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元社畜は慎重さと準備を武器に、搾取する幼馴染や家族を切り捨て、ダンジョンで自立した平穏を勝ち取る  作者: 日富美信吾


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第56話:不法投棄と即席の踏破装備

 探索者協会のロビーに足を踏み入れると、朝の喧騒の中に、苛立ちの声が混じっていることに気がついた。


 いつもの朝であれば、探索者たちの会話は今日の獲物の話か、装備の話か、あるいは昨夜の食事の話だ。


 しかし今朝は、怒気を含んだ声がロビーの隅から届いてくる。


「——またかよ。今度は中層の主要通路だ」


「マジか。あそこは俺も通るルートだぞ」


「使えなくなった魔石バッテリーの残骸だってさ。でけえのが丸ごと岩のくぼみに突っ込んであるらしい」


「廃棄コストをケチりやがって。あんなもん、正規の手順で協会に持ち込めば処分してもらえるだろうがっ」


「処分費が高いんだよ。大型のバッテリーは特に」


 声の主たちは、中堅の探索者たちだった。


 私は環境モニターの前に立ち、本日の数値を確認しながら、彼らの会話を頭の中で簡単にまとめた。


 魔石駆動バッテリーは、大規模パーティーが携行する照明機材や通信機器の電源として使用される消耗品である。


 内部の魔石が枯渇し、冷却用の溶媒が劣化すれば、ただの重い金属の塊でしかなくなる。


 私は手帳を取り出し、彼らの会話から得られた情報を書き留めた。


 投棄物の種類、投棄が確認されたエリアの概要。


 本日の私の業務ルートと重なる可能性は低い。


 だが、ゼロではない。


 不確定な環境リスクとして、警戒レベルを一段引き上げておく。


 環境モニターの数値を手帳に書き写し、私はロビーを抜けた。


 準備広場で、いつものベンチに腰を下ろし、最終確認の工程に移行する。


 ——すべて問題なし。


 全条件(コンディション)規定値内(オールグリーン)


