夢堕ち
最悪の一日がまた終わった。思えば俺は社会人となってから怒られてばかりいる気がする。書類の不備、取引先でのミス、いろんなことが重なって、今日の飲みでも怒られてばかりだった。
こんな飲みには行きたくなかった。けれど、それで行かないとなると上司の苛立ちがたまるばかりで、俺には行くという選択肢しかなかった。
飲みに誘われるときは大体怒られてばかりだ。そしてそれは長く続く。嫌なことほど時間が遅く過ぎるというが、母数が大きいこともこの場合原因に入るのだろう。おかげでもう十二時を過ぎていた。自宅の遠い俺は終電で帰ることもできずに、一人東京の街を徘徊していた。
「くそが」
俺は道に転がっている汚らしい空き缶を蹴り飛ばした。ころころと音を立てて転がり、その缶はシャッターの閉まった店前で止まった。
周囲を見渡せば、シャッター街と化している。店に入る前にはたくさんいた人々の影は、既に見えなくなっていた。
「何なんだよいつもいつも」
俺が一体何をしたっていうんだ。ただただ普通に生きていただけだろうが。こんなことばかり、人生がつまらない。
「俺だってやればできんだよ。今はついてないだけだ。くそ」
酔った勢いで出た独り言は、人気のない道にひどく響き渡った。そんな惨めな状況に、おかしな笑いがこみあげる。
「お兄さん、酔ってるっすねー」
いきなり耳元に囁かれた声に、俺は驚いて振り向く。そこには真っ白な衣装に身を包む若い青年が立っていた。今まで人の気配などなかったのに。
「なんだよお前、急に人に声かけやがって」
「そりゃかけますよ。キャッチっすからねー」
爽やかに青年は笑う。店のチラシも、メニューすら持ってない。
「ほんとにキャッチか」
「うっす」
「……はあ。なんだよ」
「明日、いかがっすか」
あ、と疑問の声が響く。訳の分からない文言に、俺は酷く間抜けな声で返してしまった。
「だから、あ、し、た、いかがっすか」
「冷やかしならどけ、邪魔だ」
俺は青年の体をどけようとするが、力強く肩を掴んで、青年は俺の動きを止めてきた。
「まあまあ、ちょっと話ぐらいいいっしょ」
「ちっ、なんだよ」
青年は手を放し、安心した表情を見せて、笑う。
「お兄さん、ついてないみたいっすね。仕事でもミスばっかみたいだし」
「なんだよ、聞いてたのかよ」
「だ、か、ら、そんな人生変えたくないっすか」
「なんだよそれ」
「今、明日を売ってんすよ」
青年は神妙な顔つきで言った。さっきから言ってることがめちゃくちゃだ。
「なんだそれ。あれか、新手のキャバクラの誘いか? でもな、キャバクラで夜更かしするほどの金は俺にはなくてね」
「あはは、キャバクラっすか。そっちのキャッチのがまだ楽しそうっすけどね」
「違うってのか」
「違うっすねー。まあ、言葉が足りなかったかー。明日の記憶、売ってるんすよ」
「明日の記憶?」
気味の悪い話だ。人気のない場所に急に現れた青年が、明日の記憶を売るという。一体何でこんな夜中にからかわれなければならない。
「ちっ、からかってんだろ。いいからどけ」
「からかってなんかいませんよ」
急に低い声で青年は俺に言った。
「ほんとです。俺は知ってます。明日を知るための手段を。そして俺は、その手段をあなたに、提供しようとしています」
「なんだ、それ……」
「明日を見れるカプセルホテル」
青年はひっそりと消え入りそうな声で呟いた。
「どういうことだ」
「そこで寝れば、自分の明日の、重要な部分が見れるんです。良いことも、悪いことすらも」
「そんな馬鹿な」
「まあ、良いことに関しては、お兄さんには関わりない話っすかねー」
「ふざけんな」
俺は青年の襟元を掴み、引き寄せる。彼は顔つきを変え俺をじっと見つめてきた。
「自分から動くことが重要なんですよ。このままでいいんですか」
「……」
「今なら、安くしときますから。それに……泊まるところも必要でしょう」
「そうだけど……」
「さあ、どうします」
俺は、青年から手を離した。
青年に連れてこられてきた場所は、ひどく古びた三階建てのビルの前だった。青年はそこに着くと一言だけ「そこの三階です。今回は千円でいいっすよ」とだけ言って、気が付けばいなくなっていた。
