【断章】ダークサイド
ここは、『街道の町ヘイロー』の街はずれにある一軒の古びた倉庫。
その3階に、一人の男が居た。
…彼の名はポルックス。
『蟻地獄』と呼ばれている"悪魔"だ。
彼が、双子の兄『毒蛙』カストルとともに"悪魔"になったのは1年ほど前。
そのきっかけは、二人の前に『解放者』と名乗る女性が現れたことだった。
カストル・ポルックス兄弟は、魔法使いとしてはそこそこの実力を備えていたものの、その容姿が優れないことから、一般の人々に避けられる人生を過ごしていた。
その結果、魔法屋などのまともな職に就くことができず、やがて人里から離れて暮らしだす。
気がつくと、毒や罠などの一般の人が扱わないものを扱うようになっていた。
だが、運命は彼らのことを見捨てていなかった。
偶然の導きから、カストルは【ディオスの毒壺】、ポルックスは【クーロイの玩具箱】という『天使の器』を得て、"天使"になることができたのだ。
だがそれでも、彼ら二人に対する世間の人々の評価が変わることは無かった。
気がつくと彼らは、世間に絶望していた。
そして人々を…特に女性を憎み、完全にひきこもるようになってしまった。
そんな二人の前に突如現れた、一人の女性。
彼女はポルックスたちに、自分は『解放者』というものだと名乗った。
長い黒髪に青白い肌、目の部分だけを覆った仮面を付けた正体不明のその人物は、完全に人間不信になっていた二人にこう告げた。
「私が、あなたたちの想いを『解放』してさしあげましょう」
そうして渡された、2つの魔道具。
小さな瓶に入った黒い液体と、青い色をした一冊の本。
用途が分からず首をかしげる双子に、『解放者』は説明した。
「これは、あなたたちをこの俗世から『解放』するものです。こちらの黒い液体が【魔薬】と呼ばれる魔力拡張剤、後者が…【魔族召喚】という魔本です」
双子は知っていた。
【魔薬】とは、強い依存性というリスクを冒すことで、強大な魔力を得る禁断の薬だということを。その最大の副作用として、使いすぎると『悪魔』に堕ちてしまうことを。
躊躇する双子に『解放者』は言う。
【魔薬】によって強大な魔力を得れば、あなたたちが憎んでいるこの世の人たちに復讐できると。
その上で【魔族召喚】という魔本を用いれば、【魔族】を召喚することができる。
そうすれば…彼ら二人をないがしろにし、バカにし、コケにした人々を滅ぼすことができるだろう、と。
彼らは『解放者』の案を受け入れた。
そして…【悪魔】になった。
その後、『解放者』から紹介され、他の悪魔とも知り合った。
魔本【魔族召喚】を使うことは無かったものの、既にこの世界に召喚されていた『魔王』を名乗る魔族につき従うことにした。
やがて、彼らがこの『街道の町ヘイロー』に潜伏している間に『魔王』が滅ぼされたと聞いた。
見た目は少年のようではあったが、強大な魔力を持っていた『魔王』。だがそれでも『七大守護天使』に負けたのだ。
双子は焦った。
このままでは、自分たちも滅ぼされてしまうのではないか。
そこで、当初は見送っていた『魔族召喚の儀式』を、この地で実施することにした。
「ポルックス、どうやら"魔族"を召喚するには"いけにえ"が必要みたいだぞ」
「カストル、じゃあいけにえは女にしよう。俺たちのことをバカにしたやつらをいけにえにして、世界を滅ぼす新たな『魔王』を召喚してやろうぜ」
そうして彼らは、この街で5人の女を攫っていった。
自分たちのことを『気持ち悪い』といった店のウェイトレス。
自分たちを見た瞬間、さっと眼を逸らした雑貨屋のアルバイト。
自分たちが道を歩いているとき、吐きそうな表情を浮かべて視線を逸らした若い女。
落し物を拾ってやったとき、お礼も言わずに逃げ出した主婦。
そして…自分たちが行ったときに嫌悪感丸出しの表情で追い返した水商売の女。
だが、最後の最後で彼らの作戦は失敗に終わる。
完全に想定外の人物たちの出現によって。
ポルックスが異変に気付いたのは、魔本【魔族召喚】の内容を分析してしているときだった。
ふと気がつくと、隠れ家の中に仕掛けていた警報のうちの幾つかが不通になっていた。
さすがにおかしいと思い、魔本を抱えて階段を下に降りる。
ただ、地下には双子の兄のカストルが居る。
攫ってきたいけにえどもを監視しているはずだ。
