74.波間の思い出
夏の嵐だろうか。この日は朝からずっと大雨が降り続いていた。
ここハインツ公国にある【還らずの塔】においても状況は変わらず、激しく降りそそぐ雨が薄い茶色だった塔全体をより濃い茶色へと染め上げていった。
塔の中では、ヴァーミリアン公妃がときおり窓の外を眺めながら、手にした魔道書を拡げていた。だが彼女の視線は魔道書の文字を追いかけていない。ヴァーミリアン公妃は、自らの脳内に在る思考という名の海の中を一人泳いでいた。
「それにしても…どういうことなのかしらね。わたしは確かにフランフランの【天使の器】を見た。オーブに加工は不可能だから、銘を勝手に変更することは不可能なはず」
ただ、そう口にしながらもヴァーミリアンにはさらに別の疑問に思うことがあった。それは…【星砕き】シャリアールに、本当にフランフランを倒すだけの力があったのか、ということだ。
彼女の知るシャリアールは、たしかに高度で優秀な魔法使い…天使であったものの、やはり他の7大守護天使からは一段落ちる存在であった。事実、強力な【流星】という固有能力を持っていたものの、単純な破壊力という意味ではヴァーミリアンの【雷神の槌】のほうが強力だった。プライドの高いシャリアールはそのことを気にしていたし、強い対抗意識も持っていたのもヴァーミリアンは知っていた。
だから彼は、闇に堕ちて自分と娘の命と引き換えにアキを召喚するという愚行を犯してしまったと思っていたのだが…
「もしフランフランを倒したというのがシャリアールのウソだとしたら…でもやっぱりそんなことはありえないわ。以降今に至るまでフランフランの消息は一切消えてしまっていたし、なによりわたしはフランフランの骸を見たんですもの。…うーん、堂々巡りだわ」
ヴァーミリアンは気分転換に魔道式機械人形に命じてお茶を持って来させることにした。
…そのとき、塔の警報装置が来客を告げるサイレンを鳴らして、即座に途切れた。
「…ん?警報装置が切られた?どういうことかしら…」
首を捻るヴァーミリアンだが、気にせずにお茶を口につける。
トントン。
部屋のドアをノックする音が聞こえてきた。
「あら?やっぱり誰か来たのかしら。まったく…最近は来客の多い事。はーい、どちらさま?」
声をかけてみるものの、扉の向こうの人物からの返事はない。しかし、これだけ見事にこの塔に入ってくる手際から考えると、おそらくは7大守護天使の誰かだと思われた。それだけ…この塔には数多くの魔法罠が仕込まれ、普通の人間では無傷では出入りできないようにされていたから。
まったく、仕方無いわね…
ヴァーミリアンはかなり不機嫌になりながらも、立ち上がって扉に手をかけた。
「はいはい、だーれ?めんどくさいからさっさと入って…」
だが、そこでヴァーミリアンの言葉は止まってしまう。扉の前に立っていた人物…それは、黒髪の女だった。しかもその背に具現化しているのは…暗黒の翼。黒髪の女悪魔。
「あ、あなたは…」
その人物を見てヴァーミリアンは驚愕の表情を浮かべた。
「あなたが…【解放者】だったのね」
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時と場所は変わり、再びアキたちの海水浴の場面に戻る。
ざぱーん。
「うわー!」
「きゃー!」
「や、やめてー!」
波打ち際で楽しげに水と戯れているのはカレン姫、ミア王子、エリスの3人。それを遠巻きに眺めているのは、ビーチパラソルの下で暑い日差しを避けているティーナ。
沖の方ではボウイとナスリーンが本気でクロールしながら遠泳している。さらに沖の方では…カノープスとプリムラが素潜りをしていた。というか、プリムラ一人で潜ってないか?
