スイート・ホーム・タウン “笑顔の我が町日記”
登場人物
しあわせ設計事務所所長 真田雄一
フレンチ店長 坂井美代子
フレンチのバイト 真木律子
大屋さん 吉川辰三
大屋さんの奥さん 吉川道子
ベテラン巡査 下川信二
新米巡査 今村拓郎
細川酒店主人 細川 清
酒屋の奥さん 細川恵子
酒屋の娘 細川美穂
お多福女将 鈴木麻子
前の職場の後輩 小林孝史
同上 飯島公三
前の職場の社長 岸辺勇蔵
スナック愛のママ 日高今日子
マスター 日高敏郎
高校時代の同級生 吉岡達也
老舗の江戸屋の主人 日下信一
江戸屋の息子 日下正信
ラウンジ嬢 純
河川敷の老人 石田義男
石田の息子 石田俊哉
石田の息子の嫁 石田恵理
石田の孫娘 石田有美
◆プロローグ
201×年の秋のある木曜日。
東京のはずれ、下町の小さな建築設計事務所。
その名も「しあわせ設計事務所」。
社員は誰もいない、所長の雄一が1人だけである。
彼の経歴は不明、しかし分野別に分かれる建築設計、その全てをこなすという能力を持ち合わせているのである。
何故、そんなことができるのか?
雄一に言わせると、大して難しい事じゃないと軽く言ってのける。
今の世界、専門的なことは、調べればすぐに情報が手に入る。
その情報を理解して、自分のものにすればいいだけだそうである。
ただ、ほとんどの技術者の諸君は、自分の分野にプライドを持ちすぎて、他の分野にまで理解が及ばない。
更に、自分の知識を上乗せする時、自分の置かれている狭い分野の範囲からでることができないそうである。
難しい内容を勉強するのは大変ではと聞くと、情報を仕入れて、少し理解の上乗せをすれば簡単との返事。
要は、しようとするかしないかの差とのことである。
雄一は料理も得意である。
少し、その道にもいたとも言われている。
更に、趣味の範囲でとは言っているが、小説や詩等の創作も手掛ける。
設計、料理、執筆と何の関係もないこともこなせる、これは才能なのかと問うてみた。
雄一は、笑って、どれも才能なんてまるでない、ただ、やる気とコツを掴むだけだそうである。
そんな雄一が、大して収入もない設計事務所を自由奔放に運営しながら、ごくごく平凡なことに遭遇していく物語である。
◆その1 不審者
自宅から事務所まで、自転車で10分。
しかし、毎朝直行して事務所に行くことはまれである。
お気に入りのパン屋でコーヒーとパンを買い、遠回りして、幸川の河川敷公園に向かう。
ここで、のんびりと朝食を取るのである。
とにかく雄一は解放感のある所が好きなのだ。
長時間、狭い部屋にいるのは全くの苦手で、窓のない部屋には1時間もいられないのである。
仮に窓があっても、開ければすぐに隣の外壁などというのは論外で、窓=解放感が常識らしい。
なので、なにかあれば、と言うか、なにもなければ、広い場所で空を見るのが、至宝の喜びと言う。
今朝も、冷めたコーヒーを飲みながら、ゆっくり卵サンドとあんパンをほおばる朝食を楽しんでいた。
雄ちゃん、また今日も寂しい朝ごはんしてる~。
同じマンション、隣室の美代子が憐れみの声で話しかけてくる。
好きでしてるの、大きなお世話。
たまには、栄養のあるもの食べなきゃだめよっ、じゃあ、これからお店だからね。
いつも明るいんだよなぁ、美代子は。
楽しそうに仕事に行く美代子の後ろ姿を見送りながら、雄一は笑顔になっていく。
美代子の言う、寂しい朝ごはんも終わったことだし、そろそろ行くかな。
雄一は愛用の自転車をこいで、事務所の前に。
玄関まで、道路からのアプローチが5mほど。
元々、この事務所は倉庫で、前に駐車スペースがあった。
でも、玄関までの通路を残して高い目の塀で囲み、事務所前に中庭風のスペースを確保した。
アプローチに自転車止めて、玄関の鍵を開けようとした時、ゆっくりだねぇと隣の辰三さん。
暇だしねぇ、連絡は全部携帯電話に転送してるから、事務所にいなくても安心なんですよ。
仕事なくてもやっていけるし、外国にもちょくちょく行くし、親の財産でもあるの?
そんなものないですよ。質素な暮らししてるからねぇ。
またまた、あっそうそう、お昼ご飯持って行くから先に食べないようにって、道子が言ってたよ。
辰三さん、いつもありがとうね、道子さんにもお礼言っといてね。
このおじさん、世話になりっぱなしの大屋の辰三さんである。
ふぅ~、一息ついて、鍵を開けて中に入る。
相変わらず殺風景な事務所である。
入り口の前に、打ち合わせ用の机といす。
その左手に、自分用の大きなデスクと本棚。
部屋の奥に複合機と作業用デスク。
間仕切りの裏は、キッチンとトイレである。
しかし、その殺風景な事務所を居心地のいい所にしているのが、正面の庭。
パティオというスペース、建物の中で雄一が一番好きな場所である。
なので、あえて周囲に高い塀をめぐらし、閉鎖的ではあるが解放感のあるパティオを作りだした。
限られたスペースをいかに広く見せ、開放的な空間にするか、これは雄一の最も得意とするところである。
特に仕事のない時も毎日事務所に来るのは、このパティオがあるからだと、雄一は言う。
しかし、何故駐車スペースを潰してしまったのか。
雄一には車がないからなのか、いや、雄一は運転免許証は持っているのだが、期限切れなのである。
これは、長期間海外で生活をしていて、更新ができなかったためで、手続きをすれば復活できるはず。
何故か、雄一は手続きをしない、調べるのが面倒だとか。
仕事等では、調べて情報を手に入れると言っておきながら、プライベートに関しては無頓着である。
雄一は長期間、車の運転をしなかったことで、もうハンドルを持つ気も無いのであろう。
まず向かったのがキッチン、コーヒー豆をひいて、メーカーのスイッチを入れる。
自分のデスクに向かい、パソコンの電源を入れメールのチェック。
今朝、家のノートパソコンで確認したばかりだから、当然受信トレイにメールは0。
パティオ前のカーテンを開き、外を見る。
パティオの雰囲気と空の青色、この景色は心を和らげてくれる。
いい香りがキッチンからしてくる、コーヒーをマグカップに注ぎ、パティオに出る。
ガーデンチェアーに座り、庭の緑に目を向ける。
上を向いて深呼吸、コーヒーを飲みながら、頭をからっぽにする。
この平和な生活が始まって、1年近くになる。
この先、どれだけ続くのかな、雄一はつぶやくのである。
収入がなければ、この生活は続かない。
仕事は大丈夫なのか、雄一?
仕事は大丈夫だよ。
実は、ある建設会社と仕事の契約をしていて、毎月定額の入金があるんだ。
まとまった時は大変だけど、ほとんどが月にして10件以内。
それも、大抵は1件3時間程で終るし、だいたい自宅でやってしまってる。
そんなにまとまった金額じゃないけど、贅沢しなければ充分だよ。
それと、少し別なこともしてるしね。
辰三さんが言ってたけど、ちょくちょく海外に行くのも仕事がメインだし。
海外住まいの際と知り合った方が、たまに仕事を紹介してくれるんだよ。
前に書いたけど、いろんな分野の作業を1人でやるから、金額は正規の2割から3割で引き受けてしまう。
普通1千万円程の仕事でも、3百万円以下で受けれれる。
外国だから手続き関係はできないんだけど、地元の事務所がするべきことまでやっちゃうしね。
クライアントからすれば、かなり助かるよね。
その代わり、最初の打ち合わせと調査に1週間をいただき、その航空代金と滞在費・経費はいただくようにする。
実際の仕事は3日くらいで終るから、あとはフリータイム、無料で海外旅行って感じだね。
ただ、帰国後2週間程は寝る時間もなくなるけど。
まあ、2週間でメイン作業を終わらせるから、安いのか高いのか、海外旅行もできるし。
結構、問い合わせもあるんだけど、続けてしても、体もたないから、断ることが多いかな。
一見、暇そうな雄一であるが、実のところはなかなかのようである。
雄ちゃん、開けて!
お昼、持ってきたよ!
道子さんの来襲である。
毎日ではないが、よくお昼ご飯を差し入れてくれる。
ご飯に味噌汁、おかずが2品か3品、おふくろの味である。
昔、仕出し屋をしていたそうで、かなりうまい。
海外生活も長く、1人住まいの雄一には、ありがたいお昼ごはんである。
実は、この道子さんもここのパティオのファンの一人である。
雄一がお昼を食べている間、キッチンのコーヒーを勝手に入れ、パティオのチェアーに居座る。
当然、黙っていてくれる訳でなく、ご飯代として、おしゃべりに付き合うことになる。
でも、雄一はそれが嫌いではない、両親を失くして天涯孤独の身で、母親と重なっているのである。
おしゃべりが長くなった頃、辰三さんが迎えに来て、ようやくお開きとなる。
お腹がふくれるだけでなく、心も温まる昼食である。
午後3時、雄一は週に1,2回だが、駅に向かう。
駅まで、自転車で5分程。
駅前の小洒落たカフェ、フレンチのドアを開ける。
4人席が2つとカウンター席だけの小さな店である。
フレンチの飲み物はコーヒー・紅茶、ジュース、食べ物はフレンチ・トーストのみである。
しかし、こだわりのコーヒーは常時5種類の豆、紅茶は3種類の茶葉を揃えている。
ジュースは2種類のみであるが、フレンチ・トーストも3種類ある。
あら雄ちゃん、いらしゃい!
そう、朝公園で声をかけてきた美代子である。
ここの店長をしているのであるが、オーナーは雄一なのである。
調理や接客は美代子とバイトの子の2人でしているが、メニュー・レシピ関係は雄一が受け持つ。
運営は全て美代子に一任している。
月末にバイト代と経費を引いた金額を美代子が持ってくる。
その8割が美代子の取り分、2割が雄一の小遣いとなる。
開店当初は、お互い0なんて時もあったが、なんとか軌道に乗って、美代子の生活も安定してきたようだ。
先月から、雄一考案の野菜のパウンドケーキも1日10個限定で作り始めた。
なんといっても簡単に作ることができるし、原価も安い。
これが好評で、今のところは売れ残りもないようだ。
カフェ・フレンチは屈託のない美代子の人気と計算された雄一のメニューで万全のようである。
30分程のお茶休憩の後に事務所に戻る。
雑用を済まし、コーヒーと共にパティオへ。
今日は、木曜日かぁ。
明日は朝帰りになるから、早めに帰ろうかな。
今何時・・・4時前かぁ。
じゃ、帰る前にメールチエックしとこうか。
あれっ、仕事がきてる。
図面の入力だけね、見積もりは無しか。
あ~あ、今日は家でするのも面倒だし、やっちゃおうかな。
今回のは単純な形だし、1時間程で入力終りそうだね。
よっしゃ、納品メールを送信してと。
終った、今何時?
結局、5時半になっちゃったね。
外もうす暗くなってきたし、帰ろ。
コーヒーカップを片づけて、戸締りして、自転車に。
事務所をでて、暗くなってきたいつもの帰り道を走っていると、突然左から自転車が飛び出してきた。
雄一はそんなにスピード出してなかったから、急ブレーキで停車。
しかし、飛び出してきた自転車はかなり急いでたみたいで、こちらは急ブレーキでバランスを崩した。
そのまま、道路の縁石に乗り上げて横転してしまった。
いたたぁ・・・あっ、いや、だ、大丈夫ですか?
大丈夫も何も、僕は、止まっただけだし。
そちら・・あれっ、今村さんじゃないですか。
最近、駅前派出所に赴任してきた今村巡査だった。
えっ、あっ、雄一さんでしたか?
暗くなってきたばかりで、ライトを付けて無くて、職務怠慢ですね。
そんなことより、怪我はないですか?
