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松平忠輝

久々の投稿です。

コツコツ書いていました。

書いていたというか改訂していました。

天正てんしょう20年(1592年)


江戸城内で徳川家康とくがわいえやすの第六男が誕生する。


幼名は辰千代たつちよと名付けられたその子は、後に松平忠輝まつだいらただてると名乗り、立派な徳川家の一門でありながら、後々に家康により勘当され、家康の死後には徳川宗家二代・秀忠により改易・配流に処される事となる不遇の御曹司である。


忠輝の赦免は忠輝の死後300年後に忠輝の菩提寺ぼだいじである貞松院ていしょういんの住職・山田和雄やまだかずおが忠輝300回忌での赦免を思い立ち、徳川宗家・十八代目当主である徳川恒孝とくがわつねたかに願い出て実現する。


昭和59年(1984年)7月3日、忠輝は恒孝によって正式に赦免され、仏前への奉告ほうこくは貞松院の檀信徒だんしんとの都合などで3年後の昭和62年(1987年)10月24日に行われた。


10月24日の法要には、仙台・伊達だて家当主の妹や諏訪すわ家当主、当時、忠輝の家臣であった者の子孫などが約400名参列し、恒孝が仏前で赦免状を読み上げた事により忠輝は約300年間の勘当を正式に奉告されたのだ。


さて、300年間も勘当されたこの松平忠輝はいったい徳川家に何をしたのか?


正式な家康の息子として生まれたにもかかわらず、弟たちは「徳川」を名乗る事を許されたのに対し、忠輝は生涯「松平」を名乗らされたのは何故なのか?


忠輝の不幸は生まれた年から始まる。


天正20年の前年である天正19年は天下人・豊臣秀吉にとって、絶望の年であった。


彼の年老いて出来た子供、それも嫡男である幼名・捨丸すてまる、当時は鶴松つるまつと名乗っていたのだが、彼が僅か2歳でこの世を去ったのだ。


この秀吉の一大事に家康は自分の息子が産まれた事を表立って喜ぶことが出来なかった。


迂闊うかつに喜べば、「徳川殿に太閤殿下への謀反の兆しあり」と石田三成いしだみつなり辺りに讒訴ざんそされる恐れがあったからである。


そんな家康は苦渋の決断を迫られた、辰千代の生母である茶阿局ちゃあのつぼねに相談もせず、辰千代に思いもよらぬ声をかける。


「この子は信康に似ておる、黄泉の国からわしを害しに来たか!次郎三郎よ!この子供を近くの寺に捨ててまいれ!!」


この家康の怒り様に茶阿も驚きうろたえ、家康に泣いてすがり「この子の事を捨てないでください」と懇願した。


泣きじゃくる茶阿を宥めたのが家康の側室筆頭とまで言われた阿茶局あちゃのつぼねと呼ばれた女性である。


阿茶局はふくよかな女性で周囲を和ませるような空気を纏った女性でありながら、彼女の才能はそれだけでは無く、軍師的な聡明さをも持ち合わせていた女性であった。


この時、実は三成の忍びが徳川家を内偵していたのだが、その事にいち早く気付き、家康の本心を見切っていたのは世良田次郎三郎元信せらだじろうさぶろうもとのぶ本多弥八郎正信ほんだやはちろうまさのぶと阿茶局の三人だけであっただろう。


実はこの家康の決断に辰千代の扱いは、豊臣鶴松の時もそうであったが、「捨て子は育つ」の慣習で辰千代を一度捨てた家康はその後、三成の忍びが引くのを見計らい、正信に辰千代を確保させ、家康はそのまま辰千代の養育先を正信に決めさせた。


