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左近の覚悟

娘婿たる柳生利厳やぎゅうとしよしの壮絶な戦ぶりを耳にした左近はある決断をする。

左近の決断とは一体…。

「江戸に手の者を送り込む!!」


駿府の火事は収まったが、利厳としよしの悲しみや、柳生衆の怨みや悲しみを汲み取った次郎三郎は江戸の秀忠や天海の所業に烈火の如く立腹し、正純を抜いた側近たちに告げた。


小太郎が慌てて片膝を頭を垂れて諫言する。


「大御所!我らが手の者と申されましても、一体どなたを送られる所存でしょうや?」


次郎三郎にとって、そこが一番の悩みどころであった。


江戸に送るとは即ち「死地しち」に送り出すということ。


それに敵は秀忠や柳生宗矩やぎゅうむねのりの様な小童こわっぱではなく千軍万馬せんぐんばんば戦上手いくさじょうずである明智光秀あけちみつひでなのだ。


元来、根っからの戦国武将ではない次郎三郎には、とても仲間に「死んでくれ」という命令は出せなかった。


戦国武将は元々リアリストである。


家を守る為になら何でもするのが戦国武将なのだ。


お家安泰の為なら死ぬ事も厭わない、また家臣にも自然に「死んでくれ」と命令できるのが当たり前なのが戦国の時代であり、戦国武将であったのだ。


先の例とし徳川家康とくがわいえやす鳥居元忠とりいもとただが伏見の城で今生の別れを交わした時にも、きちんと元忠亡き後、徳川家が元忠の忠義に報い、必ず鳥居家に対し徳川は恩を忘れない、だから徳川の為に柱石となってくれと元忠と暗に約束をしたものなのであった。


次郎三郎には寄る辺になる家がない。


徳川家は秀忠が当主であり、次郎三郎はあくまで家康の一影武者に過ぎない。


後陽成天皇に「淳和奨学両院別当じゅんなしょうがくりょういんべっとう」の身分を与えられたとて、諸大名は「家康」が一番恐ろしいのであり、家康が死んだとわかれば天下は麻の如く乱れるのは必定であり、どうしても次郎三郎の信頼できる仲間は「左近」「六郎」「風魔衆」「側室衆」のみとなってしまい、その誰かを江戸に送るとなると次郎三郎にはたやすく選ぶことが出来なかったのだ。


そんなやり取りをしていたら箱根山より風魔歩兵20を引き連れた左近が本陣に戻った。


「大御所、ただ今戻りました!戦勝をし奉ります!!おや?なにやら勝ち戦には似合わぬ空気だが、何か問題がありましたかな?」


不思議そうに尋ねる左近に小太郎が詳細を説明する。


「そうでしたか、婿殿(柳生利厳やぎゅうとしよし)が泣いておりましたか。」


左近は空を仰ぎ見、「婿殿には悪い事をしたやも知れぬな」と、利厳の向かった方向を眺め心の中で「すまぬ婿殿」と呟き頭を垂れた。


そして左近は次郎三郎の提案に対し、意を決して進言する。


「大御所、江戸へはそれがしが参りたく存じます。」


即決即断の左近が口にした言葉に皆が驚いた。


「殿!」


六郎が思わず左近を諫める様に叫ぶ。


そんな六郎を左近が叱咤しったした。


「お主の殿は大御所であろう!!心得違こころえちがいをいたすな!それにな、わしもただ無駄死にに行くわけではない。」


そんな左近を次郎三郎も止める。


「左近殿、まこと嬉しい申し出ではあるが、そなたの顔はちと売れすぎておる。特に徳川家馴染みの諸将にとって、左近殿の顔は忘れたくても忘れられぬ心の傷になっておる者もおる。」


関ヶ原での左近の奮迅の様相は悪鬼羅刹と云っても過言ではない程の戦ぶりであった。


関ヶ原が終わり7年経った今でも直接戦闘をした黒田家家臣の中には左近の夢にうなされる者も少なくは無かった。


そんな次郎三郎や六郎の言葉を聞いた左近が急に「にやり」と笑顔になり、次郎三郎達に言う。


「大御所、この左近に一計あり。」


左近は娘婿たる利厳が、「己の心」を斬る想いで本来は家族である柳生の里の者達を斬った「心」を決して無駄にすまい、と己自身を殺す決意をしたのだ。


「小太郎殿、以前、風魔の術に人の顔を変える術があると申されたな?」


小太郎は左近のその言葉にハッとし、左近に問う。


「まさか左近殿、お顔を変えられるおつもりか?」


左近は以前に風魔の里にて小太郎が「お顔を変えられますかな?」と軽口程度に聞いた質問に「何気ない顔だが50年来の付き合い故、変えるつもりはない」と小太郎の申し出を断った事を思い出す。