「なんというか、海は良いですわね」
「そうだねー。こうやって浮いてるだけでリラックスした気持ちになるよ」
「…えいっ!」
「うわっ!しょっぱっ!」
ぼーっとしながら波間にぷかぷか浮いていたら、いきなりスターリィに海水を掛けられた。
「急になにするんだよ!」
「うふふ、他の子ばっかり見てたから、その罰ですわ」
ほほぅ、俺とやる気なんだな。そっちがその気なら俺も容赦しないぜ。
「くくくっ、覚悟しろよスターリィ!…龍魔法【波間の波乗り】!」
俺が海水に少しだけ魔力を注ぎ込むと、もわっと海水が盛り上がってスターリィに盛大に襲いかかった。
「きゃあ!ちょっとアキ!やりすぎですわ!」
全身ずぶ濡れになるスターリィ。文句を言いながらもけらけらと笑っている。
あぁ、楽しいなぁ。こんな時間がずっと続けば良いのになぁ。
一通りスターリィと遊んだあと、喉が渇いたので陸に上がると、ティーナが俺とスターリィに冷たく冷えたお茶を出してくれた。
「おお、ありがとう!ちょうど喉が乾いてたんだ」
「すいません。ティーナ先輩」
「ふふっ、お気になさらずに。それにしても君たちは仲が良いんだね?」
「ええ、あたしとアキはとっても親密な仲ですので」
ねぇねぇ、なんかスターリィさんの言葉にトゲがないか?ついでにティーナのこと睨みつけてないか?
敵意むき出しのスターリィに対して、ティーナが困った顔で肩をすくめた。
「大丈夫。キミの大切な相手を取ったりしないよ。アキ、キミも隅に置けないなぁ。こんな素敵な子が側にいるんだったら、あんまり変なことはしなさんなよ?」
「へっ?」
一瞬なんのことを言われたの分からなかったんどが、ティーナが上着を脱ぐ振りをしたので、すぐに理解した。ティーナのやつ…あのとき上着を脱がしたことを根に持ってやがるな?
「…アキ、なんのことなんですの?」
「さ、さぁ?前のミザリーとの戦闘のことを言ってるのかもね?」
俺は冷や汗をダラダラ流しながらスターリィに答えたんだ。それにしても、恐るべしティーナ。こいつに不用意に変なことをするのは今後控えるようにしよう…
うとうと。
波の音やみんながはしゃぐ声が遠くに聴こえてくる。
あぁ、ぼーっとしてて良い感じだなぁ…このまま…夢の世界に……
ドッパーン!!
うわっ!?なんの音だ!?
泳ぎ疲れた俺がノンビリとパラソルの陰で昼寝をしていると、海面が割れるような音とともに他の奴らの歓声が聞こえてきた。
何事が起こったのかと思って目を開けてみると…なんとプリムラが巨大なマグロみたいな魚を担いで海から上がってきたところだった。
「…おいおい、マジかよ。すごいなプリムラ」
「うふふ、アキ様にお褒めに預かり光栄にございます。拙者、忍としてまた一つ上のステージに上がれたようです」
いやいや、普通忍者は海に潜って魚とか取ってこないから。
プリムラが採ってきた魚は、今夜の晩御飯になるそうだ。プリムラが担いで貸別荘の食堂に運んでいき、双子の侍女二人に渡していた。
「プリムラ、お手柄だったね。ほい、お茶」
「あっ、アキ様ありがとうございます」
恐縮しながら俺が渡したお茶を受け取るプリムラ。大きなことをやり遂げたものだけが見せる満ち足りた笑顔を浮かべていた。
そういえば、プリムラはカノープスの幼なじみだと聞いていた。良い機会だからあいつの過去とかあいつとの関係とか聞いてみようかな?
「カノープスと拙者の関係…ですか?”婚約者”でございます。って、アキ様はご存知なかったんですか?」
試しに聞いてみたら、プリムラから返ってきた返事は衝撃的なものだった。カノープスとプリムラが…婚約者同士だって!?そんなん一言も聞いたこと無ぇよ!
でもおかげで二人の関係性がよくわかった。以前から妙な距離感を保ってたから、不思議に思ってたんだけど…そうか、こいつら婚約してたのか。
「…とはいっても、それも拙者の姉がこの世界に召喚されて以降のことです。もともと姉のパシュミナとカノープスの兄のスケルティーニが婚約者同士だったので、小さな頃から親戚付き合いみたいな感じでございましたし」
「へー、じゃあプリムラはカノープスのこと好きなの?」
「…難しいご質問ですね。拙者も武門の家の娘ですから、結婚に色恋などはあまり考えないようにしていますが…姉からカノープスが拙者を助けようと食い下がったという話を聞いて、少し憎からず思っております」
…なんというかあんまり色っぽくない話し方なんだけど、プリムラはプリムラなりにカノープスのことが好きってことになるのかな?
