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井伊直政

若き頃より徳川の柱石として家康を支え、晩年は娘婿の松平忠吉の後見として惜しみなくその才を振るった井伊直政。

彼の命はもはや風前の灯であった。

近江佐和山おうみさわやまに柳生が集結しつつあり。


この報を次郎三郎が入手した時には完全に後手に回っていた。


近江佐和山の井伊直政いいなおまさは関ヶ原の合戦で受けた銃創が膿んでそこから熱を発し寝込んでいた。


関ヶ原が終わり、京・大坂の情勢も落ち着いた後、佐和山に引き籠り寝たきりになってしまった直政を次郎三郎がいたく気にかけ、煎じ薬を持参するが、次郎三郎を全く信用していない直政は決してその薬を飲まず、逆に赤備えに次郎三郎を暗殺しようと画策した事もあった。


直政はそもそも秀忠が後継者という事に不満を持っていたのだ。


あのような狡猾で残忍な男が徳川を継げば大殿の名声はおろか徳川の名に泥を塗る。


それも関ヶ原に遅れ、運よく大殿の死を一番早くに知っただけで世継ぎになったのだ。


それならば自分が後見として、娘婿たる松平忠吉まつだいらただよし殿に徳川姓を名乗ってもらい、大殿の片諱かたいみな頂戴奉ちょうだいたてまつり、「徳川家吉」と名乗って頂き、大殿の後を継いで貰うのが、死に直面した直政の最期の願いであった。


その為に秀忠が擁立する世良田次郎三郎元信せらだじろうさぶろうもとのぶには消えてもらい、次男・結城秀康ゆうきひでやすは一旦太閤の養子となり、その後結城家に養子に出され結城家を継いだことを理由に徳川宗家を継がせず、次男・秀忠は関ヶ原遅参が大殿の死の遠因となったと理由付け世継ぎに相応しからずと言ってしまえば、三男・忠吉は自分と共に関ケ原の戦で初陣を飾り、尚且つ豪傑として名高い福島正則と先陣を争い見事一番槍の功績を手にしたのだ。


徳川家の世継ぎとしてこれ程の功績は無いであろう。


初陣を上田で真田の策略に乗せられ、全軍を投入し無駄に戦い兵を損じた秀忠よりは断然ましであろう。


直政は鉄砲傷を睨み


「忠吉殿・・・待っていて下され、忠吉殿に天下を!!」


直政は自由に動かない足の傷を恨めしそうに見るのである。


井伊直政の足は確かに銃弾を受けてはいたが、当時の医術でも鉛は毒であるというのは常識であった。


直政ほどの武将であれば一般の足軽とは違い即座に銃弾は取り除かれたであろう。


ならば何故傷の直りが遅かったのか?


当時、鉄砲傷が元で亡くなる場合、二つの原因があった。


一つは先に上げた「鉛毒」もう一つは「破傷風」である。


当時、破傷風は致死率50パーセントの感染症であった。


井伊直政の鉄砲傷に関ケ原の不衛生な死体の数々、血を浴び過ぎた土壌から破傷風菌が傷口に入り感染に至ったと考えられた。


そして何より当時の医術では破傷風の治療法が無かったのだ。


破傷風のワクチンとして有名なものがある。


それは「ペニシリン」だペニシリンは1928年にイギリスのアレクサンダー・フレミング博士によって天然ペニシリンが発見され、その後「アオカビ」を媒介に生合成ペニシリンが精製されていくのであるが、なにせ関ヶ原より300年以上も後の話であり当時の日本にその様な技術がある訳も無かった。


そして何より現代知識ではまさかと思われる方法が直政を救えた可能性はあったのだが当時の常識とあまりにもかけ離れていて誰も想像すらした事が無かった。


それは傷口にたかるハエの幼虫「蛆虫」である。


見た目には気色悪い事この上ないのだが実はこの蛆虫、傷の膿や腐敗した部位のみを食し、正常な細胞を食べない上に何より、その分泌液には実は殺菌能力があり、しかも毛細血管や肉芽細胞という傷口を直すために重要な働きをする組織を活性化させるのだ。


現在ではほとんど行われてはいないが「マゴットセラピー」なる蛆虫を利用した治療法が確立されていた程に優秀な虫であったのだ(※マゴットセラピーに使用されている虫は無菌室で専用に育てられた虫であり医師の指示の下、適切に行われる治療です。日本では2017年段階で保険適応外治療として一部行われている場所もあります。)第一次世界大戦時、蛆虫を諦めて放っておいた兵士の方がかえって切除部分が少なかったりした記録が残っている。


