94.放浪者
俺たちの前にそびえ立つ巨大な黒き門…『冥界の門』。大きく開いた扉に映る景色は、緑生い茂る美しい草原だった。
その中心に立っていたのは、黄金色の髪を風に靡かせる、一人の美青年。
まるで絵画から飛び出してきたかの美貌は…ほんの僅か、ティーナに似ているような気がした。
「こいつが…アンクロフィクサ?」
そのとき、俺の横でハッと息を飲む気配がした。いつの間にか側までやってきていたカレンだった。
「…どうした?カレン」
「あの人はもしかして…放浪者」
「ん?放浪者?」
思わず鸚鵡返しで聞き直すと、カレンは難しい顔をしながら頷いた。
「カレンは、あいつを知ってるのか?」
「う、うん…。つい今しがたまで忘れてたんだけど、ぼくは…彼に会ったことがあるんだ」
「へ?どこで?」
「アキには話したよね?以前ぼくが死にかけたって。そのときだよ」
カレンが死にかけたとき?あー、たしかここ『グイン=バルバトスの魔迷宮』で魔力覚醒したときのことだったっけ。
俺が思い出している間にも、カレンは確認せずにはいられなくなったようで、思い切って黄金色の髪の美青年に声をかけていた。
「ねぇ!あなたは…あのときぼくを助けてくれた放浪者でしょう!?」
すると黄金色の髪の美青年は、見るものを魅了する笑顔をカレンへと向けた。
「…おやおや、きみはあのときの”銀髪の天使”じゃないか。こんなところで再開するとはね…元気そうでなによりだよ」
「あなたこそ…って、もうあなたは死んでるんだっけ。改めて、あのときは助けてくれてありがとう!」
「ははっ。あのときも言った通り私は何もしてないよ。気にする必要なんてないさ」
黄金色の髪の美青年は片目を瞑ってカレンにウインクを返すと、すぐにミクローシアに向き合った。
…どうやら人違いでなく、カレンが臨死体験をしたときに会った”放浪者”という人物で間違いないみたいだ。ってことは、あの美青年はもしかして別人…アンクロフィクサではないのか?
だけどミクローシアの反応は、とても別人に対するものには見えなかった。目の前に出現した黄金色の髪の美青年に熱い眼差しを贈る姿は、相手がアンクロフィクサで間違いないことを示していた。
彼女は、血に塗れた震える手を…アンクロフィクサに向かって伸ばした。
「あぁ、アンクロフィクサ。私を…迎えに来てくれたのね」
…やはり放浪者はアンクロフィクサだった。ミクローシアの悲願は、今際の際でついに実現してしまったのだった。
「…やるか?」
それまで様子を見ながら戦闘モードに入っていたガウェインさんが、同じく剣を抜いて構えていたレイダーさんに同意を取った。二人は頷きあい、『冥界の門』の内側に立つアンクロフィクサと思しき人物へと今にも飛びかからんと身構える。
だけど、レイダーさんとガウェインさんが、黄金色の髪の美青年に今にも飛びかかろうとした…そのとき。
「待って!!」
レイダーさんたちの前に飛び出して、二人を止めた人物がいた。それは、白銀色の髪を踊らせる…美少女から一皮向けて美少年となったカレンだった。
「…カレン王子、なぜ止めるんだ?」
鋭い目のレイダーさんの問いつめられたカレンは、臆すことなく、でも言葉を選ぶようにして…制止した理由を話し始めた。
「たぶん…彼は敵じゃないんだ」
「…なんだって?」
「彼は…放浪者は、ぼくが死にかけたときに”あの世”で助けてくれたんだ。だから…彼は敵じゃないと思う」
