小山評定
小山評定です。
慶長5年(1600年)6月
徳川家康は大坂城を出立、会津へと向かう前に伏見城の留守居役である鳥居元忠と会見する。
「元忠よ、もし、わしの留守を狙い兵を上げんと企てる者があるとすれば誰だと思う。」
元忠は間髪入れず回答する
「石田治部少でございましょう。」
鳥居元忠は壮健な老人である、家康がまだ「松平竹千代」と呼ばれていた頃から仕えていた、家康にとっては十分に信用に足る家臣の一人で、武勇においても徳川家と武田家で起こった三方ヶ原での奮迅は語り草であった。
しかし元忠はその三方ヶ原の戦いにて家康を命を懸けて守り、片足に深い怪我を負った。
その後、無事に家康と再会し謁見した際、足を折り平伏する事が出来ず、周りの家臣団から「不敬である」「不調法者」等と揶揄されたが家康が皆を一喝し元忠の足を自らの手で撫でながら
「元忠よ、この足はわしの命である」
と言ったのだ。
元忠はその場でなりふり構わず「勿体ないお言葉!」と言いながら男泣きをし、周りの家臣も自分の言葉を恥じ入った。
それ以降、元忠は家康の前で唯一、足を放って面会して良い家臣になった。
元忠はそんな昔の事を思い出していた。
家康が忠勝に尋ねる。
「平八郎よ、治部が兵を上げたとして、この伏見城に何人の兵を・・・」
「お待ち下され。」
この言葉を元忠が遮る。
「殿はこれから天下を取る戦に赴かれるのに一人でも多くの兵を連れねばなりませぬ。この年寄りに遠慮は不要、一人でも多く若い兵をお連れ下さい。伏見には老兵のみを残し、徳川の未来を、日の本の民の未来をおつくり下さい。」
家康その元忠の忠義心を心から感謝し、また気付けば涙すらしていた。
同席した、次郎三郎、本多正信、本多忠勝、井伊直政も泣いていた。
元忠は次郎三郎に向かい直る。
次郎三郎は元忠の忠義に深く頭を下げ元忠の言葉を聞く。
「次郎三郎よ、思えば其方も長い間、殿の影として仕えておるが此度が恐らく日の本最後の戦になるやもしれん。殿の御身宜しく頼むぞ?」
次郎三郎は「畏まりました」としか言えなかった。
その後、正信にも声をかける。
「其方は殿の友として同じ未来を見ておるのだろう?おぬしは頭は切れるが油断は禁物じゃぞ?」
正信は涙を溜め「わかっておるわ」と答え、忠勝には
「其方は武辺無双ではあるが裏の駆け引きが苦手じゃろう、これからは勉学にも励むべし」
直政には
「山県殿(武田四名臣の一人)より受け継いだ赤備えを存分に振るい、忠吉公をお助けするのじゃぞ」
忠勝、直政両名とも涙ながらに頷いた。
直政に忠吉を助けろと言ったのは忠吉が直政の娘婿であるからだ。
こうして元忠の「遺言」を聞いた後、今生の別れの酒宴を開き、大いに語らい、大いに飲み食い、最後に大いに泣いた。
伏見を発つ時、皆の顔に涙はなく、家康一行は笑顔で元忠と別れるのである。
その後、家康は約一月かけて江戸城に入り、総大将・秀忠は先発し会津へ向かわせる。
家康もそのあとを追うように会津に向かうのだがその前に家康は忠輝と面会していた。
忠輝と家康の面会は非公式である故、江戸郊外で行われた。
そこで家康は忠輝に詫びる。
「上総(忠輝の事)よ、そちが生まれて今迄の冷遇は許せ。」
忠輝は戸惑いながらも「はい」と答える。
そこで家康は理由を忠輝に説明した。
忠輝が生まれた年に太閤の子が亡くなった事、秀忠が忠輝の才能を見抜いたら忠輝を暗殺する可能性が高い事、伊達政宗の娘・五郎八姫との本当の意味。
忠輝は中でも五郎八姫との婚姻の意味というものに驚いた。
家康は戦国大名としては長命な方だが、いつ寿命が尽きるとも限らない、そこで若くて覇気のある伊達政宗の後ろ盾を忠輝に付ける事により、秀忠に簡単に手出し出来ないようにするというものであった。
