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五郎太丸と長福丸

ついに誕生した次郎三郎の長子。

表向きは家康の第10男として扱われるが秀忠の心中は穏やかでは無かった・・・。

次郎三郎は家康の9男である五郎太丸ごろうたまるを秀忠に近づけないように伏見の手元に置いて養育した。


理由としては次郎三郎が五郎太丸をとても可愛がったというのもあるのだが、秀忠との後継者争いで万が一にでも五郎太丸が殺害されるようなことがあれば、亡き家康に申し訳が立たないと、次郎三郎なりの家康への忠義立ての思いもあった。


次郎三郎の五郎太丸への可愛がり方は尋常ならないものがあった。


年老いて出来る子は可愛いともいうが、次郎三郎は五郎太丸をあまりにも可愛がるので、傍にいたお梶の方が五郎太丸に嫉妬し拗ねるほどであった。


赤子は他人の子ですら可愛いのだ、自分の子はどれ程可愛いのか次郎三郎には想像もつかなかった。


そもそも影武者というのは子供を作る事を許されていない。


子が出来れば父性として「生への執着」が生れ、いざという時に命懸けで主を守れない恐れがあるからである。


また影武者の子を質と取られればお家への謀反にも繋がりかねないからである。


よって、影武者には定期的に好みの女を与えられる。


その際も女に情が移らないように一度抱いた女とは2度会う事は無く、ただ影の性の捌け口にさせ影武者の不満を和らげるというのが基本的な扱いであった。


二郎三郎も元々は傭兵稼業で様々な戦場を転々としていたので特定の女性はおらず、この待遇にも別段不満は無く女を愛するという事を全く知らなかった。


知らなかったという事とは少し違うが次郎三郎は淡い恋心を抱いたことがある。


彼自身その恋心に気付いていなかったのだが、伊勢長島砦で一人の一向宗の女を見初める。


彼女は結局信仰に殉じ、最後は信長公の鉄砲隊の餌食になってしまったが、次郎三郎がその後取った行動は織田勢の武将の狙撃であった。


次郎三郎の頭の中では織田勢を混乱させ戦場を抜け出すという理由であったが、信長公の一族、つまり織田家の武将を多く狙撃したのは心の中で彼女の死への怒りがあったのだが次郎三郎にはその気持ちは良く解らなかった。


次郎三郎が初めて「恋」というものを知ったのは関ヶ原が終わり、お梶と肌を合わせていく内に自然と生まれた気持ちが恋であると、お梶に教わった時であった。


その時次郎三郎はお梶に自分の子を産んで欲しいと強く願い、またお梶も次郎三郎の子を産みたいと強く願うのだが、子ができるかできないかは天の采配、ましてこの時代には「不妊治療」などない。


迷信が常識として信じられていた時代である。


少々違う話であるが一つの迷信として「女腹おんなばら」というのがあった。


徳川秀忠は恐妻家であり正室であるおごうの方以外に側室というものを持たなかった、いや、持てなかったというのが正しい。


秀忠は関ケ原の後、家康が死んだ事を知り安心したのか京都で夜伽の相手として庶民の女を孕ませた。


女の子は男児であり、名を「長丸(ちょうまる)(秀忠の幼名)」と付け、本来であればお江に男児が出来なければ長丸が徳川家の世継ぎとなる予定であった。


しかし幼くして長丸は無くなってしまったのだ、証拠は無いが秀忠はすぐにお江の仕業であると見抜いた。


それより後、秀忠は軽々しく浮気をすることは無かった。


そのお江の方は中々男児を産む事が出来ず4人連続で姫を産んでいた。


男児を世継ぎとして立てる事が常識であったこの時代「徳川宗家の世子」が男児を作れなければどこの馬の骨とも知らぬ子を養子として迎え世継ぎに据えなければならないので秀忠は長丸の死をいたく嘆き心の底でお江を憎んだ。


