島左近
昨日は久々に飲んだぞ!
執筆にやる気を補充しなきゃ(笑)
大坂城本丸での年賀拝礼を終えた次郎三郎と秀忠達は京の伏見城へと戻っていた。
この頃から秀忠と正信は朝廷に徳川家康を征夷大将軍に任ずる「将軍宣下」為の工作を開始する。
その間に次郎三郎は少しでも味方を作ろうと、お梶と阿茶との三人で軍議を開く。
お梶と阿茶は女性とはいえ、その辺の並の武将より頭の切れる女性であり、お梶は独自の戦力である風魔くノ一集団を持っており、次郎三郎の身辺警護もそのくノ一集団に任せていた。
阿茶は阿茶で家康が長久手の戦いに伴うだけあり、女性軍師ともいえる程の軍略や知略を持っていた。
次郎三郎が話の口火を切る。
「我らには仲間が足りぬ、これから生まれる亡き殿の子の命も秀忠殿の心一つで奪われるのでは冥土で殿に顔向けできぬ、それだけでは無い、殿は徳川家を未来を頼むと仰せであった、秀忠殿は恐らく自分の事しか考えておるまい。」
お梶が「その為に正信殿が居るのでは?」と尋ねる。
次郎三郎は少し悲しそうに言う。
「確かに弥八郎は秀忠殿の歯止め役にはなるだろうが、良くも悪くも殿が亡くなられた今、弥八郎の忠誠は徳川家にしか無いのだよ、わしらが亡き殿の思いを実現しようとしても、それが徳川の為にならなければ弥八郎は秀忠殿に付くだろうよ。」
次郎三郎の言葉を聞いてお梶は驚き、阿茶は小さな声で「やはり」と呟く。
「わしはわし等の腹心を作りたいと思っておる、正純は好意的だが弥八郎の息子だ、最終的には弥八郎に付くであろう、秀康殿、忠吉殿、忠輝殿は今のところ命は奪われまい、それは弥八郎が許すまい、しかし秀忠殿は裏で必ず秀康殿を消しにかかるであろう、その為に宗矩などという小僧を抱えておるのだからな。」
お梶も阿茶も次郎三郎の慧眼には驚かされるばかりである、これが一介の影武者の能力なのか?
「元の木阿弥」の語源となった筒井順昭の影武者や武田信玄公の影武者はこれ程までに優秀であったのか?などと考えるが、筒井順昭の場合、死に際し嫡子・順慶の下での新体制が出来るまでの間、姿が似ている木阿弥という僧侶を使っただけであり、木阿弥事態にその様な能力があったとは聞いた事が無いし、信玄公の場合は肉親が影武者として振舞っていた為、ある程度武田の戦が出来、信玄に近い考えを持っていても不思議ではない。
次郎三郎の場合は生きて来た土壌が違うのだ。
彼は戦場に生き続け、長島一向一揆の地獄を味わい、何より「信長公を撃った男」なのだ。
家康にも長年仕え、文字、花押の手習いはもちろんの事、話し方、声、しぐさに至るまで徹底的に真似をする事をやってのけたのだ。
その上、毎日のように家康と次郎三郎は将棋と囲碁を指し、その上頭の中で合戦をしていたのだ。
これが次郎三郎を戦国武将として大きくした。
しかし悲しいかな次郎三郎の才能を理解する者が少なかった。
慶長6年(1601年)現在、次郎三郎の能力を正確に評価しているのは本多正信、正純親子、関ヶ原で次郎三郎の采配をその目で見た本多忠勝、そして側室達、石田三成もその才能を見抜いた、だからこそただでさえ頭の高い三成が次郎三郎に頭を下げ秀頼を頼むとまで言ったのだ。
そして次郎三郎の力を知り、一番恐れているのは秀忠であろう。
秀忠は家康にそっくりな次郎三郎が恐ろしくて「アレを長生きさせれば将来、私の為にならん」と隙あれば柳生に殺害させようと常に期を伺うくらいである。
伏見城では柳生忍と風魔くノ一が互いを牽制し合っていた。
とはいえ柳生忍は忍びの世界では新参者であり、逆に風魔一族は後北条家を裏から支え、甲斐武田の甲斐忍や越後の上杉の軒猿とも渡り合った言わば忍びのエリート集団である。
柳生忍がくノ一とはいえ風魔に勝てるはずもなく、次郎三郎の暗殺は常に未遂で防がれるのだ。
話は戻り、殿の腹心になりえるかどうかはわからないが、と言いながらお梶が口を開く。
「殿、おふうが京にて奇怪な噂を耳にしたと申しておりました。」
おふうとはお梶の使う風魔くノ一衆の頭である。
次郎三郎は怪訝な顔をし「奇怪な噂?」とお梶に聞く。
「はい、石田治部少殿の処刑の際、三条河原で島清興殿を見た気がすると申すのです、また同様の噂が京の街中でちらほら聞こえると申しております。」
次郎三郎は驚き「島殿だと!?」と口にする。
次郎三郎はしかしありえない事では無いと考え始めた。
関ケ原の首実検の際、島清興は首も死体も見つからなかったのだ。
もし清興が何らかの方法で関ヶ原を脱し生きていたとすれば、三成の処刑に立ち会っていてもおかしくはない。
そこで阿茶はニコニコしていた目を鋭く細め言う。
「しかし島殿が生きていたならば何故、治部殿を救わなかったかが疑問ですね」
