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次郎三郎派

いよいよ次郎三郎の陣営が顔を揃えました。

六郎は風斎と小太郎に今回の風魔訪問の目的を告げた。


小太郎も風斎もそれは予想だにしないものだった。


「なんと・・・徳川殿が・・・。」


風斎ですら絶句した、しかしいくつか合点がいくものもあった。


風魔の独自の情報網で入手した情報と今の徳川家の状況がそれを物語っていたのだ。


風斎と小太郎が


「となれば大量の米が必要ですね、二~三年分は米を埋めねばなりません。」


と言った。


戦に必要なものはまず「米」、これは大陸の戦の考え方である。


こういう考え方一つとっても風魔の独自の思考は他の忍びとは違うのであった。


「それにつきましては」と六郎が申し訳なさそうに次郎三郎の親書を渡す。


「この書に必要な金銀を多めに書いてくれとの事です、書かれた額面は私が殿に直接手渡す事になっております。金銀は全額用意するので、受け渡しの方法、日時等は風魔衆の指示に従うとの事です。」


と六郎が告げると、小太郎と風斎はこれまた驚き、風斎に至っては


「今、全額と言ったかね?」


と鋭い目で見てきたのだ。


六郎は「はい、全額」と即答し小太郎は


「確かに家康殿は道々の者の流れを組む方の様だ、わかりました軍議を致しますゆえ三日下さい」


道々の者というのは、当時、芸に秀でて自由に生きていた者たちの事だ、簡単に自由と言っても当時の日本は戦国乱世、武士が血で血を洗う世の中である、そんな中にあっても武士に忠誠を誓うのではなく天皇に忠誠を誓い日本どこでも自由に行く事が出来る人々の事を総じてそういった。


彼らの職業としては流れの傭兵や、流れ巫女、修験者、忍び、陰陽師、能楽師などといったもので、天皇家は彼ら「道々の者」の犯さざるべき神の如き存在であったのだ。


当時の常識では「武士は忍びを信用しない」というのが通例であり、彼らに仕事を頼むにも前金と成功報酬という形で支払うのが通常であり全額前金で支払うなどという事は、まず武士の考え方からは離れた者であった。


風斎は小太郎の考えを改めさせるために一言。


「五日にしなさい。」


と小太郎に言う。


「秀忠殿が話通りの人物なら、信長公が叡山を焼いたように箱根山を焼かんとも限らん」


と言った。


小太郎は心の中で「親父殿がやる気になっておる」と感心しながら、六郎に「では五日」と改めて言い、六郎が無言で頭を下げると即座に風魔の頭集を集め軍議に入るのである。


風魔の軍議は全て高麗語で行われていた。


六郎はいったい何を話しているのかわからない。


しかし、何だか罵り合って、怒鳴り合っているように聞こえている。


そんな六郎の隣でおふうは「大丈夫よ、だれも反対の人なんていなかったから」というが六郎はそれは嘘だと判っている。


恐らく特定の小頭に悪い印象を与えないようにそう言えと小太郎から言われているのだろう。


事実、六郎の持ってきた話は風魔衆を下手すれば全面戦争に引き込む話である。


「それにしてもよくこれだけ話し合う事がある。」


六郎は呟く。


おふうは六郎をみて


「当たり前の事よ。皆、家族の命を懸けているのだから。誰が戦死したら妻と子の面倒は誰が見るとかそこまで話し合って初めて風魔は一つの家族として行動が出来るのよ。」


と答えた。


六郎はそんなことまで細かく話し合うのか、と風魔の結束力に改めて驚かされるのである。


軍議の最中六郎は3回質問を受ける。


「金銀の出所は?」


と聞かれ「金は甲州黒川金山、銀は石見銀山」と答えた。


「受け渡しの方法は?」


と今度は六郎が聞き小太郎が答える。


「江戸へでも伏見へでも良いのだが、必ず箱根山を通るようにしてくだされ、箱根を通った所を風魔が襲い奪い申す。」


と小太郎が答える、続けて小太郎が言うには。


「家康公には大いに怒って頂きたい、大久保忠隣に金銀の奪還及び箱根の風魔を根絶やしにすべしと命ずるほどに。」


六郎は「その様な事する意味が・・・?」と聞くが小太郎が即座に


「あるのですよ、何人警備が付くかはわかりませんが、警備は中身を知っているはず、徳川家の金銀を我々風魔が受け取ったとなれば家康公に要らざる噂が立つ恐れがあります。」


