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柳生の暗躍

それは「駿府大火」の約1年前。

柳生宗矩は徳川秀忠の命を受け密かに影働きをしていた。

慶長けいちょう12年(1607年)


駿府の大火事で次郎三郎と秀忠の対立は表面だったものになった。


今回の話は、それより少し遡る。


それは約一年前の話であった。


徳川秀忠とくがわひでただ柳生宗矩やぎゅうむねのりを使い自分の邪魔になる徳川の家臣を陰ながら暗殺していた。


刺客が差し向けられたのは、関ヶ原にいて秀忠と共に上田城で真田昌幸さなだまさゆきに煮え湯を飲まされた榊原康政さかきばらやすまさと次郎三郎と共に本戦を戦った本多忠勝ほんだただかつの二人である。


理由は単純明快なるもので、徳川三傑とくがわさんけつの内、井伊直政いいなおまさは既にこの世を去り、家康の死を知る者は本多正信ほんだまさのぶ正純まさずみ親子と、榊原康政、そして本多忠勝のみであったからである。


その中でも康政と忠勝の二人は関ケ原の合戦の後、大津で行われた三傑と正信の4者会議の時に秀忠の気性、人柄に不満を抱き、結城秀康ゆうきひでやすを徳川家へ呼び戻し、世継ぎとすべきと主張した事が過去にあったのだ。


秀忠はその話を宗矩より報告を受けて、次郎三郎以外で殺害しておきたい相手として、康政、忠勝は既に彼の中で内定していたのだ。


秀忠は邪魔者を懐柔するという事をわずらわしいと考えており、「自分に敵対、もしくは賛同しない者は全て殺せばよい」と短絡的な思考の持ち主であった。


次郎三郎は秀忠が柳生忍びを使って、忠勝や康政を狙っている事を風魔の報告により既に知っていた為、忠勝に居城の改築を強く勧めた。


平八郎へいはちろう(忠勝の事)、伊勢桑名いせくわなの城には必ず忍び返しの工夫を施せ。」


次郎三郎は忠勝を必死に説得する。


「次郎三郎よ、わしはいくさ人であるぞ?忍びが怖くていくさ人が務まると思うのか?」


忠勝は生涯、大小を合わせ約57回の戦に参陣したが、かすり傷一つ負った事が無いと言われる程の猛将で、豊臣秀吉からは「日ノ本第一、古今独歩ここんどっぽの勇士」などと讃えられた武士であった。


「平八郎、柳生を決して侮ってはならぬ。奴らは忍びと言うより一人一人が剣術の使い手、いくら平八郎と言えど数で攻められれば数名の剣客を一度に相手にするのは難しかろう?」


忠勝は次郎三郎の再三再四さいさんさいしの要請に対し居城の忍び返しの設置を渋々了承し、桑名の城には小太郎特製の忍び返しが施された。


次郎三郎は同じ忠告を榊原康政にもした。


しかし康政は次郎三郎の言葉など歯牙にもかけなかった。


「一介の影武者が差し出がましい口を挟むな。」


康政は次郎三郎よりも信州上田で共に真田に煮え湯を飲まされ関ヶ原に遅参した秀忠を自分達で世継ぎと決めたのだから、そんな自分たちを秀忠が暗殺する理由が無い、と完全に秀忠を信じていたのだ。


この二者の決断は正に彼らの命運を分ける事になった。


慶長11年(1606年)


