26.悪の種
さて、風呂に入ってさっぱりした俺たち。
…一応誤解が無いように言っておくが、もちろん俺が風呂に入っている間は、部屋に鍵をかけてカノープスを追い出したよ?
この宿は残念ながら飯なしだったので、空腹を満たすために近所の食堂に向かうことにした。
向かったのは、少し離れた場所にある食堂『まんぷく亭ヘイロー』。
宿のおばさんの推薦なのだが、今の俺の心にヒットする、なかなかナイスなネーミングだ。
…それにしても、こんなにも空腹を感じたのはいつ以来だろうか。
「ああー、炭水化物ってこんなに美味かったんだなぁ」
「あははっ、アキは大げさだね」
久しぶりの米の飯を食べながら、思わずため息が漏れた。
出された食事は、涙が出るほど美味かった。
なんというか、生きている実感を感じられた。
少し前まで、食べては吐いていたのがウソみたいだった。
気がついたら、食べることへの罪悪感も薄らいでいたんだ。
「ねぇアキ、なんで泣いてるの?」
「…えっ?」
カノープスに言われて気付いた。
どうやら俺は無意識のうちに泣いていたらしい。
慌ててごしごしと服の袖で涙を拭うと、カノープスがそっとハンカチを渡してくれた。
…こういうときのこいつの態度って、ほんとイケメンだよな。
素直に受け取るのもイヤだったので、ひったくるように奪い取って、思いっきりチーンってしてやった。
「…ありがと、カノープス」
「どういたしまして」
そうスマートに切り返すカノープスは、やっぱりイケメンで少し腹が立った。
その日の深夜。
久しぶりのベッドに身を沈めて寝ていたところ、何かの気配を感じて、俺はハッと目を覚ました。
床で寝ているカノープスに視線を向けると、彼も目を覚ましているようだった。
「カノープス、感じた?」
「…うん、感じた。あれは…"悪意"を含んだ魔力だったね」
そう。俺が感じたのは、かつてのカノープスたちから感じていたのと似た種類の魔力だった。
…すなわち、『悪意の魔力』。
それは、この街に”悪魔”か、それに類するものが存在していることを意味していた。
「…悪魔って、そんなにホイホイ居るもんなのか?」
「この世界では悪魔は『見つけ次第、即退治』だからね。そんなに多いとは思えないんだけど…」
そういえば、宿のおばさんも言ってたな。『行方不明になる女の人が多い』って。
もしかして、関係あるのか?
「…少し調べてくる」
正直、なんでそんな気になったのかわからない。
仮に本当に悪魔がいたとしても、本来俺には関係のない話だ。
だけど、なぜか妙に気になった。なんとなく嫌な予感がしたんだ。
「…だったら、ぼくも行くよ」
どうせ制止したって無駄なのは分かっていたので、特にカノープスをとがめはしなかった。
俺たち二人は上着を羽織り、夜の街へと繰り出して行った。
「気配を感じたのは、こっちの方かな?」
「そうだね。たぶんそうだと思うよ」
先ほど感じた気配を追ってたどり着いたのは、街外れの人通りのほとんどない路地だった。
倉庫街、といった感じだろうか。隣接するのは色街だけど、こちら側は打って変わってシーンと静まりかえっている。
…正直ひとりだと歩きたくないくらい真っ暗で怖い。
本当にこんなところに『悪魔』が出現したのか?
ちょっと場所がずれてるんじゃないか?隣の色町のほうに出たんじゃないのか?
