関ケ原「布陣」
おはようございます!
今日も私用の為、朝早い投稿になりました。
まだ眠いです(´Д⊂ヽ
大垣城に腰を据えていた三成方諸侯の下に奇怪な噂がもたらされたのにそう時間はかからなかった。
「家康が大垣城を避け、佐和山城へ進軍する」
これに慌てたのは三成である。
佐和山城には三成の父、妻、兄が留守を守ってくれているのだ。
また、諸侯も「家康め、肩透かしを食らわすつもりか」などとそれぞれ口にする始末。
佐和山城を抜かれたら「京」「大坂」まで一直線なのだ。
三成にとってもこれは避けたい事態である。
三成は味方の諸侯を集め、至急軍議を開く。
宇喜多秀家、島津義弘等は信長の「桶狭間の戦い」の例に習い、家康本陣に奇襲をかけるべしと三成に主張する、しかし三成は
「奇襲は小人数で行うもの、そのうえ当方今宵は雨、この雨の中では敵も味方もわかり申さず、当方の総大将は秀家殿です、その秀家殿に何かあっては取り返しがつきませぬ」
と却下する、負けじと秀家は
「小人数で良い、清興は成功したではないか」
などと食い下がるが、結局秀家の意見は却下されてしまう。
結局、三成方の軍議は「関ケ原にて敵を迎え撃つべし」との方針で固まるのであった。
一方その頃、家康本陣では冷たい雨が降り注ぐ中、家康は憂い顔であった。
「億劫な雨であるな」
家康は4男・松平忠吉と井伊直政を密かに本陣へ呼び出した、そして重要な役割を忠吉に伝える。
「忠吉、此度の戦では死んでもらうぞ?井伊直政と共に先陣をあい務めるべし!」
家康の命は既に先陣を承っていた福島正則を出し抜けという者であった。
忠吉は喜び勇んで「畏まりました!ありがたき幸せ!!」と答え直政と共に自らの陣へと戻る。
次郎三郎と二人きりになった家康はため息をつき、心中を吐露する。
「はぁ、年老いて、骨の折れる事かな、倅がいたらば、かかる苦労も無かったろうに。」
次郎三郎は珍しく家康の意図を勘違いする。
「中納言(秀忠の事)様も追って駆け付けましょうぞ。」
次郎三郎は「倅」とは嫡子・秀忠の事だと思い込みそう答える。
しかしそんな次郎三郎に家康は吐き捨てるように
「その倅ではないわッ!」
次に家康は悲しそうな顔をして
「もう間もなくな、長男・信康の命日なのだよ」
家康の長男・信康殿は信長公が桶狭間の戦いで今川義元を討った後、家康が義元の嫡男・氏真と敵対し、徳川の旧領三河、そして今川の遠江を切り取っていったのを不満に思っていた正妻の築山殿と共に武田家へ相通じ、武田への内通が発覚した後、信長への義理立てから切腹の憂き目にさらされた長男であった。
この築山殿は今川義元の血族であり、また信康も家康の正室であった築山殿に遠慮し領土拡大に反感を抱き、ついには築山殿と共に武田家へ通じるのである。
家康は、信康の才気に期待をかけていた分、謀反の事実に驚きを隠せなかった。
しかし一人の戦国大名として名乗りを上げた以上、敵への内通など許される筈もない、家康は泣く泣く信康を切腹とし築山殿を斬首とした。
この時、信康の介錯をしたのが服部正成であり、彼は涙を流しながら介錯したとも言われていた。
そんなやり取りが為されていた時に急報が入る。
「石田治部少大垣を出立!関ヶ原方面へと進軍しつつあり!!」
家康は待っていた!と言わん限り
「しめた!!これも信康のおかげかもしれん!!」
などと喜んでいる、次郎三郎も
「御意にございますな」
と笑顔で返した。
兄思いの忠吉はその報を聞き
「兄上(秀忠)はまだ到着せぬのか。」
と無念の言葉を吐露する。
それもそのはず、秀忠は相次ぐ信州の洪水、川の堰止め、悪路ととても3万近くの軍勢を行軍させるのは容易ではないのだ。
もはや秀忠の瞳にはもはや生気が無かった。
何とか元気づけようと榊原康政と大久保忠隣が気休めの言葉をかけるが、秀忠にとって今一番言葉が欲しい人物は、家康の腹心中の腹心であり「友」とまで呼ばれる本多正信の言葉であった、彼さえどうにか味方に付ければ家康への取り成しは難しくないのだ。
しかし正信はそんな秀忠の視線を全く意に介さず「だから言ったではないか」とも言わんばかりの雰囲気を出している。
秀忠もこれには真っ青になり、しまいには血尿が出るほど追い詰められていた。
翌日の早朝、関ヶ原は濃霧に覆われていた。
まず三成は約7千の兵を率い笹尾山に陣取り、島清興ら石田家臣を笹尾山の麓に配置する。
南宮山には毛利一族は約1万7千の兵を、その出入口は先手吉川広家が約3千の兵で陣取っていた。
松尾山では小早川秀秋が約1万5千の兵を引き連れ陣取り、徳川方、石田方を見下ろす形となる。
天満山には宇喜多秀家の約1万7千の兵と島津義弘・豊久の約1500の兵が布陣。
宇喜多隊と小早川隊を挟むように大谷吉継の兵が約3千、こうして石田方の布陣は徳川方を取り囲む様な形で布陣する、この布陣を鶴が翼を広げ多い囲むような形から「鶴翼の陣」と呼ぶ。
徳川方は家康が桃配山に約3万の兵で陣を敷き、本多忠勝が麓で旗本約500をを率い布陣。
家康が桃配山に陣を敷いたのはある故事にあやかっての事であった。
時は672年、壬申の乱のおり、天武天皇がこの地にて桃を配り快勝したという故事があったのだ。
そして黒田長政は丸山で約5千5百の兵をもって三成と相対するように布陣。
少し南下し、細川忠興も丸山麓から三成と睨み合うように約5千の兵を布陣させる。
福島正則約6千、京極高知約3千、藤堂高虎約2千5百は、宇喜多秀家、大谷吉継と対峙する。
南宮山の抑えとして池田輝政の4千5百を布陣、浅野幸長約6千5百、山内一豊約2千を桃配り山と南宮山の間の中山道に遊撃部隊として配置した。
こうして徳川方約9万、石田方8万5千とも、両軍とも10万を越したともいわれる関ケ原の戦いの布陣がほぼ完了するのである。
一息ついた家康は桃配り山にて次郎三郎に尋ねる。
「さてこの戦、そなたはどう見るかね?」
次郎三郎は笑顔で答えた。
「この戦、殿の負けにございましょうなぁ」
家康はにやけ顔で聞いていた、そして次郎三郎は言葉を続ける。
「しかし、鶴も片翼が腐っていれば飛べますまい」
家康は非常に満足気な顔をし
「さすがは次郎三郎よ、わしの意図を簡単に汲み取るとはな」
次郎三郎も答える。
「伊達に殿の書状を代筆しておりませぬよ」
家康は笑いながら
「そなたと弥八郎(本多正信のこと)と平八郎(本多忠勝のこと)が居れば徳川は安泰であるな」
などと言う、次郎三郎は
「それがしに大名など務まりますまい、それがしはただのいくさ人であり、政治や処世は殿に到底及ばぬところ、殿なしでは徳川は立ちゆきませぬよ、殿には長生きをしてもらわねば」
こうして戦国史上最大級の合戦の火ぶたは今にも落とされようとしていた。
ここまで読んでいただき誠にありがとうございます。
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