アンクロフィクサが、カレンを…助けてくれた?思いがけない言葉に、俺だけでなくレイダーさんたちも戸惑いの表情を浮かべて動きを止めた。
「ぼくはなぜか死にかけたときの記憶をずっと失ってた。だけど、今このときになって臨死状態の記憶を取り戻したんだよ。
彼…放浪者は、あの世で彷徨ってたぼくをこの世に戻してくれようとしたんだ。そのとき彼はぼくにこう言っていた。『私は、ある人をここで待ってる』ってね。
もしかしてそれは…」
カレンの寂しそうな瞳は、血を吐きもがき苦しみながらも…放浪者に向かって手を伸ばすミクローシアに向けられていた。
「アンクロ…フィクサ。私は…あなたに…もう一度…会いたかった」
「…私もだよ、ミクローシア」
今にも絶えてしまいそうな…命の最後の欠片を燃やしつくすかのように、力を振り絞って両腕を広げているミクローシア。
そんな彼女に対して、アンクロフィクサはとても穏やかな口調で語りかけていた。そこには、かつて世界を滅ぼしかけた人物の面影など欠片もない。
「私も、きみともう一度会える日をずっと待っていた。そのために…あの世でずっと君のことを待ってたんだ。もっとも、こんな形で再開するとは思ってなかったけどね」
「あぁ…アンクロフィクサ…会えて嬉しいわ。私はあなたに再び会うために…ただそれだけのために、これまで…ゲホッ」
感極まったミクローシアだったが、確実に…彼女は片足を死の淵に突っ込んでいた。吐き出す血の量は、すでに致死量を超えているように見える。
彼女を生に踏み留まらせているのは、ただの執念。
すでに死んだ人物と、これから死にゆくものの邂逅。
…だが、そんな光景の中でも奇妙だったのは、アンクロフィクサが『冥界の門』から一歩も外に出ようとしていないことだった。
もう一歩踏み出せば、もしかしたら蘇るかもしれない。そのことを知りながら、アンクロフィクサはあえてそれを拒んでいるかのように見えた。
俺と同様の思いを、どうやらミクローシアも抱いたようだ。不思議そうにアンクロフィクサに問いかける。
「…どうしたの?なぜ…あと一歩を踏み出さないの?そうすればあなたは…この世に…ゲホゴホッ」
だけどアンクロフィクサは、少し困ったような表情を浮かべて首を横に振るだけだった。
その態度を見て…俺はひとつの事実を理解した。
あぁ、アンクロフィクサは…もはや生き返る気なんて無いんだなってことを。
「ミクローシア、私は…大きな罪を犯して死んだ。その罪は決して許されるものでは無いし、私自身どんな罰でも受け入れるつもりだった」
「…アンクロフィクサ?」
「だけどね。私にはひとつ心残りがあった。それは…きみだ、ミクローシア」
「っ!」
アンクロフィクサの言葉に、ミクローシアの顔に歓喜が満ち溢れる。血に染まる壮絶な笑顔は…なぜか俺にはとても美しく見えた。
「私は、どうしてもきみのことが気掛かりだった。私みたいな愚かな人間を好きでいてくれたせいで、きみは…道を踏み外してしまった。それだけではない、きみはぼくを蘇らせようとして、さらに多くの罪を重ねてしまった」
「…いいえ、アンクロフィクサ。あなたのためなら…私はなにひとつ後悔してないわ」
ミクローシアの言葉に、アンクロフィクサは一瞬とても悲しそうな表情を浮かべると、そのまま俯いた。
「…そう。私がきみをそうしてしまった。純粋で無垢で無邪気だったきみを…闇の世界に堕としてしまったのは、この私だったんだ」
キラリ、アンクロフィクサの頬を光るものが流れ落ちていった。彼の頬を伝うのは…涙?