忠輝は今の今まで父・家康に疎んじられているとばかり思っていたが、実はそれが愛情の裏返しだと知り、家康に感謝すると共に、己の不明さを恥じた。
忠輝はもっと人の心の裏を見る事の出来る男になると、固く決意するのである。
後日、家康もまた会津へ向けて江戸城を出立するのである。
その時の家康はまだ知らなかった。
既に大坂で石田三成が蜂起していたことを。
その頃、伏見城では島津義弘と鳥居元忠が押し問答をしていた。
島津家は三成方の諸将の顔ぶれの頼りなさや三成の采配に疑問を抱き、徳川方に味方をする腹づもりであった。
義弘は、かつて家康が有事の際には伏見城を頼むとの言葉に従い、元忠に助成に来たのだ。
しかし悲しいかな、情報の行き違いがあり元忠は義弘の言葉を信用できなかったのだ。
島津家は謀略や兵法が上手な大名であった。
有名な戦法で「釣り野伏せ」や「捨て奸」等が挙げられる。
「釣り野伏せ」とは少数のエサ役の部隊で敵を殺し間へと釣り出し、殺し間に敵が入ると伏兵で三方から攻撃を仕掛けるという、島津義久が考案した戦法であり、「捨て奸」とは撤退戦の際、大将が逃走する間、殿部隊から数人をその場に残し、残った数人は文字通り命を捨てて敵勢を食い止めるというもはや狂気の作戦だ。
捨て奸については現存する資料に残っている限り一度しか使われていないが、こう言った戦法を使えるのは九州の武士ならではでないだろうか。
九州の武士は「隼人」と呼ばれる事が多い。
隼人の簡単な意味は「勇猛」「素早い」「精悍」等が挙げられる。
その中でも島津家は「薩摩隼人」と呼ばれ一騎当千の強者として恐れられていた。
また、小国・薩摩から九州制覇へ王手をかけた程の謀略の大家でもあり、元忠はそこを心配したのだ。
元忠は島津の伏見入城を頑なに断り、島津は元忠の態度に大いに怒った。
「家康は、島津に恥をかかせた」
そういきり立って大坂城の三成の下へ行くのである。
元忠は敵が城攻めに来る前に伏見駐在の家康の側室達を場外に逃がし、家康には三成挙兵の報を伝える早馬を出した。
一方その頃石田三成は大坂城にて、増田長盛、前田玄以、長束正家の三奉行らと共に秀頼君への謁見を行っていた。
三成は今回の挙兵に正義の墨付きと大坂城の金蔵より軍資金を秀頼から貰うため必死の説得をした。
しかし、三成の願い届かず、秀頼傳役・片桐且元にその悉く断られたのだ、且元の言い分は一貫して、
「この度の戦は家臣と家臣の戦であり豊臣家の御意向にかかわりなく進められており申す。」
この一点張りであった。
三成にとって豊臣家の力を借りられないのは大きな誤算であった。
豊臣家の後ろ盾を得られなかった三成は、三奉行の連署で家康への弾劾状を出す、これを「内府違ひの条々(じょうじょう)」と呼んだ。
弾劾状の内容はあたかも家康が豊臣秀頼公を蔑ろにし、秀頼君が三成方に付いたかのような文章をでっち上げ、会津征伐に向かっている豊臣家子飼いの大名達の動揺を誘うような内容に仕上げた三成の策略でもあった。
同時に内応の書状を豊臣家古参の武将に送るという二段構えの策略であった。
秀頼のお墨付きをもらえなかったと痛恨事があった今、お墨付きを貰ったかの様に書くしか三成には出来なかったのだ。
家康は京・伏見・大坂での三成と三奉行の動きを下野国・小山で知る事になる。
家康は猛烈に焦った。
三奉行が三成と密かに談合しているという情報は入っていた、しかしこの弾劾状の内容、もしかしたら淀の方が三成方に取り込まれたかもしれないという不安が家康脳裏によぎる。
鋭い武将は家康と同じ思いを持っていてもおかしくはない。
この点において三成の策は半ば成功していると言えた。
しかし三成は戦の常道として、大坂に居を構える大名の妻子を人質として召し取るという行為に出た。
これに反対したのが島清興
