将軍宣下
いよいよ次郎三郎に下される将軍宣下。
二郎三郎は征夷大将軍になり、江戸に幕府を開くが、豊臣家は徳川の野望を面白くは思っていなかった。
慶長8年(1603年)後陽成天皇は徳川家康(次郎三郎)を征夷大将軍へと任ずる宣旨が下った。
正確には「征夷大将軍」「淳和奨学両院別当」「右大臣」の三職が次郎三郎へと与えられた。
「征夷大将軍」は元々、徳川家が太閤薨去と共に密かに公家に根回しを始め、関ヶ原の戦いの後、本格的に朝廷に働きかけた結果、後陽成天皇より徳川家に下賜された役職であったが、「淳和奨学両院別当」は後陽成天皇が徳川家では無く世良田次郎三郎元信に個人的に与えた称号であった。
「淳和奨学両院別当」は別名「源氏長者」とも呼ばれ、簡単に言えば武士の棟梁を示す称号である。
実はこの「征夷大将軍」と「源氏長者」の二つ、揃っていなくても幕府は開けるのである。
その昔、室町幕府を開いた初代・足利尊氏は生涯、源氏長者にはなれなかった。
室町幕府で初めて源氏長者として認められたのは三代・足利義満であり、必ずしもこの二つが揃っていなければいけないという事は無かった。
後陽成天皇は六郎の届けた次郎三郎の書状を読み、次郎三郎の朝廷への敬意と忠誠に報いる為にも天皇自ら次郎三郎の最後の切り札となる事を決意し、また秀忠に対抗する力として「源氏長者」という名誉称号を次郎三郎に与えたのだ。
この後陽成天皇の心遣いに次郎三郎は涙した。
一介の影武者であり元々浪々の傭兵稼業で氏素性も定かならない次郎三郎にとって後陽成天皇により自分に対し下賜された「源氏長者」は最大級の名誉であった。
秀忠は自分たちの朝廷工作が功を奏し「源氏長者」などと言うおまけが付いてきたと小躍りしながら喜んだが、本多正信と南光坊天海はそれぞれ次郎三郎が後陽成天皇に対し何かの行動を起こしたと読んだのだ。
しかし秀忠の小躍りを見ているうちに「今、秀忠に下手な事を言い、秀忠の短慮の暴走で次郎三郎との関係が悪化するような事をすればただでは済まない」と考え正信、天海共に口を紡ぐのだ。
宗矩はそんな小躍りしている秀忠を見て、「ようやくここまで来ましたな」などと言っている。
正信は「ここからが長い道のりなのだ」と怒鳴ってやりたかったが、呆れてものも言えなかった。
天海に至っては「哀れな小僧を蔑むような眼」で秀忠と宗矩を見ながら笑っている。
正信はその目に首筋にぞくりと冷えるものを感じたが、この場で追及するわけにもいかず、江戸幕府の準備を行うのであった。
秀忠は自分の直臣を幕府の中核に据えた。
筆頭家老に大久保忠隣を据え、酒井忠世、青山忠俊、土井利勝と秀忠直臣で幕府を固めつつあった。
しかし実はこの者たちは本多正信に頭が上がらない者たちでもあった。
「火事と喧嘩は江戸の華」という言葉が残るほど江戸の町は火事が多い町であった。
慶長6年(1601年)、江戸の町に初めての大火事が起こる。
これは秀忠が江戸の町割りを急ぎ、忠隣、忠世、忠俊、利勝と合議の上、価格を下げ、工事を急ぎ人口を増やすために家の屋根の素材を板葺きを使わず藁葺きを使用した事が一つの原因と言われている。
これが原因で江戸の町はほぼ全焼し、死傷者の数は不明という事態に陥った。
当時、伏見からゆるりと鷹狩りをしながら正信と共に江戸へ向かっていた次郎三郎もこの報を勿論受けている。
正信と共に江戸城へ入ると、次郎三郎は上座でただ座っており、正信が烈火の如く火事の事を叱責するという事件があったのだ。
土井利勝などは己の不明さを恥じ、切腹を覚悟したが、次郎三郎が「それには及ばぬ」と言い、その後「正信を関東総奉行とし関東の政を立て直すべし」と告げた。
秀忠は屈辱のあまり唇を強く噛み血を流すが、それと同時に「俺には人の上に立つ資格がないのか?」と己の為政者としての資質を疑わせた程の事件であった。
実を言うとこの事件、仕掛け人は次郎三郎であり、正信を秀忠陣営の中枢へと送り込むために起こした大火であった。
秀忠を叱責した正信は、その事実を次郎三郎から聞き青筋を立てて次郎三郎に秀忠と全く同じ叱責している。
二郎三郎もさすがの江戸大火にはやり過ぎを反省し、その後、忍への指示は細かくするようになる。
江戸に幕府が開かれ、様々な事が変わっていった。
二郎三郎は全国諸大名に幕府が置かれる江戸城の大改修を行わせる。
二郎三郎はこの大改修で江戸城に様々な仕掛けを施す。
いわゆる抜け道である。
家康は風魔小太郎に命じ抜け道の原案を作成、普請奉行の一人である藤堂高虎に自分専用の抜け道を作らせる。
その後、本多正信は家康公5男の松平忠輝が先年に武蔵国深谷1万石から下総佐倉5万石に加増移封されていたのだが、これが信濃国川中島藩12万石へと加増移封され、待城主となる。
