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雪柳

作者: 網野江ユウイ

 神隠しにあったことがある。

 いや,神隠しと言っていいかはよくわからない。結果私は無事にここにいるのだから。狐狸の類か妖怪か,そんな何かに化かされただけなのかもしれない。そもそも.神隠しというものそのものも,科学的には理由の説明ができない失踪を神隠しと呼称するだけであって,実際にそれが神による所業であるわけではない。それは良くわかっているつもりだ。

 だが私は,あれは文字通り神隠しだったのだと,妙な確信を持っている。

 なぜなら私は,私を隠した神様に,会っているのだから。





 大学のサークル,春合宿の合宿場でのことだ。

 私の所属する天文部は毎年大学の長期休みを利用して県の北にある山奥に合宿に行く。空気が澄んで,山の頂上から遮る物もなく星を見られる環境というのは私たちにとって最高の活動環境であった。唯一不満があるとすれば施設内がやたらと広すぎる事だろうか。とにかく,広い,移動にともかく時間がかかる。

 ざっと施設の紹介をしよう。まず本館は敷地の中央にあるのだが,そこから観測のできる展望台まで山道を十分ほど歩かされる。明るいならまだ良いのだが,夜の山道を十分歩くとなるとなかなか骨が折れる。山間にあるせいか施設の建物内でもやたらと坂道や階段が多い。しかも,坂道があるせいか,部屋の一方は地面の上に窓があるのに,反対の壁を見ると一階のはずなのに地面が天井近くにある,なんて事も珍しくないため,自分が今何階にいるのかわからなくなって目が回る。それはさておき,とにもかくにも敷地が広いのだ。近くにそれなりの大きさの湖があるが,そこも含めてこの施設の敷地らしい。まあ,敷地内だけでマウンテンバイクのサイクリングコースをやハイキングコースを組めてしまうのだ,その広さは想像に難くない。ついでに言えば山奥なので携帯の電波はもちろん来ない。来ても弱い。

 施設内の建物は大きく分けて二種類。普段私たちが利用する本館には,宿泊室や食堂,風呂やレクリエーションルーム,小さな郷土資料ブース,体育館や工作室などが備え付けられており,小中学生が林間学校に使用できそうな感じだ。湖を挟んで反対側には別館が二つ。そこは宿泊できるような部屋と風呂とトイレなどの必要最低限の洗面設備だけがある。宿泊室に入りきらないような大人数での宿泊ともなるとそっちを使うらしい。二棟ある別館のうち,山の頂上に近い方は老朽化が進んでいるということ,あまり近くないため利用に不便であることと言った感じの理由で今は使われていない。

「今夜は肝試しするぞ!」

 夕暮れ時の部長のそんな掛け声に,部員たちの間からは歓喜とも落胆とも取れない声が上がった。

「肝試しって言っても,脅かしたり脅かされたりはしねーよ。脅かし専門とか言ったやつは残念だったな。本館出て坂を下って行った先に湖向こうの別館二棟に繋がってる橋があるだろ。別館,山の頂上に近い方は使われなくなってだいぶ経つから結構ホラーな雰囲気なんだよな。とにかく,橋を渡って別館まで続く坂を上って,別館前の玄関に明るいうちに置いてきたおはじきを取って戻ってくる。それだけだよ。」

「毎年恒例よねえ……。」

「上回生的にはそろそろ何かしらの工夫が欲しいです。同じルートじゃ結構つまらなくないですか?」

「誰が仕掛けるんだよー。」

「他にルートもないししょうがないんじゃない?」

「言いだしっぺが新規ルート開拓してくれてもいいんだぞ?」

 先輩たちの言葉に春の合宿は初めての参加になる私は苦笑いした。暗いのは苦手ではないが,怖いのはあまり得意ではないのだ。

「まあ,とりあえず今年は例年通りって事で。一応橋までは一本道だけどその先はちょっと道が分かれてるから,初参加の奴らは後でおはじきの仕込みがてら下見な?」

 そんなこんなで天文部恒例の肝試しが開催される運びとなった。






 公正なるあみだくじの結果,私は一番最後に出ることになってしまった。戻ってきた同期に聞くと,何か驚かすような仕掛けがあるわけでもなく,ただただひたすらに暗いだけらしいことをきいてやや安堵しての出発となったが。ほとんどの場所は灯りらしきものが整備されておらず,一本の懐中電灯に頼らないと歩けない位だそうだ。(ちなみにスマートフォンのライト機能は却下された。先輩曰く,あれは明るすぎて周りが見えすぎるから面白くない,とのこと。)日もとっぷりと暮れて,山の妙な静けさが辺りを包んでいる。