かなり派手に転んだみたいだけど・・・
すみません、大丈夫、鍛えてますから。
でも、いったいどうしたんです、かなり急いでいたみたいだったけど。
あ、そう、忘れてた。
不審な男を追い掛けていたんです。
交番にいたら、黒いブルゾン来て、野球帽にサングラス、マスクの男を見つけたんです。
ははは、野球帽にサングラス、マスクって、いかにもって感じですね。
そう、それで、自転車に乗って追いかけたのですが、男は信号で右に曲がってしまって。
私も、少し遅れて曲がったのですが、姿が見えなくなってしまっていて・・・
それで、慌ててスピードアップで直進だったんですね。
そ、そうなんです。
僕は事務所から来ましたが、そんな男は見ませんでしたよ。
と言うことは・・・
信号のある交差点から、この交差点まで、狭いけど2本ほど通りがあるから、どこかで曲がったんじゃ。
このあとは用もないし、僕も一緒に探してみましょう。
戻って、路地に行ってみましょう。
ご協力、ありがとうごあいます。
この路地、私は右側を調べてみますので、雄一さんは左側をお願いします。
でも、見つけたら何もせず、直ぐに知らせてくださいね。
凶器を持ってるかもしれませんからね。
はい、見つけたら携帯に電話します、番号教えてください。
雄一さん、本当に気を付けてくださいよ。
雄一は、自転車を置いて、暗い路地を歩いて入った。
20m程進んだ時、電信柱の脇に、人影らしきものを見つけた。
慌てて、塀の影に隠れて、今村巡査に電話。
小声で、今村さん、いた、いました。
雄一さん、今どの辺りですか?
20m程入ったとこです。
直ぐ行きます!
今村巡査が合流して、不審な男に近づき職務質問。
もしもし、何をされているのですか?
急に声をかけられた男は、ぎょっとして振り返った。
その直後、今村巡査を振り切り、慌てて逃げ出そうとして、雄一にぶつかった。
2人は転倒して、直ぐに今村巡査が男を取り押さえた。
雄一さん、大丈夫ですか。
はい、ちょっとびっくりしたけど大丈夫ですよ。
で、その男は・・・
あれ、酒屋のおじさんじゃないの。
転んだ拍子に、帽子とサングラスが飛んで、顔が見えてしまっていた。
交番の並びにある、細川酒屋の主人の清であった。
これは、どういうことなんです、説明してください。
いや、面目ない。
その時、数軒向こうから出てきた若い女性が、通り過ぎ際に何事かと3人を見た。
そして、びっくりした声でお父さん!
清の娘、大学生の美穂だった。
今村さんに、雄一さんまで、いったい何があったんですか?
今村巡査が、とりあえずここでは何ですので、交番まで行きましょう。
10分後の交番、今村巡査にベテラン巡査の下村、雄一、清と娘の美穂が座っている。
落ち着いたのを見計らって、今村巡査が切りだした。
清さん、説明してもらえますか?
まったく面目ない。
実は、今日の午後、電話が鳴って、俺が取ったんだよ。
そしたら、中年くらいの男の声で娘に代わってくれと言うんだ。
普通に美穂に代わったんだけど、話が終ってから、誰なんだって聞いても、どんな話かって聞いても、後でって言うばっかりで話さないんだよ。
美穂はまだ大学生だし、そんな中年の男から電話がかかってくるのも変だろ。
電話中そっと見てたら、何にやらメモして切り取っていったから、俺は待ち合わせだと直感したんだ。
まさか、今時の援助交際ってやつかも・・・
俺は心配で心配で、それで、いてもたってもいられなくなって、美穂の後を付けたんだよ。
その時、美穂が噴き出した。
あっ、ごめんなさい、もう、おかしくって。
なんだよ、俺はお前のことが心配で・・・
待ってお父さん、大きな勘違いよ。
だって、援助交際だったら、あんなに近所の、それも住宅に行くはずないじゃない。
そうなんだよ、俺も、電柱の横で、おかしいと思って立ってたんだよ。
そしたら、急に今村さんから声がかかったもんだから、慌ててしまって・・・
こんな姿見られるの恥ずかしっくって、逃げるつもりが横にいた雄一さんにぶつかってしまって。
あっ、そういえば雄一さん、怪我はなかったかい?
ええ、大丈夫ですよ。
それなら、よかった。
で、そんな時に、お前が出てきたんだよ。
美穂、お前、なんであの家に行ったんだ、それと、あの男は何なんだ?
あの人は、家庭教師の派遣会社の人よ。
近所だったら家庭教師してもいいかなって思って、この町内限定で登録だけしてたの。
そしたら今日連絡があって、あのお宅の中学生の女の子の家庭教師の依頼があるけど、どうかなって電話があったの。
そう、お父さんが取った電話ね。
会社には、決まるまで親には内緒なので、電話の際に会社の名前は出さないでほしいって言ってたから。
とりあえず、お互いの面接と言うことで、さっき、お邪魔してたのよ。
決まったら、きちんと話すつもりだったから、後でって言ったの。
先に話したら、お父さんもお母さんも、自分のようにそわそわするんだもん。
わっはは、今村、下村両巡査も雄一も、お腹を押さえて笑った。
おいおい、そんなに笑わないでくれよ、これも親心ってもんなんだよ。
いえいえ、おじさん、微笑ましいですよ、ホントに。
でも、あの野球帽にサングラス、マスクはやり過ぎですよ。
いや、美穂に見つからないために・・・
何言ってるのお父さん、そんな変装しても、直ぐにわかるわよ!
それよりお父さん、私が電話してるとこ、覗き見してたって、もう最低!
すまんすまん、もう許してくれ~。
そこに、連絡受けた美穂の母親の恵子が、派出所に入ってきた。
お前さん、美穂、何があったの?
今村巡査から説明を受けた恵子は、顔を真っ赤にして、巡査と雄一に謝った。
おばさん、いいんですよ、気にしないでください。
そう言われても、私は恥ずかしくってしょうがないですよ。
ところで、下村さん、今村さん、この宿六は何かの罪になるのでしょうか?
とんでもない、親子と夫婦の仲直りが済んだら、お引き取り下さい。
ああ、よかった。
雄一さんにまでご迷惑かけて、本当に済みませんでした。
じゃあ、帰ろうか。
親子は、笑顔で帰って行った。
今村巡査が雄一に、雄一さん、ご迷惑をおかけしました。
下村巡査も、ご協力ありがとうございましたと頭を下げた。
雄一さん、また今度非番の時に。
いいですねぇ、行きましょう。
えっ、先輩、どこに行くんですか?
はは、その時のお楽しみだよ。
心配せんでも、誘ってやるから。
では、雄一さん、今日はお手間をかけさせて、申し訳ありませんでした。
いえいえ、結構楽しませていただきましたよ。
じゃ、僕も帰ります。
ふぅ~、思わないことだったなぁ。
だけど、随分遅くなっちゃったね。
夕食作るつもりだったけど、もう、どこかで食べて帰ろうかな。
目の前だからお多福に行こ。
お多福は、駅前商店街にあるおでんやで、派出所、細川酒店と、皆並びにある。
おばさん、こんばんは。
雄ちゃん、いらっしゃい。
何かあったの?
さっき、ちょっと買物で出たら、交番に雄ちゃんや細川さん一家までいるから。
ははは、大したことないよ、良き父親のフライング。
どういうこと、まあいいや、ゆっくり聞くわ。
何にする?
おでんお任せとウーロン茶、それとご飯と肉じゃがね。
またウーロン茶?
今日は、少し寒いから、熱燗なんか美味しいのに。
じゃあ、ホットウーロン茶、お酒飲めないからしょうがないものね。
はいはい、了解。
心まで温かくなるおでんと、家庭的な味の晩御飯に満足も雄一だった。
美味しかった、いつもありがとうね。
また来るね~。
雄ちゃん、ありがとね~
のんびりなのか、慌ただしいのか、雄一の毎日はこんな感じである。
◆その2 無理難題
201×年の秋、とある金曜日。
今日も雄一は、河川敷の公園で、缶コーヒーとパンの朝食を楽しんでいる。
空は青いし、涼しくて気持ちがいい。
こんな日は、ベンチに座らず、土手の芝生に寝転ぶに限る。
公園では、幼い子供と母親が遊んでいる。
少し向こうには野球のグラウンド。
しかし、平日の朝は誰も使っていない。
雄一には、野球に関しての思い出がある。
たまに思い出すこともあるが、今の生活にはその影も無い。
さあ、そろそろ行くかな。
公園内の通路に止めている自転車に乗って、事務所に向かう。
玄関前に自転車を止めて、さあ、今日も頑張ろうかなと自分に一声。
えっ、頑張るって?
何を?
背中から、辰三さんが声をかける。
今日も社長出勤だねぇ、あっ、社長だからいいのかぁ。
もう、意地悪大屋さんだなぁ。
でも、正解だろ、頑張るようなこともないし。
まぁ、そうだけどね。
笑って、中に入る。
いつものコーヒーを入れて、パティオに出る。
ここでも充分に青い空を堪能できるんだよね。
のんびりとコーヒータイムを楽しんでる最中に、雄一の携帯電話が鳴った。
はい、真田です。
おはようございます、先輩、小林です。
おう、おはよう、どうかしたのか?
先輩、ちょっと相談があるんです。
相談?
仕事、それともプライベートかい?
え~、両方。
おいおい、仕事関係ならなんとかだけど、プライベートはわからないよ。
とにかく、聞いてください。
ああ、分かった、いいよ。
こっちに来る?
はい、行きます。
何時頃?
1時間以内には、近くにパーキングありました?
隣の大屋さんに言っとくから、そこに。
わかりました、じゃ、行きます。
はいはい、待ってるよ。
ジャスト1時間で小林が来た。
先輩、お久しぶりです。
入って、僕が日本に戻ってすぐ以来だから、もうすぐ1年かぁ。
ほんとに御無沙汰してます。
でも、電話はしょっちゅうだから、御無沙汰って感じじゃないけど。
いつも、電話でお願いして、メールで済ませてますものね。
ホント、失礼してます。
小林は雄一が前にいた会社の後輩である。
後輩と言うより、当時は雄一の一番のアシスタントであった。
雄一は、上司と意見が合わず退社してしまった。
その後、雄一が海外で生活している時も、小林はよく連絡をしてきた。
せっかくのいいお天気だから、パティオに出ようか。
2人は、コーヒー持って外に出た。
いやぁ、いい感じですね。
以前来た時は、まだ周囲の塀だけでしたよ。
そうか、中、ゆっくりと作ったからね。
先輩は、この関係は得意技でしたね、さすがっ!
おいおい、おだてて、何の相談だい。
実は・・・と言って図面を取りだした。
これ、○○市に建設予定の大型商業施設なんですが、エントランスのデザインをクライアントがOKしてくれないんです。
それで、もう5回もやり直ししたんですけど、全部NO!
フーン、それで、僕は何を?
あの、クライアントがOKするデザイン、ご指導いただければ・・・
これって、仕事の依頼?
いえっ、あくまでご相談で・・・
おいおい、ただでデザインしろってか?
すみませんです・・・。
この件、小林の判断じゃないな。
だれから行って来いって言われたんだよ。
あの~、内緒ということで・・・社長直々に。
なにぃ、社長が!
もう社内の人間じゃ、お手上げになってしまって。
社長曰く、雄一さんはのんびりと理想の生活を満喫してるから、仕事で依頼しても受けてくれないだろうって。
よく言うよ、もう。
まあ、半分当ってるけどね。
それにしても、ボランティアかいな。
社長に、貸しだよって言っておいてよ。
じゃあ、そのクライアントのこと教えてよ。
それと、他にもそんな施設を持ってるんだろ。
それらも教えてくれ、もし、写真とかあったら助かるな。
分かりました、帰ったら、直ぐに揃えて送ります。
いつも通り、メールでいいですね。
ああ、いいよ。
大まかなデザイン案でいいよね。
どの位、時間くれるの?
あの~、3日程で・・・
えっ、たった3日?
それに、今日は金曜だぜ、わかってんの?
はい、次の打ち合わせ、火曜日なんです。
で、月曜に欲しいって訳?
