第54話:沈黙するシステムと、導き出した最適な比率
探索者協会のロビーに入った瞬間、異変に気がついた。
人の密度が、明らかにおかしかった。
普段であれば、朝の通勤ラッシュのような喧騒こそあれど、人の流れそのものは滞りなく循環している。
環境モニターを確認する者、受付で書類を提出する者、準備広場へと抜けていく者。
それぞれが自分のルーティンを淡々とこなし、数分で入れ替わっていくのが常だった。
だが今朝は、その流れが完全に堰き止められていた。
ロビーの中央から準備広場へ続く連絡通路にかけて、探索者たちが並んでいる。
列の先頭は見えない。
途中で腕を組んだまま天井を仰いでいる者、目を閉じている者、苛立ちを隠さずに舌打ちを繰り返す者。
その空気の重さだけで、これが数分で解消する類の混雑ではないことがわかる。
私は列には加わらず、まずロビーの壁面に設置された環境モニターの前へ向かった。
液晶画面に表示された気圧、湿度、気温の数値を手帳に書き写す。
ダンジョン内部の環境データに異常はない。
問題はダンジョンの中ではなく、外にあるらしい。
手帳を閉じ、受付カウンター付近へ視線を向けると、状況の輪郭が見えてきた。
準備広場へと続くゲートの手前。
普段であれば、ライセンスカードのICチップをリーダーにかざすだけで通過できる自動認証ゲートが、すべて閉鎖されていた。
代わりに、職員がカウンターの前に立ち、探索者一人ひとりのライセンスカードを受け取り、分厚い台帳と照合している。
私にとってあのゲートの通過は、靴紐をイアン・ノットで結ぶことと同じ、毎朝のルーティンの一つだった。
ライセンスカードをリーダーにかざし、緑のランプを確認、バーを押して通り抜ける。
その一連の動作は、完全に身体に染み込んでいた。
職員のやり方を観察する。
カードの表面に印刷された顔写真と登録番号を目視で確認し、台帳のページを繰り、該当する行を指でなぞり、ペンでチェックを入れる。
一人あたりに要する時間は、自動認証の数十倍。
列の長さから逆算すれば、ここから最後尾に並んだ場合、ゲートを通過するまでに数時間は確実にかかる。
私はロビーの隅へ移動し、壁際のベンチに腰を下ろした。
バックパックを足元に置き、手帳を取り出す。
本日の業務は、『アルゴス』から委託された『金剛石の回廊』における、フォートレス・アイソポッドの間引きだ。
手帳に記してある納期までの残日数と、一日あたりの処理可能数を見比べる。
数時間の待機は、ダンジョン内での活動時間を確実に圧迫する。
体力と集中力が最も充実している午前中の時間を、ただ列に並んで消費するのは得策ではない。
また、懸念すべきこともあった。
この長時間の待機でフラストレーションを溜め込んだ探索者たちがダンジョンへ入った時、彼らの注意力が散漫になっている可能性は極めて高い。
現場で最も危険なのは、平常心を失った人間であることを『私』はよく知っていた。
本日の工数を別の日に振り分けても、納期には間に合う。
利益率も維持できる。
ならば、今日この混乱に付き合う理由はどこにもなかった。
私は手帳を閉じ、バックパックを肩に掛け直した。
ベンチから立ち上がり、列に並ぶ探索者たちの横を通り過ぎる。
何人かが怪訝そうな視線を向けてきたが、私はそのまま協会の出口へと歩き出した。
平日の午前中。
普段であれば地下に潜っている時間帯に、地上にいる。
奇妙な解放感と、微かな居心地の悪さが同居していた。
「……私もすっかりこの世界の人間になった、ということか」
空いた時間をただ消費するつもりはなかった。
平日の日中にしかできない用事がある。
私は駅前のバスターミナルへ向かった。
そうして私がやってきたのは、郊外の大型ホームセンターだ。
自動ドアをくぐると、建材と塗料と機械油が混ざり合った独特の匂いが鼻腔を満たした。
休日であれば家族連れやDIY愛好家で賑わうが、平日の午前中は静かなものだった。
私はまず、化学薬品のコーナーへ向かった。
先日の業務で使用不能になった化学凝固剤の代替品を選定する。
成分表の照合はすでに自室で終えており、候補となる製品の型番も手帳に控えてある。
棚の前に立ち、候補の製品を一本ずつ手に取る。
ラベルに印刷された成分比率を確認し、手帳の記録と突き合わせる。
界面活性剤の配合比率。
溶媒の種類。
使用温度範囲。
三本目の製品で、すべての項目が私の要求する仕様と合致した。
カゴに入れ、次の棚へ移動する。
工業用の留め具を数種類。
バックパックの内部仕切りを補強するためのナイロンベルト。
消耗した防毒マスクのフィルターカートリッジの予備。
一つずつ手に取り、確認し、カゴへ収めていく。