「殿、召し取らずとも屋敷に押し込めればようございましょう?」
しかし既に黒田孝高・長政の妻子や加藤清正などといった武将の妻子は大坂から脱出していた為三成はこれを強行した。
その中で起きた細川ガラシャ夫人の悲劇であった。
時間は遡るが、大坂入りし三成の兵から逃げ遅れた細川忠興正室・ガラシャである。
ガラシャは本名は明智玉と言い、名字が示す通り、かの明智光秀の一人娘である。
玉はキリスト教の洗礼を受け「ガラシャ」を名乗っていた。
細川忠興はそんなガラシャを心中で愛していた、秀吉存命中も戦場から文を送り「秀吉の誘惑に乗るな」等と送っていた。
忠興はガラシャを守るために5人の側室を抱え、秀吉の目をガラシャから遠ざける様に誘導したりもした。
そんなガラシャは細川屋敷に数名の家臣と逃げ遅れていた。
彼女は三成の再三の「人質として出頭するように」との要請を断り、強攻しようとする石田軍を前にガラシャは忠興殿もその子達も徳川方に味方をしている。
ここで妾が明智方の手に落ちれば十分に戦働きが出来ないと思い定め生きる事ををあきらめた。
ガラシャはキリスト教徒で自害が赦されなかった為、家臣の小笠原秀清に自らの首を討ち、自らの遺体が残らぬように屋敷に爆薬を仕掛け爆発させるように指示する。
秀清は初め断り、強引にガラシャを連れ出そうとする。
しかし悲壮な目で決意を示したガラシャは梃子でも動かず、秀清は涙ながらにガラシャの指示に従った。
三成はガラシャの壮絶な最期に驚愕し、清興の諫言もあり、それ以降強引な人質連行は控えることにした。
この大坂の急報も家康の下に届き、事の成り行きを聞いた忠興は烈火の如く怒ったのである。
こうして先手を取られた形にある家康は三成方に傾きつつある流れを断つべく、小山に豊臣家恩顧の諸大名を集め評定(会議)を行う事を決定した。
表向きは「会津への陣立て」の評定であったが、三成から既に勧誘を受けている大名も少なからずおり、三奉行が弾劾状を家康公に送り付けたという噂も流れていたくらいであった。
察しの良い者は「ただの会津攻めの話し合いの訳がない」などと確信していた。
評定前日、家康は懇意にしている黒田長政を密かに呼び出し、今回の弾劾状で一番心が揺れているであろう福島正則の調略を任せた。
長政は正則に話しかける。
「三成からの手紙は届きましたか?」
正則は剛毅な男である。
「おうよ、あんなもの読まずに破り捨てたわ!」
長政は「それは重畳」と言いながら
「明日の評定ですが、正則殿が家康殿に付くと言えば諸将次々と心一つに三成と戦えるでしょう。」
正則は不満げな顔をし
「俺のあずかり知った事ではないわッ!」
とにべも無く答える。
長政は落ち着き払って
「それでは正則殿はあの戦下手な茶坊主上がりの小男にアゴで使われても宜しいとおっしゃるのか?」
と正則を煽るように聞く、それに対して正則は激昂し
「そんな訳あるかッ!!俺はあの男を何度殺そうと思った事かッ!!」
長政はなだめる様に
「ならば、明日の評定、家康殿と戦うと言いなされ、家康殿も豊臣家の為に戦うと明言されております」
正則は家康の本心が測れずにいたのだ。
「それは真実か?家康殿は三成を打倒したのち大坂に攻め入ろうという肚ではないのか?口惜しいが三成は豊臣家への忠節だけは真実であるぞ?」
長政は尚、落ち着き払って
「正則殿、秀頼君が三成の挙兵に加担なされると本気で思っておられますか?書状をよく読みなされ、秀頼君のお墨付きが貰えなかったと吹聴している様なものです。しかし内府殿は太閤殿下に指名され国政を預かる御方です。」
正則は「うむむ」と唸った、そこに長政は畳み込むように最後の切り札を切った。
「正則殿、某は正則殿と戦いたくはございません。」
正則は答えを保留し、その場を立ち去った。
