第79話:変容の波紋と、変わらない歩幅
真新しいバックパックのナイロン生地は少し硬かった。
探索者協会の準備広場で、私はいつものベンチに腰を下ろし、一新した装備を一つずつ確認していく。
数日前、『霧骨の沼地』で変容個体に遭遇し、前の装備を失ってしまったからだ。
痛い出費だ。
だが、そのおかげで、私は、今、こうしていられるのだ。
顔を上げ、広場を見れば、探索者数の減少が目についた。
未帰還者が増えたわけではない。
ダンジョンの変容が原因だ。
これまでのデータ、やり方が通じず、死が今まで以上に近くなってしまった。
彼らは英雄に憧れていた。
魔剣さえあれば、なれると思っていた。
確かに、これまでのダンジョンであったなら、それは決して夢物語ではなかったのかもしれない。
だが、変容が発生してしまった。
彼らは英雄を夢見ることを諦め、現実に戻っていった。
『赤き戦斧』の青年のように——。
私は息を吐き出した。
意識を切り替えた。
……すべて、問題ない。
立ち上がって、ダンジョンを見据える。
今もなお、変わり続ける暗がりへと、足を踏み出す。
本日の目的地は中層第6区画、『淀みの窪地』だった。
すり鉢状の地形の底に、重い湿気が滞留しているエリアである。
防毒マスクを装着して気密を確かめてから、足音を殺して岩壁に沿って進んでいく。
局所的な酸欠ポケットもなければ、規格外の変異種も現れない。
事前のデータ通りのモンスターがいて、これまで構築してきた手順通りに処理し、魔石を回収していく。
変容の兆しは一切なく、驚くほどこれまでどおりの光景だった。
私は安全を確認した後、手帳を取り出し、本日の収穫ペースを書き留めた。
ペンを走らせながら、誰かの話し声が聞こえた気がして視線を上げた。
だが、誰もいない。
しかし、少し開けた岩陰が目についた。
以前、複数のパーティーが休憩場所として使っていた窪地だ。
そこには、蛍光チョークで記された古いマーカーの跡が、岩肌に薄く残っていた。
かつては誰かが腰を下ろし、装備の擦れる音や、低い話し声が絶えず響いていた場所である。
そこにあったはずの体温も、足音も、今はない。
私は手帳を閉じ、バックパックにしまった。
ノルマは達成した。
これ以上の滞在は無用だ。
私は来た道を引き返し、地上への帰路についた。
夕刻の探索者協会ロビーに入った私の視界に真っ先に飛び込んできたのは、壁面の掲示板だった。
そこには、立ち入り禁止エリアの拡大や安全基準の緊急改定を示す、赤い印字の真新しい張り紙が、所狭しと貼り付けられていた。
視線を外し、換金カウンターへ向かえば、普段ならできている長い列が今日はまばらだった。
私の前で魔石を差し出している数少ない探索者の背中は、どこか疲れ切っているように見えた。
探索を終えた後なので、疲れているのは当然なのだが、それだけではない雰囲気を漂わせていた。
順番が来て、私はハードケースをカウンターに置いた。
対応してくれたのは、井葉さんだった。
彼女は慣れた手つきで魔石をテスターにかけ、明細を差し出してくる。
「お疲れ様です、静河さん。今日も綺麗な魔石ですね」
「……ありがとうございます」
明細を受け取りながら、私はカウンターの奥へと視線を向けた。
そこにあるべきはずの、書類と睨み合っている厳しい顔がない。
「……最近、権藤さんをお見かけしませんね」
私が尋ねると、井葉さんは少しだけ困ったように、そして疲れたように笑った。
「はい。ダンジョンの変容への対応で、上の会議に出ずっぱりなんです。現場のルールを見直すとか、安全基準の再設定だとかで、もうずっとカウンターには立てていなくて」
「そうですか」
「……頑張っています、みんな」
「……はい」
私は彼女に一礼してカウンターを離れた。
協会を出る前に、一度だけ振り返った。
閑散としたロビーが見えただけだった。
外に出れば、雨が振り始めていた。
探索者たちが引退し。
警告の張り紙が次々と張り出され。
権藤さんは現場から離れざるを得ず。
協会ですら、対応に追われている。
当たり前だったものが、当たり前ではなくなってしまった。
すべて、ダンジョンの変容によって。
取り巻く環境、人、組織という巨大なシステム、すべてが形を変えていく。
では、自分は?
スーパーに立ち寄ってから、宿舎に戻ってくる。
鯖の味噌煮を今日は作る。
鍋に水と酒、生姜の薄切りを入れて火にかける。
沸き立ったところに包丁で切れ込みをつけた鯖の切り身を入れ、味噌と砂糖、醤油を溶かし入れた。
落とし蓋をして、煮汁がとろりとするまでじっくりと煮詰めていく。
味噌の甘く香ばしい匂いが、狭い部屋に満ちていく。
器に盛り付け、炊きたての白米と一緒にテーブルへ運んだ。
箸で鯖の身をほぐしてご飯に乗せると、一緒に頬張る。
青魚の強い旨味、生姜の風味、味噌のコク。
「……美味い」
ダンジョンがどう変わろうと、システムがどう動こうと、私がやるべきことは何も変わらない。
雨の音が静かに響く中、私は鯖の味噌煮を、ただ味わった。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
もし、少しでも『面白い』『続きが気になる』と思っていただけましたら、
ブックマークと、下の【☆☆☆☆☆】で評価して応援いただけると執筆の励みになります。




