【番外編】 自由という名の空
この日の昼間に発生した大事件の話は、瞬く間に学園中に広まっていった。なにせ一回生の女生徒のほぼ全員が意識不明に陥ってしまうという事態が発生してしまったのだ。噂にならない筈がない。
生徒たちに伝わった情報は、概ねこういった感じの内容であった。
「霊山ウララヌスで発生した魔獣が、講師たちの山狩りを潜り抜けて突如魔法学園へと降りてきた」
「学園に進入した魔獣は、運動の授業を終えた1回生の女生徒たちに襲いかかるために、更衣室にいた女生徒たちに対して麻痺の空気を送り込んだ」
「ただ幸いにも、1回生の中にはミア姫がいたことから、天使化した彼女によって見事魔獣は撃退された」
「しかし、魔獣との戦闘においてナスリーンが傷つき、リグレットという1名の生徒が犠牲になった」
これとは別に『悪魔が出現した』『実はナスリーンが悪魔に加担していた』などといった真偽不明の説も流布したものの、講師がこれらを否定し、次第に沈静化していった。
真実は、限られた人たちの心の中にだけ、収められることとなった。
その日の夜。混乱の極みにあったユニヴァース魔法学園にも、平等に夜の帳が下りてきていた。
魔法学園の中心にある背の高い塔。学園全体を見渡せるこの塔は、魔法学園のシンボルであり、かつ学園最強の魔法使いでもあるロジスティコス学園長の住居であった。
その塔の最上階にある部屋に、二人の人物がいた。
ひとりは、白いひげを生やした、いかにも魔法使いといった風体の人物。もう一人は、絶世の美女とも言えるほどの美貌を持った波打つ金髪の少女。
ロジスティコス学園長と、【鉄仮面】ティーナであった。
二人は学園を見下ろす位置にあるテラスから、テーブルを挟んで向かい合いながら、飲み物を片手になにかを話し合っているようだった。特にティーナのほうが、険しい表情を浮かべている。
「…ったく、帰ってくるのが遅いんだよ、クソジジイ。いままでどこほっつき歩いてたんだ?」
「ほっほ、ティーナは手厳しいのぅ。ワシもそれなりに忙しかったのじゃよ」
「忙しかったじゃないよ。まったく、一歩間違えたら生徒たちに実害が出たかもしれないんだぞ?なんとか撃退できたから良かったようなものを…」
「…じゃが、一歩間違うことはなかった。幸いにも優秀な生徒に恵まれておるようでのぅ。…ところでおぬし、アキと仲良くなったんじゃろう?」
意地の悪い笑みを浮かべるロジスティコス学園長に、ティーナは射殺すような視線を投げかけた。ふーっと大きく息を吐き出しながら、手に持っていた飲み物の入ったグラスをテーブルに置く。
「…いったいなんなんだよ、あの子は。最初はただのおとなしそうな女の子かと思ってたら…とんでもないな。羊の皮を被ったドラゴンだよ。あれは龍族か何かか?プリムラに至っては『魔王』なんて呼んでたしさ」
「ほっほっほ!『魔王』とな、これはまた大仰なことで」
「笑い事じゃないよ。御託はいいからさっさとあの娘の正体を教えな、クソジジイ」
ティーナに責められ、ロジスティコス学園長は苦笑しながら白いひげを手で撫でる。
「その答えは…ワシの口からは言えん。それはワシがお主のことを他の誰にも話さんのと同じ理由じゃよ。もし知りたいのだったら、自分で直接聞けば良いじゃろう?」
「…ふん、結局それか。まぁいいよ、自分で聞いてみるさ。ところで…アキは大丈夫なのかい?」
「ふぉっふぉっ、大丈夫じゃよ。ちと力を使いすぎて眠っておるだけじゃ。同室のスターリィが親身に看病しておるよ」
「…ふーん、そっか」
ティーナが無関心を装ってそう口にすると、グラスに残っていた飲み物を一気に飲み干した。ロジスティコス学園長はまるで孫を見るような視線を送りながら、グラスにおかわりを注ぐ。その視線を遮るようにティーナはサッと黄金色の髪をかきあげると、違う話題を振ってきた。