正信の眼力に適い、白羽の矢が立ったのは下野国しもつけのくに栃木とちぎ皆川みながわ城主で三万五千石の大名である皆川広照みながわひろてるである。


広照は文芸や茶道などに造詣が深いが、なにより処世術に優れた男であった。


皆川家は戦国時代の関東で生き抜いて来た家柄である。


その事柄一つとっても称賛に値する事なのである。


戦国時代の関東というのは正に小国同士が鎬を削り合い、時には大勢力に立ち向かうために団結してみたりと混沌とした土地であった。


後に後北条氏が関東統一の為に動き出すのだが、それまでは扇谷上杉おうぎがやつうえすぎ氏や室町幕府より関東管領職かんとうかんれいしょくを預かる山内上杉やまのうちうえすぎ氏、古川公方ふるかわくぼうと呼ばれた関東足利かんとうあしかが氏などが大きな勢力として群雄割拠ぐんゆうかっきょし、一城の主はどこかの陣営に属しながら生きながらえてきた。


関東に住んでいた城主の多くは源義経みなもとのよしつねを匿ったとされる奥州藤原おうしゅうふじわら氏の出身でも著名である藤原北家ふじわらほっけを源流に組む城主が多かった。


皆川氏の他に宇都宮うつのみや氏、結城ゆうき氏、那須なす氏など関東に地盤を置いた多くの者が遠い親戚になり、関東ではそんな遠い親戚同士が時には争い、時には同盟しといった明日をも知れぬ戦の日々を過ごしていた。


そんな中、広照が誕生した天文17年(1548年)。


当時、名ばかりの関東管領職の地位ではあったが、自分なりに関東の平穏を憂いていた上杉憲政うえすぎのりまさに関東の統一と関東管領職を託され、憲政の養子になった越後えちごの龍・上杉輝虎うえすぎてるとらが、憲政を関東から追い出し、役職にこだわらない実質的な関東支配を目論んでいた後北条ごほうじょう氏の大名・相模さがみの獅子と謳われた北条氏康ほうじょううじやすを倒すため出兵していたのだ。


越後と相模どちらに付くか迷った広照の父・皆川俊宗みながわとしむねは輝虎に接近する事を決断する。


輝虎が関東に出兵し、城々を回る際に広照は輝虎の饗応役きょうおう(歓迎役)として抜擢される。


広照は父からその才能を愛された。


しかし俊宗は天正元年(1573年)に北条氏康が関宿城の簗田晴助やなだはるすけ親子を攻めた際、救援として俊宗は結城晴朝ゆうきはるともと共に関宿城に赴き北条氏康と干戈かんかを交え戦死してしまう。