駿府城の落成前に面倒事を片付けたかった秀忠はいよいよ宗矩に康政と忠勝の暗殺を命じる。


「駿府の城が落成した後は容易に次郎三郎に手が出せなくなる。その前に老臣にはご退場願おう。」


秀忠はにやりと笑いながら宗矩に告げる。


「畏まりました」


宗矩は秀忠の言う事に異を唱えることは無かった、いや出来なかった。


宗矩からすれば秀忠だけが自分を認めてくれる立身出世の道なのだ。


命令を拒否する権利や異を唱える権利は自分には無いし、もはや秀忠とは一蓮托生であると考えていたのだ。


暗殺計画は秀忠と宗矩だけで練られた。


ここに天海が居れば


「余計な事はせずとも、あの老人たちは上様の存命中には亡くなりましょうぞ?」


などと言って「余計な事をするな」と言っていたに違いない。


しかし秀忠は、大津で開かれた4者会議の時に康政と忠勝が「結城秀康」を推薦した事がどうしても許せなかったのだ。


その4者会議とて1600年に行われたものでもはや6年も前の事。


結局は徳川家の世子は秀忠に決まったのだから今更暗殺する必要も全くないのだが、それは秀忠の小さな自尊心が許さなかった。


「必ず、奴らに死を以ってあの時の無礼を後悔させてやろうぞ」


秀忠はその根が暗い性格と6年経っても恨みを忘れられないしつこい性格だけで康政と忠勝の暗殺を決定したのであった。


宗矩は慶長11年(1606年)4月末日、柳生忍びを忠勝の居る桑名と康政の居る館林たてばやしに10名ずつ送った。


榊原康政は、元々徳川家の陪臣ばいしんの出であった。


陪臣とは直臣じきしんの家臣という意味である。


榊原氏は元来、酒井忠尚さかいただなおという徳川家臣の家臣であった。


康政が徳川家康に気に入られ、小姓となり、三河一向一揆の際に初陣で軍功を立て「康」の字を賜り「康政」となった時に初めて康政が家康の直臣になったと言えよう。


その前までは「亀丸」など幼名で呼ばれる事が多かったが、他にあだ名として「小平太」と呼ばれることもあった。


その後、榊原家は康政の兄である、榊原清政さかきばらきよまさが家督を相続していたところを康政が家督を継ぐ事になる。


これには様々な事情があった。


清政は松平信康まつだいらのぶやす傅役もりやく(後見人)であり、信康事件の後、自責の念から気鬱きうつの病にかかり隠居した為、康政がこれを引き継ぐことになったのだ。


陪臣出身の榊原康政にとって信頼できる直臣と呼べる者は元々榊原家に仕えていた「竹尾隼人たけおはやと」という者程度しかおらず、館林城主となる際には榊原氏と竹尾氏のみでは領国経営が困難になる為、本多正信より「中根長重なかねながしげ」「原田種政はらだたねまさ」「村上吉春むらかみよしはる」といった三名の家老が派遣された。


康政は派遣されたこの三家老を信頼してはいなかった。


三家老というよりも、本多正信を疑っていたと言った方が正しかった。


そんな三家老も自分たちが何故だか分からないが、康政から信頼されていない事を肌で感じ、決して康政を快くは思っていなかった。


信頼関係がガタガタな榊原家には康政の為に命を投げ出そうという家臣は竹尾隼人くらいのものである。


5月に入り、その日は月明かりが照らし出す明るい夜である。


忍びというのは本来、新月の真っ暗な闇夜を選び暗殺を決行するが、柳生忍びの事前調査の結果、館林には忍び返しおろか、忍びを警戒しているそぶりも全く無かったので、仕事を出来るだけ迅速に済ませようと柳生忍び達がこの日を選んだ。


柳生忍びは館林城の外堀である城沼から4名を選び、4名は沼の中を泳ぎ本丸へと向かった。


残りの6名を3名と3名に分け片方の3名は土橋門、残りの3名は大手門で騒ぎを起こし囮となった。


大手門の3名が騒ぎを起こしているうちに土橋門から3名が館林に侵入、二の丸を目指す。


城沼を抜けた4名は低台地から本丸へと侵入し康政の寝所を目指した。


二の丸に入った3名はここでもまた騒ぎを起こし囮となる。


こうして2段階に分けて囮を使った柳生衆は見事に館林城の攪乱かくらんに成功する。


康政は寝所にて騒ぎの喧騒を聞きつけ宿直とのいの者を呼び出す。


「誰ぞある?」


康政の声に反応したのは宿直の者では無く見知らぬ男達であった。


「何者か?」康政は枕元に置いてあった刀を取り曲者に尋ねた。


忍びは何も言わずに「九箇之太刀くかのたち逆風ぎゃくふう」の構えを取る。


康政は驚き目を見開いた。


「お主、柳生か!!」


次郎三郎の言ったとおりになった。


本来忍びは剣術の構えなど取らない。


忍びはいかに効率的に相手を殺すかが重要であり、初手から刀で殺す事などまず考えないのだ。


ある忍びによっては気付かぬ内に薬を嗅がされたり、ある忍びは吹き矢などで毒を喰らわせたり、とにかく刀は相手に抵抗された時に身を護るために使い、初手から必勝の策として刀を抜く事は少ないのだ。


