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南光坊天海の誕生

忖度という言葉使ってみたかったんです。

という訳でどんどん改訂(書き直し)をしていきたいと思っております。

変わらぬご愛顧を頂ければ嬉しく思います。

太閤たいこう豊臣秀吉とよとみひでよし


彼は足軽という身分から織田信長に取り入り、立身出世を果たした天下人である。


織田信長は身分に囚われない人材登用を行った。


足軽の子である日吉ひよし(後の豊臣秀吉)であったり、忍び出身の滝川一益たきがわかずますであったり、牢人ろうにんであった明智光秀あけちみつひでであったり。


その才能があるならば用いたのが信長の人材登用であった。


しかし、そうして登用された人材たちは普通の武将よりも格は下の扱いであり、そこからまた出世をするには相当の努力が必要とされた。


それが命懸けの手柄である。


織田信長という大名は冷酷極まりない戦国大名と思われがちであるが、そんな事は無い。


失敗はその経験を活かし、次にそれを上回る手柄を上げれば許されるのが信長のやり方であった。


裏切りに対しても寛容であり、柴田勝家しばたかついえ林秀貞はやしひでさだ松永久秀まつながひさひでなど、信長を裏切っていても、有能であれば裏切りを許すと言った寛容さを持っていた。


しかし、今の処遇に満足しあぐらをかいている武将には厳しかった。


織田家の重臣として長年仕えてきたが武功が少なかった佐久間信盛さくまのぶもりや反逆していたがそれを挽回しようと努力をしなかった林秀貞等は追放処分を受けたりした。


長年仕えてきた佐久間信盛は追放される前に挽回の機会が与えられていたが、信盛はそれを受けずに追放されている。


信長は武士が自ら何も生み出さない事を知っていたのだ。


百姓は田を耕し米を作りそれを納める、商人は物を仕入れ販売する事により金銭を循環させ税を納める、職人は様々な分野で人々を助け生活を営んでいる。


では武士は何を生み出すのか?戦を生み出しただ破壊するだけである。


信長はそんな破壊しか生み出す事の無い武士に「世の秩序」を生み出させる為に自分の配下には厳しく当たったのだ。


そんな信長は宗教勢力が政治に関わる事を大いに嫌った。


当時の宗教勢力の多くは腐敗と堕落しきっていた。


大名と同じくらいの力を持ち、敵対する大名家に「宗教弾圧である」と称し一向一揆を誘発した「本願寺ほんがんじ」や王城鎮護おうじょうちんごを笠に着て僧兵がやりたい放題暴れまわった「比叡山ひえいざん延暦寺えんりゃくじ


信長はこれらの宗教が織田家と敵対する大名家の人間をかくまったり、織田家に対して「仏敵ぶってき」と称し一向一揆を起こさせる事に腹を立てた。


そもそも宗教とは衆生を幸福に導く為にあるものでなければならない。


それはどの宗教であっても同じである。


その宗教が特定の大名家に加担し特定の大名家(この場合は織田家)に戦を仕掛けること自体がおかしいと思っていたのだ。


信長はこれら宗教に対しても最初から根切ねぎり(皆殺し)を画策していた訳では無い。


勿論何度か罪人の受け渡しや、武装解除など再三再四勧告を促している。


それを無視した宗教側といくさになっただけであり、後世に伝わるほど無体な事をしていた訳では無かった。


確かに伊勢長島一向一揆や比叡山焼き討ちでは多くの人間を殺戮している。


伊勢長島では何度も何度も懲りずに蜂起する一向宗徒に降伏勧告をするが全く応じなかった為、致し方なく一向宗徒を殺戮し、比叡山では僧兵のみならず、やりたい放題行っていた僧兵を見て見ぬふりをしていた、高僧やその他の僧侶達、女人禁制であるにも関わらず何故か叡山にいた女たちをこれもまた殺戮している。


