憧れの花 中編
徒歩で三十分、それは近いとも言えるし、とても遠いとは言い難い距離だとも言える。
でも、この条件下、つまりは夏の湿気に晒されながらとなると、本能的に『遠い距離だ』という選択をしてしまうのも無理はないだろう。
だからこそ、そんな僕の荒んだ心を解し倒してくれるのも、前方ではためくノボリや、前方ではためく浴衣の裾だけだったというわけだ。
「あのさぁ……りっくん、その顔はしまっておいたほうがいいよぉー」
カナの忠告は、この際、無視させてもらうとしよう。
この幼馴染は情緒というものを大切に思う癖に、先の会話でも分かるよう、僕の思考を一片たりとて理解出来ない大馬鹿娘だ。
僕は分からない人間に対して、分からせてやろうといった強い意志を持った人間じゃない。
個人は所詮、個人なんだから、何もかもの感覚を共有しようだなんて馬鹿らしいこと、考えられようはずもない。
「りっくんのその考え方は、ほんと、下らないものだと思うんだけど、そんな事より今は、そのニヤけ惚けた顔のほうが気に食わないんだよねぇ」
辛辣な視線が、僕を真っ直ぐと貫いてくる。
でも、僕の意志と嗜好は、そんな些細な攻撃で砕けてしまうほど柔なものじゃない。
そもそも、何だよ。
その『恋人が他の女に色目を使ってる』みたいな非難の仕方は……
「残念だねぇ……。 ほんと、こんなに残念なのにねぇ……」
僕に対するカナの評価は、どうやらストップ安をぶち抜くほどに下がってしまったようだ。
僕の事を置いて、ずんずんと先に進んで行ってしまった事も、それを如実にあらわしてくれている。
さて……、カナはいったい、何に対して、そんなに怒っているんだろうか?
そんな疑問符を頭に浮かべながらも、僕はそれをわかるはずも無いことだと断定し、足早に前を歩く幼馴染に追いつこうと歩き出した。
多くの見物客がごった返す中、僕とカナは、それなりに人が少なく、それなりに穴場となっている場所へと足を向けていた。
地元民ならではの場所とはいえ、昨今、誰もいない本気の穴場なんてものは存在しようはずもない。
何処のどの場所へ移動しようとも、誰もに会わずに済む場所なんて存在しないに決まっている。
だからこそ、懸念しておかなければいけなかったはずなのに、僕はそのことをすっかりと見落としてしまっていたんだ。
「……カナ?」
「えっ……、お姉ちゃん?」
そこに知り合いがいるかもしれないだなんて安易なことも考えなかったことが、この後の僕とカナを取り巻く関係に、大きな傷と、大きな亀裂を生むことを、僕はこの時、知るよしもなかった。