俊宗は元々家督を兄・広勝ひろかつに譲っていたのだが、その広勝も天正4年(1577年)に若干29歳で急死した。


相次ぐ不幸が皆川家を襲ったが広照が父と兄の遺志を継ぎ皆川家の家督を継ぐ事となる。


家督を継いだ広照は広勝が生前、後北条氏に再接近していた事を踏まえ、後北条氏に接近するが、天正5年に後北条氏が突如として大軍をもって皆川家に攻め込んでくる。


これを決死の覚悟で戦い抜き、広照は後北条氏からの攻撃をやっとの思いでこれを防いだ。


これを機に広照は後北条氏よりも新進気鋭の織田信長と気脈を通じる道を模索し始め、手始めに徳川家家臣である中川忠保なかがわただやすに接近した。


この時より広照は徳川家との関係を大切にする事になる。


織田家に接近を成功させた広照は織田家が甲斐の武田家を滅ぼした後、関東に赴任してきた滝川一益に付き従う。


しかし織田氏は後北条氏とも友好的な関係を結んでいた為、超高難度な政治的選択の毎日であった


こう言った政治選択や外交関係の手腕が政治家・皆川広照を育てたのだろう。


天正10年(1582年)、信長が本能寺で横死したとの知らせを受けた時、突如として後北条氏が織田家を攻める。


関東に派遣されていた滝川一益の心の隙を突いて神流川かんながわで一益を打ち破った。


この時広照は一益を助け、家康と合流し、そのまま甲斐の織田家の遺領を北条・徳川・上杉で奪い合い争った天正壬申てんしょうじんしんの乱で徳川方に付き従い戦った。


天正壬申の乱が集結した後、徳川家と後北条家は同盟を結んでしまう。


しかし広照は決して後北条氏に屈することは無かった。


当時、天下の趨勢は大半を羽柴秀吉はしばひでよしという信長の小者から出世した男が握っていた。


「徳川殿もこの秀吉という男と懇意にし始めている、秀吉殿が関東に出兵してくれれば。」


この広照の願いも虚しく、秀吉は九州平定に乗り出してしまう。


ここからの後北条氏の関東平定への活動は急激に活発になった。


徳川氏とは同盟を結んでいた為西から小田原を攻められる心配が全くなくなった為、北関東に全兵力を注ぐことが出来たのだ。


その兵が差し向けられたのは皆川広照も例外ではない。


ましてや広照は氏康の時代に後北条の大軍を退けた実績があった。


後北条氏はその屈辱を忘れてはおらず、皆川家を前回を上回る大軍で攻め立てた。


広照は大平連山でゲリラ戦を仕掛ける策に出て太平山おおひらさん城に本陣を置き、準備を開始するのだが、後北条軍は大平山城を大軍で囲み山ごと火攻めを開始するのだ。


信長の叡山焼き討ちは延暦寺の僧の堕落を咎める為のものであったが、太平山の焼き討ちは戦と関係のない寺社仏閣まで焼失させた。


こうして残り僅かの兵と共に自害を決意した広照を止めたのが徳川家康と佐竹義宣の二名であった。


「恥を忍んで生きておれば海路の日よりあり」


と書かれたその書状に広照は北条氏直ほうじょううじなおに降る事を決意する。


北条氏政ほうじょううじまさは関東で降した諸将に二度と寝返りを起こさせないように北条の女を妻として娶らせた。


広照には既に妻が居たのだが、この時に氏政の養女を娶らされ、皆川家は氏政・氏直親子に従った。


「待てば海路の日和あり」


この言葉を胸に後北条氏に良いように使われるという屈辱とも言える日々を過ごした。


そんな広照に転機が訪れたのは天正18年(1590年)の事である。


名実ともに天下人となっていた豊臣秀吉とよとみひでよし惣無事令そうぶじれいを発する。


惣無事令とは簡単に言えば関白となった秀吉が天皇の名の下に大名間の私闘を禁じ、違反した場合は厳罰に処すといったものである。


これを無視し真田領を攻めていた後北条氏は秀吉に惣無事令違反を咎められ、秀吉の勘気を買い、関東から奥州の大名への見せしめとして「小田原征伐おだわらせいばつ」を決意させるのだ。