カストルの使う毒は多種で、自分の固有能力である『罠百式』と合わされば、たとえ相手が七大守護天使だろうと簡単に遅れを取らないだろうという自負があった。
だが、ポルックスが二階まで降りてきたとき、彼は信じられないものに出会ってしまった。
「どこに向かっているんだい?ポルックス」
突如自分の名前を呼ばれ、慌てて立ち止まるポルックス。
はたして自分の名を呼んだ人物は、すぐそばにいた。
黒っぽい色の髪に、青白い肌。
見た目は若い。だがそれ以上に…美しかった。
ポルックスは驚いた。
それは、こんな美少年がこの場にいることに、ではない。
彼は…この美少年を知っていたのだ。
「『次世代魔王』様、生きていたのですか…」
そう、彼の目の前にいるこの美少年は、先日滅ぼされてしまったと聞いていた、『魔王』その人だったのだ。
「七大守護天使によって斃されたとお聞きしてたのですが…ご存命だったのですね」
「あぁ、おかげで悪運強く生き残ってるよ。あぁ、今は『次世代魔王』じゃなくてカノープスって呼んでもらえるかな?」
目の前にいるかつての主人…『魔王』だった男の申し出を素直に受け入れる。
「そ、それではカノープス様、なぜこんなところに?」
「ふふっ、ぼくにも色々と事情があってね」
かつて魔王と呼ばれていた美少年は、深くを語ることなく、ポルックスが手に持つ"青い魔本"を指差した。
「ところでポルックス。きみがその手に持っているのは魔本【魔族召喚】だね?」
「はい、そうですが…?」
「だったらきみにお願いがある。その本をぼくに貰えないか?」
カノープス様の突然の申し出は、すぐに了解するには気がひける内容だった。
これだけは渡せない。
ポルックスは魔本をギュッと胸元に握りしめた。
「なんだよ、ぼくの申し入れを断るのかい?」
「……」
震えながらも首を横に振るポルックスを見て、カノープスはふっと苦笑いをした。
「まぁいいや。じゃあそのかわり、もうひとつだけ聞いてもいいかな?」
「…は、はい。なんでしょうか?」
「その本、誰に貰ったの?」
その質問にも、ポルックスは答えなかった。
彼にとっては『解放者』は恩人。その恩人を売るようなマネをできなかったのだ。
「なんだ、それも言えないのかい?」
「いや、それは…」
「じゃあもういいや。あんまり時間をかけると、下から上がって来ちゃうからね。…そろそろ消えな」
その瞬間、ポルックスは…カノープスの目に底知れぬものを見た。
もともと『魔王』は狂っているようなところがあった。
だが、今は違う。明らかに正気だ。正気なのに…自分を消そうとしている。
この瞬間、彼は確信した。
目の前の人物は…あのときの『魔王』ではないと。
「うわぁぁあぁぁぁあ!!」
このままでは殺される。
そう判断したポルックスは、慌てて周りにある罠を全部一気に発動した。
飛び出す毒の弓矢。
カストルの毒を詰め込んだ毒霧スプレー。
半径3メートル以内を殲滅する小型爆弾。
そのうちの一部は自分に害を与えるかもしれないと思ったものの、背に腹は変えられなかった。
「闇槍!」
同時にポルックスは全力で"闇魔法"を放った。
全部で4つの攻撃。絶対に避けられまい。
だが…
「『消滅空間』」
カノープスが右手に宿らせた"白いモヤ"のようなものを一閃させると、それらの攻撃のすべてが…一瞬で消滅した。
弓矢も、爆発も、闇魔法も、毒霧さえも。
ついでに…ポルックスの右腕までもがきれいに消滅していた。
「ぐわぁぁあ、ば、ばかなぁ!?」
「…さぁ、無駄な抵抗は止めて、素直にその本を渡してくれるかい?」
まるで子供のように無邪気にほほ笑みながら手を差し伸べるカノープス。
激痛に泣き叫びながら、ポルックスが手に持っていた"青い本"を渡すと、彼は満足そうな表情を浮かべて受け取った。
「ありがとう、それじゃあ"最期に"もう一回だけ聞くね?…この本をきみに渡したのは、誰だい?」
堕天使のような妖しい笑みを浮かべながら尋ねてくるカノープスが、ポルックスにはまるで天国からの使者のように見えた。
恐怖から完全におかしくなってしまったポルックスは、涙を垂らしながら微笑み返す。
このとき、彼の思考はもはや正常ではなかった。それさえ言えば命が助かると思いこんでいた。
「…『解放者』といゔ…女の悪魔でずぅ…」