「…ところで、今回のことでいろいろなことがわかったよ。まず、リグレットという名前で潜入してたあの悪魔…『悲惨』と名乗ってたかな、その仲間でずっとボクを監視していたのは…『暗号機』という名前らしい。おそらく最後にミザリーを回収しに来た“白い魔獣“が、そのエニグマだ。
そして、あいつらを後ろで操っていたのが…『解放者』という名の女悪魔だ」
「ほほぅ、『解放者』…のぅ」
「次に。アキがえらく反応してたけど…悪魔はその『解放者』から『魔族召喚』という名前の魔本を与えられていた。こいつは悪趣味なことに、魔族を召喚することができる魔道具らしい」
「あぁ。そいつはな、『原罪者』アンクロフィクサが残した負の遺産じゃよ。この世界に何冊も遺され、そのうちの幾つかが広まっておるようじゃな。
ちなみにそいつを世界にばらまいているものの名が…いまパラデインやレイダーたちが追いかけている女悪魔『解放者』じゃ」
「ちっ。じゃあそいつが黒幕ってことになるわけだね?」
「まぁ…そういうことになるのかもしれんのぅ」
チン…ティーナが飲み物が入ったままのグラスを指で弾くと、まるで楽器が奏でたかのような綺麗な音が鳴った。波紋が残るグラスの中の飲み物を見つめながら、ティーナが話を続ける。
「そして…その女悪魔『解放者』は、ミザリーに【魔傀儡】という名の能力を与えていた。そいつは意識のないナスリーンを自在に操る能力だった。…ジジイはこの能力名に聞き覚えはないかい?」
ギロリ。それまで伏せていた顔を上げて、ティーナが鋭い眼差しでロジスティコスの目をじっと見つめた。神秘的なまでの美しさと相まって、その瞳はまるで全てを見通すかのよう。
「…聞き覚えあるぞい、あの魔戦争で…な。ワシも戦場で出会ったことがあるんじゃが、そいつは最低最悪な能力じゃった」
「あの能力は…魔王軍にいた7体の魔将軍の一人、【魔傀儡】フランフランの能力なんだろう?」
ティーナの確信を秘めた言葉に、渋々といった感じでゆっくりと頷くロジスティコス学園長。
「…やっぱりそうか」
「…なにかの間違いじゃったら良かったんじゃがのう」
「ジジイの回顧なんて要らないよ。さて、そしたらここまでで得られた情報をもとに、ボクの考えを言おう。
一連の事件の黒幕である女悪魔『解放者』の正体は…ほぼ間違いなく、20年前の魔戦争における魔王軍側の関係者だ。可能性として一番高いのは…『魔傀儡』フランフランの直接的関係者、もしくは本人でないかと推測している。…違うかい?」
もはや隠すのを諦めてしまったロジスティコス学園長が、ため息とともに頷いた。
「…ワシらも同じように推測している。じゃが、そうであればそれはワシらの時代からの負の遺産。お主が背負うことじゃない。ティーナ、これ以上は首を突っ込むな」
「じゃあなんで…『解放者』の手下はこの学園に潜入している?そして、ボクを監視している?まるで…ボクを含めた若い天使をさがしているようじゃないか」
「…」
押し黙るロジスティコス学園長に、ティーナは畳み掛けるように追求していく。
「そもそも天使であることを公開していないボクのことを、どうして監視している?しかも…『解放者』はどうも、ボクの能力が『扉』に関係することを知っていたようなんだ。ひた隠しにして、限られた相手にしか見せてこなかった…このボクの能力をね」
「…」
「なぁジジイ。ボクのもう一つの推察を言おうか?ボクはね、『解放者』のことを…デイズおばあちゃんを殺害した真犯人だと思っている」
「っ!?」
ロジスティコス学園長が浮かべた表情は、驚きよりもむしろ「気づいてしまったか」といった感じの気まずい表情。それを見逃すほど、甘いティーナではなかった。