「私は…もっとはやくたくさんのことに気付くべきだった。失恋して世界に失望して…完全に自分を見失っていたんだ。
その結果、あまりにも多くの人たちを巻き込んでしまった。
取り返しの付かなくなるまえに…私は気持ちを切り替えるべきだった。いやそれ以前に…ミクローシア、きみの想いに応えるべきだったんだ」
「あぁ、アンクロフィクサ…私は…」
感極まるミクローシアの言葉を遮るように手を挙げると、アンクロフィクサは自身の涙を拭いがら彼女に向かって優しく両手を広げた。
「ミクローシア、きみはいつでも私のことを一番に考えてくれた。なによりも一番に想ってくれた。
なのにあの頃の私は…とてもおかしかった。一言で言うと…狂っていた。周りのことがなにも見えなくなっていたんだ。こんなにもすぐそばに、きみはいてくれたというのに…な。
本当に…すまなかった」
「いいの…よ。アンクロフィクサ。あなたに…そう言ってもらえるだけで、私は…ゴホッ、ゴホッ」
「…遅くなってすまなかったけど、きみのことを迎えに来たよ。ミクローシア…私と一緒に…逝こう」
真摯な眼差しで語りかけるアンクロフィクサ。
そんな彼の言葉に応えるかのように、ボロボロだったミクローシアの身体がゆらりと揺れ、胸元から…光輝く何かが分離した。
それは…少女と姿形をした、光り輝く透き通った存在だった。その少女の姿に俺は見覚えがあった。…ゲミンガの過去視で見た、昔のミクローシアの姿だ。
おそらくあれは…ミクローシアの魂なのだろう。現に、光の球を分離したあとのミクローシアの身体は、力無くその場に崩れ落ちていた。
一方、アンクロフィクサの誘いに応じて肉体から分離したミクローシアの魂は、若い頃の姿を保ったまま…アンクロフィクサの待つ扉の向こう、すなわち”あの世”へと向かっていった。
俺の目の前で繰り広げられる、幻想的な光景。そのときになってようやく俺は、カレンの言っていた言葉の意味を理解した。
アンクロフィクサの待ち人は、ミクローシアだった。彼は、ミクローシアともう一度会うためにずっとあの世で待っていたのだ。
そして今回、戦いに敗れた彼女をわざわざ迎えに来た。現世では実現しなかった彼女の夢を実現するために。…共にあの世へ旅立つために。
アンクロフィクサとミクローシア、2人の魂が…『冥界の門』の中で重なり合った。少女の姿をしたミクローシアを、力強く抱きしめるアンクロフィクサ。
「あぁ、アンクロフィクサ。私はこのために…この瞬間のために生きてきたんだわ…」
「随分と待たせてすまなかった、ミクローシア。さぁ…一緒にあの世へ行こうか」
アンクロフィクサの声に合わせて、二人の体が眩く輝き出す。同時に、ゆっくりとではあるが…『冥界の門』も閉じ始めた。
…俺たちはその光景を、まるで観劇の観衆のように眺めていた。いくら宿敵のこととはいえ、さすがにこれを邪魔するのは野暮だ。ただ黙って二人の行く末を見守っていた。
気がついたら俺は…これまでさんざん苦しめられてきたにも関わらず、涙を流していた。どうしてだろう…憎くて仕方がない相手だったというのに。
周りを見ると、女性陣は軒並み涙を流していた。意識を取り戻したスターリィや、操られていたヴァーミリアン公妃でさえも…。
たぶん彼女たちにもミクローシアに対して思うところはたくさんあったはずだ。でも、それすら乗り越えて…今は想いを等しくしていた。
どれくらい二人は抱きしめあっていただろうか。しばらくしてアンクロフィクサは顔を上げると、俺たちに語りかけてきた。
「…みなさん、本当にいろいろとご迷惑をおかけしたね。私たちはこれから…ちゃんとあの世に行くよ。どのような裁きも受け入れるつもりだ」
胸で泣きわめくミクローシアの頭を撫でながら、アンクロフィクサは俺たちにゆっくりと頭を下げた。
「待って!放浪者、いやアンクロフィクサさん!あなたは…このままあの世に旅立つつもりなの?」
「あぁそうさ、銀髪の天使。私の待ち人はこうして現れたわけだからね。