だったら、デザイン案じゃだめじゃん。
ちょっと手を入れたら、直ぐに提案できるくらいにしとかないと。
そうしてもらえると、ありがたいです。
もう~、これ、絶対に社長に言っといて、鬼!って
どうせ、今晩は何もできないから、資料は明日の朝までに頼むよ。
で、プライベートって?
あっ、もう昼前か。
昼飯でも、食べに行こうか。
そこで、話聞くよ。
先輩、お昼おごります。
これ、経費で落とせるのかい?
無理でも社長に落としてもらいます。
そうか、じゃあ、ごちになろうかな。
どこ行こうかな、落ち着いて話できるとこがいいね。
パスタみたいのでもいい?
2本ほど向こうの通りに、マロニエってイタリアンの店があって、2階が静かで話やすい。
そこ行きましょう、先輩、一番高いの食べちゃってください。
ははは、そんなに高級店じゃないよ。
2人はスープとサラダとパスタを注文した。
で、何、プライベートの相談って。
先輩、石原紀子って知ってます?
石原・・・?
会社の庶務の女の子かい?
そうです、今、その子と付き合ってるんです。
えっ、本当に、社内恋愛してるんだ。
はい、で、しばらくさっきの件で忙しかったので、デートを3回もすっぽかしてしまって・・・
それで?
それで、最近、口もきいてくれなくなってしまって。
おいおい、そんな相談かいな。
そんな相談って、僕には大きな問題なんです。
よりによって、独り身の僕に相談されてもなぁ。
そんなこと言わないで、他に相談する人なんていないんですよぉ。
もう、困ったなぁ。
で、彼女のご機嫌が戻ればいいの?
そう、そうなんです。
おい、小林、お前デートすっぽかした時、きちんと謝ったのか?
えっ、紀子は忙しいの知ってたし、仕事だから行けなくなったって言ったんですよ。
それ、3回共かい?
はい。
だめじゃ、そりゃ。
忙しいの知ってるって言ったって、設計とは全然違う庶務課だろ。
きちっと話して、いくら仕事でも、しっかり謝らないと、そりゃ怒るだろ。
え~、そんなもんですか。
当たり前だよ。
デートの約束したの小林だし、彼女はすっぽかされたんだから。
きちんと、誠意をもって謝ってみな。
きっと、分かってくれて、機嫌なおしてくれると思うよ。
僕は、石原君のことはよく知らないけど、まじめな子だったような。
きっと、小林の言葉を待ってるんだよ。
今日、帰社したら、直ぐに謝るんだな。
分かりました。
ありがとうございました。
あっ、料理きましたよ。
何杯でも食べてくださいね。
おいおい・・・
昼食を済ませて、小林は会社に戻って行った。
あ~あ、土日は休み無しになりそうだなぁ。
今日は、朝帰りだというのに・・・
毎週金曜日、雄一は朝までアルバイトなのである。
しかし、決して望んでしている訳じゃなくて、頼まれてしょうが無くなのである。
人のいい雄一は、頼まれごとをされると、なかなか断れない。
このアルバイトも、最初の1か月だけだったのが、もう、半年になっている。
そのアルバイトとは・・・・・
その夜、午後8時、駅前の小奇麗なスナック。
チャランチャラン・・・ドアの開く音がして、雄一が姿を現した。
雄ちゃん、おはよう。
スナック愛のママ、日高今日子である。
奥から出てきたのが、マスターの敏郎。
今年の春先、派出所の下村巡査と客で来て以来、すっかりママのお気に入りになってしまったのである。
その1カ月後に、マスターが胃潰瘍で入院になって、ママから臨時のバイトを頼まれたのであった。
しかし、マスター復帰後も、週1でいいからと、継続になってしまっている。
午後9時、これもバイトの女の子2人が入店して、戦闘態勢完了である。
この御時勢、飲み屋は苦戦中だが、愛はそこそこ流行っているようである。
お客は、ほぼ地元の常連。
小さな町で、競争相手もさほどない中、ママとマスターの人あたりのよさが、お客を呼んでいる。
アルバイトの2人の女の子も明るくて、お色気の方はまるでないスナックである。
雄一は、ここを店と言わず、寄合所と呼んでいる。
金曜の早い時間は会社帰りのOL、深夜には他の店のホステスが集まってくる。
というのも、昔趣味で習ったことが役に立っているのか、雄一のカクテルがお目当てのようだ。。
カクテルが飲めるのは、この街でここだけだし、雄一の出勤は金曜のみなので、金曜は女性が集まる日になってしまったようである。
まあ、女性が集まると、今度はそれが目当てで男性客も集まるので、金曜日はいつも満員御礼で、ママはほくほくだった。
しかし、雄一はお酒が飲めない。
味見くらいは問題ないそうだが、しんどいのでは?
もう半年続いているところをみると、そうでもないのか、いやいや、そこそこ楽しんでいるようである。
◆その3 夫婦喧嘩
週も変わった月曜日。
小林の頼みごとも、昨夜遅くに送っておいた。
土曜は朝帰りで、ほとんど寝ないままの土日。
さすがに疲れて、今朝は寝過ごしてしまった。
しょうがないので、パンを買った後、いつもの河川敷はパスして、珍しく事務所に直行した。
中に入って、電気を付けて、かばんを机にほり投げてキッチンに。
とにかく、コーヒーである。
マグカップと買ってきたパンを持って、ソファに。
倒れ込むように座って、ふぅ~、今朝はしんどいなぁ。
その時、おおい、雄ちゃんいるかい?
と言いながら、ドアが開き、辰三さんである。
どうしたの、おじさん?
ごめん雄ちゃん、ちょっといさせてくれよ。
何があったの?・・・・・ああ~、道子さんに追い出されたんだ。
へへ、まあ、そんなとこだ。
邪魔しないから、いいかな?
いいよいいよ、いつまでもゆっくりしてて。
コーヒー入れるよ。
すまねえな、雄ちゃん。
で、おじさん、何で喧嘩なんかしたんだよ、浮気がばれたの。
コーヒーを口に含んだとこだったので、ゴホゴホ咳き込みながら、冗談は言いっこなしだよぉ。
俺は、浮気なんかしたこないし・・・小さな声で、最近は、かな。
ホント、つまらねえことなんだよ。
あいつが、細かいことを、ぐだぐだ言うから・・・
まぁ、いいや、テレビでも、見てなよ。
電話が鳴った。
もしもし・・・
あっ、先輩、図面と資料ありがとうございました。
確かに受け取りました。
おう小林か、はいはい、楽しく徹夜をさせていただきましたよ。
もう、皮肉きついなぁ。
さっき、社長にも見せて、OKもらいました。
提案書類にして、明日、打ち合わせに行ってきます。
でも、社長が言ってましたよ。
先輩を手放すんじゃなかったって。
今更、何をだよ。
まあね、お陰様で、今のこの優雅な暮らしがあるんだけどね。
はは、それから、もし、この案で決まったなら、何がしの報酬がでそうですよ。
そりゃそうですよね、何千万円の仕事をゲットできるんですから。
先輩、楽しみにしておいてください。
じゃ、また。
そうあの時、雄一がぶつかったのは、設計の責任者だった専務。
社長も立場上、最古参の中の一人だった専務より、雄一の方を擁護しにくかったようである。
雄一の才能は社長が一番認めていたので、退職の際は社長が一番落胆していたと、後で雄一も聞かされていた。
そんなこともあって、小林を通してくる無理難題も、引き受けているのである。
雄一が、かばんからその資料をだして整理している時であった。
ドンドンドン!
ドアを強くたたく音がした。
雄ちゃん、いるんでしょ、開けて!
あれ、鍵なんか閉めてないけど・・・
あっ、辰三さん、鍵閉めた?
辰三はソファで小さくなって、開けないでくれって顔をしている。
おじさん、そんな訳にいかないでしょ。
雄一は玄関に降りて、鍵を開いた。
いきなりドアが開いて、道子さんが仁王立ちであった。
雄ちゃん、うちの唐変木が転がり込んでるでしょ。
ほり出してちょうだい。
まあまあ、おばさん、落ち着いて。
とにかく、中に入りなよ。
鬼の形相の道子に、バツの悪そうな辰三。
2人にコーヒーを入れて、雄一もソファに座った。
おばさん、いったいどうしたの?
さっき、この唐変木に出ていけって言ったら、直ぐに静かになちゃったから、ここだと思って。
お前さん、私は出ていけって言ったけど、お隣に行けなんて言ってませんよ。
いや、道子・・・
どうやら、かかあ天下のようである。
まあまあ、おばさん、どうしたの?
雄ちゃん、聞いてよ。
昨日の晩御飯の時、ご飯できましたよと言っても、なかなか食べに来なくて、やっと来たと思ったら、熱燗がぬるいだの、おかずが冷めてるだの、自分がテレビ見てて、来なかったくせに。
私もその時は、とりあえず、ごめんなさいで、温め直したんですよ。
そしたら、今朝また、ご飯できましたよって呼んでも、新聞読んでて返事もしない。
わたしゃ、何回呼んだことか。
その都度、この唐変木は、うんだとかああだとか言うだけ。
やっと来たと思ったら、今度は味噌汁がぬるいって、文句言うんだよ。
もう、あたしゃそこで切れてしまって・・・
ええ、そんな理由で・・・雄一は半ばあきれている。
でも、おじさん、それはおじさんが悪いよ。
小さくなっている辰三は、小さな声で、そうだよな、怒るよな。
そうだよ、そんな時は素直に謝らないと。
でも、なんで、そんなことで、女房なんかに謝らないといけないのか・・・
なに~、この唐変木! 女房なんかってぬかしたな!
ま、まあまあ、おばさん、静めて静めて。
おじさん、そんな、火に油を注ぐような。
雄ちゃん、もういいよ、わたしゃこれまで我慢してたけど、もういいんだ。
お前さん、あんたは家に帰りな、私が出ていく、もう帰らないからね。
ええっ、それは困る、謝る、謝るからそんなこと言わないでくれぇ。
この歳になって、お前に見捨てられたら・・・
辰三は、泣きそうになっている。
おばさん、おじさんもこう言ってるんだから、機嫌を直してくださいよ。
横を向いてしまっている道子が、横目でチラチラ雄一を見てる。
雄一は、道子の気持ちを察して、ね、おじさん、これからは、すぐにご飯食べるよね。
うん、食べるよ・・・
もし冷めていても、文句を言わずに、もっと温めて欲しいってお願いするよね。
うん、する・・・
おばさん、これでいいよね。
おじさんも、充分に懲りたみたいだし。
そうだね、分かって反省してくれれば・・・
私だって、長く連れ添った亭主と、今更別れるのもね、なんだしねぇ。
道子、俺が悪かったよ。
最初から、素直にそう言えばいいのに。
はいはい、もう夫婦喧嘩は終り。
また、いつも通り仲良くしてくださいね。
ごめんね、雄ちゃん、また迷惑かけちゃたわね。
いえいえ、迷惑なんて、喧嘩するほど仲がいいって言いますからね。
雄ちゃんごめんな、ありがとね。
先に辰三が外に出た。
おばさん、全部計算済みだったんでしょ、おじさんがここに来るのも。
道子は、ぺろっと舌を出して、雄一にウインクして玄関を出た。
もう、疲れるなぁ~。
仕事の疲れ、忘れちゃったよね。
あっ、もうお昼過ぎてんじゃんか。
どっかへ食べに行こうかな。
夫婦喧嘩の仲裁騒ぎも、下町では、日常茶飯事の風景である。
◆その4 河川敷
翌日の午後、事務所の電話が鳴った。
もしもし、先輩?
ああ、小林かい。
先輩、ありがとうございました、先輩のコンセプトとデザイン、一発OKでした。
さすがですねぇ、社長もとても喜んでますよ。
しっかり報酬受け取ってくださいね。
報酬かぁ、じゃあ○○屋の大福・きんつば、それと豪勢にみたらし団子もセットでお願いね。
ええ~、そんな冗談でしょ。
いいや、それがいいな、社長に言っといてね。
ははは、分かりました。
更に、中村屋の御煎餅のセットも付けましょう、日持ちしますしね。
おう小林、よく分かってんじゃん、じゃあ、頼むよ。
本気か冗談か、よくわからない話である。
さて、フレンチに寄って、今日は帰ろうかな。
戸締りして、外に出る。
隣の辰三さんと、ばったり会って、雄一は声をかける。
おばさんとは、もう大丈夫?