そのビルに入ると、古びた内装に階段だけが続いていた。一階にも二階にも、店らしき店も明かりも気配もなく、気味が悪かった。
三階に着くと、そこには扉が一つあり、目線の先に「welcome,tomorrow」という札があった。
扉を開くと真っ暗な部屋に淡い白色の明かりが照らされている。左に受付のカウンターらしきものが、右に扉が三つあった。だが、入ってから店の人が来る様子もなく、静けさだけが漂っていた。
「誰も来ねえのかよ」
俺は痺れを切らして扉の前に行く。扉は真っ白で、かなり際立っていた。ノブも押しボタンも何もなく、無理やり引こうとしても開かなかった。
「ん?」
扉のすぐ隣に、よく見ると見慣れた機械が取り付けられていた。自販機とかに良く取り付けられている、札の投入口だ。
「もしかして」
財布を取り出し千円札を入れてみると、機械音と共に勢いよく吸い込まれた。その後、ガチャ、という音と共に扉が開いた。
中に入ると真っ白な空間が広がって、その中央にぽつんと大きい楕円形のカプセルがあった。
目の前に立つと、自動でゆっくりと開いて、中には普通のホテルにあるようなベッドが埋め込まれていた。
広い空間の個室に大きなベッド、カプセルホテルにしてはだいぶ豪華なものだ。確かにベッドはカプセルだが。
「まあいい、寝よう」
俺は一人呟き、そのベッドに入った。入るとすぐにカプセルの蓋が閉まり始めた。
明日が見れる、なんてほとんど信じていなかった。どうせ戯言に決まってる。だがそんな戯言に乗ってついってった俺は、だいぶ疲れていたんだろう。今日という日にも、人生にも。
俺は深いため息をついて、そのまま眠りについた。
夢を見た。気持ち悪いほどにリアルで、ありそうで起こりそうな出来事の夢だった。
夢の内容はこうだ。朝乗った電車で人身事故が起こりその場で一時間立往生、そのまま遅刻して上司に怒られる。更に取引先に向かうと、先輩から受け取った企画書が二次候補の他社向けの企画書だったことで取引が無しになった。そんなことだった。
まさか、これが起こるというのだろうか。俺が見た夢が、現実となって起こるというのか。
俺に予知夢の力なんてない、そんな馬鹿馬鹿しいことあるか。僕はそう自分の考えを否定して、カプセルホテルを出て行った。
最後まで、そこに人は見受けられなかった。
駅に行くと、うんざりするほどの人混みであふれていた。今日はホテルから出たし、家よりも会社に近い駅だから、いつもより早く会社に着くはずだというのに、この人混みを見るとそんな余裕は忘れてしまう。
駅に着くと、俺は定期を手にしていつも通り改札を通ろうとした。その時、ふと今朝の夢のことを思い出した。
『電車での人身事故』
ふざけた夢だと馬鹿にしてたが、どうしてもそのことが頭をよぎってしまった。
「ちっ」
俺は改札から離れて、別の路線からのルートで行くことにした。こんな変な夢に左右されるようなら、あんな適当なキャッチになんて構わなければよかった。俺はまたも舌打ちをして別の改札を目指した。
別ルートの駅の出口は、本来のルートの出口よりも会社から遠い距離にあった。いつもよりだいぶ早い時間ではあるが、やはり苛立ちはある。こんなことならば、いつも通りに行けばよかった。
しばらく歩くといつも降りる駅に着いた。ここまでに十分。やはり時間の無駄だった。そう思って通り過ぎようとすると、駅に人が群がっているのが見えた。
「ただいま、人身事故の影響で電車が運転を見合わせています。復旧の目処は立っておりません。お急ぎの方は近くの……」
駅員の大きな誘導の声に、俺は体をびくつかせ振り向く。
電車が止まっていたのだ。まるで、夢の中の出来事を再現したかのように。
「いや、まさかな」
そう、人身事故なんていつでも起こりうることだ。偶然に決まっている。
しかし、今日遅れていたら、朝の会議もあったし怒られていただろう……
俺はそんな想像をかき消して、会社に向かった。
会議は難なく終わった。俺主導の議題もあったが、それは準備をしていたこともあって滞りなく終わった。会議を終えて、同僚から「らしくなく順調じゃないか」と言われるほどに、今日は良くできていた。
