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お梶の方

筆が進まない(´;ω;`)

かじの方。


彼女は江戸城を開いた太田道灌おおたどうかんの一族の娘であり、その美貌は目が合った男性が顔を赤くしうつむいてしまう程の美女である。


家康の側室としては珍しく年若く、後家でもなかったが、その美貌と才気をある人物に推挙され家康に認められたのであった。


慶長5年(1600年)時点でお梶の方は23歳であり、女盛おんなざかりであったが未だ家康との間に子は無く、お梶はいささか焦っていた。


お梶の方が家康に近づいた最大の理由は「江戸城」であった。


自らの出自である江戸城を自らの手に取り戻す。


お梶の最大の野望であり、彼女は密かに太田家の復興を目指していたのである。


お梶の聡明さには徳川の武将たちも舌を巻くほどであった。


ある時、家康は家臣を集め、「古今東西旨いもの談義」を開催した。


徳川家臣たちは様々な名物を語りうが、家康の傍で茶をてていたお梶の方がくすくすと笑いだすのだ。


家康はお梶に


「梶は何を笑っている、そなたも名物を知っておれば申してみよ。」


とお梶に言うが、お梶は笑顔で首をふる。


家臣たちがお梶を「もったいぶらずに教えて下され」などとはやし立て、お梶はいよいよ答えた。


「塩です。」


と。


意表を突かれた諸将は確かに塩は味の素になるものだがと黙ってしまった。


家康は「では天下で一番まずいものは」と聞くとお梶は同じく「塩です。」と答えるのである。


天下の旨いものを武将同士で談義していたのだ、「すっぽん」だとか「ふぐ」だとか「まつたけ」だとか「鯛の頬肉ほほにく」だとかそういった想像をしながら語るのが各々の楽しみであったのにお梶の「塩です」という一言は幻想的な夢を壊す、ある意味「現実的」な一言であったのだ。


「ま、まぁ女性にょしょうに男の楽しみはわからぬやも知れませぬ」


と家臣達は口にした。


後日、家康と先日「旨いもの談義」をした武将をお梶が食事に招待すると言い、武将たちは「塩」の一件もすっかり忘れ相伴しょうばんにあずかった。


何とそこには先日「旨いもの談義」で語り合った「天下山海の珍味」が勢揃いし家康と諸将を大層喜ばせた。


そして、家康が橋を付けた後、諸将も様々な珍味を口に運ぶが、全く味がしないのだ。


それもそのはずお梶は全ての料理を「塩抜き」し無味の料理を出したのだ。


家康はお梶のこの意趣返しともいえる「いたずら」を大層気に入り


「お梶が男であればなぁ」


と呟いたという。


そんなお梶の方も関ヶ原まで同道させたが、合戦時は本陣では無く近くの山中村やまなかむらへと逗留させた。


戦も終わり、家康が大津城に入城したという知らせを聞いたお梶の方はすぐさま大津の城へと向かおうと輿に乗ろうとする。


しかし、大津に家康参着を伝えに来た伝令兵とは他の伝令兵がお梶の方はもう暫く山中村へと逗留とうりゅうするようにとの「次郎三郎」の命令をお梶に告げるのだ。


お梶はその伝令を突っぱね大津城に向かおうと輿こしに乗ろうとすると、伝令として来たはずの若武者がなんと輿を一刀両断したのだ。


お梶の方はこの行為に戦慄した、間違っても家康の側室である自分に刀を向けたのだ。


そしてその命令は三河の兵にとって絶対的な主君である「家康」から発せられているのだ。


そうでなければ「家康の愛妾あいしょう」であるお梶の方に対し刃を向けるなど許されざる行為なのだから。


お梶の方は伝令兵にここまでさせる命令を下させた「家康」が何を考えているのかわからなくなり、「輿が駄目ならば」と次に馬に乗ろうとする。


すると目の前に立ちはだかった伝令兵が悲しい顔をして


「馬まで斬らせないで頂きたい」


と言葉にしたのだ。


お梶の方は顔を真っ青にして唇を噛みながら大津城の方向を睨みつける。


「殿、わたくしをこの様な目に遭わせた仕返しをしてあげますよ」


とお梶の方は怨み言を発した。


その姿をしてなお美しさを保つお梶の方に伝令兵は思わず見惚れてしまうのであった。


一方その頃大津城。


次郎三郎と忠勝はお梶の対策に必死であった。


「最悪斬る」


と決断したものの次郎三郎は極力自分のせいで人が死ぬのが耐えられなかったのだ。


この優しさは戦国大名・徳川家康には無いものであり、次郎三郎が大名でない故の弱さであったが周りの武将たちには無い武器でもあった。


戦国武将は合理的でなければならない。


合理的でなければ戦には勝てないし、戦況も正確に把握できないからである。


「潔く腹を切る」「二君にくんに仕えず」という精神がさむらいに根付いたのは江戸に幕府が開かれ、これからの武士は幕府に忠誠を誓わなければならないと幕府が広めた「日本儒学」の思想であったのだ。


戦国武将は「何が何でも生き延び、主君を何度変えようといつか必ず再起を果たし、最後の最後まで戦い抜く」というのが主流の精神であった。


それ故、腹を切るという時はもう何をしても駄目であるという時であり、石田三成いしだみつなり宇喜多秀家うきたひでいえも潜伏し意趣返しの機会を狙うという選択をしたのだ。


そして次郎三郎はお梶を即座に斬る気にはなれなかったのだ。


「忠勝殿、斬るにしても男が要るぞ」


と次郎三郎は忠勝に言う、家康の側室と不義密通ふぎみっつうをしたとなれば斬られても仕方がないのであるが、そこに巻き込まれる人物も忍びないと次郎三郎は考えていた。


「大津にお梶を呼び、わしが説得を試みる、それで駄目ならば斬るという事で良いか?」


と次郎三郎は忠勝に言い、忠勝もそれに同意した。


そんなやり取りを影で見ている者があった。


その者はお梶の下へ急ぎ走り、見たままを報告する。


お梶の方がまず最初に聞いたのが


「傍に女子があったか?」


と聞く、その者は「いいえ」と一言答えた。


お梶も女の可能性は低いと思っていた。


数か月と陣を張る城攻めの場合は近隣の村から女を調達するという事は珍しくないが、今回の戦は野戦である、そのような暇があるはずが無いのだ。


お梶はその答えを聞きお梶はまさかと


「殿は病ではあるまいな?」


と次の可能性を探る、その問いにも「否」と答えられ


「大殿はご健勝の様子、近くに女子もおりません、本多忠勝と談合しておりました」


と続けて答えた。


この者、お梶の方の子飼いの風魔忍ふうまにんでありお梶が関東にいた頃から仕えているくノ一集団の棟梁であった。


お梶は「ではなぜ殿は私を遠ざける?」とますます不思議になったが、そんな出口のない迷路をさまよって居ると、山中村に思いもかけない人物がやってきたのだ。

ここまで読んでいただき誠にありがとうございます。

誤字脱字等ありましたらご指摘頂ければ幸いです。

これからも「闇の葵」をよろしくお願いします。

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