来衆ではなく、次郎三郎たちが根来を去った後に次郎三郎たちの功績を利用し、新たに集まった盗賊の様なものであった為、容赦なく次郎三郎の鉄砲の餌食になっていった。
次郎三郎はこの頃から家康の本陣付き鉄砲頭として布施孫兵衛を傍に仕えさせていた。
そして津田月信は前線で鉄砲隊を指揮する隊長として起用されていた。
その能力を高く評価していたのは酒井忠次と本多忠勝であった。
逆に井伊直政や榊原康政などは新参者のたかが傭兵上がりの小者などと小馬鹿にするのである。
酒井忠次などはとりわけ次郎三郎を高く評価し、常々「殿を頼む」と次郎三郎に頭を下げるのだ。
次郎三郎もそんな忠次に恥じないように影武者を務めていく。
局所的に小牧長久手の戦いで勝利を拾ったとしても、大勢は羽柴家が天下を統一しようとしていた。
家康は秀吉に出来る限り抵抗をしていたが、天下に住む民の為に秀吉に膝を屈する事になる。
その後、天下の堅城である小田原城へと引き籠っていた北条氏政・氏直親子を征伐する「北条征伐」にて天下は羽柴改め豊臣家により統一され、豊臣政権の中で家康は五大老という役職に就くのであった。
ここまで読んでいただき誠に有難うございます。
誤字脱字等ございましたらご指摘いただければ幸いです。
これからも『闇に咲く「徳川葵」』をよろしくお願いします。