昼休憩中に一人コンビニ弁当をかきこみながら、俺はふと思う。
もしかして、あの夢に逆らった行動をしたからか。
思えば、あの出来事が夢通りに起こっていたら、このように順調な今日は訪れていなかった気がする。
「いや、そんな訳ねえ」
自分の邪推を退ける。そう、そんなはずない。これは、たまたまなのだと。たまたま、夢と現実に一致しそうなところがあっただけなのだと。
「飯中悪いな。今日の取引先に持ってく資料、目通したから。これで大丈夫だ」
向かいのデスクの先輩が俺に目を配らせながら、資料を差し出した。
「ありがとうございます」
「頼むぞ。あそこはデカいからな。絶対契約とってこい」
任せてください、と言いながら、俺は先輩から資料を受け取る。先輩が一言、大丈夫とだけ言って渡した資料だ。きっとうまくいく。
そう思って資料を鞄に入れようとした手を、俺はふと止めた。
『企画書による取引失敗』
あの夢が、また唐突に頭によぎる。何故だ。何故こうも出来事と重なるんだ。
まさかこれも……
俺は手を自分の元に引き戻して、その資料に目を通した。ぱっと見、今日持っていくべき資料と何ら変わりないように思えた、が。
「これ、違う」
その資料は、二次候補のB社向けの資料だった。今日の取引先はA社だ。
「先輩、これB社向けの資料です」
「ほんとか……ああ、悪い。でも、気づいてくれてよかった。こっちだ、確認してくれ」
「……大丈夫です」
先輩は、そうか、と安心した表情を見せてデスクに戻った。
まさか、とは思った。
だが、夢の出来事が連続して起こったのだ。しかも怖いほどに忠実に、起こったのだ。
あのカプセルホテルに行ったその次の日から……
取引先での契約は想定以上にうまくいき、今日はいつもよりも早く退社できた。
だがそれも、思えばあのカプセルホテルで見た夢のおかげだった。今日の俺の順調な一日は、あの夢に逆らった結果なのだ。
「どういうことなんだ……」
俺は夜のビル群の中でうなだれながら歩いた。悪いことなんて何一つないのに、なぜか心が晴れない。そんな自分の心に逆らうように俺は道の石ころを蹴った。
「何だったんだ……あの夢は……」
「気に入っていただけたっすか」
突然の声に、俺ははっとして振り向く。目の前には、昨日の青年が笑顔を浮かべて立っていた。
「明日、いや今日はどうだったっすか」
「どうもこうも、どういうことなんだ。あのホテルで見た夢が現実に起こったように」
俺は自分で言ったセリフを耳にして、しまったと思う。こんなこと言えば、俺が変な奴になってしまう。
「だから言ったじゃないっすか。明日を見れるカプセルホテル、って」
青年は真剣な表情でそう言った。
「な、なに言ってる」
「信じられないっすか。まあ、最初はみんなそんな感じっすけどね」
「お前、やっぱりふざけてるのか」
「失礼っすねー。でも、あなたは確かにあそこで夢を見て、そしてそれが今日起こった。そうでしょ」
確かに、彼の言う通りだった。ということは……
「じゃあ、あそこで寝りゃ予知夢が見れるってことか」
「予知夢とは違うっすけど……まあ、そんなもんっす」
青年は俺を笑顔で見つめる。
「あそこで見る夢が、明日の記憶です」
その奇妙なセリフが、じわじわと頭に入ってくる。そのセリフに、疑いを持とうなんて意思は、もう俺にはなかった。
「で、今日はどうするっすか。終電は……まだまだっすけど」
「また、あそこに行けるのか」
不思議とそんなセリフが口から出る。青年はそれに答える。
「ええ。ですが、あのカプセルホテルをこの先も使いたいのなら、このことは他言無用です」
俺は、何をいまさら、と言いながらも、彼の言葉の次を聞き入った。
「料金は五千円です。どうです、明日、気になりますか」
あのカプセルホテルに通い始めてから、もう三カ月が過ぎようとしていた。
俺は初日の衝撃につられ、次の日、そして次の日とあのホテルに通い続けていった。
明日を知ることには、いくつかの欠点はあった。その出来事がいつ起こるのかが正確に知ることが出来ないこと。また、それにつられて夢のことにばかりに夢中になっていくと、それが原因で夢とはまた違ったような悪い出来事が起こること。
