【闇の章】エニグマ
ここは、どことも知れない薄暗い部屋の中。ポツポツと点る魔光灯の明かりが、ぼんやりと深紅の色をした室内を照らし出す。
その部屋の一番奥に、天鵞絨調の椅子に腰掛ける一人の女性の姿があった。
ストレートで真っ黒な髪に、抜けるような白い肌。その瞳は前髪に覆われてハッキリとは見えないものの、紅く輝いているように見えた。
彼女の名前は『解放者』。魔本『魔族召喚』をばら撒き、世界中に不幸の連鎖を引き起こしている張本人。そっと瞳を閉じると、無言のまま席に鎮座している。どうやら彼女は、この場所で誰かを待っているようであった。
ギィィ。しばらくして、古びた扉が開くような音が室内に響き渡ると、突如天井に眩しい空間が現れた。その空間から伸びる黒い階段を伝って、一人の若者が部屋に降りてくる。
ゆっくりと部屋に入ってきた白髪に精悍な顔つきのその若者は、どうやら手に何かを抱えているようであった。よく見るとそれは…半ば崩壊してしまい、上半身だけを残す形となってしまった少女だった。
「『解放者』様、『暗号機』ただいま戻りました」
「あぁ、私の可愛い『暗号機』、おかえり」
黒髪の女性の前にうやうやしく傅く少年の名は『暗号機』。そして彼が胸に抱えていたのは…体全体が崩れ落ち、もはや上半身だけになってしまった『悲惨』であった。
「ご指示に従い、なんとかミザリーを連れ帰りましたが…残念ながらこのように無残な状態になっております。既に意識もございません。その上…ミザリー救出の際に俺の【霊獣】姿を何人かに見られてしまいました」
「いいのよ、エニグマ。あなたが無傷でミザリーを連れ帰ってくれただけでも私は嬉しいわ。それに…ミザリーは素晴らしい仕事を成し遂げましたしね」
『解放者』は、物言わず目を閉じたままで、生きているかもわからないミザリーの髪や頬に手を触れて優しく撫でる。その仕草はまるで…可愛い我が子を眺める母親のように慈悲深く見えた。
「この子はね、私が欲していた『鍵』の情報を手に入れたのよ。これで…私が求めていたものはすべてが揃ったわ」
「おぉ、本当ですか!おめでとうございます、『解放者』様」
「ええ。でも…最後の準備にはもう少し時間がかかるわ。刻が満ちれば…私の宿願は叶うでしょう。それまで…エニグマ、あなたは引き続き学園に潜入をしてもらえるかしら?もちろん、状況に応じて色々と『対応』はしてもらうつもりですけど」
「はっ。承知いたしました!」
「あと、ミザリーには…最期の大仕事を与えてあげましょうかね。ふふふ…」
ミザリーを何度も何度も丁寧に撫でながら、『解放者』は愉快そうに笑ったのだった。
本来であれば、二人の会話はこれで終わりのはずだった。しかしエニグマは、話が終わっても立ち去ることはなく、少し遠慮がちに口を開く。
「あの…『解放者』様。少しよろしいでしょうか」
「…どうしたの?エニグマ。あなたにしては珍しいわね」
「…差し出がましくも申し上げますが、一つ提案がございます。『解放者』様のお力で、先にティーナを操ってしまうことは叶わぬのでしょうか?
今回の件は、”器”であり”扉候補”でもあるティーナの邪魔がなければ、ミザリーもむざむざこのような姿を晒すことも無かったはずです。ですので、ティーナを先に洗脳してしまえば…」
「およしなさい、エニグマ。私はティーナを操るつもりは、今のところありません。それは前にも言ったはずよ?」
有無を言わさずエニグマの言葉を遮る『解放者』の口調は、その場を凍りつかせるような冷たさがあった。一瞬怯んだものの、それでも負けじとエニグマも言い返す。
「ですが…真に目的を達成するためには、それが最善手なのではないかと考えております。聡明なる『解放者』様であればお分かり頂けますよね?