忠輝には皆川広照の他に新たに大久保長安が附家老として仕える事になった。
附家老とは将軍家の兄弟子息を大名として取り立てた際に、家老に附属する家臣の事である。
ここで初めて次郎三郎と松平忠輝の縁の糸が結ばれるのである。
本多正信は家康の命として京に所司代を置くことにする。
徳川幕府初代・京都所司代に任命されたのは板倉勝重という切れ者であった。
京都所司代とは主に京の治安維持の責任者であり、織田信長公は重臣・村井貞勝を京都所司代に任命し、豊臣秀吉は何名かの所司代を置いたが前田玄以が一番長く務めたであろう。
板倉勝重は京の治安維持だけでは無く、秀忠の命として秀忠に不満を持つ公家衆(次郎三郎と懇意にしている)の締め付けや次郎三郎に肩入れする後陽成天皇の動向を逐一報告させた。
秀忠は次の将軍候補としての官位である右近衛大将に任官され、順風満帆に次の将軍への準備を着々と進めていた。
天海は諸大名に蓄えを吐き出させる策として秀忠に「二条城」の築城を普請を献策し、次郎三郎の征夷大将軍任官の前に落成させている。
これを脅威と見たのが大坂城中の淀の方である。
「二条城は何のための城なのですか!?」
且元に問う。
「恐らくは家康殿が西国大名を牽制する為の城かと。」
淀の方が重ねて問う。
「伏見城があるではないですか?」
且元が言いづらそうに答えた。
「伏見城は太閤殿下の御建てあそばされた城なれば・・・。」
淀の方が目の笑わない笑顔で聞く。
「不満だ、というのですか?」
且元は静かに頷くだけであった。
そこに勢いよく淀の方に声をかける大野治長。
「これにて内府殿の野心は明らか!」
淀の方と目を合わせながら豊臣家の力をもってすればどうにでもなるといまだに信じているのだ。
「ならばお主が一人で何とかいたせ」
且元は心の中で毒づき、二人の姿を冷淡に見つめる。
そしてその二人を冷淡に見つめる人物がもう一人いた。
豊臣秀頼である。
「豊臣家の栄光など昔の話であろう、今更、母上と父上は何にすがっているのか・・・。」
滑稽で仕方が無かった。
秀頼はその名ばかりを使われ、実質的には淀の方の操り人形なのである。
この時秀頼は十歳であったがこの時代、十歳でも聡明な秀頼は豊臣の行く末は決して良いものではないであろうと感じていた。
それは次郎三郎も同じであった。
天海が二条城普請を始めた頃、この城は豊臣家を恫喝すると同時に伏見の次郎三郎を見張る為の城だとすぐにわかった。
あからさまな嫌がらせ。
片桐且元あたりの武将ならば見て見ぬふりを出来るが、淀の方や大野治長と言った女子と小僧には面白くないであろうと考えていたのだ。
二郎三郎はここで恐妻家の秀忠の妻を利用する。
お江の方は徳川と豊臣の険悪なる雰囲気を常々心配に思っていた。
そんなお江の方に次郎三郎は
「征夷大将軍任官の宣旨も賜り、江戸に幕府も無事に開けた事であるからして、そろそろ千姫を秀頼殿に嫁がせたいがお江はいかが思うかね?」
と秀忠の搦め手から攻めたのだ。
お江の方の喜びは想像に付かない程のものであった。
お江の方は即座に「伏見の上様からこの様な文が参りました!」と秀忠に見せるのだ。
秀忠は「やられた!」と思い手紙を読む。
「くそッ、次郎三郎め!!お千を豊臣家へ輿入れなぞもっての外だ!!」
と叫びたかったが、お江の方の鋭い目は
「殿?お千の輿入れに何かご不満でも?」
などと問いかけてきたので、秀忠は大慌てで
「まこと目出度い限りである!!父上の仰せに早速従おうでは無いか!!」
とお江の方の機嫌をとる。
「此度の輿入れ江も大坂へついてまいります。」
お江が思いもよらない事を口にする。
「何を言っておる?そちは身重では無いか?」
秀忠は妊娠をしていたお江が何を言っているのか本気でわからなかった。
「ですから、江もお千の輿入れを見届けに大坂へ参ります」
と笑顔で答えるのだ。
「何を申しておる、思案の他だ。」
秀忠はそんなお江を突っぱねるが
「何を申されてもついて参ります。」
お江はついて行くの一点張りだ、こうなったら梃子でも動かないのがこの女の厄介な所であった。
「そなた、何故そこまで大坂へ行きたいのだ?」
秀忠が問うとお江が答える
「されば昨今、徳川家と豊臣家は抜き差しならぬ状態と心得ます、私が姉である淀の所へ参上し、改めて徳川家と豊臣家の絆の橋渡しをしたいと思っております」
と言い始めた。
「おなごが余計な事をするな!」
と怒鳴りたい気持ちを抑え、秀忠は「あいわかった」と言うしか無かったのだ。
こうして千姫と生母お江の方は花嫁行列を率いしずしずと東海道を江戸から大阪へと向かうのであった。
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今後も『闇に咲く「徳川葵」』を宜しくお願い致します。