ああ、昨日はごめんやったね、女房様はご機嫌直ってほっとしてるよ。
そうだよね、見捨てられないようにしなきゃダメだよ。
おいおい、からかわないでくれよ。
これからお出かけかい?
うん、フレンチに顔出してから、もう帰ろうと思って。
えらい早いご帰宅じゃないか。
そりゃそうだよ、昨日の疲れが全然取れてないしね。
あたた~。
はは、じゃあね、おじさん、また明日。
はいよっ、お疲れさんでした。
フレンチでコーヒーを一杯飲んでから、雄一は帰途に着いた。
まだ、4時前かぁ・・・河川敷にでも寄って行こうかな。
朝の河川敷は日課のように行くが、夕方に行くことは珍しい。
土手の上の道を走っていると、高校生らしき若者達がグランドで野球の練習をしている。
何気なく、土手を下りて、グランド脇のベンチに腰をおろして、練習風景を見る。
懐かしさに浸っている時、ボールが転がってきた。
ボールを受けて、学生に投げ返してやる。
その時、ノックをしていた先生らしき人が駆け寄ってきた。
おいっ、雄一じゃないか! 真田雄一!
えっ、あっ、吉岡か?
そうだよ、吉岡だよ、久しぶりだなあ。
お前、東南アジアに移住したって聞いたけど、帰ってきてたのか?
ああ、1年程前にな。
今、この近くで、のんびり設計事務所をしているんだ、家もこの近くさ。
そうなのかぁ。
まさか、こんな所で再開するとはなぁ。
吉岡は、先生してるの?
そう、高校の先生になって、未だに野球を忘れられずに、勝てない野球部の監督だ。
そうかぁ、未だに野球ができるなんて、幸せじゃないか。
そうだな、学生に交じってな、いい生き方かな。
ノック最中の監督が突如、得体のしれない人と話し込みだして、選手たちが、集まってきた。
監督・・・・・
おお、すまんすまん。
お前達にも紹介するよ、真田雄一だ。
みんな宜しく。
はい、宜しくっす、皆が一斉に言った。
吉岡、いい学生たちじゃないか。
そうだ、お前達、俺が昔に甲子園に行ったのは知ってるよな。
この、真田はその時の中心選手だ。
あの時は、こいつに、甲子園に連れて行ってもらったようなもんだよな。
おいおい、言い過ぎ、言い過ぎ。
かまわずに吉岡は続ける。
当時は、最強の1番打者っていわれて、近畿では有名な選手だったんだぜ。
先頭打者本塁打の記録を持っていて、何十年たった今でも、まだ破られてないし。
へえ~、真田さん、すごい選手だったんですねぇ。
更に、終盤にマウンドに立って、今で言うなら、リリーフエースだったし。
当時、フォークを投げる高校生なんていない時代で、こいつは切れのいいフォーク投げてたんだよ。
そ、そうだ!
雄一、ちょっとでいいから、コーチしてやってくれよ。
こいつら、新チームになって、全戦全敗で、まだ勝利の喜びを知らないんだ。
え~、全戦全敗? もう秋だぜ。
そうなんだ、もうすぐ秋季大会に入るんだが、なんとか勝たせてやりたくって。
う~ん、そんなこと言われても、卒業してからは、ほとんどしてないんだよ。
何もプレーしてくれなんて言ってないさ。
お前は、野球でも理論派だったじゃないか、絶対に指導者に向いてると思うよ。
真田さん、お願いします! 学生たちもお願いしている。
困ったなぁ、じゃあ、草野球程度なら勝てるくらいのアドバイスでもいいかな、高校野球で通用するかどうかは分からないけど。
勝てるのか?
是非、頼む。
じゃあ、彼らの負けっぷりはどんなんなんだ?
負けっぷり・・・そうだなぁ、いつもぼろ負けしてる訳じゃないんだ。
結構競ってるんだけど、最後は勝てないって感じかな。
投手も悪くないし、守備もそこそこなんだけど、なかなか点が取れないんだよ。
そうか、分かった。
じゃ、攻撃のアドバイスだよ。
皆、真剣に聞き入っている。
まず、ユニホームの裾を膝まで上げるんだ。
えっ、そんなことで・・・
はは、相手にこのチームは、よく走ってくるっていうイメージを与えるんだよ。
ちょっと、1塁ベースに行こうか。
いいかい、あっ、君、塁に出た時の離塁はどのくらいかな?
これくらいです。
皆も同じくらい?
そうですね。
そうかぁ、それじゃ、全然足りないよ。
最低でも、芝生の切れ目まで離塁しないとね。
おいおい、真田は足早くて盗塁も多かったけど、こいつらには無理だよ。
もし、盗塁するつもりならな。
えっ、そうじゃないのか?
はなから、帰塁するつもりなら、けん制されても、手から帰れば大丈夫だろ。
盗塁の時は、小さめの離塁でいいからね。
離塁はポーズでいいんだ。
ピッチャーが投げた後に、フェイクのスタートでプレッシャーをかけるだけだよ。
高校野球の強豪校ならいざ知らず、一般の高校だと相手校の情報などわかっちゃいない。
だから、走ってくるというイメージを、相手バッテリーに植え付けるのさ。
そうしたら、どうしても投球は外角のストレートが増えてくる。
キャッチャーが走ると思えば思うほど、その比率が上がるんだ。
だから、打者は外角のストレートだけにヤマを張っておけば、うんと打ちやすくなるだろう。
更に、盗塁の際の送球をイメージしてるから、そんなに低めにはこないしな。
だから、試合までの打撃練習は、外角球を流し打ちでゴロを打つ練習をメインにしなよ。
そうかぁ、そんな工夫で、絞れるんだなぁ。
次は、投球。
ピッチャーは誰?
君かい、どんな球種があるの?
ストレートとカーブにスライダーの3種類ね。
じゃあ、簡単に投げられるチェンジアップを教えてあげよう。
最近ではチェンジアップなんて言わないのかな。
ストレートと同じ要領でなげるだけだからね。
投げる時、中指と人差し指の指先を浮かして、関節の所でボールを抑えるんだ。
そして、ストレートと同じように、思いっきり腕を振って投げるんだ。
打者の想像以上にボールは遅れてくるから、タイミングを外せるんだよ。
練習で投げて、試合までに慣れておきなよ。
キャッチャーは君だね。
外角の低目を主に攻めて、打者の意識を外に向かせて、内角にチェンジアップを使うんだよ。
その後の、外角のスライダー、かなり効果あると思うよ。
内外と緩急を使い分けるようにね。
どうだ吉岡、こんな感じでいいかな。
うん、有難う。
さすがだよなぁ、お前が高校野球の監督になったら、強くなるだろうなぁ。
何言ってんの、今はただの、野球好きのおやじさ。
あっ、一つ忘れた。
守備練習では、普通に取って投げてもいいけど、長打を打たれた際の連携も徹底しておけよ。
じゃ、これでな、帰るよ。
あっ、雄一、ここに電話番号書いておいてくれ、また、連絡するな。
OK、じゃあな。
のんびり見学が、こんなことになっちゃった。
頑張って、勝ってくれればいいんだけどね。
雄一は自転車を押して、土手の上の道に上がっていた。
ふと、目をグランドに向けると、吉岡が手を振っていた。
◆その5 大都会
数日後、雄一は久しぶりに新宿にでた。
会社に来て欲しいと、小林から電話があったからである。
先日に協力した商業施設の件で、今後も引き続きとのことであった。
本当に久しぶりに、社長とも話をした。
その後、何を思ったか、ふらっと新宿まで足を延ばしたのだ。
この街には、少し思い出があるんだよなぁ。
そう自分に呟きかけながら、街を歩いた。
雄一は中学時代の一時期、代々木に住んでいた。
一応、渋谷区なのだが、明治神宮の裏側、裏参道沿いのマンションだった。
最寄りの駅は小田急線の参宮橋、JR(当時は国鉄)の代々木も徒歩圏内だったが、通学にも小田急をつかっていた雄一は、参宮橋の方が好きだった。
参宮橋から2駅で新宿である。
そして、5階にあった雄一の部屋窓からは新宿方面が見えていた。
まだこのマンションに住む前だが、小学校4年の時、雄一は喘息で1カ月弱程入院をした。
当時、中野坂上にあった病院を退院したその日に、両親が新宿に寄ってくれた。
小田急百貨店の中にあった理髪店で散髪をした。
街の床屋さんしか知らなかった雄一は、百貨店で一度に大勢の人の散髪をしているのを見て驚いた。
その後、12階の喫茶店でジュースを飲んだ。
12階からの新宿の眺めは、素晴らしかった。
当時の新宿では、一番高い場所に近かった。
その時飲んだ、大きなブランデーグラスに入った苺のシェークは、今でも忘れられないのだ。
中学の1年だったか2年だったか。
部屋の窓からの眺めに異変が起こった。
新宿方面の空に、高層ビルが立ちあがってきたのだ。
新宿副都心計画、新宿駅西口高層ビル計画の1棟目、京王プラザホテルだった。
日に日に高くなる高層ビルを、憧れ的な思い出見ていたのを覚えている。
その頃からなのかもしれない、ほのかに建築への興味が芽生えてきたのは。
丁度その時期、大阪で万国博覧会が催された。
雄一の親戚一同は大阪ということもあって、結構会場には行ったものだった。
初めて会場に入った時、その建築群の素晴らしさに目を見はった。
建築と言うものに心を奪われ始めたきっかけだったかもしれない。
しかし、まだそれは霧の中ではっきりしたものではなかった。
その意識を確定的にしたのは、京王プラザに続き建設された三井ビルの完成後であった。
何故行ったのかは覚えてないが、友達と展望フロアーに上がった帰りであった。
夕方であった、地下まで降りて、メインではなく裏口的な出口から外に出た。
その時、うす暗い通路に夕日が差し込んで、何とも言えない幻想的な雰囲気に衝撃をうけた。
ドアを開いた目の前は高いコンクリートの壁、狭い通路には、煉瓦作りの花壇があった。
そこを抜けた所が、大きなドライエリアのカフェスペース。
この、コンクリート壁からの圧迫感、僅かの空間に安らぎを与える、何の変哲もない花壇。
うす暗い通路にランプの様な照明、そして、夕日の赤。
雄一の建築に対する考え方を決定づけさせた瞬間だった。
その後の、雄一の建築への取り組み、限られたスペースでの意識的有効利用。
圧迫感から解放感へ。
数多く設計参加した建物の統一されたコンセプトはこの時に生まれたのだと、雄一は自覚している。
雄一は、人生を決める一瞬というものが本当にあるのだなぁと、何かあるごとに感じている。
が、このことを話すのはまれで、この経緯を知っている人間は限られている。
その日、雄一はまず、東口に向かった。
今では歓楽街になってしまった歌舞伎町に入って行く。
昔は、こんなではなかったのに、と心で呟き寂しくなる。
雄一をコーヒー好きにした店が、当時、歌舞伎町にあったのだ。
当時は、風俗系はごく僅かのスペースに集まっていて、普通の街歩き的に歌舞伎町界隈にも入られた。
もちろん、昼間に限ってではあったが、その中に小さなコーヒーショップがあったのだ。
映画の帰りに、たまたま立ち寄ったのだが、それが雄一をコーヒー好きに変えてしまったのである。
当時の雑居ビルはまだ残っていた。
しかし、入っているのは風俗店ばかりで、コーヒーショップはどこにもなかった。
スタバにドトール等のショップがもてはやされ、最近では喫茶店の類は消えていく運命なのか。
カウンターだけのコーヒーショップに出会うことはないのかなぁ。
雄一は、歌舞伎町をでた。
その足で、紀伊国屋書店に向かう。
当時のように、店内をブラブラして、大ガードを抜けて、西口方面に。
こちら側は、全く当時の雰囲気は残ってないねぇ。
そりゃそうかぁ、そうだよね、もう何十年も経つんだから。
小田急百貨店に入って、12階に上がった。
中のレイアウトも当然だけど変わってしまってるね。
あの喫茶ももうない、ラ・テラスだったかな。
あの時のシェイクも、もう飲めないのかぁ。
しょうがないので、違うカフェで一休みしようか、ケーキセットもあるし。
ここから見えるのは廊下だけ、まあしょうがないよねぇ。
でも、ここのケーキ、美味しいな。
エスカレーター前の三省堂書店、ここは当時もあったような。
場所は違ったはずだけど、でも、本屋さんは強いんだね。
ホールから見える景色は・・・大きな円形の換気塔や正面の道路から地下に至る通路は昔と同じ。
進化する都会にも、時間が止まっている所は必ずあるんだよ。
西口地下広場に、大きな目の壁のモニュメント、都庁方面に向かう通路。
思った以上に懐かしい景色も見られたかな。
でも、今の僕にとって、この都会の喧騒の中、居心地はあんまりよくない。
そろそろ、帰るとしましょうか。
改札を抜けて駅前広場、やっぱりこの景色が落ち着くね。
この街に住んで、まだ1年だけど、僕的にはもうすっかり我町。
フレンチはまだ開いてるね、ちょっと寄って行くか。
あら、雄ちゃん、いらっしゃい。
ブレザーなんか来て、珍しいこと。
どっかに行ってたの?