「あぁ、その心づもりだ。折角顔を変えるのだ、身分や名も一新しよう。天下に名高い知将、明智惟任日向守光秀あけちこれとうひゅうがのかみみつひで殿と戦が出来るのだ。ならば奴が身分を僧侶に変えたように、わしは顔だけではなく、身分と名も変え、光秀と同じ土俵に立って戦ってやる。それがひいては大御所の為になり、婿殿への報いともなろう。」


次郎三郎はその言葉に驚き左近に問う。


「左近殿はまさか僧侶になるおつもりか!?」


左近が「左様」と答える、その目は燃えており、もはや決心を固めた漢の目であった。


己も信長公を狙撃する時、この様な目をしていたのであろうか?それならば弥八郎やはちろう本多正信ほんだまさのぶの事)がわしを止め立てしなかったのも無理はない。


次郎三郎は左近の目を見てもはや何を言っても意味がなさない事を知り、自分に出来る事は何でもしようと、考え得る限りの計らいを左近に送る事を心に決める。


「わかり申した、左近殿の決意、もはや止め立ては致しますまい。六郎、まことに畏れ多き事ながら、わしの名代で此度の事を帝に内々に奏上そうじょう申し上げ奉り、戦に向かう左近殿に相応しき法名を賜る様お願い申し上げよ。」


六郎は「はッ!」と言い即座に闇に消え京へと走った。


六郎は5日程で京に着き、御所へ入り、御所忍びに「大御所様より帝へ奏上奉そうじょうたてまつりたきこれあり」と影の謁見を求める。


六郎の影の謁見は後陽成ごようぜい天皇から許され、六郎は事の次第を帝につまびらかに奏上した。


後陽成天皇は、次郎三郎の苦難、柳生利厳の悲しみ、無惨にも秀忠や天海のめいで散った柳生衆80名のいのち、そして島清興しまきよおきの覚悟を認め、天下に今大事が起きているにもかかわらず、帝たる自分が、朝廷の余りにも無力なるを嘆き、また次郎三郎の忠節に報いるべく、島清興には然るべき身分として「京・南禅寺なんぜんじ270世住職の位」と「紫衣勅許しえちょっきょ」そして「法名ほうみょう」の三つを授けた。


「紫衣勅許」とは言葉の通り「紫の衣をまとうことを許す」という帝よりの許可である。


現代日本では紫色の衣服を着る事に対して何の制限もないし、普通に衣料品店に紫色の服も販売していて買う事に対しても特別な許可は必要ではないが、古の時代「紫」は高貴な色であり、一部の者しか身にまとう事が許されなかった。


庶民は紫色の服を着る事が出来なかった為、江戸時代には「江戸紫」という藍色がかった「紫に似た色」が流行し、また京方面では「京紫」という赤みがかった「紫に似た色」が存在し、これが庶民の間に流行し愛されたが「純粋な紫」は江戸時代でも身分の高い者しか纏う事が許されず、ましてや庶民が着る事など、とても出来なかった。


当時の僧侶にとって「紫衣」というのは国内で最上級の学問を修めた僧侶が自他ともに認められ、その上で帝の「勅許」を得る事でしか纏う事が許されないものであった。


それを左近に許すというのは後陽成天皇の次郎三郎たちに対する期待の表れでもあり、また信頼の証でもあった。


そして左近が住職になる京・南禅寺は日本最初の勅願禅寺ちょくがんぜんじである。


勅願禅寺とは時の天皇や上皇の発願により国家の鎮護や天皇家の繁栄を祈願して建立された祈願寺であり、天皇家とも縁が深い寺であり、後陽成天皇が自由に人事を動かす事の出来る少ない場所でもあった。


後陽成天皇は、左近が駿府城の火災の後に南禅寺の住職になり徳川家へ入り込むのは秀忠等に怪しまれると考え、左近を時間をさかのぼり2年前に秀忠が将軍宣下を受けた年に秀忠の征夷大将軍就任を寿ことほぎ、国家鎮護を祈り南禅寺の住職に左近を据えた事にした。


最後に左近に与えた「法名」であったが、柳生の里に住む人々の悲しみ、左近が己の婿を絶望させた苦痛、それらを汲み取り、天の海に溺れた人々の祟りを伝えるという意味合いで「崇伝すうでん」という法名を賜った。


法名とは本来、仏の道に帰依し、戒律を守るしるしとして与えられるものであった。


因みに南光坊天海なんこうぼうてんかいの法名は「天海」であり「南光坊天海」というのは尊称であった。


こうして左近の新たな名はありがたくも後陽成天皇より下賜された「崇伝」となった。


これより島清興、左近は二度とその名を名乗る事無く「崇伝」と生涯名乗り続けるのである。


また崇伝は、何処にいても次郎三郎や小太郎を初めとした仲間達と、心は共にあると云う意を表し「以心いしん」というあざなを名乗る事にした。


こうして島清興しまきよおき左近さこんという仮名かりなを経て「以心崇伝いしんすうでん」という新たな名と「南禅寺住職」と「紫衣」という新たな身分を後陽成天皇より賜ったのだ。