 私はベンチから立ち上がり、ダンジョンへ向かった。




 本日の目的地は、中層の岩場エリアだ。


 石英と花崗岩が入り混じった硬質な岩盤が特徴のこの区画には、土属性の小型モンスターが安定して出現する。


 競合はそれなりにいるが、私の作業効率と処理精度であれば、予定通りの工数で確実に利益を出せる堅実なルートだ。


 浅層を抜け、中層へと続く大竪穴のスロープを降りていく。


 湿気が増し、空気の重さが変わっていく。


 足元の岩の質感を靴底で確かめながら、五感を研ぎ澄ませて進んでいった。




 目的のエリアに到着してすぐ、土属性のモンスターが岩場の窪みから姿を現した。


 膝丈ほどの高さ。


 硬い外殻に覆われた亀型のモンスターだ。


 動きは緩慢で、視覚よりも振動に依存している。


 私は足音を殺し、対象の死角から接近する。


 外殻の継ぎ目、首の付け根に走る柔らかい組織を狙って、サバイバルナイフを突き立てた。


 対象は光の粒となって霧散した。


 転がった魔石を拾い上げる。


 布片で表面の土を拭い、光に翳した。


 濁りのない、透明感のある土色。


 A品だ。


 ハードケースのウレタンの隙間に収めた。


 私は次の対象を探し、二体目、三体目——、と処理していく。


 自分に課している納品ノルマの八割を達成した頃、私は帰還の判断を下した。


 体力にはまだ余裕があるが、やはりモンスターを相手に無理や無茶はできないため、神経を使う。


 経験を積めばそんなことがなくなるのではないかと思う者もいるだろうが、それは違う。


 経験を積むほど、ダンジョンというものの恐ろしさが理解できるようになっていくため、むしろ神経衰弱が起こるのだ。


 そんな状態で、無理をして残りの二割を今日中に片付けようとするのは、かつての『私』が嫌というほど見てきた、炎上直前の現場で繰り返される愚行だ。


 定時に帰り、十分な休息を取り、翌日も同じ精度で業務をこなす。


 それが、長く続けるための基本である。


 最後の魔石をハードケースに納め、それをバックパックの定位置に収めると、私は帰還ルートに向けて足を進めた。




 中層の主要な狭隘通路に差し掛かった。


 両側の岩壁が迫り、肩幅よりやや広い程度の幅しかない区間だ。


 天井も低く、頭を僅かに下げなければ通れない。


 ここを抜ければ、あとは浅層へ続く比較的安全なルートになる。


 通路の中ほどまで進んだ時だった。


 右手側の岩壁の、低い位置にあるくぼみ。


 そこに、自然物ではないものが詰め込まれているのに気が付き、私は足を止めた。


 隠蔽だろう。


 土砂が被せてあるが、完全に隠しきれず、金属の光沢が覗いている。


 今朝、ロビーで耳にした大型魔石駆動バッテリーの残骸だ。


 外装には複数のひび割れが走り、溶接部の腐食が目視で確認できた。


 内部の冷却用溶媒が微かに滲み出し、酸に近い刺激臭が感じられた。


 不法投棄した探索者に対する憤りはない。


 颯真くんならわからないが、私は特に思うことはない。


 ただ、事実としてそれを認めるだけだ。


 移動を再開しようとした瞬間だった。


 何の予兆も、前触れもなく、バッテリーの外装が割れた。


 経年劣化した金属が、内部に蓄積された圧力に耐えきれず、崩壊したのだろう。


 裂け目から噴き出した冷却用溶媒が、岩壁を伝って通路に流れ込んできた。


 そして、凄まじい速さで岩が溶け始めた。


 私は反射的に後退した。


 だが、前方だけではなかった。


 液体は通路の傾斜に従って前後に広がり、足元の硬質な花崗岩の表面が泡立ち、崩れ、粘土のような泥状に変質していく。


 わずか数秒の出来事だった。


 私の前方と後方、それぞれ数十メートルにわたって、通路の床が底の見えない泥沼に変わってしまった。


 さらに、溶媒と岩盤の化学反応によって、白い靄が通路の低い位置から急速に立ち上ってくる。


 有毒ではないと考えるのは楽観がすぎるだろう。


 空気よりも重いそれは、床面から順に滞留し、腰の高さまで数十秒で到達した。


 私はバックパックから防毒マスクを素早く取り出し、即座に装着した。


 フィルターを通して吸い込む空気に、微かな抵抗が加わる。


 強酸性のガスがフィルターの素材そのものを侵食しているのだ。


 フィルターの寿命が、通常の倍以上の速度で削られていくのがわかった。


 冷静に、現状を把握する。


 強酸の泥沼に囲まれ、通行不能。


 フィルターの残り寿命を考えれば、この場に留まることも不可能だ。


 誰かの廃棄行為が、私の帰還ルートを物理的に破壊した。


「……なるほど」


 怒りがない、と言ったら嘘になる。


 だが、今は生きて帰ることに集中すべきだ。


 私はバックパックを下ろし、中身を一つずつ確認した。


 どれもこの状況を打破できるようなものは——。


「……いや」


 私の手がそれを——魔石運搬用のプラスチック製ハードケースを掴む。


 酸性環境でのモンスター素材の運搬を想定して、耐酸性仕様のケースを選んだのではなかったか。


 泥沼の中を歩くためには、二つの問題を解決しなければならない。


 一つ目は、足場。