しかし、何日もこの奇妙な状況を体験していくにつれて、慣れが出てきて、そういうミスも起こらなくなった。
明日の出来事が知れるというのは、不思議な体験だった。たとえその出来事がパーツパーツの不完全な状況であっても、まるで解答用紙を横目にテストを解いているような、快感を覚えていった。
そんな日々を繰り返しているからか、俺の日常にも変化が起こりつつあった。今まで何もいいことが起こらなかった俺に、段々と追い風が吹いてきたのだ。そしてそれは、リアルだけではなくて、カプセルホテルでの夢にも影響が出ていた。
良い出来事の夢も見るようになってきたのだ。
今まで夢で見る出来事といえば、悪いことばかりで、良いことなんて皆無だった。しかしここ最近になってから、徐々に良い出来事の夢を見る日も出てきたのだ。
これも恐らく、あのカプセルホテルの影響だろう。こうやって軌道修正することによって、人生そのものに変化をもたらすことが出来るのだろう。
いつものようにホテルに向かう道を、俺は感慨に浸るように歩いていた。
「おや、今日もっすか」
いつものように突然と青年は現れた。道はもうとっくに覚えているのだが、何故か青年は毎回ホテルに行こうとする時決まって現れた。
「どうやら、良いことあったみたいっすね」
「まあな」
「今日もホテルに?」
当り前だろ、と俺は彼に呟く。彼はそうっすよねーと笑いながら、首を大きく縦に振った。
気づけば、ホテルのあるビルはもう目の前に迫っていた。いつも気づけば着いてしまう。
「では、ごゆっくり」
青年はそう言って俺に軽く手を振ってみせる。俺はその背中に軽く笑いかけてビルに入った。
「明日、大阪に泊まりで出張行ってきてくれ」
上司からの命令は、唐突のことだった。
突然出張に行く社員が病気で倒れてしまって、最近営業成績もいい俺に白羽の矢が立った、というのが、上司の言い分だった。
「ちょっと待ってください」
俺は上司に喰らいつくかのように前に乗り出す。
出張する、そのこと自体には別に文句はなかった。出張してもやることは同じような営業だし、無茶な要請というわけでもない。
しかし、俺にはここにいたい理由があった。
紛れもなく、カプセルホテルがその要因だ。
出張に行ってしまえば、しかも泊りということは、ホテルに行くことはできない。そのことは俺にとっては大問題だった。
「その出張、代わりいないんですか」
「いや、急なことだしな。それに、これは大口の取引でもあるんだ。こんなチャンスを、まさか棒に振るのか」
上司が威圧的に俺を見つめてくる。俺はそれに気圧されて、いえ、行かせていただきます、としか言えなかった。
夜の街を徘徊するのは、恒例行事になりつつあった。だが今日は大きくて邪魔なキャリーケースが俺の足取りを邪魔する。
「おや、何すかその荷物」
青年が興味ありげに俺の手元を凝視する。
「明日、出張なんだよ。大阪」
青年は俺の言葉を聞くと、ああー、と言って手を叩いてみせる。
「で、今日はその荷物と共にホテルにって訳っすね」
「まあ、そんなもんだ」
俺は青年を鬱陶しく思いながら見つめる。
「そんなことよりも、あのカプセルホテルって他にもないのか」
唐突に青年に尋ねた。もしも、あのホテルが大阪にもあるのなら、俺はあっちでも夢を見ることが出来る。
「残念ですが、店舗はここにしかないんです」
青年がまっすぐと俺を見つめて言った。あんなに人の来ないホテルなのに、ここにしかないというのはぱっとしなかったが、そんなことを今言っても仕方がない。
「そうか」
「はい、それでは、ごゆっくり」
目の前に見えるビルを指さしながら、彼は俺に言う。
俺があのさあと声を掛けようと彼の方を向くと、もう姿は見えなかった。
「今日も順調だったな」
隣の同僚は偉く上機嫌にそう言った。だが、こんなことは当たり前のことだった。昨日のホテルでの夢で、もう商談が順調にいくことは目に見えていたのだ。
「明日の会社もデカい取引だからな、期待してるぞ」
俺にそう言って、彼は隣の部屋の扉を開けた。俺はそれを一瞥して、そのまま目の前の扉を開けた。
あのホテル以外の場所に泊まるのは久しぶりのことだった。普通な内装に淡い暖色系のライト。全てが目新しく感じてしまう。