「そうか、そういうことだったのか。…ジジイはいろいろ知ってて黙ってたな?それとも、デイズおばあちゃんの復讐は、ボクには関係のないとでも言いたいのかい?」
「違う。ワシらも確信が持てていかったのじゃ。じゃがな、本心は…ワシはおぬしに、もう復讐などは忘れて生きていってほしいと思っておる。そしてそれは…デイズの願いでもあると思うのじゃがな」
「……そんなこと、ジジイには関係ないことだろう。ボクの生きる道は…ボクが決める」
「……ティーナ、ダメじゃ。もし相手が本当に『魔傀儡』フランフランじゃったとしたら…今のお主では敵わん」
これまでの温厚な気配とは打って変わって鋭く断言するロジスティコスに対して、苛立ちをぶつけるように手にしたグラスをガンッとテーブルに叩きつけた。
「うるさい!そんなのは関係ない!…もういい、そっちがその気ならボクは勝手にやらせてもらうだけだよ。アキたちともボクが好きに話をする。それで良いかい?」
「……」
これで話は終わりだ、とばかりにティーナは荒々しく席を立つと、ロジスティコスの返事も待たずにそのままスタスタと部屋を出て行こうとした。
しかし、途中で足を止めると、クルリとロジスティコス学園長のほうに振り返った。黄金色の髪が、回転に合わせて宙を舞う。
「あ、そうそうジジイ。……あの娘はどうするんだい?」
「あの娘?あの娘とは、どの子のことじゃ?」
「…悪魔に操られていた、ナスリーンって娘のことさ」
ティーナの問いかけに、ロジスティコス学園長は目を細めると、あごにある白いひげをゆっくりと手で撫で付けた。
ーーーーー
翌朝。
まだ太陽も登りきらない薄暗い早朝の時間帯のこと。さすがの魔法学園も、ほとんどの者が眠りについていた。
そんな学園の正門に、一人の少女の姿があった。
力なく俯いたままトボトボと門に向かって歩くその少女。左手は三角巾で下げられており、片足を引きずるように歩く姿は弱々しいことこの上ない。
頬には痛々しく絆創膏を貼り、ピンク色の髪を揺らすその少女の正体は…『西の麒麟児』ことナスリーンであった。
ナスリーンは悲しげな表情を浮かべながら、呆然と門を見つめていた。トレードマークだったピンク色の髪は勢いなくボサボサで、化粧しないスッピンの状態だった。そこに…かつての彼女の面影はない。
ふと何かを思い出したかのように、ナスリーンは学園の方を振り返った。霊山ウララヌスから降りてきた朝霧に霞む学園の建物を、名残惜しそうな目で眺めている。
なぜ彼女は、こんな早朝に正門に居るのか。
「はぁ…ウチの学園生活はホンマに短かったなぁ…」
小さなため息といっしょに口から漏れ出たのは、一つの事実を含んだ言葉。そう、ナスリーンは…この魔法学園を”中退”しようとしていたのだった。すでに退学届は、学園長宛に提出してある。
ナスリーンは気絶から目が覚めたとき、自分が学園の医務室のベッドに寝かされていることに気づいた。
全身を酷使したせいか左腕は折れ、足も痛めていたものの、なぜか頭の中だけは妙にクリアになっていた。
そのおかげで…彼女は思い出したくも無い記憶を呼び起こすこととなる。それは…自分が行ってきた数々の悪事についての記憶だった。
今回の一連の事件においてナスリーンがもっとも辛かったのは、”操られていた”ときの記憶がほとんど残っていたことだ。
最後の暴走段階になってしまったときの最後の記憶だけが曖昧なものの、ミア姫と言い争いをした挙句、ものすごい威力の電撃を喰らった記憶さえも…おぼろげながら残っていた。
自分のしでかしたことを思い出し、その恐ろしさに震えていると、ベッドの周りを囲っていたカーテンが取り除かれ、「看病」と言う名の「監視」をしていた講師クラリティが入ってきた。ナスリーンが恐る恐る状況を確認すると、クラリティは迷いながらも…今日起こった出来事について色々と教えてくれた。