こうした地味な補給と点検の積み重ねが、ダンジョンで業務を行う私を生かし続けている。
工業資材のコーナーへ差し掛かった時だった。
通路の奥から、低く太い声が聞こえてきた。
「……この粘度だと、マイナス三十度以下で硬化が早すぎるな」
声の主は、棚の前にしゃがみ込んでいる男だった。
短く刈り込んだ白髪交じりの頭髪。
日焼けした首筋に走る、古い裂傷の痕跡。
ベテラン探索者の黒木氏だった。
彼の足元には、大型のカートが置かれていた。
極寒地用の特殊な耐寒シーリング材が数本。
高粘度の潤滑油。
真鍮製の連結金具。
そして、粒度の細かい工業用サンドペーパー。
私が通路に立ち止まったことで、黒木氏がこちらに気づいた。
立ち上がり、私を見る。
深い皺が刻まれた額の下、鋭いが温度のある茶色い瞳が、私の手元のカゴの中を見る。
数秒の沈黙。
黒木氏が先に口を開いた。
「……奇遇だな」
「あなたも、あの渋滞を避けたのですね」
彼の言葉に私が応じると、黒木氏は短く頷いた。
「ああ。俺が着いた時にはもう手作業に切り替わっていた。あの列に数時間並ぶくらいなら、機材の手入れに時間を使った方がましだ」
黒木氏は見慣れた装備の代わりに、厚手のキャンバス地のワークジャケットに、複数のポケットが立体的に裁断されたカーゴパンツという姿だった。
「凝固剤を探しに来たのか」
私のカゴに入っている溶剤のボトルを見て言った。
「先日、成分の仕様が変わっていたらしく、現場で想定外の反応が出ました。代替品の選定です」
そうか、と黒木氏が呟くように言った。
「そちらは深層用の資材でしょうか」
「ああ。……高価な魔剣を振り回すより、こっちの方が確実だ」
ホームセンターの棚に並んでいる工業製品を、本来の用途とは異なる方法で現場に持ち込み、自分の手で環境に適応させる。
私が凝固剤や冷却スプレーで粘性モンスターに対処してきたように、この人もまた、安価で信頼性の高い工業製品の転用で深層の過酷な環境を制御してきたのだろう。
「……ところで、今朝のシステムダウンの原因、聞いたか」
黒木氏が声の調子を僅かに変えた。
「いえ。何も」
「俺が協会に着いた時、裏で対応していた技術班の連中と少し話した。単なる機械の故障じゃないらしい」
黒木氏は通路の先に視線を向けた。
他に客の姿がないことを確認してから、続けた。
「最近、深層から持ち込まれた一部の高純度魔石が、未知の磁気干渉を引き起こしたそうだ。それがサーバーの通信を阻害したと聞いている」
先日、私が回収した酸性粘体の魔石からも、通常とは異なる属性反応が検出されていた。
私はバックパックから手帳を取り出すと、その情報を書き留めた。
「情報、ありがとうございます」
「いや。……俺はもう少し見ていく。またな」
「ええ、また」
短く言葉を交わし、私たちは別々の通路へと歩き出した。
ホームセンターを出ると、空は午後の光に変わっていた。
バスに揺られて宿舎の最寄りのバス停で降り、帰り道にスーパーマーケットへ立ち寄った。
精肉コーナーの前で足を止める。
今日は業務を行っていない。
当然、節約すべきだ。
私は値引きシールの貼られた、それを——牛肉を手に取った。
「こういう日があってもいいでしょう」
この世界で生きていくため、これまで毎日、必死にやってきたからこそ。
宿舎の自室に戻り、購入した工業資材を作業スペースの上に並べる。
また、装備や資材をそれぞれ所定の場所に収め終えると、私はキッチンに立った。
まず、割り下の準備だ。
市販のタレに頼ることはしない。
かつての『私』が試行錯誤した末に辿り着いた最適な比率があるからだ。
鋳鉄の鍋を火にかけ、牛脂を薄く引いた。
脂が熱されて透明に変わり、甘い香りが立ち上る。
牛肉を一枚ずつ、鍋肌に沿わせるように広げた。
火が通りすぎる前に裏返す。
割り下を鍋の縁から注ぎ込んだ。
熱い鍋肌に触れて一瞬で沸き立つ。
凝縮された旨味の香りが爆発的に広がった。
斜め切りにした長葱、焼き豆腐は手で割って加えた。
春菊は最後だ。
小鉢に生卵を割り入れ、箸でほぐす。
鍋から牛肉を一枚、卵にくぐらせ、口へ運ぶ。
「……これだ」
白米を食べる。
朝の混乱したロビー。
もしあそこで意地を張り、列に並び続けていたら、今頃は疲労と苛立ちを抱えながら、味気ない食事を詰め込んでいたかもしれない。
次の肉を鍋に広げるため、私は箸を伸ばした。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
もし、少しでも『面白い』『続きが気になる』と思っていただけましたら、
ブックマークと、下の【☆☆☆☆☆】で評価して応援いただけると執筆の励みになります。