俺はベッドに横たわりながら、深いため息をつく。このホテルにいても落ち着くことはなかった。あの大きな白いカプセルに体を包まれる瞬間を、俺は欲していた。
「明日……か……」
そうぼやいても、当然誰も現れない。
俺は不安を抱えながらも、そのまま眠りについた。
夢は、見なかった。寝て、気が付いたら朝になって起きていた。
夢を見ない今日は新鮮だった。あらかじめの情報なしに今日という日を送ることに、若干の恐怖を抱いていた。
「おい、行くぞ」
ノック音と共に、同僚が俺を呼び立てる声が聞こえる。俺はくたびれたネクタイを直しながら扉を開いた。
「……ということで、御社にこの製品を是非ご利用していただきたいと……」
俺のプレゼンは彼らに響いているのだろうか。
この先、彼らはどういう反応を示すのか、俺に知るすべはない。
「私からも捕捉しますと、この製品の……」
同僚がここぞとばかりにフォローをしてくる。どうやら、あまりよろしくない状況らしい。
「まあ、そういうことなら、こちらとしては一回預かって検討するという形で……」
取引先の面々は揃って首を縦に振る。どうやら彼らの結論はもう決まってしまっているようだ。
「かしこまりました。では、もし何か他にもございましたら、ご連絡いただければ」
俺と同僚は、連なる取引相手の面々に頭を下げた後、そのまま会議室を出た。
「まあ、あそこは最初から難色示してたからな」
同僚がぼやくように言う。
「にしても、今日はなんかおかしくないか。なんかこう……いつもよりも覇気がないというか……勢いがなかったぞ」
俺を見てそういう彼の目は、明らかに心配というよりは疑念のような表情だった。
「いや、別にそんなことは……」
「そうか。まあいいけど」
今日はおかしい? そうに決まっている。今日は何も知らないんだから。何が起こるかさえも、その一部さえも、知ることが出来なかったのだから。
「くそっ」
俺は消え入るような小さな声でそう言って、手を握りしめた。
東京に戻ったところで、取引先からの電話がかかった。やはりというべきか、取引はなしという方向で結論付けられていた。
会社に戻った時の上司の反応は、あまり良くはなかった。その唯一断られた取引先が、一番の大口だったのだから、無理もない。
それでも他の取引は成立していることもあって、それほど何か言われるといったこともなく、すぐに帰ることはできた。
帰り際に、上司が舌打ちをしていたことを、俺は気づいていた。
今日の見えない一日は、不安でしかなかった。
そんなことは普通だとわかり切っているはずなのに、そんな当たり前の今日が、俺にはたまらない恐怖となっていた。
明日の一部が見えるだけで、人生がこんなに変わるとは思わなかった。そして、明日がわからないというだけで、こんなにも生きづらいものになっていたとは俺は気づかなかった。
今日、何度も心臓が動きを速める瞬間があった。何もわからない状況が、俺に焦り、不安、恐怖を与えていた。もはや、俺には明日という不可視性のものが、見えることが当たり前になっていたのだろう。
「おや、一日ぶりっすね」
唐突に甲高い青年の声が聞こえた。
「お前、いつの間に」
「どうっすか、何が起こるかわからない今日という一日は」
無邪気に笑いながら、青年は俺に問いかけた。俺は青年の視線を振り切るようにそっぽを向き、最悪だったよとだけ言った。
「ほー、やっぱりあなたもわからない今日は生きづらいっすか」
「うるさいな」
俺は舌打ちをしながら、そう吐き捨てた。
「今日は来ますか、ホテル」
「ちっ、わかってるんだろ」
「まあ、そうっすねー」
いつものように、気づけば目の前にホテルのあるビルはあった。俺はそれを呆然と眺めながら、ふと思いたつ。
「おい、あのカプセルホテルって、他に……なんかないのか」
「なんかってなんすか」
青年はふっと噴き出すように笑った。
「例えば……明日全部を丸々知れるとか」
「ああ、あるっすよ」
あまりにもさらりと言うもんだから、俺は一瞬固まってしまった。
「ある……あるのか」
「ええ、全部丸々明日を見れるコースが」
こんなにもあっさりと答えを出してくれるとは思わなかった。青年は、言ってなかったっすか、とでもいうような目線で、俺を見つめていた。