自分がリグレットに操られていたこと。
そのリグレットの正体が『悪魔』だったこと。
そして…本性を現した『悪魔』リグレットが、ミア姫たちの力によって滅ぼされたこと。
全てを聞いて愕然としたナスリーンは、しばらく考えた上で…一つの決断をした。それは、自分がこの魔法学園を”退学する”という決断だった。
「あんなことしでかしたら…ウチはもうあかん。やっぱウチには『西の麒麟児』なんて肩書きは重すぎたんやな」
記憶が残っていたおかけで、彼女は自分がしでかしたことの重大さを認識していた。それゆえ、たとえ操られていたとしても許されることではないと思った。
なにせ…授業中に天使化して相手を打ちのめした挙句、そのあとキレて同級生たちに対して無差別に『天使の歌』を放って昏睡させ…結果として悪魔の片棒を担いでしまったのだから。
「アカンなぁ…ウチは立派な天使になって、弱い子たちを守れる存在になりたかったんやけどなぁ。魔道具とか魔法薬のこととかいっぱい勉強して、いろんな人の力になりたかったんやけどなぁ…なんでこうなったんやろなぁ」
おもむろに、胸の中にしまったままの小さな杖の一部を握りしめる。この杖は、先の戦闘の際に真ん中でポッキリと折れてしまっていた。
この杖は、ナスリーンそのものの象徴だった。ゆえに、たとえ先端の石の部分が無事だったとしても、この杖が折れてしまったという事実が、ナスリーンの心を折る要因のひとつとなっていた。
「…考えてみたら、ウチはずっとまともな友達もできへんかったなぁ。天使になったら友達も出来るかと思っとったのに、恐れ敬われるだけやったし。
そんなんも、学園に来たらチョットは変わるかなぁと思っとったんやけど…まさか親友のはずのリグレットに騙されとったとはなぁ。つくづくウチには、友達もできへんのやなぁ…」
ホロリ。再び涙がナスリーンの瞳から零れ落ちる。少し歯止めが効かなくなったようで、とめどなく流れ落ちてきた。
「…天使になったとき、これで変わると思ったんやけどなぁ。なーんもあかんかったなぁ…」
ナスリーンにとって”天使になる”ということは、自由の翼を得たも同然だった。ところが、そうやって得た翼で羽ばたいた空は…彼女にとっては薄暗く汚れて、冷たい逆風だけが吹き付ける過酷なものだった。
その事実が、ナスリーンを強く打ちのめしていた。
もはや…彼女にとって学園は、安らぎの場所でも未来への道でも無くなっていたのだ。
「…これ以上は未練やな、もう行かんと。あーあ、実家に帰って大人しくパン屋でも継ごうかなぁ」
溢れる涙をぐっと絞り出してゴシゴシと目元を無造作に擦ると、ナスリーンは気を取り直してまたトボトボと前に歩き出した。
そして…ナスリーンが門の出口を通り過ぎたとき。
「おい、ナスリーン。お前どこに行こうとしてるんだ?」
早朝の朝もやを切り裂くような鋭い声が、人気のない学園の静寂を貫いた。
不意打ちに近い形で声をかけられ、慌てて顔を上げるナスリーン。彼女の目に飛び込んできたのは…男子生徒の制服に身を包んだ、ツンツン頭の少年の姿だった。ナスリーンは彼の顔に見覚えがあった。
「…あんたは…ボウイ?」
どうして?なぜボウイがこんな時間にこんな場所にいるの?想像すらしなかった人物の登場に、ナスリーンは慌てて涙を拭いながらボウイを問いただした。
「なんでアンタが…ここにおんねん」
「あー、いや。その…スターリィ様から事情を聞いてな」
もしや、悪魔の手先として自分を仕留めに来たのか。ハッとしたナスリーンの顔色を見て、ボウイは慌てて手と首を大げさに振って否定した。
「違う違う!俺は別にお前を仕留めに来たわけじゃないよ!だからそんな顔をしないでくれ」