それに比べ柳生忍びは、当然忍びである前に「剣士」なのである。


彼らにとって刀が必勝の道具であり、ましてや構えなど取る忍びは柳生新陰流から忍びになった柳生忍びくらいのものであった。


柳生忍びは何も言わず康政との距離を少しずつ詰めてゆく。


榊原康政とて腕に覚えが無いわけではなかった。


死線は何度も潜っているし、剣術とて洗練されたものでは無いが、戦場で使う「介者剣術かいしゃけんじゅつ」も十分に使えた。


介者剣術とは戦場に於いて、甲冑を着た武将同士が甲冑の隙間を狙い相手を殺害する為に編み出された剣術で、主に腰を深く落とし急所という急所に狙い定めて斬るか刺すというのが殆どである。


急所とは大きく分けて「目・首・脇の下・金的・内腿うちもも・手首」の六ケ所であった。


康政は腰を深く落とし介者剣術の構えを取った。


康政の狙いは首である。


おあつらえ向きに今宵は満月では無いが月明かりが照らす明るい夜であった、それが康政から柳生忍びの急所が見えやすくしたのだ。


これが闇夜であれば下半身の金的か太腿を先に斬りつけ止めを刺すところであるが、逆風の太刀の構えがどういう剣筋であるかを康政に簡単に予測させたため首を狙う事に決めたのだ。


康政の寝所はそこまで広くない故、柳生忍びは4名いたが、部屋の中で戦えるのは精々二人か三人、手順さえ間違えなければ十分に勝てる数である。


康政は腰を深く落としたまま息を一度深く吐き、その後大きく息を吸い、凄まじい殺気を放つ。


逆風の構えを取っていた柳生の忍びはピリピリと感じる康政の殺気を感じとり、己の間合いに誘い込むように一定の距離で康政を焦らす。


逆風の構えは大きく右斜め後ろに刀を振り上げる構え故に、そこから繰り出される袈裟切りは相手の目を見ていれば剣筋は読みやすく、振り下ろした瞬間に康政が首を狙う事は柳生の忍びにもわかっていた。