「じゃあ次,ってか最後?いってらっしゃーい。」

 一人前の先輩から懐中電灯を受け取って本館から出る。本館前の長い階段を下って,広場に行くまでは懐中電灯が無くても,目が慣れさすればギリギリのところではあるが頼り無いながらに明かりがついているので進める。

「と……そろそろかな。」

 階段を降り切ってキャンプファイヤーのできる広場にたどり着く手前あたりの段でその先が見えにくくなったので懐中電灯のスイッチを押す。かちり,という小さな音と共にやや白っぽく輪郭のぼやけた光が目の前に丸く広がった。広範囲は照らせないが,足元を照らすには十分な明るさがある。だが,夜の闇とは不思議なもので。自分の周りが明るくなっていると逆にその周りが妙に暗く見える。まあ,目の前の明るい空間を見るために目が調節されて,周りの暗闇が見えなくなっているだけだろうと言うのは容易に想像がつくのだが。ためしにクルクルと回りを照らしてみると,光の帯は闇に容易く飲み込まれてどこまで続いているのかもわからないほど遠くまで歩かなくてはならないような気になった。

「……。」

 山の中なので静かだ。近くを車が通っているわけでもなし,今日は私達の他に宿泊団体が来ているわけでもないので人の気配もない。自分のスニーカーが地面に落ちている葉を踏んでかさかさと音を立てている以外は風の音が時折聞こえる位だ。

「……?」

 人の囁き声が聞こえた気がして,懐中電灯を足元から先に向ける。長い一本道の先に飲み込まれるようにして明かりが消えていく。灯りの射線に引っかかったのか,木の肌が妙に白く浮き出たように照らし出された。若干霧がかかっているのか,明かりに照らされた先は白く煙っている。周りには私以外誰の気配もない。

「気のせいかな。」

 誰も聞いていないと思うとやや独り言が増えるようだ。まあ,独り言が服を着て歩いているようだなんて言われたこともある位なので今更気にしていないし,こういう時は無言で歩くより良いだろう。

「あ,見えた。」

 目の前に湖の対岸に渡る橋が見えてきた。橋の上はさすがに明かりが整備されていて懐中電灯なしでも歩ける程度には明るく照らされている。それを見て,なんとなく電池が勿体無いような気がした私は懐中電灯のスイッチを切って橋を渡り始めた。

「ん……?」

 視線を感じた気がして,橋を渡りきる一歩手前で橋を振り返る。蛍光灯に照らされたその空間は暗闇に浮いて,周りが水であることも手伝ってかやたらと浮き上がって見える。

「なんだろう,さっきから……。」

 やはり話声のような音が風に混ざって聞こえてくる。おかしい。脅かしたり脅かされたりは無いはずだろう。それともなにか,一番最後は残念賞と言う事で部員全員から脅かされるとでも言うのか。今年の部長ならやりかねないが,そんなことになったら影の最高権力者である会計の先輩に泣きついてやろう,きっとこてんぱんに説教してくれるはずだ。先輩達ではないにしてもこの状況はあまりよろしくないような気がする。最近はまりだしたホラーゲームじゃあるまいし,そんな魑魅魍魎共に簡単に出て来られては困るのだ,この科学であふれた現実世界に。

 再び懐中電灯のスイッチを入れて山道を別館に向けて登り始める。一応階段らしきものが整備されていて,階段中腹当たりに電灯はあるものの,そこまでは真っ暗で懐中電灯に頼るしかない。

「登りにく……。」

 段の幅も高さもまちまちな上に,雨によって土が流れてしまっているのか坂道を削って造られたような階段はところどころ傾いているように感じられた。慎重に足元を照らしながら一段ずつ登って行く。脚が疲れてきたし,息も上がっている。いつしか独り言を言う余裕もなくなって,ただ淡々と階段の頂上を目指して登るのみだった。

「ついた……。」

 中腹を過ぎてからは意外に短かった。早鐘のように打つ心臓を押さえつけながら顔を上げると,暗闇の中にぽっかり開けた広場があり,目の前にコンクリート二階建ての別館がひっそりと建っていた。確かに夜の闇の中で見たら,別館前の円形の広場の周り6箇所ほどに申し訳程度に配置されている電灯に不気味に照らし出されていてなかなかホラーな情景だ。よくよく見ると窓が一枚割れている。