広照は迫りくる上杉勢と戦う様に後北条氏から命令されていたが、これ幸いと無血開城し城を明け渡した。


関東の諸侯の中で最後まで抵抗したのはおし城の成田氏位であろう。


後で聞いた話によると、成田氏を攻めたのは石田三成という武将であり、文官としての才能はとても秀でているが武将としての器にあらずといった噂を耳にした。


皆川家は無血開城と徳川家との長年の友誼を認められ本領を安堵される事になる。


そんな混沌とした関東をおのれの嗅覚で生き残ってきた広照は家康の子である辰千代に自分の全てを叩き込む。


これは自分を何かと立ててくれた徳川家への恩返しであり、また辰千代の利発さに年老いて感じ入るものがあったからだった。


しかし、広照としては時勢を読んだ交渉や世渡りなどは得意であったが、こと戦となると数多くの師が必要と考えた。


辰千代は成長するにつれ様々な分野の才能を発揮していった。


広照は辰千代の成長ぶりに大いに驚き、「この子は類稀なる名将になるやも知れぬ。」と正信に訴え出る。


広照は早急に辰千代への戦と剣術の師を連れてくれる様に懇願する。


広照の熱心な辰千代の評価に正信は驚き、至急家康に相談する。


家康は熟考した結果、一人の家臣を兵法指南役として打診する。


奥山公重おくやまきみしげというこの男は幼い頃から剣術に興味を持ち、一時は剣聖と呼ばれる上泉伊勢守信綱かみいずみいせのかみのぶつなに師事し、新陰流を教わる。


その後は独学で剣の修行を積み神影流・奥山流と名づけ、海内では無双の剣術家などと呼ばれるまでになった。


元亀元年(1570年)の姉川の戦いの際に家康と出会い、その後家康の兵法指南役として7年間仕える事となる。


しかし辰千代の兵法指南役として公重は些か年を取り過ぎていた。


彼は家康の申し出を丁重に断り、代わりの者としてある者を推挙する。


公重が己の代役として推挙したのは愛洲斬飛あいすきしょうという男であった。


斬飛が公重に伴われ、伏見の家康に謁見した時、家康は一目で斬飛が公重以上の使い手である事を見抜いた。


その上「愛洲」と言う名、剣を志す者ならば誰でも知っている上泉信綱に剣術を指南した事もあると伝わる伝説の剣神と言っても過言ではない愛洲移香斎あいすいこうさいの一族なのか?と考えてしまう。


「左様、愛洲移香斎は我が祖父です。」


家康は「わしは疑問を口にしていたか?」と斬飛に問いかける。


斬飛は「いいえ、恐らくはその事を考えているのかと推察いたしました。」と答えた。


「その方、若くして心を読む技も心得ているか。」


と斬飛に問いかける。


質問に答える斬飛の言葉は家康の言葉を驚かせる。


それがしまだ修行中の身ではありますが、愛洲陰流あいすかげりゅうについてだけは父より免許皆伝を受けております、軍学では甲州流、北条流、越後流を唐の軍学では武経七書ぶけいちしょを学んでいる最中です。」


家康は「そなた!その若さでそれ程の軍学と剣術を修めているのか!?」と斬飛に問いかける。


「はい、私は兵法学者ゆえ。」と斬飛は一言答える。


家康は斬飛に頼み込み一度辰千代に会い、もし辰千代が気に入らなければ自分の兵法指南役になってくれと懇願する。


家康は秀忠への対策の為に一度公の場にて「愛洲家」を散々に罵倒する。


斬飛は事情を知ってか知らぬか公重の手前、無下に断ることも出来ず、家康と公重にまずは辰千代に一度会う事を約束した。


斬飛が皆川の辰千代と面会したのはそれから数日後の事であった。


辰千代は斬飛と面会した時、斬飛が下座で平伏していたら、辰千代は立ち上がり「面を上げてくれ」とおもむろに声をかける。


斬飛は堂々と顔を上げ、辰千代は「そうだ、俺の師になるやも知れん男が軽々しく頭を下げてくれるな。」そう言いながら、辰千代は上座を降り下座に斬飛の傍に近づく。


これに驚いたのは広照であった。


斬飛がその気になれば一瞬で辰千代は真っ二つになる。


斬飛もその事はわかっているはずだ、栃木城に緊張が走る。


「斬飛と申したな、立ち上がってくれぬか?」


辰千代が斬飛に言う。


斬飛は面を喰らったような顔をして辰千代の顔を見上げる。


「いいから、立てと申すに。」


広照が「辰千代様、お戯れはその辺で」と言いかけるが、辰千代は「良いのだ広照」と言い再び斬飛を見つめる。


斬飛は辰千代の言う通り立ち上がり辰千代の目を見つめる。


辰千代は斬飛の手を取り「この辰千代は、今は何者でもない。ただ父が内大臣・徳川家康という実力者であり、わしはその六男と云うだけだ。俺に仕えてもたいした出世も出来ぬかもしれない。それでも良ければ俺の友になってくれるか?」