崇伝は早速、京・南禅寺に入り、背格好の似た風魔の影武者を表向きの住職として置き、次郎三郎の金銀を使用し南禅寺の復興をさせた。


そして肝心の崇伝は南禅寺・金地院にて小太郎自らの手により、現代で云う所の整形手術を受けた。


小太郎の整形手術はこの時代としてはかなり精密なもので、かなりの時間をかけて何回にも分けて施術され、完全に手術が終わり、崇伝が顔を見せることが出来る迄には約一年の時間を要した。


顔を変え、名を変え、身分も新たになった崇伝の次の問題は、どのようにして徳川幕府の政治の中枢に入り込むかであった。


紫衣を賜った東禅寺の和尚とはいえ、次郎三郎の推薦では秀忠達が怪しむに相違ない。


何とかして敵に怪しまれずに幕府の中枢に入りたかった崇伝は、同じ臨済宗・相国寺しょうこくじ西笑承兌さいしょうじょうだいと知己を得て彼の推薦によって幕府の相談役として入り込む事にした。


西笑承兌とは、豊臣秀吉や徳川家康の顧問を務めた外交僧であり、会津征伐の切っ掛けとなった俗にいう「直江状なおえじょう」はよく徳川家康に直接届けられたものと思われがちだが実は一度、西笑承兌を通して家康に届けられたものであった。


西笑承兌は以心崇伝と対面するやいなや


「そなたは、ただの僧侶では無いですな?どこかお武家の匂いがしますわい。」


と崇伝の素性を言い当てた。


「さすがは音に聴こえた西笑承兌殿!拙僧が元来僧侶ではないとよく見破られた!!」


崇伝は笑いながら「何故分かったのです?」と聞いた。


「なぁに、ただ、たまたまお主によく似た天台の僧を知っているまでじゃよ。」


左近はすぐに天海の事であると悟った。


「西笑承兌殿はその御坊をいかがお思いか?」


西笑承兌は不思議な顔をして崇伝に答える。


「あれはいけないなぁ、あの坊主は闇が濃すぎる。色々なものを憎んでいるに相違ない。」


西笑承兌が「坊主が政にあまり口を出すものではないのだが」と呟く。


相国寺しょうこくじ殿(西笑承兌の事)拙僧をその天台の僧を刺す刀として天下泰平の為、江戸へ送って下さらぬか?」


崇伝は西笑承兌に真剣に頼み込んだ。


「天下の為でございますか、では崇伝殿、天下の為とは一体何ですかな?天下の政とは?」


西笑承兌は崇伝の覚悟が知りたかった、それ故の謎かけであった。


「天下とは人の命ではないでしょうか。人は産まれ生きる者です、その一人一人の民が生きる場所こそ天下なのではないかと拙僧は考えます。天下の政とは民がよく働き、武士は弱き者を護り、また広き世界を知り、民も新たに世界の知識を学べる仕組みを作る、これが天下の政と拝察いたします。」


西笑承兌はその答えを気に入った。


「崇伝殿、そなたを徳川家康公と幕府関東総奉行職にある本多正信殿と徳川秀忠殿に紹介状を書こう。わしのこの世の最期の仕事がこれほど晴れがましいものであったとは御仏の道はこれだからいくら修行してもわからぬのじゃな。」


西笑承兌は家康、正信、秀忠に崇伝の紹介状をしたため、崇伝を自分の後任として推薦し、間もなくこの世を去った。


正信と秀忠は西笑承兌の紹介があった為、これを快く受け入れる準備を始めるが、次郎三郎は崇伝の幕府入りに難色を示した。


これは次郎三郎の計略であった。


次郎三郎がどこの誰とも知れぬ以心崇伝なる者が幕府に加われば自分の立場が悪くなるという体を装ったのだ。


そんな事とは露知らず、正信と秀忠が西笑承兌の推薦である事を必死に次郎三郎に説明しようやく説得出来たところで崇伝の幕府への参政は決定した。


以心崇伝はその才を惜しみなく発揮し、瞬く間に幕府の中核に入り込んでいった。


正信などは「これ程の僧侶が天下に未だおったとは」と感嘆した。


次郎三郎はそんな崇伝の噂を聞き、崇伝の幕府への忠節を認めた為と言い正信に駿府と江戸に金地院を建てる事を推奨した。


これは次郎三郎が崇伝の権力を高める為に金地院という名の崇伝の居城を江戸と駿府に建立するという策略であった。


こうして以心崇伝は金地院という住居を「京・南禅寺」と「駿府」と「江戸」に持つことになり周囲から金地院崇伝こんちいんすうでんなどと呼ばれるようになるのだ。

ここまで読んでいただき誠にありがとうございます。

誤字脱字等ありましたらご指摘頂ければ幸いです。

これからも『闇に咲く「徳川葵」』をよろしくお願いします。

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