「そっか、ありがとうポルックス。そして…サヨウナラ」
カノープスがサッと手を振る。
ぶぅん。
すると、ポルックスは…身体の一部分だけを残して"消滅"した。
ドサリッ。
青い本と、それを持った腕だけが、地面に落ちる。
カノープスは青い本だけを手に取ると、残った左腕を無造作に蹴っ飛ばした。
悪魔の腕は、くるくると回転しながら転がっていくと…やがて煙のように消えていった。
「ふんっ…やっぱりあのクソ女なんだ」
悪態をつきながら髪をかきあげるカノープス。
改めて手に持っている魔本に目を落とした。
「それにしても、これが【魔族召喚】ねぇ。…ただの本じゃん」
カノープスは面白おかしそうに魔本を手でもてあそんだ。
つまんでみたり、開いて読んでみたり。
一通り弄ったあと、いよいよ本の扱いを決めようと、両手に持ってみた。
「さて、こいつをどうしようかなぁ」
「ほぅ…そいつをどうするつもりなんだ?」
突然、カノープスの背後から聞こえてくる声。
全く想定していなかった事態に、カノープスは慌てふためく。
「誰だっ!?」
次の瞬間。
カノープスの後ろから、まるで嵐が発生したかのような猛烈な魔力の渦が押し寄せてきた。
それは…抗うことすらできないような、圧倒的なまでの魔力。
かつて『魔王』と呼ばれていたカノープスですら、その魔力の前では"大蛇に睨まれた蛙"のようであった。
ぶるぶる震える身体を抑えることができないまま、カノープスはゆっくりと振り返った。
彼の瞳が…部屋の扉に寄りかかる人物を捉える。
そこに居たのは、強大な"天使の翼"を背に具現化させた一人の男性。
あまりに放出される魔力量が多すぎて、男の全身を金色に輝かせている。
オールバックの髪に、口元を覆う無精ひげ。精悍な顔つき。
切れ長な鋭い瞳を携えたその男は、カノープスも良く知る人物だった。
この男の名は…七大守護天使の一人、『聖道』パラデイン。
「……パラデイン…ど、どうしてこんなところに…」
「どうした?俺がここにいると君は何か困るのかい?」
気軽な感じでそう問いかけるパラデインに、カノープスは冷や汗をダラダラと流した。
その様子は、さっきまで悪魔を見下していたときとはまるで別人のよう。
だがカノープスは、すぐに冷笑の仮面を付け直すと、改めてパラデインに向き直った。
「…あなたみたいな英雄が、こんなところに何の用なんだい?」
「なーに、こう見えて俺も人の親でな。自分の娘のことが心配でならんのだよ。それで思わず来ちまったんだ」
七大守護天使と呼ばれる伝説の男の口から出てくるのは、ほんの軽口。
しかし、カノープスは言葉通りには受け取らなかった。いや、受け取れなかった。
「ぼくがそんな軽口を信じるとでも思うかい?」
「ふっ、別にどうだっていいさ。それよりも…その本をこっちに渡してもらおうか。君には無用の長物だろう?」
微笑みながら手を差し出すパラデイン。
カノープスは一瞬だけ悔しそうな表情を浮かべたものの、すぐに和かな笑みを浮かべて魔本を手渡した。
そんな二人の様子は、側から見たらただの本の受け渡しにしか見えなかっただろう。
だが、見えない部分では…蒼暗い炎が渦巻いていた。
本を受け取ったパラデインは、魔本をポンポンと手で叩きながらカノープスに問いかけた。
「悪魔が…この街に居たことは偶然かい?」
「もちろんだよ!それにもう…ぼくは"狂って"ないんだから、アキや…あなたの娘を傷付けるつもりは毛頭ないさ」
少し拗ねたような言い方をするカノープスは、年相応の少年のように見えた。
対するパラデインの彼を見る目も、まるで彼の父親のよう。
「ふふっ、俺はもう別にきみのことは疑っていないよ。ただ…誤解を招くような行動は謹んでもらいたいものだな」
その口調は、まるで父親が聞き分けのない子供を叱るような口調で…言われたカノープスはほんの僅か、顔を顰めた。
ギリッ。悔しそうに歯をくいしばる。
その様子を、パラデインはあえて見て見ぬフリをした。
「ところでカノープス、君は…アキをどう見る?」
「…アキを?」
一瞬、カノープスは意表を突かれたような表情を見せた。
だが、少しだけ考え込んで…また元の無表情に戻る。
「どうって…なかなか興味深い子だと思うよ?ぼくは好きだけどね」
「もうアキには"記憶が残っている"ことを察知されたんだな?」