では、ボウイがこの場に現れた理由は一体なんなのか。思いついた別の理由に、ナスリーンは僅かに顔を歪めた。
「そっか…アンタはウチのこと笑いに来たんやな?アンタは負け犬が去るところを嘲笑いに来たんやろ?」
「違う。そうじゃない」
即座に否定するボウイ。彼の真意がつかめず、ナスリーンは自然と首を傾げてしまう。パサリ…静かな音を立てて、ピンクの髪が一房肩口から零れ落ちた。
それではなぜ…彼はこんな時間にこの場所に居るのか。
「だったら何でここにおるん?ウチに用があったんやないんか?」
「それは…あ、謝りに来たんだ」
「はぁ?」
完全に予想外の言葉に、ナスリーンは素っ頓狂な声を上げてしまった。
「ちょっとアンタ、なに言うとん?なんでアンタがウチに謝るん?」
「だって…お前、悪魔に操られてたんだろう?そのせいで変な行動してたんだろう?なのに俺、そんなこと知らなくて…お前のこと授業のとき本気で打ちのめしちゃってさ。だから…謝らなきゃって、思って。
ナスリーン、お前女の子なのに…ひどいことして、ゴメンな」
ボウイがいったい何を言っているのか。
その意味を理解して、目の前で頭を下げるこの少年に対してナスリーン呆れ果ててしまった。
「ボウイ、アンタ…アホやろ?たったそんだけのために、ウチが本当に来るかどうかも分からへんのに、ずっとここで待っとったんか?」
「ああ。だけど…なんとなく来るって確信があった」
「っ!?」
ボウイの真っ直ぐな行動に、ナスリーンは心が揺れ動かされるのを感じた。
あぁ…自分はもう少し早くこの少年に出会っていれば…運命は変わっていたかもしれないな。
そう思ったものの、全ては”後の祭り”だった。未練を振り切るように、ナスリーンは手をヒラヒラと振った。
「…まぁ分かったわ、アンタの謝罪は受け入れる。そんなことウチは気にしてへんで、おおきにな。
そしたら…もうええか?ウチは忙しいから行かせてもらうで」
「待てよ。まだ用は終わってない。ナスリーン、お前は…どこに行こうとしてるんだ?」
もう自分のことはほっといて欲しい。これ以上…夢を見たくないから。そんなナスリーンの願いは届くことなく、物分かりの悪い少年は彼女を引き止めた。
「…あんなぁ、ボウイ。ウチはこれから実家に帰ろうとしてるんよ。ウチはもう…この学校を辞めるんや」
「なんでだよ?なんでお前が辞めんだよ?」
こいつ、ホンマのアホか。
ナスリーンは心の中で舌打ちをする。
「ボウイ、アンタはぜーんぶ事情を知っとるんやろ?あんな、ウチは…悪魔に関わって悪事を働いてしもうたんや。せやからウチは…もうこの学園に残るわけにはいかんのよ」
「何でだ?お前は悪魔に操られていただけだろう?それともなんだ、お前は自分から望んで悪いことをしてたってのか?」
「そんなわけあるかいなっ!なんでウチがそんなことを…」
「だったら問題無ぇじゃねーか。お前は悪くない。なのに、なんで辞めんだよ?」
どうやらボウイは『世間の理』というのを分かっていないようだ。
ふーっ。仕方ない、自分が説明してあげよう。
気持ちを落ち着かせるようにナスリーンは大きく息を吐くと、諭すような口調で説明し始めた。
「あんな、ボウイ。たとえアンタがそう言ったかて、世間の人たちはそれを受け入れてくれるほど甘くはあらへんのや。悪魔っちゅうのはな…そんだけ忌むべき存在なんや」
「そんなこと…わかってるよ」
「分かってへんやんか!!分かっとんなら、なんでそんな軽々しく言えんねん!!」
「そうじゃねぇ!俺が言いたいのは…お前自身がどう思ってるのかってことだ!」
風よりも疾く、鋭さを持ったボウイの言葉は、弱々しくひび割れ乾ききっていたナスリーンの心に、大きな楔を打ち込んだ。