確かにそうだ、石田三成は次郎三郎に秀頼を頼むと言い、次郎三郎も出来る限りそれに応えようと協力を心掛けてはいるが、そんな事は清興が知るはずもない。
ましてや清興は生粋の戦国武将だ。
戦国武将とは死ぬ最期の最期まで生を信じ、抗い、どんな手を使っても生き延び最終的に勝つという生き方が本来の戦国武将なのだ。
次郎三郎も清興の生存の噂には半信半疑であったが、おふう配下の風魔何名かを清興の探索に向かわせるのである。
そんな事とは露知らず、清興は「左近」と名乗り今日の街で考え事をしていた。
左近には一人従者が付いていた。
名を高坂六郎という男であった。
この男は甲斐武田の透破(武田家の忍び)の末裔で、武田四名臣と謳われた高坂弾正昌信の子孫であるとされている男であった。
六郎は天目山の戦いで滅亡した武田家の最期を看取り、そのまま大和国の山奥で隠棲していたのだが、ある時、偶然にも清興と出会い意気投合し、それ以来清興に仕える形で傍に付いて居た。
関ヶ原で瀕死の清興を脱出させたのも六郎であった。
六郎は表立って出歩く事の出来ない左近に変わり、京、大坂、伏見の情勢を探っていた。
その時に三成の処刑の噂話も耳にして、左近に報告したのである。
左近は三成を救うために六郎の強い反対も押し切り三条河原へと赴くのであった。
左近は計略も何も無く先ずは得物を手に持ち乱闘を起こし、その隙に三成を救うつもりであった。
それを晒し籠の中から制したのが三成であった。
なんと左近と三成は互いに口が利けない状況もあるかもしれないと、互にだけわかる手話による会話を会得していたのである。
六郎が「この様な事態を想定していたのですか?」と驚きながら聞くと、左近は
「口がきけぬのは捕縛された時だけでは無かろう、周囲に人が大勢いたり、また病という事もある。」
そう答えた。
三成と左近は何度か手を使い会話をしていたが、急に三成が目を閉じ下を向いたのだ。
六郎は会話が終わった事を悟り、左近に尋ねる。
「して、殿をお助けする機会はいつですか?」
左近は六郎の目を見て答える。
「殿は三条河原で死ぬと仰せだ、詳しい事は戻ってから話す。今は殿の最期を見届けよう。」
こうして三成は斬首されたのであった。
左近は宿に戻り、六郎に事の次第を話聞かせた。
「まず、殿はわしに落ち着け、助けは要らぬと仰せであった。」
六郎は驚いたが、実際助けなかったのだからそうなのであろう。
「次に殿は、家康公は関ヶ原で亡くなられたと仰った。」
六郎は更に驚いた、家康公は今も生きているではないか?関ヶ原で徳川本陣に奇襲をかけたのは島津陣だけだが、その島津も家康公には届かず撤退ている。
いったい誰が家康公を殺害したのであろうかと六郎も混乱するばかりである。
左近は続ける。
「して、その家康公の影武者は秀頼公に好意を抱いているらしい」
もはや六郎の理解をはるかに超えていた。
三成に限り嘘は言うまいが、何故徳川家の一介の影武者が秀頼公に好意を持つのであろうか?
六郎にはさっぱりわからない。
左近はその上で六郎に頼む。
「六郎、家康公の影武者の人となりを見て来てはくれぬか?」
六郎は自信満々に「殺害せずとも宜しいのですか?」と左近に問うが、左近は
「殿が家康公の影は豊臣家に敵対の意志が無いと仰せなのだ、下手に殺害すれば豊臣家への戦の口実になるやも知れん」
六郎はわかりましたと言い伏見城に向かうのである。
秀忠は秀忠で将軍宣下の為の下準備で忙しくしていた。
いよいよ徳川家の天下がくる、それも父・家康はもはやこの世にはおらず、次郎三郎を体よく柳生に片付けさせればすぐにでも二代将軍・徳川秀忠の世が来るのだと忙しさすら嬉々として方々に手紙を出していた。
秀忠も島清興の噂は柳生より聞いていた、しかし「その様な些事にかまっている暇はないわ」とにべも無く言い探索どころか思案すらせずにいたのだ。
それどころか、次郎三郎と顔を合わせるのを嫌った秀忠はわざとらしく。
「徳川が幕府を開くとなればやはり本拠は江戸であろう!江戸の町割りをせねば」
などと言い伏見を出て江戸へ向かうのである。
江戸への共は本多正信と柳生宗矩、警備は柳生衆が主に担当した。
正信はこれを好機と秀忠の裏で糸を引く何者かを探るつもりでいたのだ。
伏見には次郎三郎と本多正純、側室達が残り、京では島左近らが次郎三郎の身辺調査を行い、江戸には秀忠一行が腰を据え、大坂には淀の方と秀頼公。
忠輝は未だ修行中であるが、歴史は大きくまた急速に唸り始めていた。
ここまで読んでいただき誠にありがとうございます。
誤字脱字等ありましたらご指摘頂ければ幸いです。
これからも『闇に咲く「徳川葵」』をよろしくお願いします。