信長は腐りきったこの国の膿を出したのだが、生まれついての性急さが周囲の理解を得られなかっただけなのである。


日本人は往々にして急激な変化を嫌う傾向にある。


今の日本にしても、第二次世界大戦の後「アメリカが作った」と言っても過言ではない「日本国憲法」を日本の政府はありがたがって使っている。


憲法の解釈を少し変えるにしても、それに対する反発はかなり大きい。


今ですらそうなのだ、400年以上前「古来の仕来り」を大切にした日本において信長の存在は脅威以外の何物でもなかったであろう。


信長は、初めて地球儀を見た時に日本の小ささを知った。


南蛮人が多くの大名の所を周り、地球儀を見せ日本を指さすとその小ささに馬鹿にされたと怒り狂う大名が多い中、信長は怒る事無く日本の小ささを理解し、世界の広さを理解した。


元来性急な信長はこの小さな島の中で、やれ大名だ!やれ領地だ!と戦に明け暮れていてはいつの日か大陸に従属される日が必ず来ると確信していた。


そして小さな島であるからこそ、そのうち論功行賞で与える領地が少なくなる事も理解した。


そんな信長は茶器を使い、茶器に領土と同じくらいの価値を持たせる事により、論功行賞で領地の代わりに茶器を与えるという手段を採用したのだ。


信長の改革の多くは日本の古い伝統を否定するものでもあった。


そんな中、信長の家臣にあって日本の伝統を大切にする者が居た。


明智光秀である。


彼は元は美濃源氏土岐氏みのげんじときしの流れを組む明智氏の出身であり、長良川ながらがわ斉藤道三さいとうどうさんが息子の義龍よしたつに討たれるまで道三に仕え、道三が死に斉藤家を出奔。


各地を流れ、足利義昭あしかがよしあきに仕える事となり、信長と義昭をめぐり合わせた人物である。


彼の所属は義昭と信長の両者に仕える形となるのだが、光秀は「古来の仕来り」を大切にする人物であり、朝廷を幕府を決して軽んじる人物では無かった。


そんな光秀と信長の間に初めて齟齬そごが生まれたのは、己がめぐり合わせた室町幕府第15代将軍・足利義昭を追放し室町幕府を終焉に追い込んだ時である。


光秀は足利義昭の追放と室町幕府の終焉は義昭の自業自得であると納得をしていた、だが心に少しばかりのしこりはあった。


義昭は信長の力添えで将軍になったにも関わらず、信長の性急すぎる革新的な考えについて行けず、全国の諸大名に「打倒信長」の書状を乱発し「信長包囲網」なるものを二回も作り上げたのだ。


義昭は決して無能なだけの将軍では無かった、その証拠に二度にわたる信長包囲網は信長をかなり苦しめ、信長に何度も死を覚悟させた。


室町幕府を滅ぼした信長は、ようやく自分の目標に向かい邁進し始める。


その一つが安土城の築城である。


安土城は信長の野望を垣間見える趣向が多々あったのだが、そのうちの一つが光秀を驚愕させる。


本丸御殿が内裏の清涼御殿せいりょうごてんを模していたのだ。


これは時の帝である正親町おおぎまち天皇を行幸ぎょうこうさせるという計画を信長が持っている可能性があるという事であり、光秀はこの行幸が叶えば信長はもっと恐ろしい事を言いだすやも知れぬと危機感を募らせた。


天正てんしょう10年(1582年)


信長は朝廷から征夷大将軍せいいたいしょうぐん太政大臣だじょうだいじん・関白の三職推任さんしょくすいにんの申し出を受けてこれをすべて拒絶した。


その時、宣教師ルイス・フロイスは信長の言葉を聞いたという。


「予がいる処では、うぬ等(イエズス会宣教師)は他人のちょうを得る必要がない。何故なら、この信長がすめらぎであり、内裏だいりであるからな。」


と発言した。


光秀はこの発言を漏れ聞き愕然とした。


信長のこの発言から推測できる三職推任を拒絶した真の目的は、今迄どんな権力者も成し得なかった皇位の簒奪さんだつ、もしくは「禅譲ぜんじょう」を帝に迫るのでは無いか?


