憧れの映画 後編
8番、そう書かれた劇場に足を向け、僕達はすぐさま、自分達の席を探そうと薄闇の中を彷徨う。
ある程度の場所はチケット売り場で確認してきた為、それほどの苦労もなく、僕達は所定の場所を見つける事が出来た。
「ここみたいだね」
「いいね! いいね! 良い席だよ!」
僕達が陣取ることになったのは、劇場における中央3列目という非常に恵まれた環境の席だった。ここならスクリーンを見上げて首が痛くなる心配もないし、通行人に視界を遮られる心配も少なくて済む。
ただ、僕には唯一、この席においても許せない事象が一つあって、
「ほらほら、りっくんも早く座りなよ」
それは先に席へと着いた隣人が、当たり前のように、両の肘置きを占領してしまっているということだった。
譲り合いの精神、どうやら僕は、今から心を鬼にしてでも、それを叩き込んであげなくちゃいけないらしい。
「……カナ、肘掛において良い肘は、片方だけだよ」
小さい男と思われるかもしれないが、僕はどうしても、こういったことに神経質になってしまう。
映画館や長距離電車における肘掛の重要性を、僕は決して、軽んじて考えはしない
「りっくん……目がマジだね」
「うん、これだけは、いくらカナといえども譲れない」
僕の本気を汲み取ってくれたのか、カナは意外にもあっさりと僕側の肘掛から腕をどかしてくれる。
珍しく完全勝利をもぎ取ったというのに、僕は後にこの出来事を思い出す度、自分の矮小さに膝をつく事になってしまう。
その後、特筆すべき事態も起こらないまま、館内は完全な闇に包まれる。
カナの選んだ映画の内容は、それこそ使い古されて、何度も繰り返しリスペクトされてきた青春群像劇だった。
7人の男女が時に喧嘩し、時に離れ離れになり、最後には壮大な大団円を迎えて閉じる。
それはどこにでもあるようで、とても現実的ではなく、それでも僕は不覚にも感動を覚え、心を震わせてしまっていた。
僕はこういった身近な奇跡の発生に、とても弱い人間なんだ。
一方、エンドロールが終わっても、なかなか席を立てずにいる僕とは違い、カナは、
「面白かったねぇ」
と、とても感動している様子には見えなかった。
いくら付き合いが長いからとはいえ、他人の情緒までは計り知れない。
だから、僕にとってこの映画は素晴らしいもので、カナにとってのこの映画は面白い止まりのものであったというだけ。
惜しむらくは、カナの選んだ映画なのに、僕の方が楽しめてしまったということだけが、少し寂しい気持ちを覚えさせた。
入場ゲートを逆方向に進み、列とも言えない人波の中、僕たちは薄暗い広場へと戻ってきていた。
するとカナは、まるで初めからそうする事を決めていたかのように、売店の方へと足を向けだす。
あれ? あまりお気に召さなかったんじゃ……
そう頭の中で疑問符を浮かべながらも、僕はゆっくりとその背中を追いかけた。
「カナ、パンフレットでも買うつもり?」
「うーん、どうしよっか考え中」
一目散に掛けたわりには、それほど購買意欲や思い入れは無かったらしい。
「りっくんはどうする? パンフ買う?」
選択肢を僕に委ねるのはやめて欲しい、
たしかに僕好みの映画ではあったけれど、その手のグッズに興味はないんだ。
「うーん、やっぱり、りっくんならそう言うと思ったよ」
僕が自分の心情をありのままに口にすると、カナは困ったような顔で、見本のパンフをパラパラパラパラとめくり始めた。
「あのね、りっくん。 このシーンのこと、覚えてる?」
カナに見せられた見開きのページには、さっき見たばかりの映画のワンシーンが、まるで切り取られたかのように、そこに映し出されていた。
無論、僕がそれを思い出せなはずはない。
「あたりまえじゃん。 さっき見たばかりの映画だからね」
多分に呆れを含んだ僕の返答に、カナはやっぱり困ったように顔を歪めると、そのパンフを閉じ、レジへと新品のパンフを持って掛けて行く。
やっぱり、僕にはカナの行動が理解出来ない。
どうして、カナはあんな困ったような顔を?
どうして、カナはパンフレットをわざわざレジに?
絶えることなく疑問符が頭の中に浮かび上がって行く最中、今度は満面の笑みを浮かべながら、カナが僕の元へ戻ってくる。
「形があった方が良いと思うんだ。 りっくんはそんなだから、きっといつか忘れてしまうかもしれない。 だから私はきっと、これがあった方が良いと思うんだよ」
そうして、僕に買いたてのパンフを渡すと、カナは朧げに笑い、そんな言葉を口にした。
だから僕は不覚にもそれをありのままに受け止めてしまい、柄にもなく、心の中でこう毒づいてしまったんだ。
大団円なんて、くそっくらえだと。