第71話:深層は、別世界ではなくなった
『深層には、何があるのか』
手帳の余白に書き残した問いが、今も頭の片隅から離れない。
私は準備広場のいつものベンチから立ち上がった。
「全条件、規定値内」
肺の奥底に溜まっていた空気を、細く、長く吐き出す。
ダンジョンの変容に対し、不安がないと言えば嘘になる。
未知の脅威が足元から這い上がってくるかもしれないという事実は、私の神経を静かに、だが確実に削り取っていた。
それでも、私はスロープを下り、ダンジョンへと足を踏み入れる。
私が私として、今日の生活を維持するために。
「業務を開始する」
向かったのは中層の岩場区画だった。
石英と花崗岩が入り混じる乾燥した通路を、五感を限界まで広げながら慎重に進んでいく。
安全靴の底から伝わる岩盤の硬さ。
頬を撫でる、独特の空気。
それらが私の身体に触れるたび、ここは決して安全なオフィスなどではないのだと、死が隣り合わせの現場なのだという事実を突きつけてくる。
不快だ。
だが、その不快感こそが、私をこの不条理な空間に繋ぎ止め、警告を発してくれる命綱でもあるのだ。
ここまでは何の問題もなく、いつもと変わらない、予定通りの業務になると考えていた。
その時までは。
通路の奥、入り組んだ岩の窪みへ差し掛かったところで、私の足は止まった。
「……湿気が強い」
ここは乾燥した岩場のはずだ。
水脈の露出もないこの場所で、これほど重い湿気を帯びた空気を感じるのはおかしい。
肌の表面に、粟立つような微かな悪寒が走る。
私はライトの光軸を絞り、前方の通路へ向けた。
岩盤の表面が不自然に濡れ、鈍く光を反射している。
周囲の壁面を観察する。
普段であればこのエリアに存在しないはずの、暗緑色の水苔が岩の隙間に僅かに付着していた。
「……ダンジョンの変容」
その事実を前に、私はバックパックから手帳を取り出そうとしたが、結局、そうしなかった。
今は記録よりも、目の前の状況に対応することが優先だ。
岩壁に沿って進む。
前方の開けた空間で、微かな揺らぎがあった。
……何かがいる。
私は岩の窪みに身を潜め、呼吸を浅くして様子を窺った。
しばらくして、視界の先で、半透明の粘性体が動いた。
酸性粘体だ。
通常、湿潤エリアの窪地に滞留するこのモンスターが、なぜ乾燥した岩場区画にいるのか。
本来の生息域から追い出されたのか。
あるいはダンジョンの構造的な変化によって環境が繋がり、迷い込んできたのか。
……いや、これもまた、ダンジョンの変容と考えた方が自然なのではないか。
答えは出ない。
今、わかっていることは、本来の生息域ではないエリアに酸性粘体がいることと、対象の動きが本来の生息域にいる時よりも明らかに鈍いということだった。
乾燥した岩肌が、粘性体の体組織から水分を奪い、その活動を著しく制限しているのだろう。
……これなら、いける。
私は腰のポーチから化学凝固剤のボトルを引き抜いた。
プラスチックの硬い感触を掌に握り込み、足音を殺して対象の背後へ回り込む。
ノズルを向け、トリガーを引く。
霧状の溶剤が粘性体の表面を覆うと、対象は抗う間もなく石膏のように硬化し、動きを完全に止めた。
サバイバルナイフを抜き放ち、硬化した組織の奥にある核へ切っ先を押し込む。
柄を握る手に、硬いものを砕く微かな抵抗と、確かな手応えが伝わってきた。
光の粒となって対象が霧散し、岩盤の上に魔石が落ちる。
本来、あり得ないエリアで、あり得ない魔石を回収する。
その事実を記憶しながら、私は拾い上げたそれをケースに納めた。
ナイフを鞘に戻し、私は息を吐き出した。
緊張で強張っていた肩の筋肉が、わずかに弛緩する。
モンスターは同じ。
だが、場所が違う。
いつもと違う。
それでも、対処はできた。
「……問題はなかった」
意識を切り替える。
ダンジョンに変容が起こっている、その事実を殊更強く実感しながら、周囲の気流と匂いに常に意識を向けながら、私は予定していたノルマを達成するまで業務を続けた。
定時を少し回った頃、私は地上への帰路についた。
探索者協会のロビーは、朝とはまた別の喧騒に包まれていた。