禅譲とは帝位、又は皇位など地位を血縁者でない有徳の人物に譲ることである。


実際には、歴史上禅譲と称していても譲られる側が強制して行われていることが多い。


また、天子に限らず、比喩的に地位を平和裏に譲ることを禅譲、無理やり奪うことを簒奪と呼ぶことがあった。


これは大陸ではかなり行われている例があった行為であり、今まで日本ではたまたま誰も成し得ていない事であった。


光秀はこの疑問を信長に対しぶつけた。


「上様に於かれましてはよもや帝に申し奉り禅譲をお考えではござりませぬか!?」


信長にとって「禅譲」などこれからの日本が海外と戦うための計画の内の一つの通過点でしかない。


「それがどうした?」


光秀は信長が朝廷に対する一大事を「それ」で片付けた事に驚愕する。


「上様!それはなりませぬ!帝とは日ノ本が古来より畏れ敬う尊い・・・」


信長は光秀の申し状に苛立ち


さかしい事をぬかすな!!そんな事はうぬに言われずとも!わかっておるわッ!!」


そう怒鳴りつけ光秀を蹴りつけた。


「何卒!何卒!お考え直し下さい!」


光秀が信長にすがりつく。


信長はそんな光秀を何度も蹴りつけ


「うぬの様な輩がこの国に多くいる故、内裏だいりなどという何も産み出さぬ者共が偉そうに民を食い物にしておるのがわからぬかッ!!」


これは信長の本音であった。


天皇家という「家」に産まれたまたま皇族であっただけで、特別視される。


そこには衣食住は保証され病になれば当時は高価で庶民は手も出せなかった薬や医師も呼ぶことが出来る。


なにも皇族だけではない。


公家という存在は、国に住み着くダニの様なものであると信長は考えていたのだ。


同じ年頃の農民の子は生きる事ですら明日をも知れぬ苦労をしているというのに、身分というものがあるから、戦乱の世はいつまでたっても終わらない。


信長は信長で日本の平定にここまで時間がかかった事が民に対し申し訳ないとさえ思っていた。


光秀は信長と自分の考えにこれ程の違いがあるとは思いもよらなかった。


信長が見るこの国の未来は、光秀が見るこの国の安寧とは全く違うものであったのだ。


同年、信長の考えが理解できなくなった明智惟任日向守光秀あけちこれとうひゅうがのかみみつひでは京・本能寺にて謀反を起こすのだ。


光秀と信長の諍いを素早く察知していた男が居た。


当時は信長の命により中国地方を攻略していた日吉改め羽柴筑前守秀吉はしばちくぜんのかみひでよしである。


筑前というのは現在で言う福岡県西部である。


信長はまだ手に入れていない九州の福岡県西部をこの秀吉に任せようといった意味合いで筑前守の官位を与えていたのだ。


これが何を意味するか。


信長は筑前より大陸に遠征を仕掛ける算段であったのだ。


その為の性急な天下布武。


自分がまだ生きている内に大陸を制覇しなければ、吹けば飛ぶようなこの島はいずれ飲み込まれる。


信長の危機感は相当なものであったのだ。


秀吉は光秀の感情の動きに敏感であった。


光秀の気性を知っていたからこそ、信長と光秀の互いの相剋を予想できたのだ。


当時、中国の覇者たる毛利家と対峙していた秀吉はあの手この手で備中高松城を攻めていた。


毛利方についた女子供約二百名を国境で磔や串刺しにしたり、毛利家の気勢を削ぐために手段を選ばなかった。


備中高松は城の周囲を水攻めにし、城中の兵を飢え死にさせる策に出たのだ。


水攻めはまず川から水を引く為の堤防を作る所から始める。


その後、川から堤防の中に水を引き入れ城の周囲を水浸しにするのだが、水は周囲の村や城の様々な汚物と混ざり合い、とてもでは無いが奇麗な湖になるとは言えず、その水に浸かったが最後、兵糧米も食すことが出来なくなる。