康政は改めて柳生が構えを変えない事に余裕を感じてしまう。


その余裕が康政の致命的な失敗であった。


「小童が、その刀を振り下ろした瞬間に、そのそっ首ねじ切ってくれよう!」


心の中で既に勝敗は決まったと康政はほくそ笑む。


康政この時58歳、今まで剣術など介者剣術以外に見た事も無かったし使った事も無かった。


人間は歳を取るごとに新しいものを認めていく事は難しくなってゆく。


特に剣術など、ずっと介者剣術しか知らなかった康政が、ごく最近秀忠に近づいた柳生の剣術など知るはずもなく、また知りたいとも思わなかった。


「若造が!戦場の恐ろしさを教えてくれるわッ!!」


焦れる康政をよそに柳生忍びは頃合いを見計らっていた。


即ち康政が焦れに焦れて攻撃を仕掛けてくる前を狙っていたのだ。


逆風は大きく振りかぶり敵に隙を見せ、反撃を仕掛けてくる所に本当の攻撃を仕掛けるという技であった。


だからこそ康政がれればれるほど介者剣術という一撃必殺の剣術使いの康政はあせりからその必殺の一撃を外す可能性が高くなり、柳生にとって有利な状況になっていくのだ。


「年寄りめ、なかなかよくれて来たな?そろそろ頃合いか?」


柳生の忍びは一つ目の太刀を放った。


上段右斜め後ろからの大振りの袈裟切けさぎりりである。


康政は満面の笑みを浮かべた。


阿呆あほうが!!本当に切り込んで来おったわ!!」


心の中で叫びながら、気合いを入れた康政は下半身のバネを使い真っ直ぐ柳生の首に刀を差し込もうとする。


が、次の瞬間。


康政の両手首がゴロリと床に落ちていた。


「な!?」


康政には何が起こったか全く理解できなかった。


周りの柳生が勝負に参戦した様子もない。


なぜ自分の両手首が床に落ちているのか。


「なぜ?」


これが康政の最期の言葉となる。


次の瞬間4方から柳生の忍びが一斉に榊原康政を刺し殺したのだ。


康政は口から血の泡を吐き絶命した。


榊原康政の壮絶な死は秘匿され、公儀には「ちょう(現代医学では毛嚢炎もうのうえん)」の悪化で亡くなったと報告された。


館林の榊原家は次郎三郎の計らいにより家督は康政の3男である康勝やすかつが継ぐ事になる。


一方、桑野へ赴いた柳生忍びは全滅していた。


風魔小太郎肝入りの忍び返しが功を奏し、次々と柳生忍びは身動きが取れなくなり、激怒した忠勝は全ての柳生忍びを自らの手に名槍「蜻蛉切とんぼきり」を握りこれを全て殺害し、そのまま首を腐らぬように塩漬けにし、江戸の秀忠に使いを寄越した。


使いが言上するには


「忠勝を狙った不届き者を自らの手で成敗する故、首実検をしたい!」


と言い出したのである。


徳川家にとって本多忠勝は功臣と云うだけではなく、柱石でもある。


そんな忠勝の申し出はもっともであり、逆に忠勝を狙った不届き者を徳川家が調べないとなると逆に怪しまれるのは必定ひつじょうであった。


秀忠も宗矩もまさか「私たちがやりました」などと口が裂けても言えない。


しかし、自分たちには忠勝の怒りを解く事は到底できない。


「宗矩!!なぜこのような事態になった!!康政の方は成功して忠勝が失敗するとは何事か!!慢心があったのか!!」


宗矩は汗をかきながら謝罪する事しかできなかった。


「桑名の城には高度な忍び返しがついていたとの報告が・・・」


宗矩が言い訳がましく秀忠に報告していたら笑いながら天海が入ってきた。


「上様、おいたが過ぎましたなぁ?」


秀忠にはこのにやにや笑いながら髭を撫でる老人が最初からすべて知っていたのではないかと思えてならなかった。


「天海よ、そう言うからには何か良い策はあるのか?」


天海は笑いながら答える。


「正信をお使いなされ、正信に大御所を説得させれば事は平らかになりましょうぞ?」


秀忠にはにわかに信じられなかった。


「その程度の事で忠勝の怒りが収まると申すか?」


天海は目を見開き秀忠を見据え答えた。


「わしの言う事が信用できませぬかな?」


秀忠は背筋に寒いものを感じ「そちの言う通りにしよう」と言うのであった。


天海が「そうじゃ!」と思いついたように言う。


「此度の事で上様に於かれましては、かなりの屈辱をお受けになるかと思いますが何があっても辛抱なされませ?辛抱出来なくば秀忠将軍の時代は終わりを告げましょうぞ?」


秀忠の顔が青くなった。


辛抱出来なければ秀忠将軍の時代が終わる?それは自分の命が終わるという事になるではないか!