「お前、そういうことは早く言えよ」
「言われないことは答えられないっすよー」
「おま……」
言葉を言いきらず、俺は舌打ちを打つ。
「でも高いっすよ。そっちは」
「そんなことはいい」
「そうっすか。じゃあ今日はそっちでいいっすか」
俺は青年の問いかけに無言でうなずく。その様子を青年を見つめると、改まった表情でじっくりと俺を見つめた。
「では、ご案内いたしましょう。明日を全て知った世界に」
「もう課の中では噂だぜ、次の昇進はお前なんじゃないかって」
同僚の一言に、俺は笑いながらよせよとだけ言った。
あのカプセルホテルを知ってから、もうすぐ二年が経とうとしていた。
思えば、ここまでの道のりは長いようであっという間だった。
あの大阪の出張の日をきっかけに、俺はもうあのホテルに住んでる同然の状態になっていた。もはや自宅にはたまに入るくらいで、会社帰りの夜はほとんどあのカプセルホテルにいるようになっていた。正直、カプセルホテルの金の工面には苦労していた。最初のうちの五千円程度なら節約で何とかどうにかできたが、上のコースにしてからは貯金を切り崩しての生活になっていた。しかしそれでも、ボーナスの額が上がったりと、実際に良い変化を目の当たりにしていくと、無理してでも上のコースを使い続けていくようになっていた。
あの日青年が言った、明日を全て知った世界を、俺は今体験している。カプセルホテルにある上のコースでは、夢の内容はパーツパーツではなく、きっちりとすべてが見れるようになっていた。朝起きてから、夜寝るまで、全ての様子が鮮明に見れた。
夢ですべてを見るようになってからは、現実での出来事は二周目のゲームのようだった。何もかもがわかって、前回の汚点をうまくカバーして進めていく。そんな体験だった。
「先輩、これ次の会議の資料なんですけど、チェックしてもらえませんか」
隣のデスクの後輩が、そっと資料を差し出した。
「あれ、それ前にもうチェックしなかったか」
「……いえ、まだですけど」
少し考えてからふと思い出す。そういえばまだだった。
「ああ、すまないそうだったな。確認するよ」
そう言って俺は資料を受け取る。後輩は少し首を傾げながらもあまり気にしている様子ではなかった。
こういうことは、最近よくあった。夢の中の出来事と、現実での出来事が混同して、もう現実で終わった出来事なのか、それとも夢で見た未然の出来事なのか。それの区別が出来なくなる時があった。
「次の人事、期待しておくといい」
資料をめくる俺に、会議帰りの上司は肩を叩きながら言った。
「ありがとうございます」
「これからも頑張ってくれ。期待している」
俺は二度目のガッツポーズを目立たぬようにした。夢の中でも、寸分狂わない出来事が起こっていたのだ。
順調に、二度目の今日は進んでいた。
「にしても先輩、すごいっすよね。こんなに若いのにもう昇進なんて」
「おい、まだ言われてないからな。気が早い」
あんなの言われてるようなもんじゃないっすか、そう言いながら後輩は酒を一気に飲み干す。
実際は、彼の言う通りだった。
あの感触は、確実に昇進コースだ。間違いない。俺は安堵するように目の前のビールに手を付け、ほっと一息つける。
正直、この二年間は決して気持ちのいいものではなかった。悪いことを予期しながら、同じような日を連続して過ごす。退屈に思うこともしばしばあった。けれど、思い通りに進んでいく二回目の今日という日は思いもしないほど快感で、そして次第にそれは当たり前になっていった。
「先輩、どうしたんですか」
怪しい呂律を何とか保ちながら、後輩は俺をじっくりと見つめた。どうやらぼーっとしていたようだ。
「いや、何でもないよ」
「そうですかー」
「にしても、飲みすぎじゃないか」
「大丈夫っすよー、これくらいは。それより、先輩ももっと、じゃんじゃん飲んでくださいー」
ビール瓶を傾けながら、彼は強引に俺のグラスにビールを注ぎ足した。俺はその様子を笑いながら眺めて、そのまま一息でそれを飲み干した。今日は最高の日なんだ。これくらいは許そう。
そのまま一時間が過ぎて、後輩は完全に出来上がった様子で泣きながら俺に愚痴をこぼしていた。
