3.いきなり大ピンチ
目の前の光景が信じられなかった。
とても現実のものとは思えなかった。
だって…”死体”だぜ?
平和な世界に生まれ育った者には、最も縁遠いもののひとつじゃないか。
そんな”もの”が…雨に濡れてその場に倒れていた。
正直怖い。
人間ってのはたぶん”死”に対して本能的な恐怖を持っていると思う。
ぶっちゃけこの目の前にある”死”がとてつもなく怖かった。
だが、その恐怖と向き合ってでも、こいつの”状態”をきちんと確認する必要があった。
その理由は…自分が今置かれている状況についてのヒントがあるかもしれないって思ったからだ。
情報は大事だ。情報を掴むことが、結果的に自分自身のためになる。
なぜなら…正しい判断をするためには、出来る限り多くの情報を集めることが必要だからだ。
情報の大事さ。そのことを、これまでの人生で嫌というほど学んできた。
魂に刻まれているといっても過言ではない。
『情報を制するものが、状況を制する』。
これが”座右の銘”になっているくらいだ。
だが、今は何の情報も無い。それでは正しい判断などできるわけがない。
だから、どんな些細なことでも情報が欲しかった。
一切の情報がない現状においては、あらゆるものが”貴重な情報源”となる。
たとえそれが…”かつて人間だったもの”から得られるものでであったとしても、だ。
だから、めちゃくちゃビビりながらも、覚悟を決めて近寄った。そいつの…”詳しい状況”を確認するために。
近寄るまでは、上半身がすべて無くなっているのだと思っていた。
だが、よく見ると違っていた。おおよそ胸から上の部分と、ついでに右腕が無くなっていやがったんだ。
切断面は、獣の牙の跡のようにギザギザになっていた。まるで…なにかに喰い取られたかのように。
ヤバイ。
こいつは、普通の死に方じゃない。
たぶんこれは、”何かに喰われた跡”だ。
こいつが意味することは一目瞭然だった。
この”人物”は…食い殺されたのだ。おそらくは…”人喰い”に。
近くに…人間を喰う獣が存在している。
そのことを雄弁に物語っていた。
ごくり…。
自分の唾を飲み込む音が、耳の奥で聞こえてくる。
この場所に長居するのはマズイ。
いつ”人喰い”に出くわすかわかったもんじゃない。
一刻も早く、この場から逃げ出さなけば。
さもなくば…こいつの二の舞だ。
…でもまだだ。
まだ足りない。もっと調べなければ。
きっとまだ、こいつから得られる情報は…ある。
気力を振り絞って、さらに一歩二歩と近づく。
すると、さらに細かい状況が判るようになってきた。
この体格…それに皮膚のしわ具合からみると、”彼”はおそらくは中年の男性だった。
おそらく、としか言いようがないのは、もちろん上半身のほとんどが無いからだ。
血は…不思議と流れていなかった。
薄暗いから見えないだけなのか。それとも雨によって流されてしまったからなのか。理由まではわからない。
ただ、その”彼”が…古いものではないことだけは、はっきりとわかった。
「おえぇっ」
最高に吐きたい気持ちを必死にこらえる。
これ以上は…精神面の限界だ。
残酷な傷口から視線をそらすと、今度はその人物の服装について観察する。
着ているのは、今の俺と同様の、無地のシンプルな布の服だった。
…正直、現代ではあまり考えられないようなシンプルな服装だ。
たったこれだけの情報でも、ひとつの確証を得ることができた。
それは…ここが『自分が生まれ育った”日本”とは異なる世界だ』ということ。
そう思った時、脳裏にひとつの可能性が浮かんだ。
サトシがパソコンに残していたメッセージ。
『異世界』。
ここは…もしかすると、本当に”異世界”なのか?
確かに、そうでなければ、この非現実的な状況を説明できない。
それにしても…異世界だって?
…現実的にそんな現象が起こるとは、とてもではないが思えない。だって…そんな簡単に一人の人間が異世界なんかに飛ぶと思えるか?それが可能だったら、今頃地球上は神隠しばっかりだ。
かといいつつ、これ以上判断する材料…すなわちここが地球上なのかどうか証明するものを、あいにく持ち合わせていなかった。
だけど…ここがまともな場所じゃないってことだけは、確信することができた。
ふと、視界の中に”彼”の側にある”袋状のもの”が目に入った。
それは…質素で薄汚れた、布でできたリュックのようなもの。
…この中に、なにか判断できる材料があるかもしれないな。
中身を確認しようと思って、手を伸ばして…そのまま止まってしまった。
だって、″死体″の側にある荷物だぜ?