「それは良かった。しかしあいつも水臭いよな、プリムラと婚約してるんだったら言ってくれれば良いのに。たまに私に変なちょっかいかけて来てたから何考えてるのかと思ってたんだけど、プリムラみたいな素敵な婚約者がいて良かったよ」
「さようでございますか。もしアキ様がカノープスのことをお好きでいらっしゃるなら、拙者は身を引きますが?」
「ないない!そんなことは未来永劫あり得ない!」
頼むから、しっかりと捕まえておいてほしい。そしてそのまま、道を外さないように監視し続けることを俺は望みます。
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日が沈みかけた夕刻。
夕食が出来るまでの待ち時間の間、俺は一人でぷらっと散歩に出ていた。夕日が沈みゆく海はとても綺麗で、赤く染まった太陽がゆっくりと海へと入っていく姿を、俺はただじっと眺めていた。
ふいに、俺の耳に心地の良い歌声が流れ込んできた。
潮風に乗って流れてくるメロディは透き通っていて、俺の心に沁み込んでくる。
誰の歌声だろうか。気になって歌声の主を探して歩いてみると…すぐに見つけることができた。
歌声の主はティーナだった。夕焼けに照らされる黄金色の髪が、海風に舞い踊っている。一本の流木に腰掛けて歌うその姿は、まるで美の女神がその場に舞い降りてきたかのよう。ティーナのあまりの美しさに、俺はしばらく呆然と見惚れていたんだ。
「…どうしたんだい、そんなところに突っ立って」
ワンフレーズ歌い終わったところで、俺の存在に気づいたティーナが自身の隣の場所へ俺を呼び寄せてくれた。夕焼けに緋く染まるティーナの人間離れした美しさに俺は一瞬だけ躊躇したものの、すぐに気を取り直して彼女の隣に腰を下ろした。
「…歌、上手なんだな?」
「ふふ、まあね。『天使の歌』の効果に歌唱力も影響してるらしいからさ、こうやって気が向いたときには歌うトレーニングもしている」
そういえばスターリィもよくお風呂で歌を歌ってるよな。あれはてっきり気持ちが良いからだと思ってたんだけど、もしかしてトレー二ングの一環だったのかな?
雑談が落ち着いたところで、俺は少し前から気になっていたことをティーナに聞いてみることにした。
「…なぁティーナ、この前旅に出てただろう?」
「あぁ、そうだよ。それが?」
「そのとき…なにかあったのか?」
俺の問いかけに、ティーナが動きを止めた。
「…なんでそんなことを聞く?」
「だってさ、急に海に行きたいって言い出すなんて、さすがに変じゃないか。いつものティーナらしくない」
「そうかな?…まぁいいんだけどさ」
そう言いながらも、結局ティーナはどこに旅していたのかを教えてくれた。
なんと彼女は…ハインツの双子の母親であるヴァーミリアン公妃に会いに、わざわざハインツ公国まで出向いていたのだ。それだけでも十分驚きだったのに、ヴァーミリアン公妃とティーナが話した内容を聞かされて、さらに度肝を抜かされた。
「遺伝子操作に…異種間肉体合成…だって?フランフラン、とんでもない奴だな。そんなやつ…絶対に許せない」
遺伝子操作なんて前の世界でもほとんど実用化されてなかったと思うし、異種間肉体合成なんて実現すらしてなかったんじゃないか?そんな技術を使えるなんて…フランフラン、本当に恐ろしい奴だ。
そういえば以前【龍魔眼】で調べたミザリーの正体は”人造人間”だったな。ということは、やはり【解放者】の正体はフランフランで間違いなさそうだ。遺伝子操作なんて特殊な技術、使えるやつがホイホイ居るわけないしな。
「…でもさ、いいのかい?もし【解放者】がフランフランだとしたら、ヤツはキミが守ろうとしている魔族だぞ?」
その質問に、俺は即座に首を横に振った。
「魔族だろうと人間だろうと関係ないさ。ヤツはこの世界に魔本【魔族召喚】をばら撒いて、この世界の人たちだけじゃなく、魔界の人たちまで不幸にしようとしている。そんな存在は…絶対に許すことはできない」
「ふふっ、キミは迷いもないんだね」
その言い方に俺は違和感を覚えた。もっとも【解放者】を憎んでるはずのティーナが、躊躇している?