自分の命が終わっても徳川の政権が終わらないと天海は暗に言っていた。


天海は「源氏の長者」が次郎三郎であるが故、秀忠の様な小童が一人死んでも代わりの将軍を立てれば良いというのだ。


天海はまたこうも言った。


「上様が亡くなるという事は柳生宗矩殿もただではすむまい?柳生の里は「伊賀になるやも」知れぬなぁ?」


天海は宗矩も脅しておいた。


「伊賀になるやも」という事は暗に「柳生の里殲滅作戦」を意味していた。


宗矩も顔を青くし押し黙ってしまう。


天海は部屋を出る前に


はかりごととは誰にも気づかれず、また気づかれた時にはそこで何があったのか判らなくなっていなければなりませぬ。今後は何事もこの坊主に相談あれ?」


秀忠も宗矩も顔を真っ青にして俯いているだけなので、聞いているのか聞いていないのかよくわからなかったが天海は笑いながらその場を後にするのであった。


次の日、秀忠は本多正信を呼び事の次第を詳らかに話した。


正信は内心「またか」と思ったのと同時に康政の無念の死を悼んだ。


「この御方は物事の善悪というものが解らないのか?しかしこのしつこさ、これは上様ゆずりだな。」


正信は一言「畏まりました」と告げ伏見へと早馬を走らせた。


伏見の次郎三郎は「やはりあの馬鹿息子はやりおったか」と呟き


「桑名の平八郎の所へ参る」


と告げ伏見を出立する。


桑名では本多忠勝が正にいくさ支度をしている最中であった。


次郎三郎もいくさに於いては即決断するが、忠勝も大概であった。


「平八郎、誰といくさをするつもりかね?」


忠勝が次郎三郎の急な来訪に「じろう!」と言いかけ


「これは大御所様!かような所においでになるとは!」


と驚きながら次郎三郎を歓迎する。


「これ、平八郎、今はわしが質問をしておるのだ?このいくさ支度は如何いたした?」


と再度質問する。


忠勝は次郎三郎に事の次第を説明した。


「なるほど、首を塩漬けにしたか。それは下手人はさぞかし肝を冷やしておるのう。」


と笑い、忠勝を茶室に連れていく。


風魔忍びに茶室の周囲を警護させ事の本題の話をしようとした。


「しかし!次郎三郎のおかげでわしは九死に一生を得たのだな。聞けば康政も身罷みまかったそうではないか?」


次郎三郎は真実を告げる。


「平八郎よ、そなたを狙ったのは秀忠殿だ。お主の持っている塩漬けの首の全ては素性を洗えば柳生の里の者であろう。」


忠勝は次郎三郎の言葉に驚いた、確かに忍び返しをつけろと言ったのは次郎三郎なのだから誰が自分を狙っているかを知っていてもおかしくは無かったのだ。


「何故それを先に言わなかった!知っていれば康政とて」


と言いかけてやめた。


忠勝も次郎三郎が康政に対し再三再四、館林の城に忍び返しをつけるように説得していたのを思い出したのだ。


「しかし何故だ!なぜ秀忠様が我らを殺害に及ばねばならぬ!?」


次郎三郎は答える


「秀忠殿は外堀を埋めようとしているのよ。」


忠勝が「外堀?」と聞く


「上様が戦死された事を知っているのはその場にいたわしと、弥八郎、平八郎、直政殿、康政殿、それから弥八郎の倅であろう?」


忠勝が頷く。


「今迄、心配をかけまいと黙っていたがわしの所には何度も柳生が来ておる。」


忠勝は次郎三郎の衝撃の告白に驚きを隠せなかった。


「秀忠殿はどうやら人に言う事を聞かせる方法を暗殺や脅迫しか知らぬらしい。」


次郎三郎は少し俯き加減で悲しそうに忠勝にそう告げた。


忠勝は驚きを隠せなかった。


関ケ原の合戦から6年の年月が経ち、次郎三郎の征夷大将軍就任も決まり、無事に江戸幕府を開くことが出来た。


その後、秀忠に将軍職を譲るという自分たちが大津で会議した家康亡き後の徳川家の展望がそのまま実現していたので、次郎三郎は上手くやっているのだと思っていた。


いやそう思い込んで思考を停止していた。


自分は幕府の中枢からいつの間にか伊勢桑名に追いやられ、これからの徳川家に自分は必要ないと暗に言われた気がして半ばいじけていたのだ。