ものすごく気がひける…というより、ぶっちゃけて言えば怖かった。
半歩踏み出しては、”彼”が目に入って…固まる。そんなことを何度か繰り返して…
このままじゃいかんと覚悟を決めて、やっとこさ一歩を踏み出した。
ピンと伸ばした手が、リュックに手が届こうとした…そのとき。
がさがさ。
がさがさ。
ふいに、木と木が擦れ合うような音が、木々の生い茂る場所から聞こえてきた。
雨の音とはまったくの異質な音…それは生物の気配だった。
びくっとして手を止めて、音がした場所の方に視線を向ける。
光も届かない木々の間の茂みの中。
そこに、音の正体が存在していた。
暗闇の中に光る、1つの光。
これに似たものを…以前見たことがある。
それは…夜の闇の中で光を反射する、”猫の目”。
確信する。
この光は…間違いなく、なにかの生物の『眼光』だ。
そう気づいた、次の瞬間。
隠れ潜んでいた生物が…茂みの中からゆっくりと姿を現した。
小さな枝をかき分けてまず姿を見せたのは、その大きな頭。
一見すると、それはトラ…いや、ライオンに似ているようだった。
鋭い牙を持ち、獲物を狩る肉食獣。
だが…俺が知るライオンと決定的に違うのは、額に一本のツノが生えていることだった。
そのツノは…まるで”森の王者”の”王冠”のよう。
そして、闇の中に輝いていた光がひとつだった理由もわかった。
この生物の片目…右目が潰れていたのだ。
だがそれが、この生物が弱いことを表しているとは、とても思えなかった。むしろ…歴戦の猛者であることを証明しているみたいだった。
最初に脳裏に浮かんだのは、”人喰い”という単語。
こいつが…目の前に斃れている哀れな犠牲者を喰った犯人じゃないのか。
もしそうだとしたら、たぶん…勝てない。
いや、勝ち負けの問題ではない。戦うどころか、逃げることさえできない。生き残れない。
…この生物は、次元の違う生き物だ。
その姿を見ただけで、瞬時にその事実を受け入れた。それくらい、圧倒的な存在だった。
頭部に続いて、巨体もゆっくりと姿を現していった。
その姿は…形容するのであれば、全長3メートルほどの巨大なライオン。白い体毛に、まるで黒い稲妻が走っているかのような模様がついていた。
右目と同様、右前足も存在していなかった。
だが、それでも…この生物とまともに渡り合えるとは思えなかった。
生物としての階級が違う。そう思えた。
全身の姿を見て、ようやく俺は…一つの事実を完全に認識した。
ツノの生えたライオンなんて生物、地球上には存在するわけがない。
つまり、ここは…地球上ではない。
確定だ。ここは…間違いなく”異世界”だ。
あぁ、サトシ。
お前のレポートは、本当のことだったんだな。
正直…異世界なんてまったく信じていなかったよ。
だけどお前は…それを信じて、”正解”にたどり着いたんだな。
お前は本当にすげぇやつだよ。
参ったな。
この勝負は…お前の勝ちだ。
ひどい状況であるにもかかわらず、場違いにもそんなことを思ってしまった。
脳裏に、サトシの自慢げな笑顔が蘇ってきた。
さて、そんな感傷に浸ったところで…目の前の問題は解決しないわけで。
絶体絶命の状況は何一つ変わってなかった。
ゆっくりと、こちらに歩み寄ってくる片目のライオンもどき。
その身体からは、うっすらとオーラのようなものまでにじみ出ていた。
…これは比喩ではない。なぜか本当に、オーラのようなものを自分の目で認識することができたんだ。
でも、そんなものが見えたところで、なんの解決策にもならなかった。
…絶体絶命の状況にあることに、変わりはなかったのだから。
むしろ、オーラのせいでよりいっそう敵う気がしなくなった。
相手は圧倒的な存在。
捕食者。
対する自分は…ただの人間。
それどころか、この身体は…か弱い”女の子”に変わり果ててしまっている。
正直、思ったように体が動かない。たぶん…今までの体との違いに、頭がついていかないのだ。
…いったいどうすりゃいいってんだよ。
ちらりと、すぐそばにある”彼”が視界に入る。
上半身をバックリと食われたような、”かつて人間だったもの”。
もしかするとこれは、少しだけ先の未来の…己の姿かもしれない。
…だいたいなんでこんなところに放り出されるような酷い状況なっちまったんだよ。
どうせ異世界に飛ばされるなら、もうちょっとマシな場所に飛ばしてくれりゃあ良いのに。
めいっぱい心の中で自分の置かれた状況に恨み言を呟いてみたものの、それで状況が変わるわけではなかった。
ぐるるる…
唸り声を上げながら、少しずつこちらに近づいてくる片目のライオンもどき。
あぁ。このままだと本当に、こいつに食い殺されてしまうな。
もし…1か月前に失踪したサトシにも、これと似たような状況にあっていたとしたら。
いきなり異世界に飛ばされて、意味もわからないまま速攻肉食獣に喰われてしまう。そしてそれが、失踪の結果だったとしたら…
だとしたら、なんてハードな状況なんだよ。
これが運命だって言うのか?
