ウィリアム・アダムス
徳川家康がその人柄を気に入り傍に置いた外国人「ウィリアム・アダムス」
彼はどういった経緯で日本にやってきたのか?
次郎三郎はとある外国人を傍に置き、世界の事を学んでいた。
彼の名は「ウィリアム・アダムス」というイングランド人航海士であった。
彼は生来、陸の上よりも海の上の生活が長く、家にもなかなか寄り付かない人物であった。
あるとき、オランダ人船乗りと意気投合し、アダムスはオランダ南のロッテルダムから極東を目指すという大航海の参加に志願した。
しかし、極東を目指す航海は意の如くならず、ある船は拿捕され、ある船は隊列よりはぐれロッテルダムに引き返し、ある船はインディオ(アメリカ先住民)より攻撃を受け、いよいよアダムスの乗船「リーフデ号」のみが極東を目指すという事態になってしまった。
その「リーフデ号」内も「赤痢」や「壊血病」が蔓延し、日に日に船員は死んでいき、出港時には110名程いた乗組員は日本に漂着した頃にはわずか24名しかいないという悲惨な状況であった。
関ヶ原の合戦が起こる約半年前に豊後臼杵(現在の大分県辺り)の黒島に漂着したリーフデ号の船員を臼杵城主が捕縛し、当時の長崎奉行であった寺沢広高に通報する。
広高はリーフデ号の武装をすべて回収し、大坂城の豊臣秀頼に伺いを立てた。
しかし豊臣秀頼は幼少にて、五大老首座の徳川家康が会合を行った。
この家康の動きに過敏に反応したのがイエズス会の宣教師たちである。
イエズス会の宣教師たちはリーフデ号の船員の即刻処刑を大坂の豊臣家へ求めた。
理由は簡単であったリーフデ号に乗る「オランダ人」や「イングランド人」は「プロテスタント」であるからだ。
イエズス会の宣教師はリーフデ号を海賊船と虚偽の報告をし、家康も武器弾薬が積んであったため容易ならざる船であると考えていたのだ。
リーフデ号からは重体で動く事の出来ない船長に代わりウイリアム・アダムスと数名が家康との会見に臨んだ。
アダムスは宣教師ではない故に宗教派閥の話を詳らかに家康に報告した。
いわゆる「カトリック」と「プロテスタント」の宗教戦争である。
もともと日本に宣教運動を行っていた南蛮人にとってリーフデ号の船員は日本に「プロテスタント」を持ち込む可能性を持った「海賊」であったのだ。
執拗に処刑を求める宣教師たちを黙殺し、家康はリーフデ号の船員を江戸へと招きこれを護送する。
彼らは「南蛮人」と区別をつける為に「紅毛人」と呼ばれる事となる。
家康は彼らの知識を以って信長の果たせなかった世界へと羽ばたこうと考えていたのだ。
しかし、関ヶ原で志半ばにして無念にも命を落とした家康ではあったが、後を継いだ次郎三郎もこのアダムスを大層気に入り、手元に置いて「幾何学」「数学」「航海術」などを熱心に学んだ。
やがて、江戸湾に停泊していたリーフデ号は沈没すると、アダムスは船大工としての経験も買われ、西洋式帆船の建造の要請を次郎三郎から受ける。
航海士として長い時を過ごしていたアダムスは造船技術の現場から遠ざかっていた為、いったん断るが、次郎三郎の再三の要請を請け、現在の伊東に日本初の造船ドッグを建設し手始めに80tの帆船を建造した。
これに気を良くした次郎三郎はアダムスにさらに大きな帆船を作るように指示する。
アダムスは次郎三郎の要請に応え慶長12年(1607年)に120tの船舶を完成させた。
このアダムスの功績を次郎三郎は認め、アダムスを250石の旗本に取り立て、帯刀を許したのみならず相模国逸見に領地を与えた。
次郎三郎はアダムスを自らの側近として、海外の使者との通訳や貿易の仲介を一手に任せた。
ウイリアム・アダムスという名も日本名として「三浦按針」という名を与え、日本人として扱った。
こうして三浦按針は異国人として士分に取り立てられるという複雑な人生を送る事となる。
次郎三郎はまだ見ぬ大海の外の世界に思いをはせていた。
江戸に作らせた120tの大型船には「サン・ブエナ・ベントゥーラ号」と名付けられ、出港の日をただ静かに待っていた。
次郎三郎は上に立つ者としての自覚からなのか、それとも単に興味を持っただけなのか自分でもわからなかったが、何より客観的な態度を内外に示すために南蛮人も側近として傍に置いていた。
その者の名は「ルイス・ソテロ」である。
ソテロはアダムスの様な単なる技術者とは根本から違っており、根っからの「宣教師」であった。
ソテロは他の宣教師と同じく、「カトリック以外は悪魔の宗教」という考えを持っており、またそれを恥ずかしげもなく布教していた。
次郎三郎は、基本的に誰がどの宗教を信心しても構わない、という考え方であった為、ソテロの過激な教えには、若干辟易しており、技術家で宗教色が無いアダムスと比べるとどうしてもソテロの方が見劣りしてしまうのであった。
ソテロは次郎三郎の他に奥州の伊達政宗の知己を得て、特にオルガンティノと細川ガラシャに簡単なキリスト教の教えを受けていた五郎八姫を熱心に勧誘し、入信にまでこぎつけていた。
しかし五郎八姫は松平家の嫁としての立場もあり、洗礼名を受けずにその教えだけを受け継ぐ形となっていた。
夫である忠輝も「五郎八が良いならそれで良い」と五郎八の意思を尊重した。
ソテロは忠輝も共にキリスト教へ入信させようと画策するが、忠輝はキリスト教徒が様々な宗派に分れ、宗教戦争をしているという内情を知っており、「日本の仏教と何ら変わりがない。」と言い入信を断っていた。
かといって忠輝はキリスト教徒を他の仏教と差別する事無く、己の領地では「信教の自由」を領民に約束していた為、キリシタン民衆からは密かに「キリシタンの救いの星」などとあだ名されるようになっていく。
こういった忠輝の器の大きさは後々大きな事件を引き起こすのであるが、今の忠輝や次郎三郎、ルイス・ソテロにそれを知る由は無かった。
また次郎三郎の宗教に対する考えは、どの宗教も自分の派閥の信者を増やすために何でもする「俗世にまみれた亡者共の集まり」でしかなかった。
逆にそういった宗教の力を利用するが如く、臨済宗は崇伝に任せ、天台宗は天海の手の内であった為にあえて手は付けず、キリスト教に至ってはカトリックはソテロに、プロテスタントは一応の信者であったアダムスに仲介を任せ自らは関心がなかった。
また、信長の執拗な攻撃により弱体化した本願寺は顕如の息子達に西と東に分けさせ互に競わせる事により、政治への干渉力を皆無とし、神道顧問としては神龍院梵舜を命じた。
伊勢長島の一向一揆の経験から宗教の過剰な政治介入を嫌った次郎三郎は共に伊勢長島の一向一揆で戦った本多正信と共に政教分離を進めるのであった。
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これからも『闇に咲く「徳川葵」』をよろしくお願いします。