うん、ちょっと打ち合わせでね、その後、久しぶりに新宿ウロウロしてた。
新宿でお買い物?
いいや、本当にウロウロしてただけだよ。
フーン、雄ちゃんぼ~としてるの好きだもんね。
でも、新宿に何か思い出でもあるの?
ちょっとね。
変なの。
美代子は軽く流してくれるから、いいんだよね。
なにする、いつものでいいの?
うん、それで。
もうすぐ閉店だよね。
今日は何か予定でもあるの?
ううん、いつも通り、な~んにもない、そう言って美代子は笑う。
そうか、じゃあ、お多福でも寄って帰ろうか?
いいの? 雄ちゃんのおごり?
行こう行こう!
◆その6 大輝のおかあさん
もしもし、雄一さん、下川です。
はい下川さん、こんばんは。
明後日、今村と2人非番なんですが、雄一さんいかがですか?
全然OKです、行きましょう!
待ち合わせは、いつもと同じで大丈夫ですか?
大丈夫です、では、改札に20時で。
久しぶりなので、楽しみにしていますよ。
こんばんは、雄一さん。
こんばんは、今日は今村さんも初参戦ですね。
そうです、お邪魔します、ところで、どこに行くのです?
下川さん、まだお話していないのですか?
ははは、お楽しみですよ。
そうですね、じゃ、行ってからの・・・ですね。
今村さん、切符は次の駅まで買ってください。
隣町の駅で下車して、改札口を出て線路沿いに右に歩く。
駅前の広場を過ぎて、5分ほど歩くと、大きく大輝と書かれた、看板代わりの提灯が吊ってある。
建物はかなり古い。
店は2階なので、崩れ落ちそうな木製の階段を上がって行く。
小さな踊り場があって、硝子の引き戸から中に入る。
すぐ左に6人座れるテーブル席があるが、カウンター席がメインの店である。
カウンターの中には、かなり年配の女性が1人だけ、ママの名前は輝子さん。
いかにもお多福さんと言う感じで、なかなかお愛想のいい顔である。
3m程のカウンター上には、冷蔵庫ウインドゥ、更に、その上には大鉢にたくさんのお料理が並んでいる。
全てが、ママ手作りのお惣菜で、その日に仕入れた材料でメニューが変わる。
雄一達が一番奥の席に座りながら、ママ、御無沙汰しちゃったね。
そうよねぇ、この前は、まだ暑いころだったねぇ。
今日は、新人さんといっしょかね?
はい、今村です、宜しくお願いします。
この新人さんは、雄ちゃんとこの、それとも下ちゃんとこの?
下川さんとこの、新人さんだよ。
じゃあ、今村さんも巡査さんかい?
そうです。
1人暮らし?
はい、今のところは。
じゃあ、何でも、お腹いっぱ食べておいきよ。
この上にないものでも、材料があれば作ってあげるからさ。
今村、この店はな、1人4千円で、飲み放題・食べ放題なんだ。
酒も、いいのがたくさんあるんだぞ。
そうなんですか?
食べ放題、私には一番ありがたいです。
そうだよな、まだ若いから、いくらでも食べられるよな。
今村さんは、お酒はいけるの?
そんなには、でも、そこそこなら付きあえますよ。
雄一さんは飲めるんでしょう?
あっ、僕は全然飲めないんだ。
えっ、だって、愛でバーテンダーしてるじゃないですか?
お酒飲めなくても、大丈夫なんですか?
そう、一応は、飲まなくてもできてるね。
話は後だ、まず、何する?
私は先輩と同じで。
じゃ、ママ、いつもの日本酒と、雄一さんにはウーロン茶を。
はいはい、今すぐ。
その夜は、3人共、食べて飲んで、ご機嫌であった。
ママの料理は、どれも美味しくて、外れメニューは何1つなかった。
あのな今村、この店は朝6時までしているんだ。
えっ、朝まで!
そうさ、でもな、4時頃からはママはその辺で夢の中になるんだよ。
その時までいた客は、洗い物を手伝って、お金を置いて、そっと帰るんだよ。
どうだ、いい感じの店だろ。
俺は、雄一さんとたまにここに来るのを楽しみにしているんだ。
それに、テイクアウトまでさせてくれるから、女房もおみやげを楽しみにしてるんだよ。
そのテイクアウトも4千円の中で?
そうだよ、だから、ちょっと遠慮しながらなんだけどな。
終電近くなって、3人は店を出た。
ママは、今村に、たくさんの総菜とおにぎりを持たしてくれた。
明日の朝ごはんにしなって言って、渡してくれたのだった。
先輩、雄一さん、いい店を教えていただいて、ありがとうございました。
ご飯も美味しいし、お母さんもいいですねぇ。
気にいったのならたまには来て、栄養をつけてさせてもらえよ。
はい、来ます。
では、駅までブラブラ行きましょうか。
◆その7 バーテンダー
毎週金曜日は、スナック愛でバーテンダーである。
雄一は、午後8時前に寄合所に入る。
寄合所とは・・・地元の人たちが集まって来るので、雄一がそう呼んでいるのである。
ママ、おはようございます、
雄ちゃんおはよ~。
奥の部屋で、ワイシャツと黒のスラックスに着替えて、カウンターに入る。
7時開店の愛、既に3人の男性が入っていた。
いらっしゃいと雄一が言うと、お~、雄ちゃん、いい男だねぇ、もてるんだろ~?
ははは、だといいのですが、全然なんですよ。
そんなはずはねぇ、きっと、もう彼女がいるんだろ?
もう~、本当にできないんですよねぇ。
できないんじゃなくて、作らないんだろ、ママがそう言ってたぞ。
えっ、ママ、そんなこと言ってたんですか。
そんな話をしている中、お客さんが入ってきた。
もう、すっかり金曜常連のOL3人組だった。
ママ、雄ちゃん、こんばんは~。
金曜日、待ち遠しかったよ。
3人はいつものカウンター席、雄一の前である。
雄一は、笑顔で、あいさつをして、おしぼりと付きだしを出す。
何にします?
私、カシス・オレンジにする。
私は、カンパリ・ソーダ。
私は、ジン・ライムにしようかな。
はい、少々お待ちくださいね。
3人の前に、注文のカクテルを置いて、お待たせしました。
雄ちゃんも、何か飲んでね。
ありがとう、じゃ、ウーロン茶をいただきますね。
そうかぁ、雄ちゃん、お酒飲まないんだものねぇ。
すみませんと言いながら、グラスにウーロン茶を注いだ。
中の1人の女性が、じゃあ、1週間ぶりの再開、乾杯!
カクテルを口にしながら、雄一に質問する。
ねえねえ、雄ちゃん、まだ彼女作らないの?
えっ、雄一は心で呟く、またきたぁ。
しょうがないので、笑顔で、そうなんですよ、なかなかできなくて。
嘘ばっか、できないんじゃなくて、雄ちゃんが拒否してるんでしょう。
理想、高いのかなぁ。
そんなことないですよ~、雄一は適当にぼかしていく。
客の大抵が、こんな話である。
しかし、雄一に彼女ができないのは嘘ではない。
今は、1人で、のんびりと暮して行くのが楽でいいのである。
料理も家事も、苦にならないし、特に彼女を必要としていないのか。
雄一が持っている持病、病気と言う程のものではないのだが。
人一倍気を使ってしまうのである。
仕事の上なら諦めも付くが、プライベートにまでとなると、フラフラになってしまう。
そんなことから、自律神経関係の異常の症状が出てくるのである。
東南アジアの国で暮らして、大陸の自由奔放な風に吹かれて、これまでの病んだ心が一気に癒された。
今は、その状態でいたいのである。
運命と思える女性と巡り合った時が、交際を考える時で、それまでは今のままが居心地がよかったのである。
話が盛り上がっている最中、男性客2人が入ってきた。
いらっしゃい・・・あれっ、小林じゃないか、それに飯島まで。
一体、何しに来たんだ?
先輩、何しに来たはないでしょう。
飲みに来たんですよ、当たり前でしょう。
おいおい、からかいに来たんじゃないの。
あら、こちら様は雄ちゃんのお知り合い?
はい、僕達は真田先輩の部下です。
おいこら、部下はないだろう。
今は、会社を止めた人間なんだから。
ははは、お客においこらはないでしょう、ねえ、ママ。
すまん、すまん、まあ、座って。
皆さん、横いいですか?
OLさんに確かめて、隣の席を示す。
雄ちゃんの部下の方なんですか?
慌てて雄一が、元ですよ、昔のねっ、と口を挟む。
先輩、水割りください。
水割り・・・2人共、車じゃないよな。
もちろん、今夜は飲む気で来てますから。
それに、こんな美人が横にいますしね。
や~ん、美人って、私達のことですかぁ。
皆、やったね。
雄一がミネラルを取りに奥に入った時、OLの1人が小林に尋ねた。
あのぉ、雄ちゃんの本職ってなんですか?
先輩の仕事、都市や建築の設計ですよ。
え~、すごいんだ。
そうですね、僕達じゃ足元にも及ばない、世界のあちこちで設計してますよ。
そう、そごいですよねぇ、僕達も憧れですよ。
先日も、うちの会社でお手上げだった設計、2日でやっちゃって、お客さんから即OKでしたものね。
横で、飯島もうなずいている。
戻ってきた雄一の顔を、OL達がまじまじと見ている。
どうしたんですか、笑顔で雄一が尋ねる?
いえっ、何も。
そうかぁ、雄ちゃんが彼女できない訳分かった。
雄ちゃんと対等に付き合えるような、レベルの高い女性がなかなかいないんだぁ。
なんのことですか?
あっ、小林に飯島、なんか言ったのか?
いいえ、何も言ってませんよ、2人はそう言って、上をを見る。
もう、しょうがないなぁ。
笑い声の中、話題が世間話に戻っていった。
夜11時半、後輩2人に0Lの女性達も引き上げて、店は中休みになった。
雄ちゃん、お疲れ、こっちに来て、座って休んで。
すみません、じゃ。
今日は金曜だし、多分0時過ぎたら、またバタバタになるかもね。
さっきマスターが買ってきてくれたのよ、皆で食べて。
何ですか・・・あっ、たこ焼きじゃないですか、いただきます。
たこ焼きを食べて、10分程の休憩の後、ママの予想通り、6人様御来店である。
町内会の中年男性は、ボックス席でバイトの女の子が相手をしている。
雄一とマスターはカウンター内に入った。
マスターが雄一に近づいて言った。
雄ちゃん、本当は仕事、忙しいんじゃないのかい?
