秀忠
寒い―
氷点下の中、桐灰の製品で「マグマ」というカイロを布団の中に入れて書いています。
しかし、キーボードを叩く手先は冷たいという罠。
山中村にて謹慎中の中納言・徳川秀忠は気が気で無かった。
いつ自分に切腹の使者が送られてきてもおかしくない大失態。
その上、弟の松平忠吉は福島正則を出し抜いて一番槍の大手柄。
自分が廃嫡になるかもしれないと戦々恐々(せんせんきょうきょう)とした毎日を送っていた。
見るに見かねて自分が殿ととりなしましょうか?と聞く榊原康政や大久保忠隣に秀忠は
「一切余計な事は致すな!!弥八郎(本多正信の事)に全てを任せよ!!」
と答えるのであった。
秀忠はそんな鬱憤を晴らすが如く、近臣を遠ざけ、村人の辻斬りを行っていた。
秀忠は剣の腕に覚えはなくとも戦国の武将である。
武士に村人が敵う訳も無く、山中村で村人が何名か神隠し(秀忠に惨殺された)にあったのだ。
山中村の陣中から辻斬りに向かおうとする秀忠に一人の剣士が面会を求める。
男は柳生宗矩と名乗った。
宗矩は柳生新陰流の開祖・柳生宗厳の子でまた柳生宗厳は愛洲移香斎の弟子・上泉信綱の弟子であり、忠輝の側近である愛洲斬陽と同じ陰流の流れをくむ剣術家であった。
しかし、斬陽と宗矩の間では剣の実力世界が全く違うのであるが、宗矩はまだそのような事を知る由もない。
宗矩は秀忠に人払いを願い出るが、秀忠は大いに怪しみ4名の家臣を同席させいつでも宗矩を取り押さえられる様に用意した。
宗矩は「致し方なし」と言い、秀忠に首桶を献上し言葉を添える。
「内府様、関ヶ原で討ち死に、今大津におわすは影にござりまする。」
秀忠は首桶を開け家康の首を実検した。
笑いが止まらなかった。
「ふふふふふふふッ、ははははははははッ、死んだ!!死んだのか!!ざまぁみろ!!!」
秀忠は小躍りしながら宗矩に尋ねる。
「この事を知る者は他にあるか?」
宗矩は即答する。
「ござりませぬ。」
そう言った宗矩は抜刀し、一息の間に4人の家臣を切り捨てた。
4人の家臣は知らなかった秀忠の裏の顔を見て、唖然としていたらいつの間にか宗矩に斬られていたのだ。
秀忠は宗矩に確認する。
「そちは、何が望みだ?」
宗矩は答える。
「柳生の再興にござります。」
秀忠には自分だけの家臣といえる人間は居なかった。
榊原康政は家康の重臣、大久保忠隣も自分の本心を知らず「人の好い秀忠」に仕えているのだ。
秀忠は宗矩に聞いた。
「そちは父が好きか?」
宗矩はなぜ今その様な質問が来るかわからなかった。
父親?宗矩の父親は柳生宗厳、宗厳は関ヶ原への参戦を宗矩に止めた人物であり、戦場へ向かおうとする宗矩に
「己の功名心の為に柳生の民を犠牲にする愚か者が」
と言い捨てた人物であった。
宗矩は答える。
「大嫌いにございます。」
この時、宗矩は秀忠の腹心となったのだ。
秀忠は、にやけ顔で宗矩に声をかける。
「これよりわしのみに仕えよ、柳生に闇の手練れはおるか?それらも召し抱えよう、伊賀に後れを取るなよ?わしにも運が開けたわ!宗矩、初任務を与える、この首を大津の城に届けよ!!」
秀忠は笑いながら家康の首を大津城へと届けさせるのであった。
「さてさて、弥八郎に平八郎(本多忠勝の事)、井伊直政に榊原康政、この秀忠を徳川世子として扱わざるを得なくなったぞ?弥八郎の性格からして、まさか忠吉に事を漏らすまい。」
秀忠はもはや笑いが止まらなかった。
家康の首が届いた大津城は騒然とした。
それも秀忠の手で送られてきたのだ。
もはや徳川家の最上層部の一部の人間に隠し通すことも出来なくなり、いよいよもって合議が開かれることになったのだ。
合議を前にして秀忠は堂々と正に凱旋の如く大津城へと入城する。
合議は秀忠を長とし、本多忠勝、本多正信、井伊直政、榊原康政の五名で執り行われた。
大きな議題は「秀忠を徳川家の世継ぎと認める事」「関ヶ原での論功行賞」「次郎三郎の使用期限」であった。
「秀忠の世継ぎ」の議題で井伊直政は面白くない顔をした。
勿論今の世情で家康が居なくなれば天下は闇の中。
暫くの間は生きていてもらわねば徳川家そのものが潰れる。