「ウチ自身…が?」
「あぁそうだ。どうなんだ?ナスリーン、お前は…本当にこの学園を辞めたいと思っているのか?」
「ウチは…いや、そうやなくて周りが…」
「周りなんて関係ねーっつってんだろうが!俺はなぁ、お前がどう思っているのかを聞きたいんだよ!」
ボウイの魂に訴えかけるような言葉に少しの間逡巡したあと、ナスリーンは消え入りそうな口調で呟いた。
「…無理や。ウチには…この学園で過ごす資格はあらへん。ウチは…自分の意思で辞めるんよ」
「だったら…なんでお前は、さっきあんな悲しそうな顔で学園のほうを振り返ってたんだよ!」
「っ!?」
絶句。まさに核心をつく言葉に、ナスリーンは言葉を失ってしまった。
「そ、それは…」
「本当はお前もまだ学園に残りたいんだろう?ここに残って…たくさん友達作って、色々学びたいんだろう?」
「……」
「おい、ナスリーン!お前黙ってないで…」
「……そうや…」
「あぁっ!?声が小さくて聞こえねーよ!」
「そうやっ!!そうに決まってるやろ!!ウチかて…ウチかて、ホンマはまだまだこの学園にいたいんや!夢や希望や、やりたいことがいっぱいあったんや!!」
ボウイの、まるで全てをなぎ倒す嵐のような言葉の前に、ついに…それまで堪えていたナスリーンの心の防壁は破られてしまった。代わって溢れ出したのは…それまで押し殺していた、学園生活への想い。
でも…たとえそうだとしても…。
「でもなぁ、そんなんもう叶わん夢やねん!アンタかて分かってるやろ?ウチの罪はなぁ、悪魔に加担したって事実はなぁ、ぜったいに消えへんのや!
なぁボウイ…ウチはやっとこさ、夢を諦めたところなんやで?なんでそれを、改めて思い出させるん?なんで…そんな残酷なことをするん?ウチはなぁ…ウチはなぁ……うわあぁああぁああぁぁあぁん」
ナスリーンの、魂の叫び。溢れ出した想いは止まることを知らない。その想いは形となり…涙となってナスリーンの瞳から零れ落ちていった。
そんなナスリーンを、ボウイはただ黙って見つめていたのだった。
一通り…涙が枯れ果てるまで泣いたあと、落ち着きを取り戻したナスリーンが、少し恥ずかしそうに顔を赤らめながら、ゴシゴシと涙をぬぐった。あとに残っていたのは、前より少しだけスッキリした彼女の飾らない素顔だった。
「…ゴメンな、取り乱して。でも、泣いたらなんかスッキリしたわぁ。ボウイあんたは…ウチのことを見送りに来てくれたんやろ?ほんまにおおきにな…」
「だから、違うって!」
「ん?せやったら、なんで…」
「だからさ…残れよ」
ふーっと大きくため息をつくと、ナスリーンはまるで聞き分けのない弟を諭すような口調で話した。
「あんま聞き分けのないこと言わんといて。ウチは許されんことをしたんよ。そんなヤツがどうやって学園に受け入れられんよ?」
「…だったら俺が、受け入れてやる!」
「えっ?」
ボウイの口から突然飛び出してきた、あまりにも突拍子なその宣言に、ナスリーンは驚きのあまりぽかーんと口を空けてしまった。
「あ、あんたアホちゃうか?そんなことしたらウチだけやなく…アンタまで悪魔の仲間みたいに言われるで?」
「俺のことはどうだっていいんだよ!だから…気にせず出て来いよ」
「そんなん無理やって!ウチはきっと皆んなから『悪魔憑き』とか言われるんやで?」
「そんなこと、俺がぜったいに言わせない!これ以上お前が辛い目に遭わないように…この俺がお前のことを護ってやるよ!だから…辞めんな」
ボウイの口から放たれる、苛烈なまでに真っ直ぐな想い。
その…愚直で染まりようの無い言葉に、ナスリーンは強く胸を打たれた。
もう…諦めていたはずなのに…
全てを捨てて、この地を離れるつもりだったのに…