忙しかったり、しんどくなったりしたら、遠慮しなくていいから、言ってくれよ。
大丈夫ですよ、僕も結構楽しんで来させてもらってますから。
ならいいんだけど、本当に、気にしないで言ってきてくれよ。
雄一は、ウィンクで返したが、心の中で、何度もマスターに感謝のお辞儀をしていた。
更に深夜、駅の反対側のラウンジのホステスさんが4人、御来店であった。
ドアを開けて、来られましたぁ、って。
大きな声で、入ってきた。
もう、ほろ酔いでご機嫌なようである。
実はね雄ちゃん、今日は、純の送別会なの。
4人の中の1人の彼女が純である。
お店を止められるのですか?
うん、止めたくはないんだけど・・・
純、どうも、ストーカーに狙われているみたいなの。
それで、ママと相談して、何かあってからだと手遅れになるし。
最近は、物騒でしょ。
純ね、ずっと、誰かに後を付けられてる感じなんだって。
一昨日に、警察にも相談に言ったんだけど、今の状態では、まだ動けないって。
そうなんだ、でも、迷惑な話ですねぇ。
そのストーカーに覚えはないんですか?
うん、全然。
せっかくこの街に落ち着けたし、ここみたいにお馴染みのところもいくつかできたし、雄ちゃんとも知り合えたのに残念で。
で、お店を止めて、どこかにいかれるのですか?
うん、しばらく実家のある信州に帰ろうかと。
でもね、もしストーカー話も落ち着いて、よければまた、帰ってきたいなぁ。
そうですね、一時避難と言うことで、また帰ってきてくださいね。
今日は、皆さんと楽しんで、飲んでいってください。
そうだな、では、私から送別祝いに、カクテルを1杯ごちそうさせてください。
雄ちゃん、ありがとう。
その後、4人は朝まで楽しく時間を過ごして、帰っていった。
◆その8 老舗の心意気
数日後の午後、雄一は自転車に乗って、駅前に向かった。
いつものフレンチで、3時休憩である。
そうそう、煎餅でも買っていこうか。
駅前広場の向こう側にある江戸屋は老舗の煎餅屋で、雄一も美代子もここの煎餅は好物である。
創業150年、慶応元年から残る煎餅屋である。
今でも、創業時と同じ製法で、当時の味を守っていた。
こんにちは~、雄一がのれんをくぐろうとした時。
その時、バカ野郎!の罵声が店内に轟いた。
慌てて店内に入った唯一が見たのは、真っ最中の親子喧嘩。
親父は頭が古いんだよ!そんなんじゃ、この店も潰れっちまうぞ!
そう言って、息子が雄一の脇をすり抜けて、出ていった。
おやじさん、いったいどうしたの?
いやいや、恥ずかしいところを見せちまったね。
ここしばらく、毎日のことなんだよ。
そうだ、雄一さんはどう思うかい?
今ね、○×市にできる、大型ショッピングセンターから、支店を出さないかとの話がきてるんだよ。
あそこなら、今話題なんじゃないの。
来年早々にオープンなんだよね。
そう、そこへの誘致話なんだけど、息子は乗り気なんだ。
でも俺はね、絶対にそんなことはしたくない。
何故だい、おやじさん。
この江戸屋は、創業当時からの製法を守っているんだ。
1枚1枚、丁寧に焼きあげる手作りなんだよ。
だから、まとめ焼はしない、少しずつ焼いて、売れたら焼いて。
しけた煎餅なんて、お客様にだせねえからな。
そうだよね、だからいつもあの美味しさが味わえるんだよね。
だけど、センターに出すのは、朝一に焼いた大量の煎餅さ、昼も夕方も。
それに、要望されている枚数は、これまでの製法だと追いつかないと思うんだ。
どうしても、機械で焼くようなことになってしまう。
ずっとこの江戸屋の味をひいきにしてくれてるお客様にも、迷惑をかけちまうしな。
俺にとっては、たかが煎餅、されど煎餅なのさ。
来週にも、センターの人間が来るのだけど、俺は断るつもりなんだ。
でも、息子があの調子でねぇ。
雄一さんはどう思う、センターに出して店の拡大を図った方がいいと思うかい?
僕は、おやじさんの考え方が正しいと思うよ。
普通に考えれば、息子さんの方が前向きのようだけど、甘い誘致でせっかくの伝統を潰してしまう老舗は少なくない。
それにショッピングセンターに買いに来るお客さんは、ここに来るような愛情を持ったお客さんは少ないでしょ。
煎餅だったらどこでもいいってお客さんが多いんじゃないかな。
でも、この店に来るお客さんは、江戸屋の煎餅じゃないとダメなんだよね。
伝統に縛れて、時代から後退しているように見えても、実際は逆なんだよね。
商売の基本は信用なんだろ、今の江戸屋はここに来るお客さんの信用の上に立っているのだものね。
信用というよりは、今の味に引かれて来るんだよ。
味が変わってしまえば、お客さんは来なくなるし、悲しむと思うよ。
そうだよな、今の雄一さんの言葉、息子に聞かせたいよ。
・・・聞いてたよ。
なんだお前、そこにいたのか?
ああ、さっきの騒ぎを雄一さんに見られたし、たぶんこの話をするんだろうと思って。
俺も、雄一さんの意見を聞いてみたかったんだ。
いつも親父だけとの話だし、つい感情的になって、きちんと話しができたなかったんだよな。
さっきの雄一さんの話、染みたなぁ。
親父、俺も出店しないことに賛成するよ。
そうか、わかってくれたか。
ああ、雄一さん、ありがとうございました。
よかった、これで、江戸屋の味はずっと大丈夫だよね。
じゃあ、醤油煎餅をくださいな。
あっ、そうでしたよね、買いに来て下さったんでしたよね。
煎餅を買って、少し遅くなってフレンチに向かった。
あら、雄ちゃん、今日は遅いわね、もう4時前よ。
うん、ちょっと江戸屋さんで話し込んじゃってね。
江戸屋で?立替とかの相談?
違う違う、ちょっとね。
ひつこく聞いてくる美代子に、簡単に新規出店の話をした。
ふ~ん、そんなことがあったのね。
でも、さすがに江戸屋のおやじさんね、どっしりしているというか、肝が据わっているというか。
まあ、当分この煎餅が食べられるのだから、よかったよ。
あれ雄ちゃん、それ、私へのお土産じゃなかったの?
えっ、あっ、つい1枚かじっちゃったよ。
いいわよ、一緒に食べよ。
お茶でも入れようか?
そうだよ、ここに3時休憩するつもりだったのになぁ。
今日はもう帰ろうかなぁ。
あらあら、いいかげんな社長さんねぇ。
もう5時過ぎてるから、もう少ししたら片づけるわ。
事務所に帰らないんだったら、ゆっくりしてて、一緒に帰ろうよ。
フレンチを閉めたのが6時に近かった。
外に出て、シャッターを閉めた時、何か駅の向こうが騒がしい。
どうしたのかしら、パトカーがいっぱい来てるみたいね。
行ってみようか?
乗り掛けた自転車を止め直して、駅の階段を上がった。
2階のホールから反対側を見ると、たくさんのパトカーが止まり、1軒の店舗の周りを警官達が取り囲んでいた。
何があったのかしら・・・
あれ、あの店、そうだ、よく愛に来てくれるホステスさん達がいる店じゃないか。
美代子、行ってみよう。
急いで、野次馬の中にもぐりこんだ。
その中に細川酒店の主人の清がいた。
おじさん、何があったんです?
えっ、雄一さんか、あそこのラウンジに男が立てこもってるらしいんだ。
すこし前に、店の前で準備中のボーイが刺されて、救急車が出たばかりだよ。
立てこもってるって、中に誰かいるんですか?
ああ、ママがいるって巡査が話してたよ。
準備中だったから、ママだけだったみたいだけど。
その時店のドアが開いた。
ドアの前には、犯人の若い男と羽交い締めされたママが。
そして、ママの首の前には包丁のような刃物が見える。
警察に向かって、男が叫んだ。
純を連れて来い!
えっ、純? あ、あいつがストーカー?
前の警官隊が純とは誰だと話している。
警官の中に下川巡査の姿があった。
ああっ、下川さん!
えっ、なに、あっ、雄一さん。
下川さん、僕、あいつの言ってる純さん知ってます。
知ってるって? 雄一の一言を聞いた別の警官が、質問してきた。
はい、先日純さんに会って、ストーカーで悩んでいる話を聞きました。
すみません、ちょっとこちらで、ご協力願えますか?
いいですよ。
こちらは、下川巡査のお知り合いですか?
はい、本官の友人です。
そうですか、申し訳ありませんが、御説明をお願いします。
雄一は、先日の話をして、純という女性はもう東京にはいないことを話した。
よく分かりました、ありがとうございました。
それで、犯行の事情の理解できました。
それから10分程の後、再度ドアが開いた瞬間に、ドアの脇にいた特殊部隊の隊員が犯人の刃物をたたき落とした。
一斉に、数名の隊員が男に飛びかかり、あっという間に取り押さえてしまった。
ママも無事に救出されて、早期解決であった。
翌日、雄一は気になって駅前の派出所に向かった。
おはようございます、下川さん。
雄一さん、おはようございます、昨日はありがとうございました。
お陰様で、事情聴取も簡単に終えられたようです。
犯人はやっぱりストーカーだったのですか?
はい、よく純さんの後を付けていたようなのですが、彼女のマンションの近くで工事中のビルがあって、今丁度工程的に深夜の出入りがあって、24時間警備員がいるため、マンションまでは尾行できなかったようなんです。
ここ数日彼女の姿が見えなくなって、それを聞きに店に行き、店の前を掃除していたボーイに尋ねたのですが、止めたよの返事にかっとして包丁で腹を刺したそうです。
その後、中にいたママを人質にして、後は見られた通りです。
で、その男、覚せい剤の常習だった可能性もあって、今調べています。
そうだったんですか。
で、刺されたボーイさんは?
あっ、かなりの深手で重傷ですが、命に別状ないそうです。
それは、よかったですね。
でも、びっくりしましたよ。
つい先日、ストーカーが原因で、店を止める送別会に立ち会ったところでしたのでね。
はは、雄一さんはいろいろなことを、していらっしゃるから。
すみません下川さん、お手間を取らせました。
いえいえ、ご協力感謝致します。
では、また。
狭い街でも、いろんな事があるよなぁ。
そう囁きながら、雄一は事務所に向かった。
◆その9 老人
その年も、あっという間に師走である。
寒くなっても、雄一の河川での朝食は変わらない。
その日も、土手下のベンチでサンドイッチをほおばっていた。
ふと横のベンチを見ると、1人の老人が座っていた。
あれ、いつ来たんだろう、さっきまで誰もいなかったのに。
その時、老人も雄一の方を見た。
目が合って、雄一は軽く会釈をする。
そうすると、老人も笑顔で会釈をした。
雄一はその笑顔に、なんとも温かいものを感じた。
しかし、着ている服は、雄一よりかなり薄着のように感じた。
ただ、雄一がこの河川に来るようになって、1年近く経つが、初めてみる老人であった。
一旦視線を戻して、コーヒーを飲みきった。
そして、何気なく声をかけた。
よく来られるのですか?
いえ、今日が初めてなんですよ。
最近、この辺りに越して来られたのです?
そうですよ、3日前に、直ぐ近くに移ってきました。
すぐにも、ここに来たかったのですが、家のかたずけで今日がお初です。
まさか、お1人・・・あっ、たちいったことを、すみません。
いえいえ、かまいませんよ。
見ての通りの老人ですが、1人暮らしなんです。
数日前までは、都心のマンションでした。
長く連れ合いと生活したところだったんですよ。
でも、周りはビルだらけで、自然のシの字もなくて。
よく、家内に定年後はあちこち旅行しょうって話してたんですよ。
それを楽しみに働いて、定年後しばらくしたら、家内は病気にかかってしまって・・・
結局、楽しみにしていた旅行もできないまま、あっという間に時間が過ぎて、先月に7回忌が終ったんです。
それを機会に、最後の人生、自然が感じられる所で、ゆっくり住みたいと思いましてね。
ただ、年寄りの一人住まい、あんまり田舎に行っても不自由だし、それで、この辺りです。
そうですか、この河川敷、まだ自然も残ってるし、とにかく開放的ですものねぇ。
でも、この地域は以前から、知っておられたのですか?