斬飛は辰千代という男を見誤っていた。


辰千代は徳川の御曹司という立場を利用した、もっと愚かな子供であると勝手に想像をしていたのだ。


しかし今目の前にいる子供は自分が思っている以上に聡明で、謙虚、その上、人を惹き込む何かを持っているのだ。


斬飛は口が勝手に開き「私で良ければ謹んで承ります。」と答え、この日から愛洲の正統後継者・愛洲斬飛は生涯、辰千代の傍にありその軍師となり、剣となり、友となるのである。


家康は自分が欲しかった斬飛が辰千代に仕えた事を聞き及び、嬉しいやら自分の家臣にならずに悔しいやらで微妙な気持であったが、辰千代の人徳により斬飛を徳川に繋ぎ止める事が出来た事で良しとした。


それから辰千代は剣術に没頭していくようになる、斬飛の鍛錬も文句を言わずにこなし、並の大名の子息ならば音を上げるところではあったが辰千代は歯を食いしばってついてくるのだ。


剣術も愛洲陰流の技を次々と吸収していき、教える側の斬飛が楽しいほどの学習能力と意欲であった。


しかしそんな斬飛も愛洲陰流の3奥義「あめくらい」「つちの位」「からの位」の伝授だけは辰千代が元服した後に行う事と決めていた。


幼い身体ではこの三奥義の修行はとてもではないが身体への負担が大きく、下手をすれば体に一生残る障害を生みかねないからである。


こうして剣術と軍略を斬飛から教わり、政治と外交を広照から学び、辰千代は育っていくのである。


そんな辰千代が歴史の表舞台に立つのはもう少し後の話である。


剣術や軍学を学んだ辰千代はそれを試すべく家臣に対してはわんぱくな一面を見せる少年であった。


幼い頃より皆川みながわ城主・皆川広照に預けられ、礼儀作法や外交術の養育をされていた。


広照は早い段階から辰千代の才気を見抜いていた。


しかし徳川家には既に徳川秀忠という人望篤い世継ぎが居る。


秀忠に辰千代の才能を見抜かれてはお家の為に辰千代を亡き者にせんと辰千代の命にかかわる。


広照は辰千代の事を家康の腹心中の腹心・本多ほんだ正信まさのぶに相談していた。


正信が辰千代に対面した際、感じたものは、


「信長公、信康公に通じるものがあるやもしれない、中納言殿(秀忠の事)の耳に入れば生きていられまい。」


最近、秀忠に接近している、柳生宗矩やぎゅうむねのり柳生新陰流やぎゅうむねのりに決して見劣りしない剣の使い手で愛洲家は、何より一度公の場で家康が酷評しているというのが辰千代にとって都合が良かった。


秀忠はもしかして辰千代が家康から疎まれているのではないかと感じ始めていた。


その観点からみると正信の判断は正しかったといえる。


そして慶長けいちょう3年(1598年)初めて家康と辰千代が親子対面する事が決まるのである。


家康と辰千代の対面は江戸城でという事が決まった。


江戸城。


後に江戸幕府の政庁になる場所であり、巨大な城になるのだが、辰千代と家康が対面した時の江戸城はまだ巨大城郭ではなく、江戸城開祖・太田道灌おおたどうかんが残した本丸、二の丸を修繕利用し、西の丸、三の丸、吹上ふきあげ、北の丸を増築したというあくまで豊臣政権下の徳川家の本拠地としての物であった。