「ええと,おはじきは……あれ,二つある。」

 誰か最後まで来ずに引き返したのだろうか。ガラスでできた一般的なおはじきが玄関扉の前に転がされていた。

「置きっぱなしって訳にもいかないよね……。」

 青い模様の入ったおはじきを拾い上げてポケットに入れる。その手でそのまま赤いおはじきを摘まんだ。

「……?」

 妙に生温い。懐中電灯で照らしてよくよく観察してみると,ぬらぬらと表面が濡れて光っているようにも見えた。しかもこのおはじき,奇妙なことに,下見がてら先輩と置きに来たときには見覚えが無かった。少なくともこんな奇妙な色をしているのだ,印象から無くなるはずがない。模様が動いて見えるのはきっと光の加減のせい。一旦拾い上げたものを裏返して,また元の向きに返した時だった。



「…………ひぃーろったぁ,ひぃーろったぁ…………」



「!?」

 低い,ガラガラと掠れてくぐもった声が背後から聞こえた。

 懐中電灯を振り回すようにして背後を見る,誰もいない。こういう時は真後ろにいるというホラーのお決まりかと更に体を180度ひねって後ろを見る,誰もいない。右を見る,誰もいない,左を見る,誰もいない,正面に視界を戻す,おはじきが突然弾けた,見れば咄嗟におはじきを握り締めた右手が真っ赤に染まっている,血の色だ,痛みはない,でも,生暖かいそのやや粘つく液体は水ではない,懐中電灯を振り回す,誰も何も視界に入らない.真後ろを振り向く,やはり誰もいない,人の姿は無い,誰も何も……



「あそぼぉーよぉー」



 真後ろからの声と血生臭い吐息に弾かれるようにして,私は一目散に広場の向かい側にあるさっき登ってきた階段目指して一目散に駆け出した。絶対に振り返らない,振り返りたくない,振り返れない,中腹にある電灯が見えた,ああなんだかよくわからないけれど後ろから何か迫ってきてる事だけは分かるどうしろって言うんだスニーカーの脚がもつれる,階段の段を転がるように駆け降りる,よし,一番下だ,一目散に橋を目指す,ああさっきより物音が増えてるぞ私の心臓の音かそれとも魑魅魍魎有象無象が山の斜面を這いずり下りてくる音かなどっちかって言うと後者な気がする,橋が近づく,橋の上なら全力で走れるから少しは相手を引き離せるかもしれない,そう言えば水って神聖なものなんだっけ,あいつら湖渡れなかったりしないかな――――!




    りぃん……――




「……っ!?」

 澄んだ鈴の音が一つ聞こえて,あたりの空気が変わった。息を切らして走っていた私は思わず足を止めて周りを見渡す。青く霞がかった風景,芳しい,それでいてどこか爽やかで甘い,ジャスミンにも似た匂いに満たされた風が頬を撫で,明るい視界のその先は,一面真っ白な雪景色……?

「やあ。」

 呆然としている私の目の前にその白をかき分けるようにして人間の形をしたものが現れた。

「良く逃げてきたね。君は幸運なのか根性があるのか……どちらかって言うと後者かな,臆せず暗い山道を転げおりてくるから何かと思った。」

「……?」

「向かいの山には昔はちゃんとした祠があったはずなんだけどね。気が付いたら無くなってていろんなものが野放しになっているよ。」

 ああ,そこの湖でその血まみれの手を洗ったらいいよ,清めの水だ,君とあいつらとの縁を洗い流してくれる。男が優しく微笑んでそのほとりに白い花がたくさん咲いた湖の水面を指さすので,私はおずおずと近づいてその水面に手を差し入れた。

 男はよくよく見ればなかなかの美丈夫であった。すらりと高い背に中性的な表情,いつの時代の物かもわからない豪奢でいて品のある何色かも良くわからない程に薄い布で出来た装束を幾重にも纏い,金糸が編まれた紐でゆるく縛っていた。頭に飾られた飾りは彼が一歩歩くとしゃらしゃらと音を立てて揺れていた。足元は見たことのない形の靴。この時代のものでないことだけが確かだった。

「あの……ありがとうございます……?」

「おや。お礼が聞けるとは。大抵の人は私が誰かを一言目に聞くんだけど。」

「随分非現実的な目に遭ったので……慣れました。誰でもいいから助けになってくれた人にはまずお礼を言いなさいと母から躾られているせいもあると思いますが。」

「慣れた,か。そうだろうね。」

 男は楽しげに笑う。

「ここはどこですか?」

 私は雪景色だと思っていた一面の白が,よく見ると小さな白い花がたくさん咲いた腰の高さほどの柳のような枝をした植物だと気づいていた。それがこの空間の一面を埋め尽くしているのだ。どうやらこの空気の匂いはその植物のものらしい。こんな景色は現実世界では拝めないだろう。