随分昔に、孫が生まれてすぐ、息子夫婦と家内と一緒に来たことがあるんです。
その時の思い出が残っていたのかもしれませんねぇ。
御家族いらっしゃるのに、お一人住まい、寂しくありません?
ははは、一人住まいは気楽でいいですよ。
息子夫婦とは、事情があって、今では音信不通で居場所も分かりません。
あなたはお一人住まいなのですか?
雄一は笑顔で答えた。
はい、僕も1人暮らしです、気楽なので。
お互い1人なんですねぇ、家族のしがらみもないし、自分自身の生き方が満喫できますしね。
老人は笑顔で話してはいるが、なんだか雄一には、その笑顔が寂しく見えた。
それから、雄一の朝食時には度々一緒して、なにげない世間話をするようになった。
今朝も雄一は、コーヒーを2本買って河川敷に向かった。
しかし、老人の姿は無かった。
次の日も、また次の日も。
病気でもして、寝込んでるんじゃないのかな。
しまったなぁ、名前と住所を聞いておけばよかった。
土曜の朝は、スナック愛のバイトで朝帰り。
日曜は、事務所に行かないので、この2日間は河川敷にも行けなかった。
そして、週の変わった月曜日、やはり老人の姿はない。
雄一は気になって、駅前の派出所に行った。
おはようございます。
雄一さん、今日は早いですね、今村巡査が笑顔で話す。
ええ、ちょっと。
今村さん、ちょっと教えて欲しいのですが・・・
何です?
2週間程前に、○○町辺りに、都心から引っ越してきた男性の老人を知りませんか?
定年退職後10年くらいたってるって言ってたから、70歳~75歳くらいかな。
何かありました?
いや、たいした事じゃないのですけどねぇ。
偶然、河川敷で知り合って、毎日のように世間話をしたりしてたのですけど、先週中頃から姿が見えなくて。
それで、御心配されて?
そうなんです、別に事件でもなんでもないと思うのですが、1人暮らしと言うことでしたので、もし御病気とかで寝込んでおられるのなら、様子だけでも見に行けたらと思って。
お名前は何と言われるのですか?
それが、お互いに名乗っていなくて・・・
名前は分からないのですかぁ。
お家は、戸建とかマンションとか?
それもぉ・・・
じゃあ、ちょっと、わからないですねぇ。
そうですよねぇ。
1人暮らしの老人?
派出所の奥から、眠そうな声で下川巡査が出てきた。
その人と関係があるかどうか分からないんだけど・・・と言いながら、書庫からファイルを取りだした。
先週の日曜だったかな、家を出て行った父親を探しているという一家が来たんだよ。
探している?
うん、母親の7回忌後、急に1人で暮らすから心配しないでくれというメモだけ置いて、いなくなったらしい。
昔、この辺りに来たことがあったらしく、それから、よくあんな所で暮らしたいって言っていたそうだ。
なので、この周辺の交番を回って、もし見かけたら連絡して欲しいって聞いて回ってるそうだよ。
確か、名前は・・・石田義男だな。
石田さんかぁ。
たぶん、同一人物ですよ。
奥さんの7回忌が終って、自分なりにゆっくり住みたいからって言ってたし、昔、息子夫婦と奥さんと幸川に来たって言ってましたから。
○○町の住所、調べられないのですか?
う~ん、事件でもないし、区役所で教えてくれるかなぁ。
そう言えば、愛のマスターの弟って区役所の職員だったような・・・
えっ、それ本当ですか?
マスターに電話してみます。
雄一は、マスターに電話して、事の事情を話して、住所が分かれば教えてもらいたいとお願いした。
しばらくして、マスターから折り返しの電話があった。
弟さんは、市民課の担当ではなかったが、もし、病死なんかしていたら、とんでもないことになると脅して、調べてもらったそうである。
下川さん、分かりました。
××マンションの303号室です。
行ってみましょう。
ただ、下川さん、一つお願いがあるのですが・・・
そこは、幸川の土手を越えたすぐのところであった。
ここですね。
2人は303号室のドアの前に立って、チャイムを押した。
しばらくして、奥から人の出てくる気配がした。
ドアが開いて、中から石田老人が出てきた。
おやおや、あなたは。
はい、申し遅れました、真田雄一と申します。
ここしばらく、お姿が見えませんでしたので、もしや御病気ではと心配になって、勝手なことで申し訳なかったのですが、この下川巡査に住所を調べていただいたのです。
ああ、そうでしたか、こんな老人のためにわざわざ、いやいや、申し訳ないことで。
私は、石田と申します、遅い自己紹介ですなぁ。
笑顔で話す石田であったが、顔が真っ赤で、足もふらついている。
石田さん、やっぱり御病気なんですね。
休んでください。
勝手ですが、ちょっとだけ失礼して、すぐに退散します。
家具と冷蔵庫、テレビと食卓だけの、まだ何もない状態の部屋で、奥の6畳間に布団が敷いてあった。
石田さん、お薬は?
まだ、何も無くて、フラフラで買いに行くこともできずで。
かなりの熱である、風邪を患っているみたいである。
そういえば、河川で会う時は、いつも薄着だった。
部屋にあるのは、スーツケースが1つだけで、コートもないようである。
下川さん、お手数をおかけしました。
僕は、もう少しお邪魔して、食べ物と薬を用意します。
そうですか、何かあったら、すぐに電話下さいね。
で、あの件は宜しくお願いします。
了解していますよ、雄一さん。
そう言って、下川巡査は戻って行った。
石田さん、まともに食事もされてないのでしょ。
もう少し、お邪魔しますよ。
真田さん、申し訳ない。
何言ってるんですか、袖擦りあうも、っていうでしょ。
ちょっと買物に行ってきます、ゆっくり寝ててくださいね。
雄一は、急いでスーパーに向かった。
まず、スーパーの向かいで美代子に電話して、水分関係や喉の通りのいいものを購入。
帰りに薬局に寄って、解熱剤と風邪薬を買った。
石田のマンションに戻って、検温をして、食材を冷蔵庫に入れたりの整理をした。
その最中、チャイムが鳴った。
雄一がドアを開けると、美代子が立っていた。
美代子、フレンチは大丈夫?
問題なしよ、バイトの律ちゃん、あれでしっかりしてるから。
雄ちゃん、おじいさんのお加減は?
うん、熱計ったら8度5分あった。
食事してから、解熱剤と思って。
わかった、おかゆとお惣菜作ってきたから、すぐ準備する。
美代子も中に入って、石田に挨拶する。
石田さん、美代子といいます、あんまり美味しくないけど、おかゆ作ってきたから、少しでも食べてね。
突如現れた美代子に驚きながらも、雄一の友人と聞いて、お礼を言った。
美代子は、手際良く食器を探し出して、盛り付けていく。
石田さん、できましたよ。
こっちに来れます。
雄一が介助して、食卓の前に座った。
これはこれは、御馳走だ。
御馳走なんて、あり合わせのお惣菜なんですよ、お口に合えばいいのだけど。
美代子はおかゆを手渡し、熱いお茶を入れている。
石田は、少しずつではあるが、おかゆと総菜を口に運び、時間をかけて食べきった。
3人でいろんな話をしながら、楽しい食卓になった。
その後に薬を飲んで、また横になった。
石田が寝入る前に、雄一は、電話番号をメモに書いて渡した。
夕方にはまた、美代子が来てくれると伝え、冷蔵庫の食品も説明した。
石田にドアの合鍵を借りて、2人は部屋を出た。
雄ちゃん、いい感じのおじさんね。
でも、家族はいないの?
うん、いるらしいのだけどね。
さて、これからもうひと働きかなぁ。
翌日、下川巡査から電話があった。
雄一さん、今晩、こちらに来れます?
大丈夫ですよ、連絡付きましたか?
はい、会社が終ってから来られるので、18時に。
OKです、じゃ、後で。
雄一は、駅前派出所で、石田老人の息子さん御夫婦と対面した。
その後、場所をフレンチに移して、いろいろ話をした。
そのうちに、美代子が戻ってきた。
石田さん、どうだった?
うん、もう大丈夫よ、熱も下がったし、食欲も戻ったわ。
まだ、ちょっとフラフラするみたいだけど、もう1日、お薬飲んで寝てたら治ると思うわ。
安心してくださいね。
本当にありがとうございます。
何と、お礼を言えばいいものか・・・・・
何を言ってるんですか、これが下町の人情ってものなんですよ。
そういいながら、雄一も美代子も笑顔である。
その夜、今後の相談をして、石田夫婦と孫娘は帰って行った。
数日後の河川敷のベンチ。
雄一は、久しぶりに回復した石田老人と話していた。
やっぱり、ここはいいですねぇ。
しばらく、部屋で寝てるだけだったから、一気に解放された気分ですよ。
よくなって、よかったです。
これも、雄一さんと美代子さんのおかげです。
あの時、雄一さんが来てくれなかったら、どうなっていたことか。
でも、雄一さんはいいお友達をお持ちですなぁ。
美代子ですか?
ええ、お世話をかけている間、いろいろお話を伺いました。
これなら、1人でも寂しくありませんね。
それに、この街の皆さんとも、まるで家族のようだって。
美代子は、そんなこと言ってましたか、もう、あいつは。
でも、石田さん、下町の人情っていいですよね。
僕も、外国から帰ってきて、迷わずにここに住んだのですよ。
私も、ずっとここで住めればいいのですが・・・
住もうよ、お父さん。
えっ、振り返った石田の後ろに、息子の俊哉、嫁の恵理、そして、目に入れても痛くない孫の有美がいた。
美代子が案内して来たのだった。
お前達、いったいどうして・・・
あっ、もしや、雄一さんのお手配ですか?
すみません、石田さん、勝手なことをしてしまって・・・
でも、どうして?
石田さんが寝込んでいる時、息子さん一家は、ずっとあなたを探していたのですよ。
丁度、あの時の数日前にも、下川巡査のところに来られていたのです。
これは偶然だったのですが、そのおかげで、お名前がわかり、御住所も。
その後にお会いして、いろいろお話を伺いました。
皆さんは、石田さんと一緒に生活を続けていきたいそうですよ。
それも、この近くでね。
えっ、それは・・・
お父さん、全てはお父さんの勘違いなんだよ。
でも、わしがいたんじゃ、お前達の負担になるんじゃないのか?
お父さんは、僕と恵理が老人ホームの話をしていたのを、聞いたんじゃないの?
ま、まあ。
だから、一緒に住んでいくのは、僕達の本意じゃないと思ったんだろう。
う、うん。
老人ホームの話は、恵理の友達のおばあさんの話だよ。
僕が、僅かでも福祉関係に関わった仕事をしているから、いい所を紹介してくれって頼まれたんだ。
だから、いくつかの候補のパンフレット持って帰って、恵理に説明してただけなんだよ。
そうだったのか。
僕達も、来年に有美が小学校を卒業するから、お父さんが言ってたこの辺りに引っ越そうって相談してたんだよ。
でも、まず、有美の学校探しをしてたから、引っ越しの話をするのが遅れてしまったんだ。
だからね、お父さん、あと3カ月程待ってくれたら、この辺りに引っ越すから。
そしたら、また、一緒に暮らそうよ。
おじいちゃん、一緒に暮らそうね、いいよね。
石田義男老人の目には、涙が溢れていた。
かすれる声で、雄一さん、何とお礼を言ったらいいのか。
そんな、これが下町の人情なんですって。
でも、僕も、俊哉さんの話を聞いて、石田さんが思い違いをしてるって思ったんですよ。
1人が気楽でいいって話す石田さん、笑顔だったけど寂しそうでしたからね。
雄一さん、美代子さん、父同様、これからもお願いします。
堅苦しいのは止めましょ、これでまた、町内に親しい御家族が増えるんですから。
こんなに嬉しい事はないですよ、なぁ、美代子。
そうですよ、私はいつもここで、1人でパンをかじっている雄ちゃんを見る度に、気の毒で。
やっと、話し相手ができたんですものねぇ。
それが、嬉しくて嬉しくくて。
おいおい、勘弁してくれよぉ。
青空の下、笑い声が溢れていった。
◆その10 クリスマス
その年も、いよいよクリスマスが近づいてきた。
この街も、いたるところでイルミネーションが見られる。
最近では、普通に一般住宅でも、光の芸術が見られるようになった。
ずっと東南アジアにいた雄一は、いつも暑いクリスマスで季節感のようなものは全くなかった。
でも、今年は、日本でのクリスマス、そして、お正月である。
本当に久しく、日本を感じられるのを楽しみにしている。
イブまであと3日に迫った日の夕方。
辰三さんが、事務所に来た。
おじさん、どうしたの?