そのお江が徳川家の中では影で「女腹」と言われていたのだ。


結果、お江は後に秀忠の息子を産むのだがそれはもう少し後の話である。


そして来たる慶長けいちょう7年(1602年)次郎三郎の長男が伏見城にてこの世に生を受ける。


幼名は長福丸ながとみまると名付けられた。


生母はお万の方である、次郎三郎を一番最初に愛し、献身的に支えてきたお梶の方の心中は察するに余りあるものがあった。


秀忠はこの長福丸を家康の第十子つまりは自らの弟であると認め、次郎三郎に誓紙を提出している。


秀忠の心中は麻のように乱れ穏やかではいられなかった。


「このままでは徳川家は次郎三郎の良いようにされてしまうではないか!!天海!!何とかならんのか?」


天海は秀忠を諭すように答える。


「まずは忠吉殿の後押しをする勢力を削ぎなされ、弱っておる赤鬼を退治するのはたやすい事かと」


と秀忠に進言する。


秀忠は最初は何を言っているのかよく解らなかった。


「赤鬼?何のことだ?」


と天海に秀忠が問うと天海は「ふぉっふぉっふぉ」と高笑いしながら


「佐和山におる鬼は治部少の怨念で寝込んでおるとか?」


という。


秀忠は天海がとても恐ろしい事を言っていると気付いて先ほどまで次郎三郎の事で怒り心頭で真っ赤になっていた顔面をみるみるうちに青くし


「そちは、自分が何を言っているのか理解しているのか!?」


と声を荒げる、天海は伸ばしたあご髭をなでながら


「これは殿を天下へと押し上げる策略の一つでございますよ」


と天海は何もおかしな事を言っていないと云わんばかりに平伏するのだ。


「そちは直政を暗殺せよと申すのか!?」


そう「佐和山の赤鬼」とは関ケ原の論功行賞で近江佐和山を受領した井伊直政いいなおまさの事であった。


井伊直政は若い頃から徳川家に仕えた武将である。


家康の家老であった酒井忠次さかいただつぐが生存していた頃には、本多忠勝ほんだただかつ榊原康政さかきばらやすまさと並び「徳川四天王」などと呼ばれていた直政は、その勇猛さと家康への忠誠が認められ、武田家が滅亡した後、家康が保護していた武田家の猛将と云われた山県昌景やまがたまさかげが遺した家臣を配下にする事を許される。


山県の家臣たちは一様に赤い具足を持ち、山県の下で武田の様々な合戦を生き残ってきた猛者もさであり、彼らは直政の下でも凄まじい「いくさ働き」で「井伊の赤備あかそなえ」と天下に広く知られ、「赤備え」に加え直政の勇猛ぶりから「井伊の赤鬼」とまで呼ばれる事もあった徳川譜代の大名であった。


そんな徳川の柱石とも呼べる男を暗殺しろと天海は言うのだ。


「直政殿の寝込みようではもう「いくさ」は難しいでしょう、直政殿は特定の忍びを飼ってはおらぬ様子ゆえ、柳生をお遣わしなされませ。直政殿とていくさ働きが得手でも剣の鍛錬をした柳生の手練れが三名もおれば十中九は殺害出来ましょう。」


秀忠が悩みながら聞く


「十中九とはどういうことだ?」


天海が宗矩をみて笑いながら言う


「残りの一は柳生の剣が使い物にならなかった場合ですじゃ」


これに顔を赤くしたのは宗矩である、天海のあからさまな挑発にのり


「殿!私にそのお役目を御命じ下され!必ずや赤鬼の首を取って参りましょう。」


天海が「そうじゃ!」と言いながら秀忠に言う。


「万が一にも柳生の痕跡を残さぬように風魔に罪を被せれば一石二鳥ではありませぬか」


秀忠がだんだん機嫌がよくなってくる。


「天海、よくよく思案すれば悪くない策である、褒めてつかわす。宗矩、万が一にも失敗は許されぬぞ?失敗はそちの死と同義と心得よ?」


秀忠は宗矩にきつく言いつける。


次郎三郎相手には手も足も出なかった柳生の仕事ぶりを秀忠に見せなければ宗矩の立身は立ち行かなくなるのだ、宗矩は自信満々に


「それがしも陣頭指揮を執りますゆえ殿には御心配召されぬよう」


とにやりと笑いながら会合が終わるのだ。


こうして柳生の集団は次郎三郎の監視、行動の妨害を一時止め数名を伏見に残し近江佐和山へ向かうのであった。


この時、井伊直政も、松平忠吉も、もちろん長福丸誕生の喜びに沸く伏見城の次郎三郎たちも、まさか秀忠が徳川家譜代の大名である井伊直政の殺害を企てるなどと想像もしていなかったのだった。

ここまで読んでいただき誠にありがとうございます。

誤字脱字等ありましたらご指摘頂ければ幸いです。

これからも『闇に咲く「徳川葵」』をよろしくお願いします。

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