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後継者争い

井伊直政を亡き者にしたとはいえ、秀忠の後継者の地位は盤石とは言い難かった。

では、秀忠の他に家康の子に「人物」は居なかったのか?

井伊直政の死は病死と公表された。


まさか秀忠が柳生を使い暗殺したなどとは公表出来るはずもない。


二郎三郎は秀忠を軽視し、あまつさえ長福丸誕生に浮かれていた自分を深く戒め、江戸にいる秀忠の動向監視を強化した。


しかし直政の死に一番動揺していたのは二郎三郎では無く直政の娘婿たる松平忠吉まつだいらただよしであった。


忠吉は良くも悪くも凡将であった。


特別冴えた決断力がある訳でもなく、良い所も特別なければ、特別に暗愚でもない。


強いて言えば、家族想いで、特に可愛がってくれた義父・直政には体を使い杖代わりになるという、そういった思いやりが取り柄の武将であった。


井伊直政という後見人が居なくなった忠吉に徳川宗家を統べる力は無いと諸将は判断し、徳川家の家臣たちも忠吉を見限るのに時間はかからなかった。


徳川家の後継者争いは大きくは結城秀康派と徳川秀忠派に分かれるが、家康(次郎三郎)が秀忠が後継者であると宣言した以上、秀忠派の方が圧倒的に有利であったのには間違いない。


しかし、秀忠には不安要素がある。


すなわち本多正信、正純親子、本多忠勝、榊原康政と家康と次郎三郎の入れ替わりを知る徳川の強力な武将が秀忠を見限れば「今の家康は影武者である」と兄・結城秀康に告げ、秀康と秀忠のお家争いが勃発する恐れがあった。


秀忠は兄・秀康がとても恐ろしかった。


結城秀康は忠輝と似た不遇の子であった。


彼は産まれて満三歳になるまで父との対面が無かった。


兄である信康が家康に一度でも秀康に会うように取り成し、家康は信康の顔を立て秀康との対面を行った。


当時の家康は武田勝頼との戦に備え、寝る間も無く、いくさ支度をしていた為、秀康と対面する機会も当時の居城である浜松城に秀康を引き取る暇も無かっただけであり、決して秀康を疎んでいた訳でも冷遇していた訳でもなかった。


ではなぜ秀康は冷遇されたと思ったのだろう。


これは兄、信康の切腹事件のせいであった。


家康の嫡男・松平信康まつだいらのぶやすは正に戦場に出れば勇猛果敢であり兵の指揮能力も高く、知力、胆力に優れ、また平時は農民に交じり畑を耕すなどという領民思いで家臣思い、そして家族思いであった。


それ故に今川義元亡き後、家康が自分の母である築山殿を遠ざけるのがどうしても許せなかった。


築山殿とは家康の正室であり今川義元の血族である。


父は関口親永せきぐちちかながという今川家の有力武将であり、母は今川義元の親族であった。


家康は桶狭間の後に岡崎で独立した際、信長と清州で同盟を結んだ事が築山殿と信康の悲劇の始まりであった。


織田と松平の同盟に義元の息子である今川氏真は怒りを激しく爆発させる。


氏真に対し関口親永とその正室は自害して詫びた。


事態を重く見た家康は石川数正いしかわかずまさを駿河に派遣し、松平家で捕虜として預かっている鵜殿氏長うどのうじなが氏次うじつぐ兄弟と築山殿母子を交換するように氏真を説得する。


氏真の説得に成功した数正は信康から信頼され、数正も信康の後見として信康を支えていくのであるが、家康は岡崎に呼んだ築山殿を何故か遠ざけた。


これには家康の他人には言えない理由があった。


自分は信長に憧憬を抱いている、しかし信長は築山の血族である義元を打ち取った相手、いわば敵だ。


築山と仲睦まじく暮らせば信長に要らぬ疑いを持たれるかもしれない、いや、信長はわかってくれても織田家の家臣団がそれを許さないだろう。


今、信長と共に目指す天下を手にするには自分は東へ攻め込まねばならない。


しかし東の遠江や駿河は築山の実家の今川家の所領。


もうこれ以上築山の悲しむ顔は見たくはない。


そういった様々な葛藤から逃れるように家康は築山を遠ざけてしまったのだ。


信康はまだまだ若く思慮が未熟であった事もあり、家康のこの仕打ちを面白く思ってはいなかった。


そこに更なる不運が訪れる。


徳川の名跡を継ぎ、徳川信康とくがわのぶやすとなった信康は岡崎城を与えられ、信長の娘「五徳」と婚姻関係を結んだ。


信康は築山殿の気持ちを気遣いながらも徳川の為に五徳との婚姻生活を穏やかに始める。


五徳は最初は良き妻であった、二人の姫にも恵まれ、順風満帆な生活を送っていたかに見えた。


しかしなぜか日に日に信康や築山に些細な事で難癖をつけるようになってくる。


信康は訳が分からなかった。


良き妻であったはずの五徳の豹変ぶりについていけなかったのだ。


実を言うとそこには、当時、墨俣城すのまたじょうを拝領し、蜂須賀党や前野党と云った野武士集団を配下にしていた秀吉が五徳に離間の策を施していたのだ。


秀吉曰く「築山殿と徳川信康様は今川の血を継いでおり、五徳様の御命を狙うやもしれませぬ、この婚姻生活は上様(信長の事)に申し上げて離縁としていただいた方が姫の御為と拝察いたします。しかし私の様な小者が上様に申し上げた所で上様はお取り合いにならないでしょう。万が一にも姫の身に何かあればこの猿めは知っていながら何も出来ないと云う織田家に対する忠義を貫けませぬ。織田家の為にも姫様には末永く生きて頂かねばならぬと猿は愚考いたします・・・」