まさかこの時代の人間も死体にたかる害虫としか考えられていなかったハエの幼虫が人の傷口再生に役に立つなどと夢にも思わない。


直政も生んだ傷口を何度も包帯を取り換え務めて清潔にしていたつもりだろうが、当時の衛生状態では清潔の意味合いも察するに余りある。


直政は残りの力を振り絞って忠吉の為に次郎三郎暗殺を試みる。


数名の赤備えを伏見に送るのだ。


この決断も直政の周囲を手薄にするという意味では失策であった。


直政はまさか徳川家内部の者が自分の命を狙ってくるとは夢にも思わなかったのだ。


二郎三郎は六郎に数名の風魔を率いらせ近江佐和山へ向かわせた。


伏見から佐和山へ向かうには東海道を走らねばならない。


東海道を一気に佐和山へ走っていた六郎と風魔衆は、東海道の鏡神社を超えたあたりで佐和山方面から来る山伏の集団を見つける。


このあたりで山伏に遭うのは珍しくない、京に出て叡山を目指す山伏も居たからだ。


しかしこの山伏たち、山伏にしては体つきが「いくさ慣れ」している動きをしていたのだ。


六郎は何気なしに話しかけてみた。


「いやぁ、この寒い季節に叡山に上るのかい?」


山伏たちは自分たちの行く方角が伏見だと思われないように口を滑らす。


「我々は京から奈良へ抜け熊野へ行くつもりでござる」


動揺したのか目が泳いでいる。


おかしい。


六郎は初手からこの山伏たちを疑っていたが、今の回答ではっきりと違和感を感じた。


佐和山から熊野へ抜けるには伊賀を通った方が早いはず、何故、東海道を京へ向かって歩くのか?六郎はかまをかける。


「そこもとは井伊直政殿のご家中と申し受けます。私は徳川家康公にお仕えする忍びにございます、井伊殿に暗殺の忍びが放たれたという報がありまして至急、佐和山まで向かうつもりなのですが、宜しければご同道願いたい。」


赤備えはぎょっとした。


自分たちが暗殺に行く家康が直政を暗殺者の魔の手から守る為に忍びを放っただと?


赤備えは混乱した、その心の隙を六郎は衝いた。


「今、佐和山へ戻られれば、貴殿らの手柄になるやも知れませぬな。」


赤備えは急ぎ駆け出し佐和山城へ戻る。


それとは別の間道を通り六郎達は佐和山へと向かうのであった。


佐和山城の直政は赤備えの帰りを首を長くして待っていた。


そこに直政の小姓がふすま越しに声をかける。


「殿、ただいま門前に江戸の秀忠様の言いつけで殿の身辺警護に来たと申す柳生宗矩殿がお見えでございますが、いかがいたしましょう。」


直政は顔を青くした。


まさか自分が次郎三郎に暗殺者を送った事が何処からか漏れ、伏見に居る次郎三郎の耳に入り、逆上した次郎三郎が自分に暗殺者を送ったのではないか、と思ってしまったのだ。


「柳生殿をお通し申せ。」


これが井伊家家臣が最後に聞いた直政の言葉であった。


小姓は宗矩と付き添いの柳生忍4名を引き連れ直政の寝所へと向かう。


その頃六郎はようやく佐和山城を目視できる範囲に到着した。


「早くせねば」と嫌な予感をかき消すように佐和山城へと向かう六郎。


柳生は直政の寝所の前まで到着すると直政の小姓を無二剣むにけんと呼ばれる新陰流の奥義で一刀のもとに切り伏せた。


その後狼狽した直政は槍を取ろうとしたが、時すでに遅く柳生忍のトリカブトを塗った毒の吹き矢を首筋に受け、瞬く間に心停止する。


宗矩は柳生忍に剣士の姿に着替えさせ、切り捨てた小姓に吹き矢を持たせた時に六郎は運悪く直政の寝所に到着してしまった。


「柳生!!井伊様は!?くそ!遅かったのか!」


戦闘態勢に入った六郎であったが、宗矩はにやりと歪んだ笑みを作り大声で叫ぶ。


「曲者である!!井伊殿が曲者の毒矢により身罷みまかられた!!!井伊殿を殺害に至らしめた曲者は斬って捨てたが、仲間がおったぞ!!出合いそうらえ!!!」


井伊家の家臣団が次々と現れる。


柳生衆4人でも厄介なうえ井伊家の家臣も相手となるとさすがの六郎と風魔衆も逃げの一手しか持ち合わせが無かった。


慶長けいちょう7年(1602年)2月1日、井伊直政死去。


井伊家は本多正信の計らいにより、嫡男・直継なおつぐが家督を継ぎ、佐和山藩18万石は廃藩され、新たに12万石加増され彦根ひこね藩・30万石として生まれ変わったのであった。


以後、彦根は井伊家の城下町として発展し、明治時代になるまで井伊家の牙城であった。


因みに幕末の大老で桜田門外で殺害される井伊直弼いいなおすけは直政の遠い子孫であるがそれはまた別の話である。


こうして徳川四天王、徳川十六神将、徳川三傑など様々な呼ばれ方をし、死ぬまで徳川に仕えた直政は波乱に満ちた生涯を終えたのだ。

ここまで読んでいただき誠にありがとうございます。

誤字脱字等ありましたらご指摘頂ければ幸いです。

これからも『闇に咲く「徳川葵」』をよろしくお願いします。

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