第55話:委託業務の完遂と、凍結する環境変数
探索者協会のロビーを抜けた私は、準備広場のいつものベンチに腰を下ろした。
自動認証ゲートはライセンスカードを正常に読み取り、スムーズに開閉した。
昨日のシステムダウンの影響はすでになく、人の流れは平時のペースを完全に取り戻していた。
原因は発表されていない。
しかし、黒木氏の言葉によれば、未知の磁気干渉によるサーバー障害。
何かが起こっているのだろうか。
「……いえ、今は目の前のことに集中すべきです」
私は息を吐き出し、意識を切り替える。
バックパックから手帳を取り出し、私は本日の業務を再確認する。
本日の業務は、昨日のゲートシステムダウンによって延期した案件の持ち越しだ。
企業クラン『アルゴス』から委託された、『金剛石の回廊』に蓄積した規格外フォートレス・アイソポッドの間引きである。
昨日の遅延分を上乗せした本日のノルマを完遂できれば、私が請け負ったスケジュールに支障は出ない。
私は手帳をバックパックに収めると、いつものルーティンへ移行した。
靴紐のイアン・ノット。
ポーション、止血剤の位置。
バックパック内の各装備の固定具合と重心。
最後に左太ももに装着したドロップレッグホルダーに触れ、内部に収まっている改良型『対極硬度用・高周波解離ユニット』の感触を確かめた。
「——全条件、規定値内」
ベンチから立ち上がると同時に、視界の端に特徴的な紺色の防塵コートが映った。
瀬能氏と涼下氏が、こちらへ向かって歩いてくるところだった。
私の業務に、彼らが同行する理由はないのだが。
「何かありましたか?」
「いえ、そうではありません。当社の観測班も回廊の手前まで同行し、間引きに伴うエリア内の環境数値の推移をモニタリングします。あなたのアプローチが周囲の環境変数にどのような影響を及ぼすのか、自社のセンサーで一次データを収集しておきたいのです。事前の契約通り、あなたの業務には一切干渉しません」
彼女の声には、以前のような冷ややかさはなかった。
業務に一切干渉しないというのなら、『アルゴス』の同行は問題にはならない。
「了解しました」
私の短い応答に、彼女は会釈で応じ、私はダンジョンに向かった。
浅層から中層へ至るルートを、いつもどおり五感を働かせながら進む。
足元の岩肌の湿り具合、天井の亀裂の有無、気流の方向と強さ。
一つひとつを脳内のチェックリストに照らし合わせながら歩く私の後方から、瀬能氏と涼下氏、それに『アルゴス』の観測班が、重量のある機材を抱えて追従してくる。
「……なるほど、これがあなたのやり方ですか」
涼下氏の小さな呟きを捉える。
私は特に応じることもなく、そのまま進み、そうして——石英質の岩盤に囲まれた、乾燥した領域である『金剛石の回廊』に到着した。
私は瀬能氏と涼下氏に視線を送り、彼らが回廊の入口付近で各種センサーの展開を始めたのを確認してから、奥へと踏み込んだ。
事前に涼下氏から受け取っておいた座標データに基づき、対象の生息域へと向かう。
曲がり角の先、通常個体よりも一回り大きい規格外フォートレス・アイソポッドが姿を現した。
だが、巨体であっても装甲の構造的弱点は変わらない。
私は足音を殺して死角へと回り込み、多脚の歩行周期から継ぎ目が露出するタイミングを見切る。
ユニットで装甲の分子結合を解離させ、できた隙間にサバイバルナイフを差し込んだ。
これまでに構築した手順を、正しく反復するだけだ。
対象が光の粒となって霧散し、魔石だけが硬い岩盤の上に転がった。
拾い上げ、布片で汚れを拭い、ハードケースに収めた。
一体目、処理完了。
私は息を吐き出し、次の対象へと向かった。
昨日の遅延分を上乗せした規定数のアイソポッドを処理し終えた時、インジケーターが安全マージンとして設定したバッテリー残量の閾値への接近を点滅で知らせていた。
遅延リカバリーを含めた本日のノルマは完遂。
私はユニットの電源を落とし、ホルダーへ収めた。
『金剛石の回廊』の入口へと戻ると、瀬能氏と涼下氏は各種センサーの前でデータを確認していた。
涼下氏の端末の画面が私の視界に入る。
エリア内の滞留エネルギー濃度が、処理前と比較して正常値に向かって遷移していることを示すグラフが表示されていた。
瀬能氏は私を一瞥したが、何も言わなかった。
涼下氏が短く頷く。
私もまた短く頷き返した。
「本日の間引き業務は完了しました。撤収します」
私の報告に、瀬能氏は微かに顎を引き、観測班へ機材の撤収を指示した。
帰路は、往路と同じく地下水脈が隣接する岩場区画を経由する。
私が先頭を歩き、後方から『アルゴス』の面々が重量のある測定機材を抱えて規則正しい足取りで追従していた。
見慣れた岩肌の続く通路、区画の境界を越えた瞬間、吐く息が白くなった。
中層のこの深度において、これほど急激に気温が低下することは過去の観測データに存在しない。
おかしいと思い、警戒しながらさらに進むと、前方の通路が足首ほどの深さまで浸水しているのが見えた。
来た時にはなかった異変。