「…まぁ、もともと隠す気なんかなかったしね」
「…アキは、大丈夫だと思うか?」
ぴくっ。
カノープスの身体がわずかに揺れる。
それは…卓越したものでなければ気付かなかったかもしれない、微妙な動き。
だが、パラデインの目はその動きを確実に捉えていた。
しかし…それ以上追及することも無く、パラデインはカノープスに微笑みかける。
「いや、別に深い意味は無いんだがな」
「パラデイン、あなたが何を考えているのか知らないけど、アキは大丈夫だと思うよ?」
「そうか…カノープス、お前はアキのことを信じているのか?」
鋭い視線から放たれる、鋭い質問。
カノープスはパラデインの瞳をじっと見つめたあと…答えを口にした。
「…質問の意図はよく分からないけど、ぼくはアキのことを信じてるよ」
その答えに満足したのか。
パラデインがまるで威圧するかのように放出していた魔力を緩めた。
急にプレッシャーが無くなったからなのか、ふぅと大きく息を吐く。
「そうか、分かったよ。じゃあ…そろそろ下にでも行くかな」
「待てよっ!」
話はこれで終わったとばかりに切り上げようとするパラデインに、カノープスが激しい勢いで噛みついた。
その顔に浮かんでいるのは、怒りなのか…あるいは別の感情なのか。
「パラデイン。あんたは、アキのことを大丈夫だって信じれるのか?本当はアキのこと、ヤバい存在だと思ってるんだろう?だからこんなところまで偵察まがいのことまでして付いてきたんじゃないのか?」
カノープスが顔を歪めながら放つ言葉を受けて、パラデインはニヤリと笑った。
その笑顔は、裏表のない晴れやかなものだった。
「俺はアキのことを大丈夫だと思ってるよ」
「なんでだよ!アキは…『人喰いの怪物』だよ?それを…どうして信じられるんだい?そんな信頼関係がアキとあなたの間に存在しているとは思えない!」
不敵に笑うパラデイン。
彼は、カノープスの言葉を噛み締めた上で、あっさりと同意した。
「ふふっ、君の言う通りだ。俺は別にアキのことを信じているわけではないよ」
「じゃあ、なんで…」
「俺はな、アキのことを信じると言った…ゾルやフランシーヌやスターリィのことを信じてるんだよ。それに…お前のこともな、カノープス」
「なっ!?」
「おまえたちがアキのことを信じると言ったから…俺もアキのことを信じる」
カノープスは絶句した。
まるで信じられないものを見ているかのような表情でパラデインを凝視する。
「そ、そんなバカな理由なんて…もし裏切られたらどうするのさ!」
「そのときは…俺の道を、『聖道』を貫くだけだ」
パラデインがはっきりと口にした言葉に、カノープスは打ちのめされたようだった。
急に勢いが無くなり、弱々しげな表情を見せたあと…下を向いてしまう。
ガックリとうなだれてしまったカノープスに、パラデインが優しく声をかけた。
「さぁ、もう満足したか?そろそろいくぞ」
「…わ、分かったよ」
パラデインに再度促されて、カノープスは渋々といった様子でパラデインについて行くのだった。
階段を降りる途中、パラデインがふとカノープスに語りかけた。
「なぁ、カノープス」
「…なんだい?」
「…これからも、アキやスターリィのことをよろしく頼むな」
「……」
「あと、ボウイのこともな」
「……分かったよ。七大守護天使さまの頼みごとじゃあ、断れないしね」
そんなカノープスの切り返しに、パラデインはそっと首を横に振る。
「いやこれは…一人の女の子の父親としての頼みごとさ」
「へぇー、じゃあ断ってもいいの?」
「別にかまわないが…きみは地下での戦闘を放棄してこの場に居ることを、他のみんなにどう言い訳するつもりだい?」
「あっ、考えてなかった…」
「ふふっ、仕方ないな。じゃあ俺がきみのアリバイ作りに協力してやるか。そのかわり…」
「…あー、わかったよ。わかりましたよ。他のやつらのことはよろしく頼まれたから、それでいいんだろう?」
くくっ。
カノープスの言葉に、パラデインが思わず笑いをこぼす。
対するカノープスは、ばつの悪そうな表情。
そんな彼の肩に、パラデインがポンっと手を置いた。
こうして二人は…アキやスターリィたちが待っている地下室へと向かっていったのだった。
あとには…パラデインの天使の翼の残滓だけが舞い踊っていた。