さ、入って。
コーヒー入れるね。
雄ちゃん、ありがとな。
どうしたの、元気ないじゃんかぁ。
あのな、俺、そう長くないかも・・・
え~、ホントにどうしたの。
俺な、癌なんだ。
えっ、癌!
何故?
一昨日、ちょっと胃が痛むから、病院に行ったんだよ。
いつもの飲み過ぎだと思って、薬もらおうと思ってさ。
うん。
そしたら、急に医者がレントゲン取るって言いだしたんだよ。
で、翌日にもう一度来いって言うから、行ったんだ。
それで?
医者は、家族も一緒にって言うから、道子とな。
うんうん。
行ったら、もう少し検査するって言われて、血を取られてから、医者のとこに戻ったんだよ。
で、ドア開けようとした時、話が聞こえちゃったんだ。
何て?
癌の手術のことを話していたんだよ。
ここを切ってこうしてとか言ってた。
俺がノックして中に入ったら、医者は胃にポリープがあるから、切りましょうなんてぬかすんだよ。
きっと、道子が口止めしたに違いないんだ。
おじさん、それって手術したら治るんじゃないの?
いや、軽いものだったら、話してくれてもいいってもんだろ。
それを、隠すなんてさ、多分、俺はもう長く生きられないだよ、きっと。
おじさん、それって、勝手に思い込んでるだけだろ。
いや、絶対に間違いない、せっかくこうして雄ちゃんとも知り合えたのに。
辰三は、大声をあげて、泣いている。
おじさん、僕がおばさんに聞いてみようか?
いや、止めてくれ、きっと道子も苦しんでいるに違いないんだ。
それはそれで、可哀想で・・・
手術っていつ?
年が変わってから、1月中にするってさ。
それまで、食事やお酒は?
普通でいいって、でも、飲み過ぎたら、また胃が痛むらしいけど。
えっ、もし胃癌で、状況悪かったら、お酒はダメなんじゃないの。
だからこれが道子の優しいところだ。
最後の正月だから、思いを残さないようにさせてやろうってなぁ。
そう言って、また、辰三が泣いた。
まあまあ、おじさん、まだはっきり分かったんじゃないだろ。
そう、悲観的にならないで。
ああ、そうだよな、雄ちゃん、涙を拭きながら答える。
おじさん、落ち着くまで、ここでゆっくりしてなよね。
そうそう、おじさん、診てもらったのって、どこの病院?
落ち着いた辰三が戻って、雄一はどこかに電話をかけた。
もしもし、社長ですか、真田です・・・
あの、以前に○×病院改修工事の設計監理したの社長のとこですよね。
ああ、よかった、ちょっと病院の方を紹介していただきたいのですが・・・
いいですか、ありがとうございます。
翌朝、電話が鳴った。
社長、無理なことお願いして・・・はい・・・えっ、院長を?
はい・・・今日、行ってみます・・・有難うございました。
その日の午後、雄一は○×病院を訪ねた。
受付で、院長とのアポの確認をする。
そのまま、応接室に通された。
しばらくして、院長が入ってきた。
岸辺社長から、連絡いただいています。
何か御相談だとか、何でもおっしゃってください。
ありがとうございます。
実は・・・雄一は辰三の癌のことを聞きに来たのだった。
わかりました、吉川辰三さんですね。
少々お待ち下さい、担当医を呼びますので。
そう言って、院長は席を外した。
15分程して、院長と担当医が入ってきた。
担当医はカルテを持っている。
一応個人情報ですし、ちょっと相談したのですが、岸辺社長のお墨付きの方ですし、お話する内容も悲観したものでないので、いいでしょうということになりました。
患者さんが勝手に判断して、悪い結果になってもいけませんのでね。
君、説明してください。
はい、吉川辰三さんは胃にポリープができています。
えっ、ポリープ?
はい、そのままにしておいてもいいのですが、飲酒を抑えるのは無理ということで、その度々で炎症を抑える薬を飲むのも負担が重なりますので、切除することをお勧めしました。
あの、胃癌ではないのですか?
ええ、全く。
本人の話なのですが、先生が奥さんに癌だと話していたのを、ドア越しに聞いたとか。
えっ、そんな話は・・・
もしかして、ポリープをそのままにしておくと、癌細胞に変異した症例もあると言ったのを聞かれたのでは・・・
聞き間違いですか、それを本人が勘違いして思い込んだのですね。
はい、多分そうだと思います。
しかし、そうだとしたら、吉川さん、かなり悲観されているのでは。
そうですね、昨日、私の事務所に来て、最後の正月だって号泣してました。
それはそれは御気の毒なことを。
私が説明にまいりましょうか?
いえ、先生はお忙しいのに、そんなお手間をかけられなくても結構です。
私が、きちんと説明しておきます、本人も安心するでしょう。
申し訳ない、たまたま血液検査中だったので、奥さまだけに話をしてしまいました。
いいんですよ、ちょっとは、心配させた方が本人にもいい薬です。
いいんですかぁ、そんなこと言って。
あっ、でも、私がそんな事言ったというのは、内緒でお願いします。
ははは、わかりました、では、失礼します。
真田さん、面白い方ですな。
岸辺社長が、あなたを手放したこと、大変後悔されていましたよ。
これまでに出会った技術者の中で、技術的にも人間的にも最高だと言われてました。
そんな、褒め殺しは無しですよ、院長先生。
2,3年先に、病院の新棟の計画があるんです。
その時は、是非、真田さんにお願いしようかと。
無理です無理です、社長を飛ばしてなんては。
わかってますよ、岸辺社長の会社に依頼して、実務は真田さん。
全てを御自分でされるというのも、費用が信じられないくらい格安というのも聞いていますし。
院長先生、もう、許して下さいな。
ははは、まぁ、その際は検討してみてください。
はい、その時は。
今日は、本当にありがとうございました。
いえいえ、お安い御用でしたよ。
それより、真田さん、もし体調が悪くなったら、直ぐに連絡してください。
隅から隅まで調べて、治して差し上げますのでね。
うへっ、怖いですねぇ、でも、宜しくお願いします。
とても、心強いです。
雄一は、明るい気持で病院をでた。
事務所まで戻ったが、直ぐには中に入らず、隣の吉川家を覗いた。
玄関が閉まっていたので、庭の方に回った。
縁側越しに居間が見えて、辰三がこたつでうとうとしているのが見える。
雄一は、縁側の戸を開けた。
おじさん、まだ元気ないの?
え、ああ、雄ちゃんかぁ。
もう、生きていく気力もなくなってしまってねぇ。
そんなこと言わないで、ねっ。
おじさん、上がってもいいかい?
ああ、もちろん、上がってくんな。
ありがとね。
雄一もこたつに入って、ゆっくり話をした。
あのね、おじさん、今日○×病院に行って来たんだよ。
えっ?
院長先生とおじさんの担当の先生に会ってきたんだ。
うん、うん。
おじさんの癌のこと聞いたら、笑われちゃったよ。
それは・・・・・
そう、全くのおじさんの勘違いだったんだ。
勘違い?
じゃあ、癌の話はなんだったんだい?
分かりやすく話すね。
まず、おじさんの体は何にも問題ないよ。
おじさんのお酒の飲み過ぎは、あんまりよくないんだけどね。
ただ、胃にポリープがあって、そこにアルコールが影響してちょくちょく胃が痛むんだよ。
その度に薬飲んでても、胃に負担がかかるだけであんまりよくないから、切りませんかって先生が言ったんだよ。
癌の話はね、通常なら全然大丈夫なんだけど、過去の症例で癌細胞に変異したこともあったらしいってこと。
ドア越しに聞こえにくい状態で、癌って言葉が聞こえて、切りましょうかとの話で、おじさんが勝手に胃癌って決め込んだだけ。
そ、そうだったのかぁ。
そうだったんだよ。
じゃあ、俺っちの心配はなんだったんだよ。
知らないよ、そんなこと。
もう、大丈夫でしょ。
そうだよな、意味のない心配して、落ち込んでたんだもんな。
ばかばかしいや。
もう~、わざわざ病院にまで行って聞いてきてあげたんだよ、お礼くらい言ってもらってもバチ当らないと思うけど。
そ、そうだよな、雄ちゃん、本当にすまなかったねぇ。
バカな俺の勘違いで、手間かけさせてしまって・・・
はいはい、これでもう終りね。
来年、ポリープ切ってきなよ。
うん、分かった。
そこに、道子が戻ってきた。
あれっ、雄ちゃん、珍しいじゃないの。
丁度よかったよ。
おまんじゅう買ってきたから、食べていきなね。
うん、ありがとう。
今、お茶を入れるよ、おまえさんも食べるだろ?
おう、もちろんよ。
あれ、何かあったかい、元に戻ってるじゃないの。
昨日から、何言っても元気ないから、ちょっと心配はしてたんだけど。
雄ちゃんのお陰でな。
もう、大丈夫だよ。
何か知らないけど、よかったよ。
雄ちゃん、もう1つどうだい、お食べよ。
ありがとう、おばさん、で、何をすればいいの?
ええ~、さすが雄ちゃん、さっしがいいねぇ。
何がさっしだよ、おばさんのお願い事の時は、必ずおまんじゅうだからね。
あはは、そうか、そうだったね。
実は、数日前に町内会から頼まれたんだ。
今度のクリスマス・イブの町内会の催しに、雄ちゃんとこの中庭を使わせて欲しいって。
それを、雄ちゃんにお願いして欲しいって言われてさ。
でも、そのすぐ後に、この人のポリープ騒ぎになって、言いそびれてしまっててねぇ。
そんなことかぁ、どうぞどうぞ、使ってください。
ありがとう雄ちゃん、会長に伝えるね。
クリスマス・イブの当日、18時から町内会のパーティーが開催された。
町内の御家族が集まってきて、子供達もたくさん参加して、賑やかなパーティーになった。
もちろん、雄一も美代子も参加である。
おじさん、すっかり元気になったじゃないの。
でも、いい気になって飲み過ぎちゃだめだよ。
ああ、あの時の気持ちは忘れないよ。
本当にそうならならないように、気を付けるさ。
会長御夫婦が雄一に挨拶にきた。
雄一さん、今日はありがとう。
道子さんから、この庭はすごくいいって、会うたびに聞かされてたんですよ。
1度、お邪魔したいって、ずっと思っていたんですよ。
そんな、いつでもどうぞ、使ってくださいね。
横から道子が、雄ちゃんダメよ。
そんなこと言ったら、会長さん、毎日コーヒー飲みに来るわよ。
ここは、私の安らぎの場なのよ。
おばさんの場所なの?
あはは、そんなくらいに好きな場所ってことよ。
あちらこちらで楽しい会話が行われて、いい感じのパーテイーである。
その時、雄一の携帯電が鳴った。
その場から少し離れて、雄一は電話に出た。
最初、笑顔で話していた雄一だったが、途中から真剣な顔になっていった。
しかも、話している言葉は日本語ではないようだ。
その様子を、美代子はじっと見ていた。
話が終って、パーティーに戻った雄一の顔は笑顔に戻っていた。
しかし、美代子はなにか胸騒ぎを覚えた。
何でもないと思い込ませながら、心の中に不安な気持ちが湧きあがってくるのを、抑えられない。
美代子は、皆と笑顔で話す雄一の顔から目が離せなかった。
そんな美代子に気付いた雄一、美代子の前に近づいて、笑顔で言った、美代子メリークリスマス!
第1部 完