 強酸の泥に足を踏み入れれば、靴底が溶け、体重で沈み込み、二度と引き抜けなくなる。


 二つ目は、呼吸。


 腰の高さまで滞留した有毒ガスの中で、防毒マスクのフィルターは数分と持たない。


 私は一つ目から片付けることにした。


 ハードケースの中に収めてあった魔石を、慎重にバックパックの内側のポケットへ移す。


 次に、ケースの内側に貼り付けられている緩衝材のウレタンを、ナイフの刃先を使って剥がしていった。


 ウレタンを引き剥がすと、ケースの蓋と底がそれぞれ一枚の平たいプラスチック板として使える状態になった。


 接地面積を広げれば、泥の中に沈み込む速度を遅らせることができる。


 雪原を歩くための道具と同じ原理だ。


 そのため、ダンジョン内で発見した危険物回収用に持ち合わせている厚手のチャック付きポリ袋もあることにはあったが、今回の使用には合わないと判断したのだ。


 私はケースの蓋を手に取り、安全靴のソールに合わせ、一回り大きいことを確認する。


「……これでいい」


 予備のロープとダクトテープを取り出した。


 分解したケースの蓋を左足の安全靴の下に当て、ロープで強固に縛り付ける。


 さらにダクトテープを巻きつけ、絶対に外れないよう固定する。


 右足にも同様に、ケースの底を固定した。


 歩行の自由度は著しく制限されるが、泥の上を歩くにはこれ以外の手段がない。




 二つ目。


 呼吸。


 ガスは空気より重く、腰の高さまでしか滞留していない。


 頭上の空間には、まだ汚染されていない空気が残っている。


 私は視線を動かし、決壊したバッテリーの残骸を見た。


 破裂の衝撃で吹き飛んだ部品の中に、太い耐酸性の冷却チューブが転がっていた。


 私は手を伸ばし、そのチューブを拾い上げる。


 防毒マスクの吸気口にチューブの片端を当て、ダクトテープで何重にも巻きつけて密閉接続する。


 もう一端を、自らの頭上、有毒ガスの層より高い位置へと持ち上げ、バックパックのフレームにテープで固定した。


 即席の延長呼吸管の構築だ。


 息を吸い込む。


 チューブを経由して、上層の空気が肺に流れ込んできた。


 呼吸は確保された。




 私は強酸の泥沼へ向けて、一歩を踏み出した。


 プラスチックケースの底が泥に触れる。


 沈まない。


 酸による溶解の兆候もない。


 歩行は極めて困難だ。


 泥の粘り気が足を重くし、歩幅を制限する。


 体力の消耗が激しい。


 だが、進むしかない。


 他者が放置した理不尽な負債を自らの生存ツールとして強制的に転用し、私は汚染地帯を踏み越えていく。




 脱出直後、足元の即席装備を解きながら、私は視界の端に捉えた。


 泥沼の縁。


 強酸の溶媒が浸食した岩盤と、未だ侵食されていない乾いた岩盤の境界線上に、見慣れないものが群生していた。


 苔だ。


 暗緑色の、微かに光沢を帯びた苔が、酸に侵された岩肌にびっしりと張り付いている。


 通常の苔であれば、あの強酸性の環境に曝された瞬間に溶解するはずだ。


 にもかかわらず、この苔は繁茂している。


 それどころか、苔が付着している岩盤の表面は、周囲と比較して明らかに侵食の度合いが低い。


 私は屈み込み、境界線付近の苔の状態を注意深く観察した。


 苔が生えている箇所の岩盤は、表面の組成が周囲と異なっていた。


 泡立ちが止まり、灰白色の粘液ではなく、乾いた粉状の残渣のみが残されている。


 まるで、酸が中和されているかのように。


 未知の環境変数を記録する習慣に従い、私はバックパックからビニール袋を取り出した。


 ナイフの先端で苔を岩肌から少量削り取り、袋に収め、密封した。


 発見場所の座標、苔の外観的特徴、付着していた岩盤の状態。


 あとで手帳に記せるよう、しっかり記憶する。


 私はハードケースの板をロープから外して泥を払うと、危険物回収用に常備している厚手のチャック付きポリ袋に入れ、ダクトテープで口を完全に密閉。


 そしてバックパックに押し込むと、帰還ルートの残りを歩き始めた。




 地上に戻ると、準備広場からロビーに出た私は、真っ直ぐカウンターへ向かった。


 権藤さんがいた。


 私の姿を見て、彼は即座に異変を察したようだ。


 安全靴に残ったダクトテープの痕跡と、バックパックに括り付けられた冷却チューブの残骸を見て、僅かに目を細めた。


「中層の主要狭隘通路において、不法投棄された大型魔石駆動バッテリーの決壊による、強酸溶媒の大量漏出を確認しました」


 私は報告した。


「前後数十メートルにわたって通路の岩盤が溶解し、強酸性の泥沼が形成されています。加えて、化学反応による有毒ガスが腰の高さまで滞留しています。当該区間の通行は不能です」


 権藤さんの表情が引き締まった。


「すぐに封鎖措置を出す」


 彼はそう言って手元の端末を操作し始めた。


 その横顔には、現場の安全を脅かす者に対する強い憤りが滲んでいた。


「大型魔石駆動バッテリーには、購入者のライセンスと紐付くシリアルナンバーが刻印されている。現場の残骸からナンバーを復元し次第、持ち主を特定する。ライセンスの永久剥奪はもちろん、天文学的な環境浄化費用を全額請求することになるだろう」