などと書いた密書を蜂須賀党を使い、五徳に送る、万が一信用しなかった場合は、自分が元は今川家の松下之綱まつしたゆきつなに仕えていた事を話し、それが今川家のやり方であると言い信用させるという狡猾さを彼は持っていたのだ。


これはもし信長が徳川信康を気に入り、自分の覇業の後継として嫡男・信忠と共に天下を納める役として信康を指名すれば、秀吉がどれだけ出世したところで信長の次に仕えるのはその息子たちである。


それを嫌った秀吉は竹中半兵衛にそれとなく相談し、離間の策を授かったのだ。


徳川の御曹司が五徳と仲違いすれば、子煩悩の信長の事である徳川にきつい仕置きが待っているに違いないと、五徳をあの手この手を使い懐柔し信康との仲を引き裂いたのだ。


秀吉の術中にまんまと嵌り、度々喧嘩をした信康と五徳夫妻であったが、最初は信長も家康も度々岡崎を訪れ信長は五徳を叱り、家康は信康を叱るという形で喧嘩の仲裁をし双方仲良くするように言いつけたが、もはや五徳は信康と築山をどんどん信用できなくなっていく。


五徳は秀吉に「サルよ何か良い知恵は無いのか?」と書状を出し、秀吉はその言葉を待っていたと云わんばかりに黄色い歯をむき出しににやりと笑い「築山殿と信康の武田家への内通疑惑」を五徳に密書で伝える。


五徳は秀吉の密書の通りに信長に書状を書き、信康と築山殿の武田家への内通の疑惑を信長に告げた。


信長は事ここに至っては、もはや信康を庇いきれなくなり、家康と相談する。


二人は何者かが裏で糸を引いていた感が否めないという結論に至るが、武田への内通が噂話として立ってしまった以上もはや信康は無罪放免とはいかない。


家康も信康の処罰には心底困った。


この影のいくさは当時から忍びと情報の重要性を知っていた秀吉の大勝利であった。


信長はこの事件以降、忍びを嫌い後に伊賀の里を攻撃するという復讐戦を挑み、また家康は忍びの重要性を再確認し、伊賀・甲賀など様々な忍びを囲うようになる。


こうして五徳は織田家へと引き取られ、本能寺の後は信雄の下で過ごし、信雄が小牧・長久手で秀吉と和解すると秀吉の人質となり京で過ごす。


信康と築山殿の処置であったが、家康は信康をどうしても斬れなかった。


重臣と示し合わせ、罪人の中から信康の影武者を用意し、信康には掛川の山奥でひっそりと生きてもらうと云う事に決まった。


信康にその事を涙ながらに伝える家康を見て己の浅はかさと青さを恥じた信康はその処置を寛大な処置と受け止め、掛川山奥の村にて数名の家臣と共につつましく余生を送るのだ。


対外的には信康は切腹し、その首は信長の下へ送られ、信長が「間違いなく信康の首である」と自らの家臣に申し渡し、その後若宮八幡宮へと葬られた。


築山殿は信康斬罪の報に悲嘆のあまり自害して果てた。


当時「岡崎衆」という信康の派閥があり、石川数正はその中心人物であった、家康は数正に全てを話した。


「この度の信康の事件は裏に何者かが糸を引いておる、信康をかような目にあわせた張本人にいずれ意趣返しをするゆえ、今は堪え難きを堪え、忍び難きを忍んでくれ」


数正は涙しながら


「大殿のご温情、数正しかと受け止めました、いずれ意趣返しの時節には数正が先陣を切って御覧に入れましょう!」


こうして築山殿の死は自害では無く粛清と発表され、後に石川数正は信康を死に追いやった秀吉に偽情報をもって「苦肉の計」を行うのであった。


この一連の事件を外から見ていた結城秀康は父である家康は徳川家を守るためなら息子殺しという恐ろしい事を実行できる父なのだと錯覚してしまう。


信康を慕っていた為に、余計にその衝撃は大きかったのだろう。


秀康は信康を目標とし、鍛錬を欠かさず勇猛さと覇気を身につけ、武に長けた武将として順調に育っていくのだが、小牧・長久手の戦いで秀吉と和睦した際、秀吉は秀康の並々ならぬ覇気に目をつけ、徳川の後継ぎにこの男を置いておけば自分が危険になると暗に家康に持ち掛け、秀康を自分の養子にさせるのだ。


秀康は羽柴三河守秀康を名乗り、後に長じて豊臣姓を賜る、しかし秀頼が産まれ、他の養子同様に厄介払いの如く他家へ養子に出されるその先が結城家11万1千石であったのだ。


秀忠は戦下手な自分と比べ覇気人気に優れた兄・秀康が今の現状を知れば確実に徳川の後継を狙ってくるに違いないと考えていた。


「いずれは殺さねばならぬ。」


秀忠は自分の立場を守るため、隙を見て実の兄である結城秀康を暗殺する事を心の中で誓うのであった。

ここまで読んでいただき誠にありがとうございます。

誤字脱字等ありましたらご指摘頂ければ幸いです。

これからも『闇に咲く「徳川葵」』をよろしくお願いします。

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