気になってカノープスのほうを見てみたら、「ぼくはそこまで正確に感知できないんだよねぇ」と微笑みを浮かべながら首を横にかしげやがった。
なんだこいつ、使えねぇな。しかもしぐさが気持ち悪いし。
あぁ、なんか無性にこいつのことを殴りたくなってきたぞ。
…そんな無益なことを考えていた、そのとき。
俺たちがいる場所のすぐ至近距離で、先ほどと同じ『邪悪な気配の魔力』が発動するのを感じた。
「出た!すぐ近くだ!」
カノープスにそう告げると、俺は全力で気配を感じた方向に走り出した。
カノープスが少し微妙な表情を浮かべていたのが気になったものの、構ってるひまはない。
急いで路地を曲がると、果たしてそこには…倒れこんだ女性と、その女性を担ぎ上げようとする一人の不審人物の姿があった。
倒れているのは、おそらく水商売の女性だろうか。肩が露出した上着にミニスカートを履いている。
対して不審人物のほうは、全身を黒一色に統一しており、いかにも怪しい。
体格的には少し小太りの…中年くらいの男性だった。
「おい!そこでなにをしてる!?」
俺が大きな声で警告すると、黒づくめの不審人物がブルンッと全身の肉を震わした。
…その反応、明らかに怪しい。こいつは間違いなく”本命”だ。
その証拠に、倒れている水商売風の女性のほうがピクリとも動かない。魔眼で見てみると、黒い魔力が覆っているのが分かる。
…なにか変な魔法でも掛けられたのか?
「その女性を離せ!さもないと…」
俺は腰に下げていた『退魔剣ゾルティアーク』を引き抜くと、不審人物に向かって突きつけた。
後ろをチラッと確認するが、まだカノープスは追いついていないようだ。
ったく。あいつ、こんな肝心なときになにしてるんだ?
俺がほんのわずか、相手から目を離したスキに、不審者が懐から何かを取り出した。
なんだアレは?…小さな壺か?
警戒感から素早く飛び退いて不審者から距離を置くのとほぼ同時に、相手が壺の蓋をゆっくりと開けた。
とたんにその壺の中から、何かがにじみ出るように噴き出してくる。
噴き出してきたものの正体は、黒い色をした霧だった。
ドロドロと壺から溢れ出ると、まるで生き物のように裏路地一帯に拡がっていく。
これは…煙幕か?
もしやあの野郎、逃げる気かよ!
くそっ、誰が逃がすかっ!
「待って!」
不審者を逃すまいと黒い霧の中に飛び込もうとする俺の腕を、突然現れたカノープスがぐいっと掴んだ。
…こいつ、遅れてきたくせに邪魔する気か?
「なにするんだ?離せよ、あいつを逃しちゃうだろ?」
「だめだ。この霧は猛毒だよ」
…えっ?毒だって?
その一言で、今にも黒い霧の中に飛び込んでいこうとしていた気持ちが一気に冷めていった。
冷静さを取り戻すために、ふぅと息を吐くとともに、全身の力をゆっくりと抜いていく。
…残念だが、今の俺には『毒』に対する対抗手段が無い。
横のカノープスを見ると、残念そうに首を横に振るだけだった。
ちっ、こいつにも打つ手なしかよ。
結局俺たち二人は、目の前に黒い霧が拡がっていくのを、なすすべもないまま見守ることしかできなかったんだ。
しばらく立ち尽くして状況を観察してると、黒い霧が少しずつ晴れていった。
やがて、真っ暗だった路地の状況が確認できるようになる。
すると、その場にはもう…女性の姿も不審者の姿も無かった。
…くそっ、やっぱり逃したか。
「無理に突っ込まなくて正解だよ。アキには解毒手段がないだろう?」
「まぁ…そうだけどさ。でもさっきの女の人が…」
「仕方ないさ。あいつは『毒使い』なんだ。得意なのは搦め手。戦闘能力にのみ特化しているアキとは、ちょっと相性が悪いよ」
…今のカノープスの言い方が気になった。
こいつ、もしかしてさっきの不審者のことを知ってるのか?
「あぁ、知ってるよ」
問い詰めるまでもなく、アッサリとゲロを吐いたカノープス。
おいおい、そりゃどういうことだ?
おまえは悪魔の知り合いがいるのかよ?改心したってのはウソなのか?
「そうじゃないよ。あいつは……かつてのぼくの部下だったやつだよ」
「…へ?」
「あいつの名前は『毒蛙』のカストル。ぼくが『魔王』を名乗っていたときの新七魔将軍のひとりさ。てっきりパラデインたちに駆逐されたと思ってたんだけど、まんまと逃げきってたんだね」
…おおぅ、なんてこったい。
まさかあの不審人物が、こいつが『魔王』だったときの部下だったとは。
ってことは、あの不審人物は…まさか魔族とかなのか?