この世界に神がいるなら、なんて不条理な神なんだ。
くそったれめ!
何も知らない。何もわからない。
どうしてこの世界に来たのか。サトシがどうなってしまったのか。
何も知らないまま…何もわからないまま喰われて死ぬなんて、そんなのあんまりだ。
そう思うと、自分でも想像すらしなかった感情が浮かんできた。
絶望でも、諦めでも、悲しみでもない。
考えれば考えるほど、だんだんと怒りで心の奥底が煮えたぎってくる。
それは…”怒り”だった。
…ふざけるな!
そんなクソみたいな運命、到底受け入れられない。
ってか、受け入れてたまるか!
もし喰われるにしても…絶対にこのまま喰われねぇぞ!
とりあえず、握りこぶしを握った。
こんなものでどうにかなるとは思えない。
たとえこのライオンもどきを殴りつけたとしても、痛くもかゆくもないだろう。
だとしても…何もせずにただ食われるということだけは、許せなかった。
虚勢を張ったところで、状況が変化するわけではない。
そんなことはわかっている。
力が…
力があれば…
このライオンもどきを倒せるだけの力が…
「…かかってこいよ!俺を喰いたいんだろう?だがなぁ、ただ黙って喰われるかと思ったら大間違いだ!」
震える手で必死に握りこぶしを作りながら、せいいっぱいの虚勢でそう叫んだ。
…可愛らしい女の子の声なのがなんとも締まらない。
ライオンもどきは、少し驚いたようだった。
歩みを止めて、一つしか残っていない左目でじっと見つめてくる。
その目に…なんとなく、知性が宿っているような気がした。
ライオンもどきとの間に流れる、奇妙な空気。
睨み合って、動かない。
そんなこの場の空気を変えたのは、突如聞こえ出した”奇妙な音”だった。
きぃいいぃいぃいぃいん。
それは、とても鋭い音だった。
似た音と言えば、飛行機が発進するときのエンジン音に似ていた。
…なんでこんなところでこんな音が聞こえるんだ?
ライオンもどきとのこう着状況もあったので、視線をそらして音の発生源を確認する。
音源は、すぐに正体は判明した。
それは…自分の右腕だった。
右腕の手首のところから、まるでジェット噴射のように光るものが飛び出していたのだ。
それはまるで、小さな二つの翼が生えているかのようだった。
しゅいぃぃぃいん。
さらに音が変わった。まるで、高圧縮された空気が吹き出すかのような音。
あまりの異様な光景に、ライオンもどきも見入ってしまっている。
「…はぁ?」
なんなんだ。
これは…どういうことなんだ。
状況に、全くついていけていない。
そうこうしているうちに、全身から光が溢れ出して…そのまま右手に集中していくのがわかった。
それは…生理的に恐怖すら覚えるほど濃密な”なんらかの力”の集合体。
一言で表現するのであれば、”膨大なエネルギー”。
たぶん、この力が解き放たれたら…トンデモナイことになる。
そう確信できるだけのものだった。
こいつはキケンだ。
どうにかしなければ!
だが、ライオンもどきはすぐ近くにまで来ている。
制御もできていない。
…そこで、ふいに閃いた。
このエネルギーを、こいつにぶつけたらどうなるんだ?