こうして舞台は関ケ原の戦の流れの要所である「小山評定」へと移っていくのだ。
慶長5年(1600年)7月25日
会津征伐に参加していた大名を小山・徳川本陣へ集め評定を開催した。
家康が口火を切る。
「諸侯には既にご存知かと思うが、石田治部少が大坂で挙兵に及んだ。
この大事に家康がまず一番大事に思うは諸侯の妻子!中には人質に取られてる方もあるであろう!これより、家康はこれより西へ向かい三成と矛を交えるが、諸侯の中に家康より離れ西へ向かい治部少に加勢し家康と戦うという者が居ても家康はこれを責めぬ!戦が終わり家康が偶然にも勝ちを得たとし、また、無事に見える事があれば、これまでの誼を決して忘れる事もなかるべし!西進される将を追い打ちする事も一切致さない!道中の安全はこの徳川家康がこれを保障しよう!」
諸将は家康の言葉に動揺し言葉を発する事も忘れる。
そんな中、一人の男が立ち上がり、家康に質問する。
「内府殿!内府殿に一つ問い申す!!内府殿の豊臣家御奉公の心に異変はありや?なしや?」
福島正則であった。
家康は正則の眼をしっかりと見据え即座に答える。
「露ほどの異変もござそうらわん!」
正則はその答えを聞き、深く頷き諸将に訴えかける。
「ならば、この正則の身上、内府殿にお預け申し上げる!!そもそも秀頼君は御年8歳、いかで挙兵の企てなどご承知なされましょうか!全て三成の陰謀に相違あるまい!!たとえ妻子を質に取られようとも、速やかに君側の奸を取り除くため!!この正則!家康殿にお味方申し上げる!!」
黒田長政が立ち上がる。
「黒田長政、承知!」
細川忠興も立ち上がる。
「細川忠興!承知!三成の首を取ってくれる!」
この三将の勢いを皮切りに、藤堂高虎、山内一豊、浅野幸長、池田輝政等々、小山に集った将は満場一致で三成討つべしという結論に至ったのだ。
家康は一言「かたじけのうござる。」と深々と頭を下げた。
三成との一大決戦が決定した後、諸将の進軍路を決める評議になり、家康は初陣の秀忠に場を任せる。
諸将の目が秀忠に向かう。
秀忠が誇らしげに諸侯に問う
「まずは、全軍をもって会津を討ち反転して西へ向かうか、すぐさま反転し西へ向かうか諸侯の存念を承りたい。」
意見は真っ二つに割れた。
戦上手の直江兼続、すでに会津に攻め入った伊達政宗、再三の要請にも動かない佐竹義宣、そもそもの会津挙兵の元凶の三成、様々な諸将の意見が錯綜し秀忠には収拾出来なくなってきたのだ。北に陣取る最上義光
「くそッ、俺には大将の資格はないのか?」
どうすれば良いのかわからない秀忠は心の中で自分の無力を恨んだ。
家康はそんな秀忠を見ながら、あるのは気位だけか、と心の中で呟き、舌打ちをしながら命令を下す。
「あい、わかり申した、豊臣家恩顧の諸将は大坂にご家族もいるゆえ、直ちに手勢を率いて、西へ御登り下され!総大将としては、未熟ながら松平忠吉を申し付ける!!忠吉の指南役は井伊直政!!結城秀康は宇都宮に陣を構え、関東勢を率いて上杉勢の南下を食い止めよ!!不肖、家康と秀忠は暫くこの地に留まり、会津の模様を見た上で諸侯の後詰を仕る!!」
結城秀康は不満げな顔をした、自分も華々しく戦をし、西へ上りたかったのだ。
秀忠も不満であった。
上杉退治の総大将は兄・結城秀康で、三成退治の総大将は弟・松平忠吉なのだ、自分はいったい何なのか、そればかりが秀忠の頭を回っていた。
家康には計算があったのだが、聞かれもしない事を一々秀忠に教えるより、秀忠自身が自分で考え、自分なりの答えを見つけ、家康に答え合わせをしに来るのを待っていたのだ。
しかし当の秀忠はそんな事を聞けば、家康の怒りを買い廃嫡にされたらと思い込み聞けるはずもないのだ。
家康は佐竹義宣が完全に敵に回る前に大久保忠隣に大野治長の身柄を受け取りに行かせる。