水攻めをし、戦が終わったあと土地に戻る農民達は苦労して田畑を元通りにするのだ。


下層身分から出世した秀吉が信長に対しアピールの意味合いも込めた策略ともいえるこの水攻めであったが、信長に対する秀吉のゴマすりはここでは終わらない。


「この猿めの軍勢では到底毛利に敵いませぬから上様の御力添えを頂きたく」


などとと信長に手紙を出し、出陣を求めていたのだ。


全てはこの水攻めを信長に見せ、驚いてもらうためと言っても過言では無かろう。


信長も秀吉が本来自分の軍勢が居なくとも毛利をかなりの所まで追い詰めていた事は承知していた。


それでいて敢えて秀吉のゴマすりに乗ったのだ。


秀吉のゴマすりが見え見えであった信長は出陣を急がなかった。


先に光秀を秀吉の援軍として差し向ける。


信長は1年以上上洛していなかった為、様々な人物が信長に拝謁したいと押し掛けた。


信長は在京中は本能寺を宿舎にするのが慣例であった。


本能寺は日蓮の流れを組む法華宗の寺であり、信長はその中でも日承上人の言葉にはよく耳を傾けた。


信長はよく宗教の敵と思われがちであったが、信長が敵対した宗教はあくまでも宗教を語り政治に介入したり、民を救う筈の教えで弱い民を食い物にする宗教であり、純粋に開祖よりの教えを研究し、常に新たな解釈を実践し民人を幸福に導こうと勤める僧侶に対しては一定の敬意を払っていた。


日承上人もそんな僧侶の一人であり、そんな日承が住職を務めた本能寺を信長は自分が泊まる宿坊として使っていたのだ。


信長は光秀の翻意に気付かなかった。


光秀ほど頭の良い人物であれば物事の正邪を判断できるであろうと高を括っていたのだ。


そんな本能寺では信長が茶会を催していた。


信長は自分の持つ名物を惜しみなく披露し参加した公家や僧侶など約40名は茶を楽しみながら名物の風格を味わうのだ。


茶会が終われば今度は酒宴になり、妙覚寺から信長の嫡男・織田信忠おだのぶただが信長を訪ねてきた。


信長と信忠は久々に親子の酒を酌み交わし、性急な性格の信長にとっては珍しくとても穏やかな時を過ごしていた。


信忠が妙覚寺に帰った後も信長は寝る迄、囲碁の対局を見物していた。


本因坊算砂ほんいんぼうさんさ林利玄はやしりげんの一局である。


本因坊算砂は信長に「まことの名人」とまで言われた囲碁の名人であり、相手の林利玄はその算砂とライバルであると言われていた打ち手であった。


信長はこの名人同士の対局を見物していたのだが、対局は三劫さんこうという膠着状態に陥ってしまう。


信長の御前試合と言う事で両者命懸けの本気の勝負である為に一歩も引けなかったのだが、信長が両者の顔を立て


「今宵は良い勝負であった、うぬ等の力が拮抗しているからこそ三劫という手が出来たに相違ない、うぬ等は命懸けで対局した事はこの信長がしかと見届けた。今宵の盤面はこのままにしておく故、今後も研鑽に励め。」


信長がこう言わねばどちらかがわざと負けなければ対局は終わらず、わざと手を抜いた方は首を討たれるのが御前試合の常識であった。


こうして信長は就寝するのであった。


安土で信長と光秀の二人が激しい言い争いをした辺りから、どうも光秀の動きにきな臭さを感じ始めた秀吉は、毛利の外交僧がいこうそう安国寺恵瓊あんこくじえけいを密かに呼び出し、いつでも和睦できる準備だけは整えておいた。


近々、明智光秀が先鋒となり信長が出陣するという報は毛利にも届いていた為、これ以上戦っても勝ち目はないと悟った毛利家の宿老の一人である小早川隆景こばやかわたかかげは「備中高松城主である清水宗治しみずむねはるの切腹で城兵の命は助けてほしい」という条件を提示する。


光秀の動きを逐一探らせて報告させていた秀吉は光秀が京・愛宕山あたごやまで開いた連歌の会の内容を聞き、黒田官兵衛孝高くろだかんべえよしたかにその内容を詳しく分析させた結果、毛利との和睦を急ぎ取り付けた。