江戸城は徳川家の本拠ではあるが家康は秀吉の遺命により伏見にて国政を行わなければならなかった為、いまは秀忠が来るべき戦に備え兵馬の鍛錬を行っていた。


家康の命で秀忠に付いて伏見から江戸に来た男が居た。


本多正純ほんだまさずみという男だ。


本多正信の嫡子にして1を聞き10を知る男というのは彼の様な人間の事をいうのであろう。


能力的に素晴らしい政治家の彼は人格的に少々問題があった。


周りを見下す節があるのだ。


なにぶん自分の頭の回転が速いため周りの人間が無能に見えてくるのである。


石田三成もこのタイプの人間であるが、三成の潔癖に対し正純の救いは人間というものを知っている所であった。


「人間というもの」というのは範囲が広いのだが、簡単に例を挙げるのならば「人は誠実な心を持っているが、利によって裏切る事もある」という事を本多親子は当たり前だと知っており、三成は「太閤殿下の御恩を受けた者が義によって豊臣家を裏切るはずがない」という事が当たり前だと思っている、この二つが三成と正純の大きな違いであった。


正純は正信より辰千代の話を聞いていた、この度、秀忠について江戸に来たのは秀忠が辰千代に対し余計な手出しをさせないようにするという密命もあったのだ。


正純は秀忠に先立って辰千代を訪れた。


秀忠より先手に正純が辰千代に会えたのは正純にとっても辰千代にとっても僥倖ぎょうこうであった。


秀忠は江戸に帰ると一番最初に行かなければならない場所があるのだ。


秀忠の正室・おごうの方の所だ。


秀忠はこのお江の方があまり得意ではなかった。


お江の方は大坂にいる淀の方の実妹であり信長公の姪である。


秀吉の命により下された婚儀なので秀忠に決定権など無く、美しいが、鼻っ柱が強く、気位は富士の山程高い女なのだ。


秀忠が側室など作ろうものならその側室を暗殺するという行動を起こしかねない女。


それがお江であった。


秀忠は江戸へ戻るとこの頭のあがらない正室に一番最初に会いに行くのが習わしの様になっていたのだ。


その習わしが今回、辰千代や正純にとって吉と出たのだ。


正純は辰千代を一目見て非凡と評価した。


「非凡ゆえに危うい、それ故の中納言様(秀忠)対策か」


辰千代に罪はない、しかしその非凡は今しばし隠蔽せねばならない。


正純は正信に言われた通りの策を辰千代と擦り合わせた。


そんなことがあったとは露知らず秀忠が家康に先んじて辰千代と面会した。


「兄上にはご健勝の様子辰千代、心より喜ばしく思います」


辰千代が兄・秀忠に挨拶の口上を述べる。


「うむ、辰千代にも変わりなく兄として嬉しく思うぞ、して父上との対面の儀であるが・・・」


言いかけた時辰千代が申し出た。


「私は礼儀作法を知らぬわんぱく者にて万事、兄上にご指導ご鞭撻べんたついただきたいのですが」


秀忠はこの言葉に気分を良くした。


「辰千代よ!そちの心掛け真実に殊勝である!あいわかった、辰千代が父上の前で恥をかかぬよう指南役を授ける。」


そう言って秀忠にとって恐らく自分の監視役であろう正純を辰千代に付けるのであった。


この流れはまさに正純の狙い通りであった。


自分が上様(家康の事)や父・正信の使いである事を秀忠は疎ましく思っているはず、そんな時に辰千代から家康が来るまで最低限の礼法を教えてくれる師が欲しいなどと言われれば目の上のこぶである正純を辰千代に付けるに違いない。