「ううん、そうじゃないよ。ただ…ちょっと不安になっただけだ」
「不安?」
「あぁ、ご存知の通りボクは10歳より以前の記憶を封印している。その記憶の中に…どんな恐ろしい情報が含まれているんだろうと思ってね。ボクはヴァーミリアン公妃みたいに強くはない。もし同じような立場にあったとしたら、ボクはあの方みたいに強く気持ちを保てるのだろうか…そう思ったんだ」
なるほど。それがティーナが感じていた不安の正体だったのか。
「ボクがあの黒髪の女悪魔を許すつもりは毛頭ない。だけど、その先にいったい…何が残るのか、ボクは不安なんだ」
そう言いながら、自分の体をぎゅっと抱きしめるティーナ。それは…彼女が初めて見せた”弱音”。
そんな彼女の弱音を、俺はあえて一笑に付した。
「…おいおいティーナ。あんたはほんっとにバカだな。大バカ者だ」
「…?」
何を言われているかわからないと言った顔でこちらを見るティーナ。
「あんたには素敵な友達がいるんだろう?大事な…親友がさ」
「あっ…」
「その先になにがあるかなんて、私にはわからない。だけど…ひとつだけはっきり言えることがある。ティーナには大切な友達がいる。誰よりも…自分のことよりも心配してくれる存在がな。だったらさ、その友達と相談しながら考えればいいんじゃないか?別に今すぐ答えを出す必要なんて無いんだろう?」
「……………そうだな」
長い沈黙の後、ようやくそれだけを口にしたティーナ。そのときにはもういつものティーナに戻っていたんだ。
「ありがとう、アキ。少しすっきりしたよ。海まで来た甲斐があったってなもんだ」
「ははっ、それは良かった」
「そうだ…これをキミに渡しておこう」
そう言ってティーナが俺に手渡してくれたのは、自身の耳についていたイヤリングだった。
「…これは?」
「さっき話した、ヴァーミリアン公妃から貰った”洗脳防止”のイヤリングさ。これを…キミに装備していてもらいたい」
おいおいなんでだ?なんでこんな大事なものを俺に託す?これは対フランフランの能力への…いわば最終兵器じゃないのか?
「だからだよ」
「へっ?」
「…アキ、キミが【解放者】を倒してくれるんだろう?だったら、最も接近するリスクの高いキミが装備しておくのが合理的ってなもんじゃないのかい?」
正直俺は、ティーナの言葉に驚いていた。
たしかに先日、手を組む条件として俺が【解放者】を仕留めることを約束させた。だけど…ティーナは絶対に自身が直接仇討ちすることに拘ると思ってたんだ。
ところが今回、ティーナはこのイヤリングを俺に渡してくれた。これは、俺に実際の戦闘を任せるということを意味していた。それはすなわち…俺のことを信用しているということの証だった。
「…本当にいいのか?」
「自分が仕留めるって言ったんじゃないか。それともあのときの言葉はウソだったのかい?」
ティーナの挑発に、俺は苦笑いしながら首を横に振った。
「…わかったよ。ありがたく借り受けることにする」
「そのかわり、早くその額飾りを取り外してくれよ?それさえあれば、たぶんフランフランなんて恐れるに足らないと思うんだけどなぁ」
「ははっ、本当にそうだよな。なかなか外れてくれなくて困ってるんだよ…どうにかしてくれよ」
深刻な内容のはずなのに、それをブラックジョークにしながら俺たちは互いに笑い合ったんだ。
それにしてもこの額飾り、まじでどうやったら取れるんだ?