同時に、自ら子飼いの小姓である石田三成いしだみつなりに備中高松から姫路までの街道沿いの村々にいつでも2万近くの兵が通っても食えるだけの炊き出しを用意させた。


秀吉は光秀が開いた連歌の会、後の世に「愛宕百韻あたごひゃくいん」と呼ばれるこの連歌に光秀の思惑を見たのだ。


官兵衛が秀吉に説明するところ光秀の発句ほっくは「ときいまあめしたしる、皐月さつき哉」というものであった。


この「時」は明智氏の主流である土岐とき氏がかかっており、「雨が下しる」には「あめ下治したしる」となりあめとは即ち天皇の事を指し「る」という言葉であるがこの言葉の主語として相応しいのは天皇だけなのである。


「天が下治る」という言葉は即ち天皇の下、日ノ本を統治するという決意の表れであると官兵衛は読んだ。


「恐らくは内裏が明智殿についておりますな。」


官兵衛が秀吉に進言する。


秀吉は信長の一大事になるかもしれないというのに横になって官兵衛の話を聞いていた。


「あのたわけが上様を刺してくれるなら勿怪もっけの幸い、あとは頭の固いキンカンを握りつぶせばひょっとすればひょっとするのォ」


秀吉はにんまり笑って官兵衛に答える。


「しっかしあの上様の事、キンカンの考えなど読んでおられるのではないか?」


秀吉は官兵衛に問う。


「上様は今が一番危うい時なのです。」


官兵衛の言葉に秀吉は不思議そうに首を傾げ「なぜじゃ?」と聞く。


「織田家は今までずっと大きな敵に囲まれておりました。桶狭間の今川義元いまがわよしもと公に始まり、足利義昭公が形成した織田家包囲網。上様にとってあの包囲網は宗教との戦いの始まりでもありました。」


秀吉が思い出したように答える。


浅井長政あざいながまさが謀反したときゃあ、わしも死ぬかと思ったでよ。そういえばあの時、窮地を助けてくれたのは徳川殿とキンカンじゃったのう。すっかり忘れておったがや!」


秀吉は笑い始めた。


「しかし長政が謀反したおかげでお市様は未亡人!わしが天下を取ればお市様すら抱けるというものよ!キンカンめ!はよ本能寺に攻めこみゃあ!」


秀吉は信長の妹であるお市の方に執心であった。


最下層身分から成り上がった秀吉にとって信長の宝ともいえる妹を抱く事は一つの野望でもあった。


「続けて宜しいですかな?」


官兵衛が鼻の下を伸ばした秀吉に問う。


秀吉は官兵衛の能力は高く評価していたのだが、こういったどこか影のある陰気さが好きになれなかった。


官兵衛が陰気に見えたのは昔からでは無く、信長に対し突如謀反を起こした摂津有岡せっつありおか城主・荒木村重あらきむらしげを説得しに行った時に逆に捕らえられた。


官兵衛は土牢に一年間幽閉された結果、皮膚病を患い、膝が曲がったまま足腰が立たない状態まで追い込まれ、結果後遺症を残す。


その面相が陰気に見え、片足も杖を突いて歩くという本人からすれば仕方のない事なのだが、周りからは有岡を出た後、影を纏うようになったと言われた。


「あぁ、続けてくれ。」


秀吉が官兵衛に促す。


「第二次織田家包囲網が敷かれた際は、敵方の要として武田信玄たけだしんげん公が甲斐の国から西上してきました。しかし信長公に天運があり信玄公は野田城で病死し、浅井長政、朝倉義景あさくらよしかげといった上様に敵対した諸将はことごとく討ち取られ、上様の宗教との戦いの最たるものであった一向宗の総本山であった本願寺ほんがんじを見事退去させるに至りました。」


「上様は生きておったら本願寺の跡地にどできゃあ城を建てるらしいで、安土の城は住む城で戦国の城でねぇからなぁ」


秀吉が草により仕入れた情報を語る。


「室町幕府も義昭公を追放したことにより終焉を迎え、後の強敵は越後の上杉謙信うえすぎけんしん公でありましたが、上様とは手取川てどりがわ干戈かんかを交えた後、病でなくなっております。そして今、上様の覇業を止める事の出来る大名は一人として日ノ本に居りませぬ。これが上様の僅かな心の余裕となっているのでしょう。」