そんな間にも次郎三郎は秀忠の執拗な攻撃にしたたかに抵抗し、ここまで綱渡りの様な人生を徳川家の為に捧げてくれていたのだ。


元はと言えば自分が次郎三郎を家康の代わりとして使うと言い出したのではないか。


「次郎三郎、まことにすまなかった。」


忠勝は涙していた。


己の次郎三郎への配慮の足りなさを嘆いたのだ。


「平八郎、わしはお主の様な漢を失いたくはない。」


次郎三郎は忠勝にそう言った、それは暗にこのいくさ支度を解き「下手人」探しをやめろと言っていた。


「わかった。」


忠勝は一言答え、外の家臣にいくさ支度を即刻やめさせた。


「ときに次郎三郎よ、首はどうする?」


忠勝が次郎三郎に問いかけたので、次郎三郎は答えた。


「柳生には一度釘を刺さねばなるまいな。」


次郎三郎は江戸の方を鋭く睨みつけた。


後日、次郎三郎は本多忠勝を伴い突如江戸城を訪問した。


急な大御所と本多忠勝の訪問に江戸城内は大急ぎで歓待の支度をしていた。


そんな最中、次郎三郎と本多忠勝の訪問の理由を知っている秀忠と宗矩は生きた心地がしなかった。


天海は「我慢をすれば命はとられますまい」と言っていたが次郎三郎と忠勝がどう出るか正直全くわからなかったのだ。


秀忠は脂汗をかきながら次郎三郎に尋ねる。


「大御所様に於かれましては此度の急な訪問、如何なる事でしょうか?」


次郎三郎は秀忠の脂汗を見ながら答えた。


「なんじゃ?わしが江戸を訪問するのに理由が必要か?」


などと言い出す始末。


秀忠は「影武者の分際で偉そうに!」と心の中で毒づくが


「しかし此度は珍しくも忠勝を供に江戸に来られるとは何か尋常ならぬ事態でもありましたかと城中心穏やかならざるものがあります。」


秀忠は答えはわかりきっているが次郎三郎の解答がわからない質問をするのが怖くて仕方がなかった。


そんな秀忠を横目で見た次郎三郎は忠勝を名指しして答える。


「この度、平八郎の命を狙った不届き者がおってな?なんと平八郎が見事その手で討ち取り、首を塩漬けにしたというので、その方達にも後学の為に見せてやろうと思うてな?」


と次郎三郎は忠勝と目配せをしてにやりと笑った。


「この老いぼれ共め!そんな余計な事をしに江戸までわざわざ来るな!!」


と秀忠は心の中で叫び、口では


「これは、古今無双の本多忠勝に討ち取られたとあればその曲者共も地獄の鬼に対してもさぞ鼻が高いでしょうなぁ!」


などと心にもない事を口にする。


次郎三郎は満面の笑みで「そうだろう、そうだろう」と言いながら首を運ばせた。


本多正信、正純親子や大久保忠隣などは敵将の首など見慣れたものであったので黙って見ていたが、青山忠俊あおやまただとし酒井忠世さかいただよ土井利勝どいとしかつ等と云った主に政に携わる人間には刺激が強かったのか顔が若干青くなっていた。


そんな中で一等青い顔をしていたのが柳生宗矩である。


10名の首は柳生道場の門弟達の首に相違なかった。


「宗矩?如何いたした?そなたの陰険な顔が青くなり幽鬼の如くなっておるぞ?」


次郎三郎が問いかける。


「大御所様、お戯れを。」


急いで秀忠がとりなした。


「宗矩よ?何か言いたい事があるなら言うが良い?わしが直に聞いてつかわすぞ?」


宗矩はその場で頭を打ち付け死んでしまいたい気持ちになる。


しかし今ここで、次郎三郎の挑発に乗ってしまえばここに並んだ10の首にも申し訳が立たないと思いなおし


「いえ、私からは大御所様に対し奉り言上すべき事はござりませぬ。」


心の中で血の涙を流しながら10の首に謝罪した。


また次郎三郎の挑発に乗らなかった宗矩の我慢を秀忠は心の中で大いに褒めた。


次郎三郎は柳生の意外な心胆を知り、少々驚きながらも


「こやつらは柳生新陰流を名乗り、また剣術を扱ったそうであるが、宗矩よ、まことその方には見覚えは無いという事で相違あるまいな?」


次郎三郎は最後の念を押す。


「はい相違ござりませぬ、恐らくは柳生新陰流を語った者と思われます、しかし暗殺者に柳生新陰流の名を使われるのは柳生の恥、改易はおろか死罪も免れないと覚悟しております。」