「先輩ー、俺の人生変わってくださいよー、ほんっといいことなしで」
うなだれてそういう彼の肩を叩きながら、俺は笑ってみせる。俺も俺で、相当酔いは回っていて、上機嫌になっていた。
「嬉しいこと言ってくれるな。そんなに俺になりたいか」
「なりたいっすよー、仕事も何もかも完璧で、憧れちゃいますねほんとっ」
「ははは、褒めすぎだよこんにゃろ」
俺は後輩の頭を軽く叩いてみせた。彼はそのままうなだれて、明後日の方向を向きだした。
「なんか……秘訣でもあるんですか」
「なんだよそれ」
「そんなにうまくいく秘訣ですよ」
机をたたきながら彼は必死に俺に抗議する。
「しょうがねーなー」
「教えてくれるんですか?」
俺はにやにやと後輩を見つめた。焦点は合わず、ぶれぶれの彼を前に、俺は気分よく口を開いた。
「実はさ。明日の見えるカプセルホテルってのがあるんだよ」
すっかり出来上がった状態でふらふらによろけながら、俺は後輩に別れの挨拶をした。
あのカプセルホテルの話をすると、彼はそんな馬鹿な話信じないとそっぽを向いていた。まあ無理もないだろう。俺も知る前だったら同じ反応をしているはずだ。
「あいつ、勿体ないことしたな」
俺は上機嫌に転がっていた缶を蹴り飛ばした。
あのホテルにさえ行ければ、人生なんて掌でもてあそぶかのようにうまくいくのに。信じないのは本当に損なことだと、俺はため息を吐く。
「さて、明日の夢はどんなもんかね」
俺は上機嫌に独り言を漏らした。昇進を告げられて、仕事もうまくいっている、そんな夢を早く見たくてしょうがなかった。
軽やかな足取りで、歩いて歩いて、歩いていった。
しかし不思議なことに、いくら足を進めても、ビルも見えなければ、青年の姿も現れなかった。
「おい、いつになったら現れるんだ。出て来いよ」
俺の叫ぶ声は、真っ暗な夜空に吸い込まれていくだけで、返事は来ない。俺はそのまま仕方なく足を進めるが、依然として彼の姿は現れなかった。
「何でだ、おい……」
すっかり酔いも抜けてきて、冷静になって俺は足を止めた。今まで、すぐに目の前に現れた青年も、いつの間にか見えているホテルのあるビルも、一向に現れないのはどう考えてもおかしかった。
「何で、何で……」
昨日見た今日の夢でも、こんな出来事は起こってなかった。何故、何かあの夢と違う行動をしたか。考えに考えを巡らせる。
「あっ……」
思わず口から漏れ出した声が、虚しく響く。
「さっきの飲みか……」
思い返してみればそれしかない。あそこであんなにビールを飲んで酔いつぶれてなんてことは、夢ではなかったはずだ。そのことを思い出したと同時に、俺は自分の犯したことに気づいた。
『あのカプセルホテルをこの先も使いたいのなら、このことは他言無用です』
青年の何時しかの言葉だった。確かに彼は、その時はっきりとこのセリフを口にしていたのだ。
そして俺は、酔った勢いで後輩に、カプセルホテルの話をしたのだ。
「そんな、嘘だろ」
俺は鞄すら放り投げて夜の街を全力で駆け巡った。俺の記憶を全て振り絞り、いつも来ていたはずのホテルの道を、全力で探し求め走った。しかし、いくら街を駆け巡っても、毎日通っていたホテルの通り道に見えなくて、知らない道をただ我武者羅に走っている感覚しかなかった。
「何で……何でないんだ……」
俺はその場に崩れ落ちて、呆然と地面を見つめた。
明日がわからない?
俺はどうやって明日を生きていけばいいんだ?
わからない日々を、どうやって過ごしていけばいいんだ?
明日……明日ってなんだ?
明日って……何が起こるんだ?
明日……明日……
「俺は、どうやって明日を生きてたっけ」
消え入るように漏れ出したそのセリフが、儚く響く。
切ない叫び声が、耳元に深く響く。
俺は何もかもわからない未来に、震えた。
*
私の目の前に現れた青年は、ひどく真っ白の服装を身にまとって、優しく微笑みかけてきました。何もかもに絶望した私に、彼は困ってるっすねと突然声をかけてきたのです。
いかにも怪しげな彼を私は警戒の目線で見つめましたが、そんなの知らないかのように、彼は私に一言、呟きました。
「明日、いかがっすか」