…迷っている暇はなかった。
一か八かだ。
呆然とした感じで立ち尽くしているライオンもどきに、迷いなくスッと近づく。
「くそっ!どうにでもなれ!!」
その勢いのまま、いまにも暴走してしまいそうな”翼の生えた右手”を…思い切って突き出した。
結果は、劇的だった。
…自分の予想を、はるかに超えていた。
まず、右腕に…猛烈な勢いで光が収束していった。
なんだこれは?このエネルギーは…思っていた以上にやばい。直感的にそう感じる。
この力は…この辺一帯を簡単に、跡形もなく消し飛ばしてしまうような、そんなレベルだこれを解き放ったら、かなりマズイことになるんじゃないか?
そんな戸惑いの気持ちなんて御構い無しに、とてつもないエネルギーの塊は…そのまま制御不能になっていた。
「や、やばっ!?」
もう堪えられない。このままでは、暴発する!?
そう思った、次の瞬間。
エネルギーの塊は…一筋の光となった。
ぎゅいぃぃいいいいぃいぃいぃん!!
それは、まるで【レーザービーム】。
この辺一帯を吹き飛ばすレベルの膨大なエネルギーが、一筋の光となって右腕から飛び出していった。
それは、高密度な…正体不明のエネルギーの結晶。
こんなもの喰らったら、どんな生物でもイチコロだろう。
…それどころか、こっちまで被害が及ぶかもしれない。そう思えるほどのものだった。
だが、ライオンもどきは…空気を切り裂くような爆音を放ちながら自分に向かってくるその【レーザービーム】を、身じろぎもせずにジーっと見つめていた。
冷静に。
探るような目で。
そのまま、【レーザービーム】が直撃する寸前に、軽く首をひねった。
驚くべきことに、この生物は…たったそれだけの動きで、暴力的なまでのエネルギーを蓄えた【レーザービーム】を…見事にかわしたのだった。
ひょいっという感じで。
それはもう、拍子抜けするほどにあっさりと。
行き場を失った【レーザービーム】は、そのまま…薄暗い雨雲の中へと吸い込まれていった。
そして、何事もなかったかのように、この場に静寂が訪れた。
へっ?
かわされた…?
どうして右手に宿ったのか分からない。だけど必殺の威力を秘めたものであることだけは感じていた。
どんな生物でも消し去るのではないかと思えるほどの、膨大なエネルギーを持った【レーザービーム】。
だが、突如俺の右手に宿って、”起死回生の一撃”として放たれたこの技は…ライオンもどきにあっさりと、何事もなかったかのように躱されてしまったのだった。
「うそ…だろう」
奇跡のような技を放つことが出来たのに、躱された。
まるで、氷水をかぶったかのように…全身からサーッと一気に血の気が引いていく。
だが、すぐに冷静さを取り戻した。
いつ、どんなときでも…誰よりも早く冷静になれること。サトシにも羨ましがられた…数少ない長所の一つだ。
そう、ピンチが去ったわけではないのだ。むしろ…あの攻撃が避けられた今こそが、最大のピンチだと言える。
くそっ、本当にまずい。
なんとか、もう一度さっきの攻撃を出さなければ…
あの攻撃であれば、このライオンもどきは倒せる。だが、当てなければ意味がない。
今度こそ、確実に当てなければ!
さもないと…命は無い。
そう考えながらライオンもどきを睨みつけたとき…不意に自分の視界が下に落ちた。
「えっ?」
理由は単純明解だった。突然…自分の膝がガクンと落ちたのだ。
そのまま、まるで糸が切れた人形のように、その場にパタンと倒れてしまう。
しかも、自分の意志通りに体が動かない。
「…えっ?えっ?」
どんなに体を動かそうと思っても、ピクリとも動かなかった。
まるで…さっきの【レーザービーム】で身体中のすべての力を使い果たしてしまったかのように。
その様子をじーっと見ていたライオンもどきが、ゆっくりとこちらに歩み寄ってきた。
うそだろう?身体が…動かねぇぞ…
このままじゃ、喰われる…
動けっ!俺の身体、動けよっ!
意思とは裏腹に、全くいうことを聞かない身体。
もはや、指先すらほとんど動かない。
そうこうしているうちに、ライオンもどきがすぐ側に立ち、ゆっくりと顔を近づけてきた。
あぁ、これは詰んだな。
参ったな。こんな形で…死んじまうのかよ。
そんなことを最後に思いながら、俺の意識は…暗闇の中に落ちていった。