忠隣は、なぜ今、治長なのか意味がわからず家康に問うた。
「治長は淀の方のご機嫌直しである」
と家康はほくそ笑んだのだ。
一日で様々な事が起きた小山の夜は更けていく。
その夜、家康はまた驚愕の報告を受ける。
本多忠勝が娘婿である真田信之を連れ家康を訪れたのだ。
「寝返りかと思ったぞ?」
家康は信之に尋ねる、信之は心底申し訳なさそうに
「本日、私達は小山に参陣の予定でしたが、父・昌幸と弟・信繁かねてより、三成と相通じていた様子で小山に参じる途中、激論する事、半日、いよいよ父・昌幸、弟・信繁と決別致しまして、お恥ずかしながら信之のみ手勢を引き連れ小山に参上いたした次第でございます。」
忠勝が補足する。
「この信之は某の娘婿ではありますが、昌幸の妻は三成の妻の姉で相婿でございます。」
家康は天を仰ぎ見て
「そうか、真田昌幸は実の息子と戦う事になるのか」
少し悲しそうに呟いた。
関東から西へ手早く向かうには東海道か中山道を通る道が当時の主流であった。
信濃(現在の長野県辺り)・上田城に真田に陣取られては、家康が東海道を後詰で向かうと三成の軍が中山道を通り江戸へ攻め込むとも限らない、家康は予定変更の為、出立した黒田長政を大急ぎで呼び戻す。
家康は長政に指示を出す。
「真田が裏切った、これに転ぶ者もおるかもしれん、特に福島正則は直情的な性格ゆえ、目を離すな、もし、不穏の動きがあれば忠吉は病と称し、江戸へ連れ戻せ、毛利一族は必ずしも一枚岩では無い、狙い処は分家の吉川広家、家康に加担すれば、所領を倍増すると伝えよ。」
長政は「畏まりました」と答え、家康の言葉の続きを催促する。
「稲田の刈り取りも終わり涼しくなれば、わしも行くその頃には信濃も会津も冬支度で動けなくなるであろう。」
長政は首を縦に振り、家康の意を受け戦列へ戻る。
家康は秀忠と徳川3万8千の軍勢を、そして目付及び指南役に本多正信・正純親子、榊原康政、大久保忠隣を宇都宮へ派遣し、自らは三万の軍勢と本多忠勝、世良田次郎三郎を伴い江戸城に向かった。
江戸城に着いた家康と次郎三郎は内応を求める書状書きに忙殺された。
次郎三郎はその仕えた年数と経験で家康と同じ文字、同じ内容の文章を書けるようになっている、そして何より驚くべきは主人である家康と同じ戦略眼と決断力を持っていたのだ。
家康は次郎三郎ならば自分に万が一があっても、乗り切れるだろうと思うほど次郎三郎を信頼していた。
それを踏まえ、忠輝と次郎三郎を会わせるのである。
「上総よ、この男はわしの影であり、友でもある世良田次郎三郎元信と云う者である。」
次郎三郎は忠輝に平伏し挨拶をする。
「紹介に預かりました世良田次郎三郎元信と申します、御縁がございまして殿に仕えさせていただいております。」
忠輝は次郎三郎に答える。
「松平上総介忠輝である、父上の力になってくれて嬉しく思う、今後も父上に仕えてくれ」
次郎三郎は「ははッ」と頭を下げる。
「心地よい覇気のある御仁だ」
これが次郎三郎の忠輝への評価であった。
家康は忠輝に勉学や剣術、兵法などを暫く指南し、忠輝もよく学んでいた。
「上総よ、万が一にもわしに何か異変があれば次郎三郎を頼るのだ。」
これに驚いたのが次郎三郎であった。
「殿!?何を言われますか!?」
家康も笑いながら「なに、万が一じゃよ。」
などと言っていた。
それを闇の中から見ている者がいた。
「上総殿は私の計画の邪魔になるやも知れぬな、江戸の出立には家康に付いて行くか、茶坊主の計画を遂げさせてやろう、秀忠ならば御しやすい」
影で呟く人物がこれからの徳川家に暗雲を呼んでいた。
ここまで読んでいただき誠に有難うございます。
誤字脱字等ございましたらご指摘いただければ幸いです。
今後も【闇に咲く「徳川葵」】を宜しくお願い致します。