一度は諦めてしまった夢が、ナスリーンの心の中に再び舞い戻ってきた。同時に込み上げてくる熱い想いが、両眼から涙となって零れ落ちそうになるのを必死になって堪える。
「…ボウイ、あんたホンマのアホや…」
「アホはお前だ、ナスリーン。お前はまだ、この学園に居たいんだろう?」
もはや自分を偽ることを辞めてしまったナスリーンは素直にこくんと頷いた。
「……うん。ウチは…ホンマはまだここに居たい。ここに居て、たくさん学んで、みんなの力になりたい…」
「だったら辞めるなよ。もうちょっと頑張れよ。大丈夫、俺も…力を貸すからさ」
「うぅ…そんなん言われたらウチは…ウチは……うぅぅうぅ……」
とうとうナスリーンはあふれ出る涙を抑えることができなくなっていた。だが、今流れ落ちる涙は、先ほどまでの薄く曇ったものとは異なる…希望と未来に満ちた澄んだ色の涙だった。
ぼろぼろと涙を零しながら泣くナスリーンの頭を、ボウイがそっぽを向いたままぽんぽんっと優しく撫でた。不器用な彼なりの…精一杯の慰めの仕草だった。
「……なぁボウイ。ホンマにええんか?ウチは…ここにおってええんか?」
「あぁ、もちろんだ。もしお前に変なこと言うやつがいたらなぁ…この俺がぶん殴ってやるよ!」
「ぶっ!アホちゃうか!殴ってどないすんねん!」
頭をぽりぽりかきながら「えー、殴ったダメなのかよ」とぼやくボウイ。
そして二人は…視線を合わせて笑い出したのだった。涙と鼻水を流しながらケラケラ笑い出すナスリーンと、殴りまねをしながら爆笑するボウイ。
こうして二人の間に…これまでになかった穏やかな空気が流れていった。
ひととおり笑いが収まったあと、ふいになにかを思いついたナスリーンが、ニヤニヤしながらボウイのほうを振り返った。
「なぁボウイ。あんた、なんでウチにそんなに言うてきたん?もしかして…ウチに惚れたん?」
「バカ言え!誰がお前なんかに!ただ…この前の模擬戦、なかなか良い勝負だっただろう?だから、これからも…お前と戦いたいって思ったんだ。…友達として、な」
「アンタ、ホンマ…アホやな。乙女心がぜんっぜんわかってへん。ほんっまにアンポンタンや!」
「あぁっ!?だれがアンポンタンだって?お前なぁ…」
「ボウイの…バカ。でも…おおきにな」
そっと視線を逸らしながらナスリーンが告げたお礼の言葉に、ボウイはふんと鼻で笑いながら照れ隠しに空を見上げた。
既に空は明るくなってきており、最後の星が消えようとしてた。
雲ひとつない朝焼けの空は…まるでナスリーンの新たなる門出を祝っているかのようであった。
「ほら、もう夜も完全に明けてきたぞ。ほかのやつらが目を覚ます前にさっさと戻ろうか。荷物は俺が持ってやるからさ」
「あっ!待ってーな!ウチまだ全身痛くて、はよ歩けんねん」
「チッ、しょーがねーな。ほれ、肩貸してやるよ」
ナスリーンに肩を貸しながら、ニッと微笑むボウイ。その肩に…少し遠慮しながらも、ナスリーンは寄りかかった。遠慮がちにボウイの横顔を見つめながら、ナスリーンは決して届くことのない言葉を…心の中で彼に送ったのだった。
『ありがとうな、ボウイ。ほんまに…ほんまに…きてくれてありがとう。ウチ…こんなに嬉しかったの、天使に目覚めたとき以来やで。
だからウチな、もうちょとがんばってみる。がんばって…きっと、後悔しない学園生活を送ってみせるから』
傷つき、疲れ果てたとしても…ナスリーンは、再び飛び立つ決意をした。
彼女の前に広がる『自由』という名の空は、それでもまた無機質で暗いものかもしれない。しかし…たったひとつ、これまでとは決定的に違うことがあった。
それは、彼女を空へと押し上げる…力強く暖かい上昇気流という存在があること。
新たな追い風を得たナスリーンは、こうして…人生という名の空路へと飛び立っていったのだった。