秀忠は無意識に正純に辰千代を保護させてしまったのだ。


そんな事を秀忠は知る由もない。


家康の前で辰千代が恥をかけば面白い程度にしか思っていなかったが、この対面は思わぬ方向へと進む。


そして対面の日。


家康は辰千代の顔を見た時、長男・信康のぶやすに似ていると思った。


自分を裏切り武田に通じた長男だったが、家康も信康を心から恨んでいた訳では無かった。


「自分がもっとしっかりしていれば信康を死なせずにすんだのやも知れんな」


家康が心にふと思った時に刺すような視線を感じた。


それは秀忠のものである。


秀忠は家康がここで辰千代をどう評価するか一部の隙も逃さずに見ていたのだ。


「不味い、今動揺するわけにはいかん、辰千代には不憫だが致し方あるまい」


心に決めた家康は


「辰千代!そちの面相は三河三郎(信康の事)の面相によう似ておる!不吉な面構えじゃ、もう見とうはない、下がれ」


家康は心を鬼にして申し渡した。


辰千代は無表情で謁見の間から出ていった。


家康の辰千代に対する態度、その真実を知るのは徳川家では一握りの近臣のみであった。


すなわち皆川広照、愛洲斬飛、家康の側近では本多正信ほんだまさのぶ正純まさずみの親子


辰千代は家康との対面後も何も変わらぬ日々を過ごしていた。


兄・秀忠の為に自分がこの様な思いをせねばならない事を嘆く事も無く淡々と日々を過ごしていた。


そんな中、家康より辰千代の下に使者が到着する。


それは辰千代の元服に向けに家康が付けた名であった。


上総介忠輝かずさのすけただてる


この命名は家康にとってかなり重要な意味を持っていた。


その事に気づいたのは家康の家臣の中でも正信くらいの者であっただろう。


「上総介」


この名は家康が敬愛してならない織田信長おだのぶながが元服した際に始めに名乗った名なのだ。


それを辰千代改め忠輝に与えることに家康の忠輝に対する愛情があった。


そのような事は今の忠輝は全く知る由は無いのだが、忠輝はありがたく上総介忠輝の名を拝領するのである。


忠輝には名の他にもう一つ与えられたものがあった。


それは長沢松平の名跡であった。


家康は元々忠輝に別の名跡を継がせるつもりであった。


決めあぐねていたが、秀忠に目をつけられない名跡を慎重に精査していたのだ。


そんなとき長沢松平家の名跡を継いでいた家康七男の松千代が早世したため、弟の後を継がせるという忠輝にとってはあまりいい印象が与えられない人事を決意したのだ。


この事も秀忠の目を忠輝より遠ざける立派な一因となる。


忠輝はこの時武蔵国むさしのくに深谷ふかや1万石を拝領し大名となる。


忠輝の筆頭家老には皆川広照がその職に就き、愛洲斬飛が剣術指南の引継ぎ、忠輝は愛洲新陰流を自在に扱う迄の腕になっていた。


忠輝は政治、文学、剣術、礼法の修行に明け暮れていた日々を平和に過ごしていたある日、家康から忠輝の下に使者が到着する。


使者は忠輝に家康からの文を持参していた。


家康からの使者という事は忠輝に拒否権は無いことを意味する。


家康からの文にはこう書いてあった。


「忠輝は伊達政宗だてまさむねの息女、五郎八いろは姫との婚姻の約を交わした故、承知おく様に。」


忠輝に拒否権は無いのだが、内心で忠輝は興奮していた。


戦国にのいくさ人の一人「独眼竜どくがんりゅう」とまでうたわれた大大名の息女である。


忠輝は五郎八姫がどんな女性か今から楽しみでしょうがなかった。


忠輝の許嫁である五郎八いろは姫は文禄ぶんろく3年(1594年)京都・聚楽第じゅらくだいの屋敷で誕生した。


父は伊達政宗だてまさむね、母は政宗の正室・愛姫めごひめである。


政宗には側室との間に既に長男・秀宗ひでむねという息子が居た。


愛姫が五郎八を身ごもった際、正室である愛姫と政宗の結婚15年目にして嫡出子ちゃくしゅつしであったという事もあり、政宗の期待は大いに盛り上がりもはや嫡男の誕生であるという考えしか思い浮かばず、政宗は男児の名前しか考えていなかった。