「少なくとも現実世界ではないよ,君の暮らしてる世界ではない。なかなか大変だったよ。後ろから追われていたから一瞬だけ世界の境界を歪めてすぐ閉じたんだ。うまいこと君だけが飛び込んできてくれて助かったよ。今頃あいつらは境界の壁にぶつかって木端微塵になってるんじゃないかな,ああ,そんな顔しなくても,君が予測する通りの魑魅魍魎だから,放っておけば元に戻るよ。」

 木端微塵と言う言葉に若干のスプラッターを想像した私の顔を見たのか,男はまたコロコロと楽しそうに笑った。あまりに楽しそうなので少し腹がたった。

 橋を駆け抜けてきたはずの私の後ろには一面の白い花と,良い香りのする木でできた太鼓橋が,そして浮島をいくつか浮かべたような広大な湖が広がっていた。どうやら簡単には帰してもらえないらしい。

「……少し聞いてもいいですか。」

「いいよ?」

「あなたは誰ですか?」

「うーん,説明すると長くなるからこのあたりの山の神様とでも言っておこうかな。山っていうのは本来神聖なものだからね。ほら,時々霊峰とか言うだろう?ああいう山に限らずほとんどの山には神様がいる,力に差こそあれど,神様は神様って事で。」

 ってことは,私は現実世界から見たら文字通り神隠しに遭っているわけか,それも,神様直々のお出ましで異世界に匿われていると。えらく愉快な状況だ。

「なんで私を助けてくれたんですか。」

「自分の庭でバケモノに暴れられても困るからなあ。なんとなく気まぐれで。私は風の向くまま気の向くまま自由気ままに存在してるから。」

 自由すぎやしないか。そんな自由さで現実世界から人転移させていいのか。

「ここ.あなたしかいないんですか。」

「うん,基本的には。時々隣の山から神様仲間が遊びに来るけど基本的には1人だよ。」

 ……なんだろう,その割にこの男はとても楽しそうだと,私は思った。

「さて,そろそろ良いかな。奴らに追われて捕まるよりは幾分かマシかもしれないけれど,この世界にいるのも生きている君にはあまりよろしくはないからね。あくまでも一時避難って事で招いただけ。あんまりここにいると帰れなくなる。」

 男はそう言って私の背後を指さした。

「そこの太鼓橋を振り返らずに渡れば帰れるよ。ここは私の世界だから補償する。」

「最後にひとつ質問が。」

「まあ,一つくらいなら。」

「この花,なんて言うんですか。」

「ああ……雪柳。現実世界じゃ一時しか花をつけないと思うけど,ここでは年がら年中咲いてる。」

「そうですか。」

 どこかで聞いたことのある名前な気がした。

「ああ,そうだ,もしお礼がしたいと思うなら,君たちが観測に使っている山の頂上の広場の奥まったところに鳥居が一つある。その奥の祠に手を合わせて貰えるかな。」

 掃除してもらったりお花とか供えて貰えたりするとなおいいんだけど,まあわがままは言わないよ,誰かに信仰されていれば,私たちは思う存分力を発揮できるから。とその神様は少しだけ寂しそうに笑った。私はその言葉に静かに頷いて太鼓橋を歩いて,渡った。

 振り返りは,しなかった。






 それから後のことはよく覚えていない。気が付いたら青い霧が白い靄に変わっていて,気が付いたら本館に向かう坂を上っていて,前からやって来た泣きそうな顔の先輩に思いっきり抱きしめられた。

 現実世界は早朝だった。

 ……どうやら時間が歪んでいたようだ。私が向こうにいた時間は僅か5分にすらならない程だったろうに。

 先輩達や同期の話を聞くと,長い時間戻らなかった私を心配して,もしかしたら近くに戻ってきているかもしれないと一晩中部員が代わる代わる外を見まわってくれていたらしい。朝になっても戻らなければ警察を呼ぼうと話をして,まさに警察に電話をかけようとしていたその矢先だったようだ。何の痕跡もなく忽然と姿を消した私は,時差にややぼんやりしながらも先輩たちに代わる代わる抱きしめられていた。

「ご心配おかけしました。」

「いや,無事ならいいけど。……なんか,いい匂いするね。」

「……雪柳の香りだと思います。」

「このあたりに咲いてたっけ?」

「……この辺りじゃないです。」

「どこ行ってきたのよ。」

「……神隠しに遭ってきました。」

「……お,おう。」

 そりゃコメントにも窮するってものだ。こんな非現実的な事を言われては,先輩たちも困るだろう。私だってまだ信じられない。それでも,夢だと片付けるにはあの水の感触も,会ったことのある誰にも似ていないあの神様も,神様の話も,そして一面に咲き誇ってたあの雪柳の香りも,何もかもが鮮明でリアル過ぎるのだ。だから私は,神隠しに遭ったと言うほかなかった。