それでも実行なされないのは…『解放者』様にとってティーナが特別な存在だからですか?ティーナが…『解放者』様の……」
「黙りなさい、『暗号機』。それ以上言うことは…たとえあなたでも許しませんよ?」
「……はっ。出過ぎた真似をして申し訳ありませんでした。俺は…これにて失礼いたします」
結局『解放者』は、エニグマにこれ以上の反論を許さなかった。エニグマは一瞬だけ悲しそうな表情を浮かべたものの…すぐに表情を消して、そのまま立ち去っていったのだった。
「試作品のくせに、生意気だこと…」
エニグマが立ち去ったあと、不愉快そうな表情を浮かべた『解放者』が忌々しげに
吐き捨てた。
だが、機嫌が悪そうに見えたのはそのときだけ。ふぅと息を吐いて目を瞑ると、次に目を開けたときには…すこぶる愉快そうに唇を斜めに歪めていた。
「うふっ、うふふっ…」
誰もいなくなった部屋の中で、『解放者』の笑い声が響き渡る。
「ふふ…ついに、ついに私はすべての”駒”を見つけることができたわ。予想よりもはるかに早く、ね」
彼女はとても上機嫌だった。それは、彼女に忠誠を誓う可愛い手駒たちの功績ゆえに…ではない。彼女にとってミザリーやエニグマのことでもどうでも良かった。彼女は…自分の計画が順調に進んでいることに、満足しているだけなのだ。
『解放者』はおもむろに立ち上がると、部屋の隅に置かれている…黒い溶液に浸された巨大なガラスケースの前に歩いて行った。そのまま無造作にミザリーをガラスケースの中に放り投げる。
ずぶずぶ…と音を立てながら、上半身のみとなったミザリーの身体が黒い液体の中に沈んでいった。
「よくやったわ、ミザリー。あなたは素晴らしい情報を私にもたらしてくれた。まさか『鍵』が…あのエリスとかいうジェラードの隠し子の小娘だったとはね。
そのご褒美に、あなたには…新しい形の命を授けましょう。ただ、記憶を保てるかどうかは…分からないけどね」
上機嫌に…まるで歌うように独り言を呟きながら、『解放者』は黒い液体に浸されたミザリーに視線を送った。その瞳には、先ほど垣間見せた母性のような色は無い。ミザリーに向ける視線に、もはやどんな感情も感じられなかった。
「さぁ、これで私の準備は整った。とりあえず目くらましをするために、パラデインとレイダーのほうには新しい”撒き餌”をするとして…。あと残されているのは『扉』の”覚醒”…ね。
まぁ、あの子の格であれば、行方不明になってしまった『覇王の器』あたりが有力だと思ってるんだけど…ゾルディアークのやつめ、忌々しい。いったい何処にやってしまったのか」
口では忌々しいと言いながら、『解放者』は口元を大きく歪めて笑っているようだった。それはまるで、勝利が確定した詰め将棋において、相手がもっとも嫌がる一手を探しているときに浮かべるような…悪魔的で邪悪な笑みだった。
「…もしかして、愚かなシャリアールが召喚したカノープスとかいう”可愛らしい魔族の男の子”に預けたりしたのかしら?だとしたら…そっちの方も調べてみる必要もあるわね。ふふっ、ふふふっ…」
誰もいない部屋の中で一頻り笑ったあと、既にミザリーへの興味を失ってしまった『解放者』は、あっさりとミザリーが沈む黒い液体から視線を外すと、再びビロード調の椅子に座りなおした。
華麗な動きで足を組みながら、サイドテーブルに置かれた黒色の飲み物を口にする。彼女の唇の端から、妖しく…黒い液体が流れ落ちていった。
「さぁサトシ。私はもうすべてをそろえたわ。あと必要なのは…時間だけ。これってもう、私の勝ちは決まったようなものじゃない?
…しょせん、今のあなたは無力。あなたが今在る場所では、おそらく私に対して何も手を出せないでしょう。
だからあなたは、私たちによってこの世界が滅ぼされるのを、その場所から歯を食いしばって…悔しがりながら眺めていることね。それとも、ここからスパートをかけて捲ってみるかしら?
…まぁ、どうせ間に合わないでしょうけどね。うふっ、うふふっ…」
上機嫌に黒い液体を一気に飲み干すと、『解放者』は唇に残った最後の残滓をペロリ、と舌で舐め取る。
そして…再び遠い目をすると、ここに居ない誰かに語りかけるように、優しい声で呟いたのだった。
「あぁ、ティーナ。私の可愛い娘…。待っていなさい、もうすぐ私が…お母さんが迎えに行きますからね」
紅き悪魔が残したその言葉は、誰の耳にも届くこと無く…そのまま紅暗い部屋の中へと吸い込まれ消えていったのだった。