愛姫は産まれた子供が姫であった時には政宗に対し内心で申し訳なく思っていた。


そんな時に政宗が文字にしたため


「愛!この名にしたぞ!!」


と言って、懐妊中から見せられていた五郎八という文字を見せられた時、愛は悲しくなった。


「政宗殿、これは男児を産む事が叶わなかった妾への仕打ちですか?」


質問に政宗は大いに笑いながら答えた。


「愛!早とちりを致すな!!これは「いろは」と読むのだ!!わしと愛の初めての子じゃ、二人の為に考えに考え抜いた名を使わぬわけにいかぬと思うてな!」


政宗は己のはやとちりを棚に上げ、愛姫に言うのだが、愛姫はそんな政宗の行為に愛情を感じ、納得し「五郎八姫」の名を受け止めた。


愛姫もよくよく政宗の考えを聞いた後には「五郎八」という名前が良く思えてきたのだ思えたのだ。


そして五郎八は聚楽第、伏見、大坂などを転々としながら見識を深め幼少期を過ごした。


五郎八は忠輝とはまた違った意味合いで聡明な少女であった、そして五郎八は大坂の地で人生を左右する出会いをする。


その人物というのはオルガンティノという男性であった。


オルガンティノはイエズス会の宣教師でありながら、日本で法華経を研究したり、持ち前の明るさや人柄、柔軟な感性で信長や秀吉の知己となり、日本という国を気に入り、「パンが無いなら米を食べれば良いじゃないの」「祭服さいふくが無いなら僧衣そういを着れば良いじゃないの」なんていう変わり者であった。


オルガンティノは偶然大坂の細川ガラシャを訪ねた時に五郎八姫に出会い、五郎八の物怖じしない態度に好感を持った。


五郎八は五郎八で青い目の僧衣を着たオルガンティノに興味を引かれ、オルガンティノから世界の広さを教えてもらう。


オルガンティノはこれまで様々な日本人とふれあい


「ヨーロッパ人はたがいに賢明に見えるが、日本人と比較すると、はなはだ野蛮であると思う、私には全世界じゅうでこれほど天賦の才能をもつ国民はないと思われる」


この境地に至り、五郎八にもまたそう教えた。


仏教やキリスト教の事をガラシャやオルガンティノに学び、五郎八は密かにキリスト教の教えに傾倒していった。


しかし当時、秀吉によってバテレン追放令が出ていた為、おおっぴらにキリスト教徒として信仰をすることが出来なかったため洗礼は受ける事が出来ず、それを悲嘆に思った五郎八にオルガンティノは2つのクルスを送る。


「一つは五郎八様が信仰心を持ち続ける限りお持ちなさい、もう一つは五郎八様に大切な方が出来た時、その方も五郎八様と同じ信仰を持つと言われたら差し上げてください。」


五郎八はオルガンティノの心配りと気遣いに日本人に勝るとも劣らない「美徳」を見た。


「私もこのような優しさで人を包み込めるような人間になりたい」


五郎八の一つの目標が出来るのであった。


慶長けいちょう4年(1599年)


徳川家康が自勢力拡大工作の要として伊達家との婚姻を画策する。


家康は事前に伊達家の子女を伊賀者に調査させていたが政宗の正室の長女・五郎八がキリスト教の教えに傾倒はしているが洗礼を受けた訳では無い事、聡明で柔軟な考え方を持つこと、それらの情報を踏まえ政宗に忠輝と五郎八の婚約を申し出る。


政宗は目に入れても痛くない五郎八を家康が疎んじていると噂の忠輝に嫁がせる事を大いに悩むが、秀吉亡き後、徳川に付かねば伊達は苦境に陥ると判断した政宗はしぶしぶ五郎八と忠輝の婚姻を了承するのであった。


伊達政宗という戦国武将にとって松平忠輝との婚姻が今後の五郎八の人生は当然のこと、政宗の人生にまで大きな影響を及ぼすという事はその時の政宗には知る由もなかった。

ここまで読んでいただき誠に有難うございます。

誤字脱字等ございましたらご指摘いただければ幸いです。

これからも『闇に咲く「徳川葵」』をよろしくお願いします。

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