後続の『アルゴス』の隊員が、私を追い抜き、その水の中へ踏み込もうとした。
「待ってください」
私の制止に、隊員が動きを止め、瀬能氏と涼下氏が怪訝な視線を私に向ける。
「静河さん、単なる増水ではありませんか」
涼下氏の問いに、私は視線を水面に固定したまま答えた。
「……確かにそうかもしれません。ですが、これは来た時にはなかった異変です」
私の指摘に、瀬能氏の顔色が変わる。
「……そうです。あなたの言うとおり、わたしたちは普通にここを歩いてきた。濡れることなくです」
瀬能氏の言葉に頷きながら、私は続けた。
「何よりおかしいのは、この水面には一切の波紋がないこと」
鏡のような水面。
そして、吐く息を白く染める異常な冷気。
これらが示唆する環境変数は、これである可能性が高い。
「水温が氷点下を下回っているにもかかわらず、液状を保っている過冷却状態です。ここに衝撃を与えれば、一瞬で連鎖凍結が始まります」
私の指摘に、涼下氏が慌てて手元の環境センサーを確認し、顔色を変えた。
「水温、マイナス8度……。静河さんの言う通りです。足を踏み入れていれば、衝撃をトリガーとして凍結に巻き込まれ、重度の凍傷や拘束による致死的リスクがありました」
私を追い抜き、先へ進もうとしていた『アルゴス』の隊員の顔色が青くなり、慌てて後ずさる。
「別ルートへ迂回します」
私は彼らを先導して分岐路へと向かった。
——だが、ダンジョンという環境は、常に人間の予測を上回る悪意を提示してくる。
迂回先のルートもまた、同じように過冷却水によって浸水していた。
水位は徐々にだが、確実に上昇している。
このままではルート全体が完全に水没してしまう。
衝撃を加えず撤退する方法——いや。
障害を回避できないのなら、障害そのものの性質を利用すればいい。
「皆さん、後方へ下がって待機してください」
私が言えば、
「静河さん、いったい何を——」
涼下氏が問いかけようとするが、
「今は疑問を解決している場合じゃありません。静河さんの言うとおり、下がりなさい」
瀬能氏の一言で、『アルゴス』が水際から下がる。
私は彼らが後退したのを確認すると、足元から手頃な大きさの石を拾い上げた。
過冷却水は、物理的な衝撃をトリガーとして状態変化を起こす。
ならば、そのトリガーを任意のタイミングで作動させればいい。
私は拾い上げた石を、静寂を保つ水面の中心へ向けて正確に投擲した。
石が水面に衝突した、その瞬間だった。
波紋が広がるよりも早く、衝突点を起点として爆発的な速度で氷の結晶が放射状に成長していった。
足首ほどの深さがあった過冷却水は、数秒と経たないうちに、通路全体を覆う分厚く強固な氷の床へと変貌を遂げた。
目の前に、歩行可能な氷のインフラが完成した。
「……なるほど! さすがは静河さんです。見事な環境制御だ……!」
涼下氏が感嘆の声を漏らすのが聞こえた。
「感心している時間はありません。移動の準備を」
私はバックパックを下ろし、サイドポケットから一組の金属製ギアを取り出した。
極寒冷地エリアである『白霜の凍谷』への調査以降、不測の事態に備えて常備していた雪山用のアイゼンだ。
安全靴の底面へ素早く装着し、バックルが確実に噛み合ったことを指先で確認する。
『アルゴス』にアイゼンはない。
「靴底に予備のロープを巻きつけてください。即席の滑り止めになります。機材の運搬は重心を下げ、滑落に注意するように」
私の指示に瀬能氏が頷き、彼らは素早くロープを取り出して、靴に巻きつけた。
準備が整ったことを確認すると、私は先導を開始した。
背後から『アルゴス』の面々が慎重な足取りで続いてくるのを聞きながら、この状況を突破した。
地上へ戻ってきた。
緊張していた『アルゴス』の隊員たちの顔が緩んだのが見えた。
「では、私はこれで」
会釈をし、立ち去ろうとした私に、涼下氏が声をかけてくる。
「静河さん、環境センサーの記録から見て、地下水脈の単なる気温低下では、あれほどの速度で過冷却状態に至るとは思えません」
「……私もそう思います」
「ダンジョンに異変が起こっているのでしょうか? あるいは自分たちがダンジョンに影響を——」
その可能性がないとは言い切れない。
だが、結局のところ、
「わかりません。……今は、まだ」
いずれわかる時が来るかもしれないし、来ないかもしれない。
ただ、新たな環境変数として、この情報は記録しておく必要があった。
黙り込む涼下氏を横目に、私はもう一度、瀬能氏を始めとする『アルゴス』たちに会釈し、その場から離れた。
換金カウンターへ向かい、本日回収した魔石をトレイに並べる。
顔馴染みになった係員から明細を受け取り、金額を確認し、頷く。
協会を出る。
極度の冷気に晒されたことで、体内の深部体温が確実に低下している。
「豚肉と根菜を炒め、生姜を効かせた豚汁に——いえ、そこにうどんを入れて、豚汁うどんにしましょうか」
冷え切った身体をあたためる夕食を想像しながら、私はスーパーへと足を向けた。
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