その光の名前は 4
「ねえ、お兄ちゃん」
食器を洗い終えたのか、手を拭いた少女はそう言って、こちらへ向かって来る。こっちの世界ではラック以外に縁のある人間がいない俺は、その言葉を受けて当然、ラックに視線を移す。少女も、ラックに視線を注いでいる。当の本人は未だに独り言を呟いている。
薄ら寒い笑顔を浮かべる少女は、ラックの目の前までやって来て立ち止まった。
「コップを置きっ放しにしないでって、いつも言ってるよね?」
「ん? ああ、アリス。起きてたのか」
「おしおき、だよ」
言って、アリスはラックの懐に潜り込んだ。俺が立っている場所からでも、アリスが深く腰を落としているのが確認できる。同時に、俺はラックを待ち受ける未来を予見した。
次いでアリスは右腕を引き絞り、思い切り突き出した。いわゆる正拳突きだ。
何らかの魔法を施したのか、ラックはアリスの正拳突きを受けて、遥か後方へ吹き飛んだ。未来を予見したという前言は撤回しよう。正しくは予想を遥かに超えていった。
体勢を自然なものへと戻したアリスは、俺へ向き直る。
「あなたは、お客さん?」
「あいつ曰く、俺は客じゃないんだと」
童貞であり、彼女いない歴は年齢に結びつく俺だが、五つは年が下であろう少女に強張るほど、対人経験不足ではない。そして、ロリコンでもない。
「ごめんね? お兄ちゃんが実験に巻き込んで」
「ああ、まあ、気に病むようなことじゃない」
この暫定妹は兄をよく理解しているようで、俺が客ではないと言うと、即座に対応を被害者に対するそれへと切り替えた。それは、ラックが常習犯であることも意味していた。
俺がいなくなって困る奴もいれば、悲しむ奴もいる。……だけど、困ってほしい奴も、悲しんでほしい奴もいない。だからだろう、俺がこんなにも冷静なのは。あっちでの生活が楽しくなかったとは言わないが、未練らしいものは何もなかった。
「えっと、わたしはアリス・クラックって言って、お兄ちゃん、ラックの妹です」
「俺は明司 生。何の変哲もないかもしれない異世界人だ」
兄姉とは違い、非常に礼儀正しい。異世界に迷い込んで、二人目でまともな人間に出会えたことは幸運と言うべきだ。
色素が薄い兄姉とは違い、アリスは年相応に健康的な少女だ。金髪碧眼で、容姿も良い。周りからはさぞかし可愛がられてきたに違いない。
「アカシ、ショウ? もしかして、お兄ちゃんが時々話してた異世界から来たの?」
「それがどこかは知らねえが、俺の故郷は日本って国だ」
「やっぱり! ねえショウ! ニホンって、たくさん物語があるのよね!?」
日本と聞いて急に興奮しだしたアリスは俺に詰め寄る。異性だとかそういったものを抜きで俺はたじろぐ。さっきの今だ。明日は我が身と思っても仕方がない。
物語といえば、それこそ腐るほどある。日本に限らず、創作物は世界に溢れんばかりだ。まあ、その中でも、ライトノベルが存在する日本は、数だけで言えばトップクラスだろう。俺は頭を縦に振ることを返事の代わりとした。
「なら、ショウが一番面白いと思う物語を聞かせてくれないかしら!」
「それは別にいいけど……」
出会って数分の相手に不用心すぎだとか、吹っ飛んだまま気絶しているお前の兄貴だとか、いろいろ突っ込みたいところがある。
「いいでしょ? わたし、一度異世界の人と話をしたかったの」
「いや、あれは放って置いていいのか?」
そう言ってラックを指差す。この際、本人の警戒心のなさは無視だ。
話をすること自体は構わないんだが、それよりも、まだいくつか質問したい事柄が残っている。どうして言葉が通じているのかとか、単位が何故同じなのかとか。
俺の疑問はアリスに詰め寄られるたびに萎んでいく。年下に強張らない程度に対人経験はあるが、詰問されてたじろがないほど対人経験豊富ではない。
「いいのよ。お兄ちゃんは少し反省しないと。それより、ね?」
「……もう好きにしてくれ」
それからラックが目覚めるまでの約数時間、俺はアリスが飽きてくれることを願いつつ、延々と源氏物語を語った。