官兵衛は信長の危うさをひとしきり秀吉に説明した。


「キンカンは立つと思うかい?」


秀吉は官兵衛に問う。


「十中九は立つでしょう、上様の野望と明智殿の秩序の食い違いはもはや目に見えるほどになっております。明智殿に内裏が味方すれば迷わず立ち上がるでしょう。」


秀吉は笑いながら信長が討たれる報を備中高松でじっくり待つのである。


光秀が本能寺にて信長を討った報は畿内きない(京に近い、山城やましろ大和(やまと)河内(かわち)和泉(いずみ)摂津せっつの五か国)全域に知れ渡った次に秀吉の下に届いた。


「やった!やりおったわ!あのたわけ!本当にやりおったわ!」


秀吉は喜びのあまり陣中で小躍りしていた。


「御運が開けましたな」


秀吉の耳元でささやく官兵衛。


本能寺の訃報を聞いた後の秀吉の行動は早かった。


備中高松城を囲んでいた秀吉は即座に隆景の条件で毛利家と和睦をする。


その裏で秀吉は石田三成にかねてより用意させていた炊き出しを命じ、義理の兄弟である浅野長政あさのながまさに先発の兵を率いらせ備中から撤退を始めた。


秀吉のあまりにも素早い行動に毛利家も驚いたが、宗治が切腹し羽柴軍が引いた後、明智光秀が出した「羽柴軍を釘づけにして欲しい」旨を書いた本能寺の事変が毛利軍にも届いたのだ。


追撃を主張した毛利家のもう一人の宿老・吉川元春きっかわもとはるを隆景は「和睦は成ったのだから」と諫め、羽柴軍の逃亡を許した。


秀吉は己の兵に「小便は走りながらしろ!飯は走りながら食え!水も走りながら飲め!この戦に勝てば女も抱き放題だがや!」等と鼓舞し、備中高松から兵庫まで2万以上の兵を引き連れ約10日間で走破している。


こうして羽柴秀吉による前代未聞の「中国大返し」は決行され、信長の仇たる明智光秀と山城国・山崎にて対峙するのである。


光秀は本能寺で信長を討った後の情勢が全く理解できていなかった。


まず光秀が本能寺で信長を討ち取った原因の大部分を占めた所は朝廷の忖度があったからである。


信長の言動や行動に皇位簒奪の意志ありと信長の底意を推し量った朝廷は水面下で朝廷への忠誠心篤い明智光秀に接触し、表沙汰に出来ない正親町天皇からの勅命で信長を討ち滅ぼした。


光秀は本能寺で信長を討ち取った後、安土城を接収し、そこに納められていた金銀財宝や名物を家臣に分け与えている。


安土では正親町天皇の嫡子・誠仁親王さねひとしんのうより吉田兼見よしだかねみが勅使として訪れ、正式に京都の治安維持を光秀に依頼している。


その後、光秀は所領である近江おうみ坂本さかもとに入城し近江国をほぼ手中に収めた。


ここまでは光秀の計画通りに事は進んでいた。


光秀の予想に反した動きが、畿内で起きつつあったのだ。


まずは最初こそ味方していた筒井順慶つついじゅんけいが秀吉が到着するなり手のひらを返したように離反し始めた。


次いで光秀と共に浪々の足利義昭を支え苦楽を共にした細川藤孝が信長の死に殉じて剃髪し幽斎ゆうさいと号し、娘婿で幽斎の嫡男・忠興ただおきと共に光秀に協力しない旨を伝えた。


光秀にとって高山右近ら摂津勢が秀吉に付いたのも痛恨事であった。


光秀は四面楚歌の中、羽柴勢と戦わなくてはならなかったのだ。


池田恒興いけだつねおき織田信孝おだのぶたか丹羽長秀にわながひで中川清秀なかがわきよひで蜂谷頼隆はちやよりたかなどと云った織田家の諸将が羽柴秀吉と共に山崎にて光秀と対峙する。