宗矩は頭を垂れて震えながら答えた。


これは宗矩の完全降伏を意味していた。


次郎三郎はこれ以上の詮索は秀忠の心に余計な荒波を立てると察した為、最後の釘を刺しておく。


「ならば此度の不始末は名を語られた柳生にある。が、それを取り立てたのは秀忠だ。」


その言葉を聞いた宗矩は「上様には関わりの無い事!」と言いかけるが次郎三郎は冷徹な顔をして言い放った


「その方は黙れ。」


その言葉には宗矩はもちろんの事であるが、宗矩だけではなく秀忠含めその場にいた全員が凍り付いたかのように静かになった。


そんな中、正信が口を開く。


「大御所はこうおっしゃりたいのでしょう?柳生家の名を語らせた切っ掛けは上様、ひいては徳川家にも責めがある故、柳生殿の罪は差し許すが、柳生の名を悪しき輩に利用されるとも限らぬゆえ、今後の立身出世は一切認めぬ、と。」


しんと静まり返った場に次郎三郎は一人大笑いし


「さすがは弥八郎である!わしの心をよく読んだな!!」


と落としどころを正信に決めさせたのだ。


これで秀忠と宗矩は正信に恩を受けた事になる。


次郎三郎の一石二鳥の大演技が無事終了した。


その後次郎三郎は弥八郎と平八郎と共に酒を酌み交わした。


「康政殿には気の毒な事をした。」


次郎三郎が本当に申し訳なさそうに言う。


「いや、わしが秀忠様と宗矩の動きを掴めなかったからだ」


正信も後悔の念が押し寄せる。


「わしは今まで何も知らずにお主らに大役ばかり押し付けて、桑名で腐っていたのだな。」


忠勝は申し訳なさそうに言った。


「いや、平八郎、そうではない。上様もあの世でそなたに何度も救われた事、功績に感謝した故、老後くらいは安穏と過ごせと時間を下されたのだ。」


次郎三郎は忠勝にそう言い聞かせる。


忠勝は「上様か」と言い、涙を流す。


「しかし次郎三郎!あの急な物言い!いつの間に弥八郎と打ち合わせたのだ!?」


忠勝は不思議でならなかった、江戸に来てから次郎三郎とは殆ど一緒に居たはずだが弥八郎の姿を見てはいなかった。


「あぁ、あれか、あれはな弥八郎ならばああ言うと思ったのよ」


と笑いながら正信を見た。


正信は忌々し気に酒をあおった。


忠勝はこの二人の絆の深さを改めて思い知らされたのだ。


「羨ましくもあるな。」


ぼそりと呟く忠勝に次郎三郎が「なんだって?」と聞き返すが忠勝は「何でもない!」と言い江戸の夜は更けていった。


秀忠は宗矩と二人で密談していた。


「宗矩よ、大御所の言った事は気に致すな。これからも影働きはそちに任せる。」


宗矩は驚いた顔をして


「宜しいのでしょうか?」


と秀忠に確認した。


秀忠は「あぁ」と答え宗矩に一言ではあるが約束をする。


「大御所が生きてる内の加増は諦めよ。その分、影の扶持ふち(武士の給料)を増やす故、これからもわしの為に励んでくれ。」


宗矩は頭を深く下げ秀忠に「畏まりました」と答えるのであった。


こうして柳生宗矩は次郎三郎が生きている間に出世加増されることは無かったのである。


そして慶長12年(1607年)柳生宗矩は駿府城を焼くだけでは飽き足らず、秀忠の為に大仕事を成し遂げるのであった。

ここまで読んでいただき誠にありがとうございます。

誤字脱字等ありましたらご指摘頂ければ幸いです。

これからも『闇に咲く「徳川葵」』をよろしくお願いします。

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