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つわものどもが 夢の跡

関ヶ原の合戦もいよいよ佳境。

合戦の行方はいかに!?

小早川秀秋こばやかわひであき、寝返り」の報は三成方に付いて戦っていた諸将の士気を一気に下げた。


松尾山まつおやまからなだれ込む小早川勢約1万5千に対し知将・大谷吉継おおたによしつぐは約600の兵で松尾山の麓まで追い返すという奮闘するが、数の力には勝てず、やがて陣は崩れ吉継は敗走する。


大谷吉継は癩病らいびょう(現在で言うハンセン病)であり、常に白い覆面をかぶっていた、戦の時も馬上では無く輿の上から采配を振るっていた。


当時の仏教では癩病は前世で悪行を行った者がなる病とされて、諸大名は吉継とあまり親しく接しなかったが、三成だけは吉継にも分け隔てなく接していた。


とりわけ吉継がうれしかったのが天正てんしょう15年(1587年)に大坂で開かれた茶会の時の出来事であった。


豊臣諸侯が一口ずつ茶に口をつけ、吉継も例に習い茶を飲んだのだが、その際膿が茶碗に一滴落ちてしまった、吉継の後の者はそれを嫌い茶を飲んだ振りをし、隣に回していったのだが三成だけは茶を飲み干し、後の者が余計な気を回さないように


「美味でしたのでもう一杯所望できますか」


と申し出たのである。


吉継と三成は自然に友となり、吉継は三成の為なら死ねるとまで思うようになるのだ。


これこそが、太閤・秀吉に「100万の兵を任せてみたい」とまで言わしめた大谷吉継が最初から「負ける」と分かっていた関ケ原の合戦に三成方の将として参戦した理由であった。


もはやこれまでと悟った吉継は側近である湯浅五助ゆあさごすけを呼び出す。


まず吉継は「腹を切るゆえ、介錯をせい」と五助に言いつけるが、五助は切腹を止めようと必死に吉継を説得する。


しかし吉継の意志は固く「この病み崩れた面相を敵に見せるは武士の恥である」と五助に言い聞かせ、見つからぬような場所へ埋めよと五助に指示を出した後、


「おのれ!憎きは人面獣心の小早川!!3年の間に祟りを成してくれん!!」


と見事に腹を切ったのだ。


五助は吉継の首を桶に入れ、戦場から離れた所に吉継の首を埋めた。


その後すぐに、五助は藤堂高虎とうどうたかとらの家臣・藤堂高刑とうどうたかのりに捕縛され、吉継の首の詳しい場所を詰問されるが、自分の首と引き換えにこの付近ではあるが、吉継の首の場所は聞かず、また言わないでくれと高刑に嘆願する、高刑はその忠義心に心打たれその約束をする。


その後、次郎三郎に五助の首を差し出し実検した際に次郎三郎は吉継の義の心を知っていた為、墓の建立考えて「五助は吉継の側近、首の場所はどこだ」と高刑に問うが、高刑も五助との約定を果たし頑なに言わなかった。


高虎は少々焦るが、次郎三郎は「戦国の世にあり美しき義よ」と高刑の姿勢を評価し高刑に自らの槍と刀を与えた。


大谷勢が崩れた後は将棋倒しの如く離反者が続出した。


即ち元々内応の約束をしていた脇坂安治わきさかやすはる小川祐忠おがわすけただ赤座直保あかざなおやす朽木元綱くちきもとつな総勢約4千が小早川の1万5千と共に大谷勢の先にいた宇喜多勢にも向かって行ったのだ。


正面に福島正則ふくしままさのり京極高知きょうごくたかとも側面に小早川勢と執拗なこの攻撃に宇喜多うきた隊も壊滅し、宇喜多秀家うきたひでいえは敗走し行方をくらませる。


離反者相次ぎ、留まる事を知らずに士気が落ちていく一方の三成方、三成腹心・島清興も最期の時を迎える。


不死の如く戦場に出ては陣に戻って休み、また出ては休みと繰り返し戦っていた島清興、兵士の士気を高める為に上げるその怒号「かかれぇ!!!」と何度も何度も突撃してくる様は黒田長政くろだながまさ細川忠興ほそかわただおき陣営の兵を恐怖させていた、が「お味方優勢」の報を受け長政は清興に鉄砲隊で一斉射撃を行う。


清興は鉄砲玉を何発も体に受け、なお進んでくる、しかし黒田の鉄砲隊ももう一度斉射した時が清興の最期であった。


「殿、一命捧げ奉る。」


島清興の壮絶な最期とその何度も立ち上がり向かってくる様は、戦が終わった後も黒田の兵達の夢に出てくる程の光景であった。


三成は清興の戦死の報を受け、自刃するつもりで鎧を脱ごうとするが、近習たちに必死に止められる。


近習たちは「今一度、佐和山にてもうひと合戦!」と三成を説得し、三成は関ヶ原から逃亡するのであった。


次郎三郎じろうさぶろうはようやく肩の荷が下りたと本多忠勝ほんだただかつ本多正純ほんだまさずみと顔を見合わせ安堵し、勝鬨かちどきをあげる。


徳川方諸将が勝鬨を上げている最中、三成方で一隊だけ全く動いていない隊があった。


島津隊である。


数は1500と少なくとも一騎当千と言っても過言ではない島津隊。


戦に参加せず、時期を見ていたらいつの間にか周りは敵だらけ、味方であったはずの隊もいつの間にか敵になっていて、もはや徳川方に包囲され進も退くも身動きが取れない状況であった。


島津隊の大将・島津義弘しまづよしひろはこの状況をどう切り抜けるか考えた。


故事にこんな言葉がある「死中に活を求める」義弘はこれを断行する。


島津隊1500をもって一塊となし、家康(次郎三郎)の本陣に突撃するという命令を下すのだ。


島津隊の士気はは烈火の如く燃え上がり、「家康倒すべし!」の一心で突撃を開始した。


島津隊はまず手始めに福島正則ふくしままさのりの隊を突貫する、その突撃に福島隊はにわかに混乱し、抜かれてしまう。


更に寝返った小早川隊を抜け、松平忠吉まつだいらただよし隊、井伊直政いいなおまさ隊、本多忠勝ほんだただかつ隊と徳川の旗本部隊も抜け、次郎三郎と島津隊の間に遮る隊が無くなっていた。


次郎三郎は島津隊に向け殺気を放ち太刀を抜く、本陣の兵が次郎三郎の前に盾となり立ちはだかり鉄砲を向けるが、義弘は転進、そのまま関ヶ原から撤退する。


島津は撤退戦も凄まじかった、殿があぐらをかき鉄砲を構えて敵将を命尽きるまで撃ち続け、抜かれたら次の殿がまた同様に命尽きるまで鉄砲を撃ち続けるという「がまり」というもはや戦法と呼んで良いのかどうなのかもわからない戦術を使ったのだ。


しかしその島津の男達は追撃してきた松平忠吉と井伊直政の狙撃を成功させる。


約1500名いた島津の兵も、次郎三郎から追撃中止の命が出される頃には約80名となっていた。


島津方はこの戦で義弘の甥である島津豊久しまづとよひさまた重臣である長寿院盛淳ちょうじゅいんもりあつ肝付兼護きもつきかねもりらが戦死した。


この「島津しまづ退ぐち」を最後に戦国史上最大の野戦である「関ケ原の戦い」が幕を下したのであった。

ここまで読んでいただき誠にありがとうございます。

誤字脱字等ありましたらご指摘頂ければ幸いです。

今後も「闇の葵」をよろしくお願いいたします。

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