六郎は風魔の先読みには驚かされるばかりであった。


もう一つ聞かれたのが次郎三郎がいつ駿府へ移るかという質問であった。


「早くて三年、遅くて四年」


と六郎は答えた、これは次郎三郎が征夷大将軍に付き、秀忠に将軍職を譲るまでの期間である。


「すると家康公には、その時間が遅れれば遅れるほど良いのですな?」


と小太郎がにやっと笑い答えるのだ。


最後の質問は次郎三郎といつ会うかという事であった。


六郎は江戸近郊の狩り場なら次郎三郎は鷹狩りと称して何処へでも行けるのだからそこで農夫の振りをして会えばよい。


こうして五日に渡る激論は終わり、終わると同時に皆、また笑顔になり酒宴を始めるのだ。


その頃、箱根山を目指す一人の武士が居た。


風魔忍の一人は男に目をつけそれとなく追尾していた。


男はついに箱根山に入山し、やみくもに風魔の里を目指し始める。


風魔忍は人を呼び、男を止めた。


「この先は風魔の結界がある、命が惜しくば来た道を戻られよ」


男は忍びに「ちょうど良い、風魔の里に案内してくれ」と言い出す。


そこに風斎がやってきた。


風斎は男に「風魔の里に何の用かね?」と聞く。


これが、次郎三郎の動きを察知した秀忠の手の者であれば斬らねばならないからだ。


「六郎とおふうが世話になっているだろ?」と男は風斎に言う。


六郎とおふうの事を知っているとなれば次郎三郎側の人間である確率が高くなる。


男は腹の探り合いが面倒になったのか、「刀は渡さん、これは一応武士の最後の砦なのでな、わしの名は左近と申す、その昔は島清興と名乗っておった。」


風斎は左近の言葉で合点がいった。


「六郎殿とおふうの婚礼祝いに来て下されたのかな?」


と風斎はにこやかになり左近を受け入れるのである。


左近は風魔に着くなり女の色香を纏い美しく変わったおふうを見て「どうだい?今からでもわしに乗り換える気は無いかい?」などと本気で口説きだした。


これには六郎も小太郎も風斎も口を開けて呆然としていた。


六郎は次郎三郎と風魔衆の顔合わせの場を左近に相談した、すると左近は以外にも悩んだ。


「江戸近郊ならば柳生の目が光って居よう、駿河の増善寺でも良いが、打ち合わせるなら関東が良いか、しかしわしの姿は目立つなぁ。」


六郎が「農民に変装すれば良いのでは?」と聞くとおふうが笑いながら「左近殿の様な農民はおりますまい」と答える。


風斎が「風魔の術で顔を変えることが出来る」と言えば左近は「何気ない顔ではあるが50年来の付き合いだからなぁ」とごねる。


小太郎が「左近殿、私は今回家康公に拝謁するにあたり、僧形になる予定でした、さすれば共に剃髪するのはいかがですか?」と左近を乗せる、左近は「頭を剃るのか」と一瞬躊躇ったが、小太郎の申し出も無下にできず僧形を覚悟する。


「では、芝の増上寺でいかがかな?」


左近が小太郎達に聞く。


「家康公の事、存応和尚には私から伝えおきましょう」


と小太郎が申し出る。


芝の増上寺は徳川家の菩提寺である。


家康が関東入りした際に和尚の存応の人柄に触れ、徳川家の菩提寺と決めたのが増上寺のいわれの始まりであるが、それ以前の歴史が明らかでは無く、9世紀頃に空海の弟子である宗叡が貝塚に建立した光明寺が増上寺の前進だと言われている。


その後、室町時代に真言宗から浄土宗に改宗しその際に寺号も増上寺と改めたと伝わっている。


貝塚から日比谷に一時移った増上寺が現在の芝に移ったのは、慶長3年(1598年)に江戸城拡張に当たり南光坊天海の指示により芝へ移る事になった。


これは風水学的に江戸の鬼門に寛永寺を置き、裏鬼門に増上寺を配置するという天海の都市構想であった。


こうして芝の増上寺にて顔合わせが行われることが決まった。

ここまで読んでいただき誠にありがとうございます。

誤字脱字等ありましたらご指摘頂ければ幸いです。

これからも『闇に咲く「徳川葵」』をよろしくお願いします。

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