関ケ原「杭瀬川の戦い」
おはようございます!!
一日一話投稿できるように書いているんですが、如何せん筆が進まない日もあるんですよね(-_-;)
書きたい事は決まっているが、言い回しや言葉遣いなどで迷うんですよね。
他の皆さんはそんな事はあるのだろうか・・・
家康は美濃に到着と同時に金扇の馬印を天高々と掲げさせた、これには三成方に対する牽制と威圧の意味がある、しかし家康はそこで思いもかけない報告を受ける。
「秀忠が遅れるだと!!」
秀忠遅参の知らせは本多正信が信州・上田より先駆けで走らせた正信の嫡子・正純によってもたらされた。
「はッ、ただ今上田城を攻略中でして」
家康の怒りはどんどん増していく。
「まだ信州におるのか!!!」
徳川家臣団は秀忠こそが徳川の精鋭を率いているのを知っているので無論「秀忠殿を待たれるべきです」と戯言の様な進言する、その進言に家康は怒りを通り越して怒鳴りつける。
「待てば来るのか!!!」
家康の怒号はその場にいた家臣達を思わず恐縮させる。
「あの!!たわけがッ!!」
家康の怒りはなお収まらない、だがそこに冷静沈着に模様見をしていた藤堂高虎が家康に進言する。
「秀忠殿を待っている暇はございませんぞ、諸将皆々、家康殿の到着と共に三成との決戦に臨む所存と焦れに焦れてはち切れんばかり」
藤堂高虎は元々は浅井家の家臣であった、謀略や戦術の才に富んだ男であるが、また加藤清正などと共に築城の名手とも言われ、主家が滅亡した後、秀吉に仕え、秀吉が没した後は家康に急接近し、また家康も高虎の能力を高く評価していた、彼は主君を変える度に領地の石高も上がっていくという面白さを持っている武将でもあった。
家康は秀忠に正信をつけていたのだから当然、今頃は中山道を秀忠率いる3万8千の兵の内、信州・真田の兵が3千程度と調べが付いているので8千の徳川精鋭部隊を上田城と中山道の牽制に置いて来たとしても、徳川精鋭の3万が布陣している前提で策を練っていた。
それが根本から覆されたのだ。
家康は赤坂入りを日延べとし、陣に篭って策を練ると言い、高虎には諸将には「家康は風邪で寝込んでいると伝えよ」と指示を出し、戦略を練り始めるのだ。
それから数日間、家康は次郎三郎、本多忠勝、井伊直政、本田正純らと共に必死に策を練る。
今の段階では三成方に付いてる武将、小早川秀秋、吉川広家、脇坂安治、小川祐忠、赤座直保、朽木元綱が内応に応じている、これが約定通り寝返りすれば秀忠無しでも負ける事はない。
「我らの戦ぶりが優勢とみれば奴らも下手な動きはするまい、しかし万が一ということもあり得る。また南宮山の毛利勢にも気を配らねばなるまい。」
吉川広家が既に不戦に応じているが、家康方が不利と思えば怒涛の如く攻めかかってくるであろう。
そんな軍議を家康、次郎三郎、本多忠勝、井伊直政、本多正純で延々と繰り広げられた。
家康は数日をかけようやく今後の方針を固めた、まず家康は美濃赤坂にある本営に入った。
福島正則始め、黒田長政、池田輝政、藤堂高虎、山内一豊等々、徳川方の諸侯に合わせ本多忠勝、井伊直政、松平忠吉が同席した。
皆が家康の風邪の平癒を祝い、三成との決戦について今かいまかと家康に期待の眼差しを向けた。
家康の娘婿である池田輝政が。
「まずは秀忠殿の着陣を待つべし」
と言うが、福島正則が家康に対し申し訳なさそうに
「いやぁ、秀忠殿はもう間に合わないのでは?」
と答える、輝政はなお強情に
「とにかく待つべし」
と強く押し返そうとするが、また正則も熱くなり
「そなたの指図は受けん!!!」
と怒鳴る。
そんな中、不意の敵襲があった。
石田三成の腹心、島清興が急襲してきたのである。
清興は小人数で杭瀬川を渡り徳川方に攻撃を仕掛けてきたのだ。
この挑発に徳川方の将は鉄砲で応戦、家康も戦況を見ながら満足していた。
「良いぞ!良いぞ!鉄砲の玉をどんどん馳走してやれ!」
しかし、清興がすぐさま引いた時、事態は一変した。
将兵が清興を追い杭瀬川を渡り始めたのだ。
家康は真っ青になり、「追うな!罠だ!追うなと言うに!!」と叫ぶが時すでに遅し、追って行った兵は伏兵に打ち取られ三成方の士気を上げさせたのだ。
実はこの前日にはこんなやり取りがあった。
大垣城に腰を据えていた三成は徳川方が一向に動かない事に疑問を抱いていた。
「奴らは何故動かない?」
三成も隣に控えていた島清興も徳川方の秀忠本軍3万8千がまさか信州で足止めを食っているとはまさか思いもしない、しかし金扇の馬印はそれだけで街道一の弓取りと呼ばれ、天下の戦上手・徳川家康が既に美濃に到着した事を示しているのだ。
その家康の威圧に三成方の兵は士気が落ち、浮足立って逃亡する者も出てきた。
そこで三成方の諸侯の戦意を上げる為、清興が一計を案じる。
「殿、このままではお味方の士気は下がる一方、我に策あり、下知を下さればすぐにでも」
三成は「あいわかった、清興に任せる」一言答える。
三成は清興の策の内容を聞かなかった、これがこの主従なのだ。
清興の戦の才能は三成は十二分に認めているゆえ、この軍議とも言えないような会話が成り立つのであった。
家康は杭瀬川で敵を勢い付けさせた事を危険と察知し、決断を下す。
「敵を、野戦へと引きずり出す。正純!方々に忍びを放ち、家康が明朝、佐和山を攻めると言いふらせ!!」
命を受けた正純は「ハッ!」と答え早速手配をする。
忠吉が不安そうに「兄上は?」と聞いてきたので、家康はわざと諸侯にもわかりやすく聞こえるように答えた。
「見限る!!!」
こうして徳川方は三成方を関ケ原におびき出し野戦で決着をつける算段を付けたのである。
ここまで「闇の葵」を読んでいただき誠にありがとうございます。
誤字脱字等ありましたらご指摘頂ければ幸いです。
今後とも「闇の葵」をよろしくお願いいたします<(_ _)>