換金カウンターへ向かう。
今日の担当は井葉さんだった。
私がハードケースを開いてトレイに魔石を置くと、彼女は手際よく魔石をテスターにかけていく。
「お疲れ様です、静河さん」
「……ええ、お疲れ様です」
「今日は岩場と、湿潤エリアの両方に行かれたんですか?」
彼女の視線が、土属性と水属性の魔石が混ざっていることに向けられている。
「いえ、岩場区画のみです」
井葉さんの手が微かに止まり、目を丸くした。
「……そうでしたか」
彼女は査定を終え、明細を私に差し出した。
「気をつけてくださいね。……静河さん相手に何言ってるんだって思われるかもしれませんが、それでも」
という言葉とともに。
「……ありがとうございます」
彼女の真剣な眼差しに、私も同じ温度の眼差しを返して、明細を受け取り、カウンターを離れた。
ロビーの壁面に設置された掲示板の前に、人だかりができていた。
私はその端に立ち、人々の肩越しに張り紙を見た。
深層の第12層より先の区画において、未知の連絡路が新たに出現したという、随分前から掲示されている報告だ。
これまでの私にとって、深層は立ち入り禁止区域であり、そこに何が書かれていようと自分には関係のない話だと割り切っていた。
だが、あの亀裂と、這い上がろうとしていた黒い腕を目撃して以来、認識は変わった。
深層はもはや別世界ではない。
私の平穏な生活圏を足元から脅かす、変容の震源地かもしれないのだ。
周囲の探索者たちが口々に噂をしている。
「ついに新しいルートが開拓されたんだな」
「深層のさらに奥だろ? まだ誰も手をつけてない宝の山があるかもしれないぜ」
「誰かもう入ったやつはいるのか?」
「いや、まだ詳しいことはわかってないらしい」
私は張り紙の文面を視線でなぞる。
発生した日時、具体的な座標、その先の環境データ。
そういった、現場で生き残るために必要な情報は、何一つ記載されていない。
ただ『出現した』という事実だけが、漠然とそこにあるだけだ。
使い物になる一次データは何一つない。
私は掲示板から視線を外した。
得体の知れない黒い影が、私の足元まで忍び寄ってきているような、そんな錯覚を覚える。
ダンジョンは変容している。
中層の環境が交じり合い、深層では未知の領域が口を開けている。
これからも、この不規則な変容は続いていくだろう。
その事実は、おそらく変わらない。
私は掲示板の前で噂し続ける探索者たちに背を向け、協会を後にした。
スーパーマーケットに寄って、宿舎に戻ってきた。
まず、装備の清掃と点検を済ませた。
そして、キッチンに立って、夕食を用意する。
今日は、少し手間をかけるつもりだった。
購入した牛蒡の泥を洗い流し、包丁でささがきにしていく。
鶏肉は一口大に切り、フライパンに油を引いて炒める。
表面に焼き色がついたところで、牛蒡を加えた。
醤油、酒、みりん。
じっくりと汁気がなくなるまで炒め煮にして、完成だ。
テーブルに白米とともに並べ、牛蒡から頬張った。
土の香り、それに鶏肉の脂の旨味。
咀嚼するたび、温もりを持った味が身体の隅々へ行き渡る。
「美味い」
食後、私はお茶を飲みながら考えていた。
探索者協会の掲示板に張り出されていた深層に関する報告には、現場で生き残るために必要な一次データは何一つ記載されていなかった。
やはり、深層に向かうしかない。
すべての原因を探り、この平穏な日常を維持し続けるために。
だが、使える一次データがない未知の領域へ、無策で踏み込むような無謀な真似はしない。
ならば、どうする。
決まっている。
自分でデータを集め、確実に踏破するための準備を整えるのだ。
私は湯呑みを脇にどかし、バックパックから取り出した手帳を置いた。
今日の現場での事実を書き留め、次に真新しいページを開く。
深層へ至るための、途方もない段取りの第一歩として。
私はペンを握り、一行ずつ、書き連ねていった。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
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