しかし、直政は自分が忠吉と共に関ケ原の合戦の一番手柄を手に入れたのに、忠吉ではなく遅参の秀忠であることが不満であったのだ。
しかし、今は動くべきではないと判断した直政はそれらの不満を肚の底に沈め会議の成り行きを見守る。
次に問題が起きたのが「次郎三郎の使用期限」である。
徳川家が天下を取るまでは次郎三郎に生きていてもらわねば困るとの事で意見は一致したのであるが、榊原康政がつまらぬ事を言い出したのだ。
「皆々様はかの者(次郎三郎)の罪を問わぬつもりか?」
忠勝は康政が何を言っているのか分からなかった。
正信はくだらない言い争いが始まると咄嗟に判断し
「康政殿の言う通り!かの者は殿を守れなかった大悪人!罪を問われてしかるべき!さてかの者の罪はいかがなものか?」
と忠勝に目を向ける。
忠勝は「康政は本気でそのような事を言っているのか?」と考えていた。
そして忠勝の気性ではそのような下らない芝居に付き合う気は毛頭なかった、忠勝は尋常ならぬ殺気を放ち
「不満なら某が斬ってこよう。」
これには芝居を打った正信も冷や汗をかいた、本気で斬るつもりの忠勝に秀忠も必死で止める。
「平八郎!!短慮はならぬぞ!!」
こういったのは秀忠である、康政も焦って
「私はそのようなつもりで言ったのでは無く、罪は罪として、それを自覚した上でこの大任を果たすよう忠義をと・・・」
というが、忠勝はにべもなく
「あれはあれで己を責めている、他人が責めれば即座に腹を切るであろう、それにこのような大任を罪から逃れたい一心で出来ると康政は思っておるのか?」
と言い放った。
弥八郎はともかくとし忠勝と正純は次郎三郎に好意的になっていた。
そんな忠勝から言わせると、康政は関ヶ原遅参の原因を作った人物の一人である上に家康の死の罪を次郎三郎だけに被せようと考える事が許せなかった。
家康は合戦中敵の攻撃を受け戦死したのではない。
自陣である徳川3万の中心である本陣で、それも配下の使い番に刺殺されたのだ。
家康の死を責めるのであれば徳川3万の軍勢全てに責任があり、次郎三郎のみを責めるのは筋違いであるのだ。
しかも次郎三郎は家康の死に対し何度も己を責め、元来、気の向くままの傭兵気質の次郎三郎が徳川家康の死に対し忠義立てをし、よく働いている事を忠勝は大いに評価していたからである。
それは正純も同じ考えであった。
康政ももはや何も言えず、黙り込んでしまった。
その頃、当人である次郎三郎はお梶の方と共に居た。
次郎三郎はお梶に言う
「今頃、わしの寿命が決まっている頃であろう。」
お梶は答える
「殿の寿命ですか?」
次郎三郎は憂い顔で答える。
「恐らくわしの寿命は徳川家が盤石になるまでの期間として4~5年と言ったところであろう」
お梶は絶句する4~5年?それしか次郎三郎と共に居る事が出来ないのか?初めて愛した男性が4~5年しか生きられないのか?それに次郎三郎が追い打ちをかけるようにつぶやく。
「恐らくはそれでも伸びた方だろう、正信が決めた筈だ。」
お梶が驚いた顔で聞いた。
「殿と弥八郎殿は莫逆の友ではないのですか?」
次郎三郎は「莫逆の友だからこそわかるのだよ」と言いながらお梶の方の体におぼれた。
お梶はそんな次郎三郎を抱きしめ
「私の全てをかけてこの人を守るわ」
と改めて決意する。
次郎三郎監視という名目で傍に仕えていた本多正純は秀忠の無能を嘆き「中納言様に天下を任せるより次郎三郎と徳川近臣で治世の舵取りをし中納言様を傀儡にしてしまえば良いのに」と考えていたのである。
正純は関ケ原の次郎三郎の見事な采配や戦後の処理の巧みさに惚れ込んでいたのだ。
流石、家康最高の影武者と言われるだけはある、それだけ家康と思考が似ているのだ。
次郎三郎は元々が武士では無いので「詰めの甘さ」や「優しさ」めいたものはあるが、正純と父・正信が助力すれば完璧な家康公を作れると本気で思っていたのだ。
そうしてそれぞれが徳川の未来を憂いつつ大津の夜は深まるのである。
ここまで読んでいただき誠にありがとうございます。
誤字脱字等ありましたらご指摘頂ければ幸いです。
これからも「闇の葵」をよろしくお願いします。