羽柴方には大返しで疲弊した兵力を含め約2万7千程の兵が居た。


対する明智方には約1万8千の兵力があり、1万弱の兵力差があった。


この戦は長引けば長引くほど羽柴方には不利な戦であった。


仮初の総大将として織田信孝を頂いてはいるが、実際に采配を振るっているのは秀吉であり、策略を立てていたのは官兵衛であった。


信長と乳兄弟ちきょうだいの池田恒興や織田家宿老の丹羽長秀がいつまでも秀吉の下知に従っているとは限らず、長引けば長引くほど織田家の筆頭家老である越前の柴田勝家が畿内に参じる可能性が高くなるのである。


明智討ちは何としても己の手柄にしなければならない。


秀吉は一計を案じる。


細川幽斎に宛てた手紙を偽装し、明智方に届けさせるのだ。


「かねてよりの約定の通り、惟任を背後より衝かれたし。」


光秀は幽斎をもはや信用できなかった為、戦線を大きく後退させた。


本来、この戦は明智方が天王山麓てんのうざんふもとから桂川かつらがわ宇治川うじがわへと包囲するように陣を張れば、山崎という細道を通ってくる羽柴方を殲滅することが出来、膠着状態を生み出す事となり、羽柴軍は時間経過と共に自ずと足並みを乱して瓦解する事も十分にあり得たのだ。


しかし光秀の幽斎に対する不信が戦線を後退させる。


光秀は丹後田辺たんごたなべから来るかもしれない細川幽斎対策の為、長岡京ながおかきょう勝竜寺しょうりゅうじ城まで本営を下げさせてしまったのだ。


山崎という難所を抜けてしまえばあとは数で押しつぶすだけの戦になっていった。


元々数で劣る光秀は秀吉の策略にまんまと乗せられ、山崎より敗走していく。


大勢の決した羽柴軍は光秀を逃さぬ様に即座に落人狩りを始める。


しかし明智光秀はとうとう見つかる事が無かった。


秀吉は光秀に似た男を探し、その男の首を討ち取り本能寺に晒す事により、一応ではあるが明智討ちは秀吉の手で成ったという事実を作り上げたのだ。


この時光秀は変装し比叡山に逃げ込んでいた。


山崎での合戦が終わった後、叡山焼き討ちを生き残った僧侶たちが次々に叡山に帰ってきたのだ。


光秀は誠仁親王の後ろ盾でその僧侶の中に紛れ込む事になる。


誠仁親王は比叡山の僧たちに内々に指示を出し、光秀の身分を偽らせる。


ここに天台宗の僧侶「南光坊天海なんこうぼうてんかい」が誕生したのだ。


天海は暫く叡山にて山崎の合戦で受けた傷を癒した。


その間二人ほど弟子を持つ。


詮舜せんしゅん賢珍けんちんという兄弟であった。


詮舜と賢珍は天海から人心掌握や謀略、光秀が得意とした人を欺く為の72の奥義を伝授する。


「いずれ羽柴秀吉が天下を取るであろう、その際にそなた達は秀吉に取り入りこの叡山を復興させてくれ」


と天海により詮舜と賢珍は使命を託される。


天海は傷が癒え次第、各地を放浪するのだ。


光秀が叡山に逃げ込んでいるかもしれないという情報を手にした秀吉は叡山の再三に渡る山門復興の許可を出さなかった。


逆に叡山側に暗に山門を復興させたくば光秀を渡せとまで言って脅している。


そこに賢珍と詮舜が秀吉の陣所に訪れ、光秀仕込みの計略や策略で秀吉の軍政や政務の相談を受ける。


賢珍と詮舜は徐々に秀吉に重用されるようになり、小牧こまき長久手ながくての戦いに出陣している秀吉に犬山城から叡山の復興を願い出たところついに許され、天正12年(1584年)比叡山山門造営費用として青銅1万貫が秀吉より寄進された。


これはもはや光秀が生きていようがいまいが自分の権勢にさしたる影響を与えないと判断した為でもあった。

ここまで読んでいただき誠に有難うございます。

誤字脱字等ございましたらご指摘いただければ嬉しく思います。

今後も『闇に咲く「徳川葵」』をよろしくお願いします。

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