「ううん、違うよ。あいつは人間さ。天使から堕落した存在…いわゆる『悪魔』ってやつだね。それにしてもあいつ、こんなところで女の人を攫って何をする気なんだろう」
「それはカノープスにも分からないの?」
「うん。さっぱり。そもそもぼくは、あいつがどんなやつかもよく知らなかったし」
「おいおい、”魔王様”がそれでいいのかよ?それじゃああいつのアジトとかも知らないのか?」
「んー。正直なところ、『魔王』時代のぼくはただの"お飾り"だったんだよね。祭り立てられて、強い奴を相手するときだけ出張る…とかそういう感じかな。だから『新七魔将軍』のメンバーがどこでなにをしてたとか、どこにアジトがあるのかとか、裏でなにを企んでたかとか、そういった裏側はよく知らないんだよ」
なんだよそれ?よくそんなメンバーで世界を破滅させようとか考えてたよな。
…あぁそうか、あの頃はこいつ”狂って”たから、そういうのも分かんなかったんだろうなぁ。
結局、跡形もなく消えてしまった女性。
おそらく『悪魔』に攫われてしまったのだろう。
--- まいったな。これじゃあ完全に打つ手なしだ。
--- うーん、このままだとさっきの女の人は見殺しになっちまうな。
--- くっそー、なんとかならないものかな…
俺がそんな感じで悩んでいると、カノープスが声をかけてきた。
「…もしかしてアキ、なんとかしたいと思ってる?」
「…まぁね」
「そっか。じゃあぼくも手伝おうか?」
カノープスからの意外な提案。
正直こいつは、俺以外の人間に興味とか無いと思ってた。
…どういう心境の変化だ?
あるいは、こいつなりに以前の部下に対して思うところがあったりするのかな?
「そんなのは別にないよ。ただまぁ…多少責任を感じないではないかな。いくらぼくが狂っていたからといっても、かつての部下だったわけだしね」
おいおい、なんだか軽いノリの薄っぺらい言い分だな。
…でもまぁいいか、カノープスでもいないよりはマシだしな。
いくら俺が大きな戦闘力を持ってるからといっても、やっぱひとりだと不安はあるからなぁ。
「よし。それじゃあ…なんとか悪魔のアジトを探し出して、さっきの女の人を助けるかね」
「あー。あのね、アキ。もう一つアキに言っておかなきゃいけないことがあるんだけど…」
ん?なんだ?
これ以上ほかに嫌な情報でもあるのか?
「あのね…『毒蛙』カストルはね、実は『双子』なんだ。あいつにはポルックスって名前の双子の弟が居るんだよ。だから…もう一人『悪魔』が居ると思ったほうがいい」
…マジかよ、悪魔2体が相手になるのか。
なんてこったい。
あのまま裏路地で話してても埒があかないので、俺たちは一旦宿に戻って今後の作戦を練ることにした。
部屋のベッドに腰掛けて、無い知恵を絞り出すことにする。
「アキ、今後の作戦だけど…まずどうやって相手の居場所を調べるかだね」
「うーん…」
正直、俺に良いアイディアは無い。
くしくもカノープスが言った通り、俺の能力は戦闘にのみ特化している。逆に言えば、直接的な戦闘以外ではほとんど役に立たない。
…そもそも俺は普通の魔法を使うことができないしな。
強いて言えば『魔眼』が使えるかもしれないけど、これだって魔力の動きを察知することができる程度だ。
「カノープスにはなにか手はないの?」
「魔族が使う魔法はね、この世界の魔法の摂理とはちょっと違ってるんだ。だから、ぼくもあんまり役に立たないかも」
ほう、それは初めて聞いた話だな。
カノープスの説明によると、魔族…というよりも魔界の住人が使う魔法は、こちらの世界の魔法とはそもそもの仕組みが違うのだそうだ。
だから、今のカノープスには固有能力である『消滅空間』くらいしかまともに使えないらしい。
…なんだよ、こいつも使い物になんないじゃないか。
「ひどいなぁ。でも魔力が無いわけじゃないから、たぶん魔界の魔法を使う方法はあるんだよ。そのうちコツを掴むかもしれないんだけど…今回はちょっと無理かな」