「……目先の廃棄コストを惜しんだ結果、人生そのものを不良債権化させましたか」


 実際、後日、彼らの行く末を、私は権藤さんから聞かされた。


 私はバックパックからビニール袋を取り出し、カウンターの上に置いた。


「それと、現場で採取したものがあります」


 袋の中の暗緑色の苔を、権藤さんが見た。


「これは……?」


「泥沼の縁に群生していた苔です。強酸性の環境下でも枯れず、付着している岩盤の酸性度が周囲に比べて低いことを確認しました。正体はわかりません」


 権藤さんは袋を手に取り、数秒間それを見つめた後、奥の査定室へと声をかけた。


「鑑定を頼む」


 数分後、査定室から出てきた職員の顔色が変わっていた。


「……権藤さん、少しいいですか」


 呼ばれた権藤さんが査定室の奥へ消え、しばらくしてから戻ってきた。


 その表情には、驚きが隠しきれていなかった。


「静河さん」


「はい」


「この苔は、強酸性環境でのみ生育可能な新種だそうだ。しかも、酸を中和する触媒作用を持っている」


 触媒作用。


 つまり、苔自体が酸性物質を分解し、無害化する機能を内包しているということだ。


「環境浄化資材としての応用価値が極めて高い。協会としての特別買取の対象になる」


 権藤さんが提示した買取額は、本日の業務で回収した魔石の売上を含めてもなお、大幅に上回るものだった。


「……ありがとうございます」


 私は明細を受け取り、カウンターを後にした。


 他者の不始末によって生じた損失が、その不始末の現場から発見された未知の資源によって上回られた。


 予定外の黒字だ。


 しかし、そのことよりも、私の思考を占めていたのは別のことだった。




 宿舎に戻り、荷物を下ろす。


 装備の点検と清掃を済ませてから、私はスーパーに出かけた。


 鮮魚コーナーで足を止める。


 鯵が並んでいた。


 一尾ずつ、目の澄み具合と鰓の色を確認する。


 三尾を選び、カゴに入れた。


 今日は南蛮漬けを作ろうと思った。


 あの泥沼を渡った後、私の体は酸の臭いに包まれていた。


 鼻腔にこびりつく刺激臭は、シャワーを浴びた今も、記憶の中にうっすらと残っている。


 その酸を、自分の手で、自分の味覚で、丁寧に仕上げた味として上書きしたかったのだ。


 宿舎に戻り、私は南蛮漬けを作った。


 皿に盛り付け、箸で持ち上げる。


 衣に染みた酢の酸味が、最初に舌を刺激した。


 その直後に、鯵の身の旨味が追いかけてくる。


 玉葱の甘みが全体を柔らかく包み、唐辛子の辛味が後味を引き締めた。


「……美味い」


 その事実に、穏やかな充足感を覚えながら、私は二切れ目の鯵を口に運んだ。




 食後、私は机に向かい、本日の業務記録をつけ始める。


 環境データ、回収した魔石の数量と品質、帰還ルートの変更理由と経緯。


 そして、泥沼の現場で観察した事実。


 ペンの先が、一箇所で止まった。


 岩盤の侵食速度。


 強酸溶媒が漏出してから、前後数十メートルの岩盤が泥沼化するまでに要した時間は、私の体感でわずか数秒だった。


 いくら高濃度の強酸とはいえ、硬質な花崗岩を含む岩盤を、数秒で数十メートルにわたって底なしの泥沼に変質させることが、化学反応として成立するだろうか。


 漏出した溶媒の量は、あのバッテリー一基の冷却系統に収まる程度だ。


 あの体積の溶媒が、あれだけの範囲をあれだけの速度で侵食するには、物質量が足りない。


 化学反応の速度論としても、説明がつかない。


 ならば——。


 私は手帳の新しいページを開いた。


 溶媒単体の化学的作用ではない、という仮説が浮上する。


 ダンジョンが、投棄された異物に反応した——としたら?


 本来存在しないはずの化学物質が持ち込まれたことを、ダンジョンが検知し、それを取り込み、適応する形で、局所的に土壌を作り変えた。


 あの泥沼は、溶媒による単なる化学的侵食ではなく、ダンジョン自体が生成した捕食トラップだった——と考えることもできるのではないか。


 確証はない。


 再現性のあるデータもない。


 私はペンを動かし、手帳に一行だけ書き加えた。


 ——ダンジョン環境の異常な変容の痕跡を認める。


 今の私にできることは、観測した事実を記録し、蓄積し続けることだけだ。


 私は息を吐き出し、意識を切り替え、明日の業務の段取りを頭の中で組み立て始めた。

最後まで読んでいただきありがとうございます。

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