…正直何故私は自分があんなにも狂ってしまったのかよく判っていない。それでも、私がやってしまったことに変わりはないんだ。だから、きっちりと…罰は受けるつもりさ。たとえそれが”存在の消滅”だったとしてもね。
…なぁそこの君。君はパラデインとクリステラの息子だろう?たしかレイダーだったか…」
アンクロフィクサに問いかけられ、頷くレイダーさん。
「…いい目をしてるね。さすがは私の親友…あの二人の息子だよ。
…もはや許してはもらえないかもしれないけど、二人に伝えてもらえないかな。今でも私は君たちのことを親友だと思ってる、あのとき私を止めてくれてありがとう、ってね」
アンクロフィクサのお願いに、レイダーさんは無言で頷いた。
「あと…ティーナ?」
「…なんだい?」
エリスに抱き抱えられたままのティーナが、アンクロフィクサの問いかけにぶっきらぼうに返事を返す。
「きみはぼくの遺伝子を継いでいるんだね。そのことはきみにとって酷く不本意かもしれないけど…私はきみがこの世界に存在していることを、とても嬉しく思っている」
「……」
「なによりきみは、友人に恵まれてるみたいだね。友人は本当に素敵だ。大事にするんだよ」
「…そんなことわかってるよ」
「友人の方々、ティーナを…娘のことをよろしく頼むね」
アンクロフィクサの依頼に、エリスやカレン、ミアが力強く頷いた。もちろん俺やレイダーさんたちも。
その様子を満足そうに眺めたあと、アンクロフィクサは俺の方に視線を向けてきた。
「そして…そこにいる君。小さな体に龍の力を宿した少女」
え?俺?
俺は不意にアンクロフィクサに指名されて慌てふためいてしまう。
「君からはなんとなくフランシーヌの気配を感じるね。もし君がフランの知り合いなのであれば、彼女に会えたら…伝えてもらえないかな?『ぼくを育ててくれてありがとう、フラン母さん』ってね」
…この一言で、フランシーヌが救われるのかどうかは判らない。だけど俺は、黙って頷いたんだ。
「あぁ、絶対に伝えるよ。フランシーヌに…必ず」
「ありがとう、龍の少女」
言い終えると、二人の体がさらに強く輝きを放ちはじめた。いよいよ…別れの時が近づいてきたのだ。
「あ…待って…」
最後になって、アンクロフィクサの胸に顔を埋めていたミクローシアがそう声を上げると顔を上げた。既に彼女は…大人の身体と顔に戻っていた。
「…こんなにもたくさんの不幸をばら撒いた私が言うのもなんだけど、私は…どうかしていたわ。本当にごめんなさい」
まるで憑き物が落ちたかのように穏やかな…恐らくはミクローシア本来の表情で、彼女は詫びの言葉を口にした。
「どんなにお詫びしても足りないでしょうし、私の罪が許されることは決してないでしょう。それでも…心の底からお詫びするわ」
ミクローシアの言う通り、彼女が謝ったところで死んだ人たちは蘇らないし、不幸になった人たちの時が戻る訳ではない。
でも…なんだろう。彼女が心の底から謝罪したことは、とても大きなことな気がしたんだ。
最後にミクローシアは、俺の方を見ながら語りかけてきた。
「アキ、私はあなたに本当は伝えなければならないことがあるの。アンクロフィクサとあの世に旅立つ前に…それだけは言っておくわ」
俺に伝えたいこと?
なんだろう…もしかしてサトシのことだろうか。
「私が恐れていたもの。それはね…あなたたちでも、父さんを筆頭とする”七大守護天使”でも、レイダーたちでもない。…私がもっとも恐れていたのは……」
「…くくくっ…」
そのとき。
グイン=バルバトスの魔迷宮の最下層であるこの大聖堂に、場違いな女性の笑い声が響き渡った。
誰だ?こんな場面で笑うやつは。
しかも、妙に近くから聞こえる。
…いや、違う。この声は…俺が日々聞き慣れ親しんだ声。
すなわち…俺自身の笑い声だった。
は?どういう意味だ?
なんで俺は笑っている?
カラン…
立て続けに、なにか金属製のものが床に落ちる音がした。
確認するために床に視線を向けようとするも、なぜかうまく見ることが出来ない。
辛うじて視線の端に捉えられたのは…赤い宝石が鈍く輝く額飾りだった。
それは…俺の額から外れ落ちた《覇王の器》…『グィネヴィアの額飾り』だった。