結局、現状の手駒は直接戦闘に特化したのが二人。
探索や調査にはまるで向いていない。
…うん、まったく使えねぇな。
そのあとも色々と相談してみたものの、結局良いアイディアが浮かぶわけでもなく…寝不足のまま朝を迎えてしまったんだ。
翌朝。
他にやることもなかったので、とりあえずヘイローの街をぷらぷらしてみることにした。
宿にじっとしてるよりも、少しでも情報が取れれば…そう思ったんだ。
俺たちが居るこの『街道の町ヘイロー』は、ノーザンダンス村に比べるとずいぶんと大きな町だ。
たぶん数千人は人口が居るんじゃないだろうか。
よく考えてみると、こんなに人が居るところに来るのは、この世界に来て初めてだ。
露店で商品を売る人たち。
おいしい匂いのする屋台。
服や小物を売っている店舗。
少しおしゃれな服を着た若者たち。
へぇー。
この世界のファッションは、中世よりも比較的"前の世界"のイメージに近いのかもな。
普通に可愛らしいワンピースを着たり、ジーンズなんかを履いてる人もいるし。
ゾルバルやフランシーヌの服装がシンプルなものが多かったから、てっきり今の自分が着ているような"無個性で質素な服"が標準的な服装だと思ってたよ。
だけど、どうやらそれは大きな間違いだったみたいだ。
むしろ俺のほうが異質だな。だって…何の模様もない無地のシャツとズボンに、借り物のパーカーだもんな。
そういった意味では、一緒に歩いているカノープスは妙に人目を引いていた。
今もすれ違った女性がカノープスの顔に見とれている。
まぁこいつ、黙ってれば美少年だもんなぁ。
いいよなぁー、イケメンは何を着ててもイケメンだ。
カノープスに見入っていた女性のうちの何人かは、ときおり横を歩いている俺に冷たい視線を投げかけてくる。
体の持ち主には申し訳ないけど、たぶん「なんでこんなちんちくりんが、この美少年の横を歩いてるんだ?」とか思ってるんだろうな。
悪かったですね、釣り合いの取れないのが横に居たりして。
この手の視線は、前の世界でもよく経験してた。
サトシといっしょにいるとき、クラスの女どもはいつもそんな視線で俺のことを見てたんだ。
--- そういやあいつもモテたもんなぁ。
--- まさか、異世界に来てまで似たような経験をすることになるとは思わなかったよ。
…そんなことを考えながら歩いていたせいだろうか。
その時の俺は、前方への注意がおろそかになってしまっていた。
カノープスの横を歩くのがウザくなってきたから、少し早足で撒こうと思っていたってのもある。
そのせいで、前方から走ってくる人物に気づかなかったんだ。
どしんっ。
気が付いたら、その人物とぶつかってしまっていた。
真正面から思いっきり激突したので、相手と一緒に尻もちをついてしまう。
「あいたた…」
「あぅ、ごめんなさい!あたし急いでまして…」
「ああ、すいません。こちらこそ前を見てなくて…」
と、地面に尻餅をついた状態のまま、お互いの顔を見合って頭を下げ…ようとして、二人とも固まってしまった。
おいおい、なんでこいつがここにいるんだよ?
バレないようにこっそり村を出てきたってのに…
行き先が分からないように、撒いてきたつもりだったのに…
どうしてスターリィが、俺の目の前に居るんだ?
「おーい、スターリィさまぁ!そんなに急がないでよー!」
尻餅をついた少女の顔に釘付けになっていると、これまた聞き覚えのある声が耳に飛び込んできた。
あぁ、この元気の塊みたいな声はボウイだな。
その間にも、立ち上がってお尻をパタパタとはたいた少女が、俺の目の前にぐいっと近寄ってきた。
栗色の髪をポニーテールにした、意志の強い眼差しを持った美少女。
「やっと見つけましたわ、アキ!」
「…見つかっちゃったね、スターリィ」
俺は、怒りの表情を浮かべて目の前に立っているスターリィに、ただ生返事をすることしかできなかったんだ。