 そんな話をしていたら靄の向こうから朝日が昇ってきた。山の夜明けも,夜と同じように静かだった。







 疲れているだろうからと宿泊室に一人寝かされていた私はそっと起き出して,一人観測場所に足を向けていた。途中で用具置き場のようなところから竹ぼうきを一本とバケツと雑巾を拝借した,もちろん後で返すつもりだ。

「ちょっと奥まったところだっけ?」

 また独り言を呟きながら山道を登って行く。金属の板で出来たバケツががらんがらんと音を立てて耳にうるさいのを無視して,どんどん山道を山頂に向かって登って行った。鳥居の場所は分かっている。木が切られて剪定され,空が見えるようになっている場所の正反対の方向だ。

「あった……。」

 若干朱が落ちかかった小さな腰の丈ほどの鳥居を通り過ぎ,その奥に続く一本道を3分ほど歩いて坂道を更に登っていくと,確かにそこには古ぼけた祠が一つあった。

「みずがみさま,だっけ。」

 この地域にある村が,水を司る神様として信仰していたと言うのがこの山の神様だと,郷土資料のブースに書かれていた。古くから,すいじんさま,とか,みながみさま,とか,おみずさま,とか,あめがみさま,とかいろいろな呼ばれ方をしているようだが,どれも同じ神様を指すらしい。この一帯の山は水源林としての役割も担っていたそうだが,ふもとの村が廃村となってからは川に水が注がれているだけでろくに管理もされていない。昔はこの村に山にそれはもう所狭しと咲き誇る雪柳の香りが下りてくると春が訪れたといって村人が春の祭りの準備を始めたそうだが,今では山は当時に比べるとかなり荒れて,雪柳もところどころで見かける程度になってしまったらしい。ふもとの村近くでも今では信仰はほとんどされていないと言うのだから,その更に下流に住んでいる人間が水源林のある山の神様を信仰しているかとなるとまあ怪しいところだ。それを物語るかのように,祠の周りは荒れに荒れていた。

 観測をする広場まで一度戻り,バケツに軽く水を汲む。戻ってきたらそれを一先ず足元に置いて,持ってきた竹ぼうきで祠のある周りを大雑把に掃く。すると,明らかに祠を祀るための広場として整備されたであろう地面が出てきた。他の所とは違い,人に踏み固められたような,人の手が少なくとも加わったことのあるような,そんな地面だ。それを目安に私は更にザクザクと落ち葉を掃いた。祠の上にかぶっていた蜘蛛の巣や枯葉もきちんと払い落とす。気休め程度だが,ざっと濡らした雑巾で祠の土台になっている石を丁寧に拭き,祠そのものも土が被っているところはざっと拭き取った。

「うん,こんなもんかな。」

 作法も何もない,ざっくりとした片付けだが,それでも周りがきちんと掃除されるだけで少なくとも忘れられて朽ち果てて行く一方な感じは薄くなるものだと思った。だいぶ満足である。本当は何か供えるのが礼儀なのだろうが,生憎持ち合わせがなかった。

「さて,と。」

 バケツの中の水をそこいらの地面に適当に撒き,雑巾は絞り,その辺に転がしていた竹ぼうきは手元に手繰り寄せ,私はそっと祠に向かって膝を付き,手をやんわりと合わせた。あの,どこか楽しげで気ままで,けれど寂しげな神様の顔と,彼のいた一面の雪柳の世界を思い浮かべた。

「こんなんでいいのかな……。」

 これでお礼になった気もしないのだが,まあ,本人に言われたことをしたのだ,文句は言われまい。せめて,次の合宿の時にもここに来て掃除をするくらいのことはしようと,誰に言われるでもなく私は思った。あと三年はこの部活にいる。三年は信仰してくれる人間がいるのだ,あの神様なら十分だと笑うだろうか。卒部するときには誰かに引き継いでもいいかもしれない。もっとも,なんでこんなことをするのか説明するのにはかなり時間が必要になりそうだ。

「まあ,いいか。」

 さて,戻ろう。一回の合宿で二度も神隠しに遭ったなんて言われたら,後々ネタにされるのは分かっているのだから,と私はバケツと雑巾と竹ぼうきを拾い上げて立ち上がった。







 山道を下る途中で,雪柳の木を見つけた。あの楽しげに笑う神様に実は全部見られていたのかもしれないと思うと,少し癪だった。

雪柳の花言葉:「気まま」

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