第52話:サイレント変更と急冷の逆用
朝の探索者協会のロビー、その壁面に設置された環境モニターの前に立ち、私は液晶画面の数値を手帳に書き写した。
気圧、湿度。
「……規定値内だ」
ダンジョン中層の湿潤エリアへ向かうにあたり、平時の基準値から逸脱する兆候はない。
私は手帳を閉じ、バックパックに収めた。
ロビーを抜け、準備広場へ向かう。
壁際にあるいつものベンチに腰を下ろした。
業務開始前の最終工程だ。
安全靴。
ポーションの位置。
ハンマーの懸架状態。
防毒マスクのフィルターの予備。
バックパックの指定位置には、今日のための消耗品を収めている。
粘性モンスター対策である、化学凝固剤の新品ボトル。
そして、不整地での歩行による捻挫や打撲に備えた、労働災害対策用の携帯冷却スプレー。
ポーションは即効性のある優れた回復薬だ。
だが、連続して使用すれば抗体が生じ、いざという時の効力が落ちる。
致命傷を負った際のリスクを減らすため、軽度の打撲などにはポーションを使わず、物理的な冷却で処置するというのが、私の定めた運用ルールだった。
そのためのスプレーである。
腰のハンマー。
サバイバルナイフは鞘から少しだけ引き抜き、刃の欠けがないことを目視する。
すべて問題ない。
「全条件、規定値内」
私はダンジョンへと続くスロープを下っていった。
中層の湿潤エリア。
すり鉢状の地形の窪地には、換気の悪さから重い湿気が滞留している。
壁面には白い綿状の真菌類が密生していた。
私は首から下げていた防毒マスクを顔面に押し当てる。
カビの甘い芳香が、フィルターによって完全に遮断される。
私はライトの光軸を足元から前方三メートルの範囲に絞り、通路を進んだ。
壁面を這う発光苔が青白い燐光を放っていて、その光量だけでは視界の確保には不足だが、岩盤の輪郭を浮かび上がらせる程度には役に立つ。
通路が緩やかに左へ湾曲する手前で、足を止めた。
右手の壁面に沿って広がる水溜まりの中に、微かな揺らぎがあった。
水面の自律的な震えは自然現象ではない。
モンスターだ。
私はライトの光量を最低まで絞った。
暗がりに目を慣らしながら、揺らぎの震源に意識を集中させる。
水溜まりの底。
いや、水溜まりそのものが、対象だった。
岩盤の色彩に溶け込むように擬態した、半透明の粘性体。
酸性粘体の類だ。
このエリアの湿潤な環境に適応した粘性モンスターで、私にとっては化学凝固剤を用いた処理手順が確立された対象である。
私は後退し、対象との距離を保つ。
バックパックのサイドポケットから化学凝固剤のボトルを引き抜いた。
ノズルを対象へ向け、噴射用のトリガーを引く。
霧状の溶剤が対象の表面に均一に降り注ぐ。
——本来であれば。
この時点で、対象の体組織は石膏のようになって動きを止めるはずだった。
だが、硬化しなかった。
硬化するどころか、溶剤を浴びた表面から不快な泡が立ち上る。
対象の体積が急激に膨張し、粘度が異常に増していくのが見て取れた。
「……仕様変更!」
メーカーが界面活性剤の比率を変えたのか、あるいは別の成分を密かに調整したのかはわからない。
いや、今はそんなことを考えている場合ではない。
膨張に耐えきれなくなった対象の一部が、圧力によって弾け飛んだ。
回避する間もなかった。
強粘性のゲル状物質が、私の顔面を直撃した。
正確には、顔面を覆う防毒マスクの吸気口にだ。
——空気が、来ない。
吸気弁がゲルによって完全に塞がれ、外気の流入が絶たれてしまった。
肺が酸素を求め、心臓が警鐘を鳴らすように拍動を速めた。
パニックによる心拍数の上昇は、限られた血中酸素の消費を無駄に早めるだけだ。
私は意図的に動きを止め、思考を加速させる。
対象の粘着力は異常だ。
無理に引き剥がそうとすれば、吸気弁ごと壊れるか、手が張り付いて両手の自由を奪われる。
ナイフで削ぎ落とすこともできない。
刃がマスクの表面を傷つけ気密性が損なわれれば、周囲に滞留する有毒ガスが直接肺に流れ込む。
視界の端が暗くなり始めた。
肺が焼け付くように苦しい。
窒息までのタイムリミットが迫る。
——止まるな、考えろ。
手持ちの資材は何がある?
この状況を打破する最適解は——。
私はポーチへと手を伸ばした。
指先が冷たい金属の円筒に当たる。
これだ。
ポーションを温存するために持ち込んでいた、捻挫用の携帯冷却スプレー。
私はそれを引き抜き、ノズルをマスクを塞ぐ粘体に零距離で押し当てた。
トリガーを限界まで引き込めば、内容物が勢いよく噴射された。
マイナス数十度の気化冷媒が、至近距離で粘体に叩き込まれた。
指先を伝わってくる急激な温度低下。
ノズルを握る手が、手袋越しでも芯から痺れる。
急激な冷却によって、柔軟性を維持していたゲル状物質が、その柔軟性を保てる温度の閾値を一気に下回る。
缶が空になった。
私はスプレーを手放し、腰からハンマーを引き抜いた。
マスクに張り付いた粘体の位置を、左手の指先で確認する。
吸気口の周辺。
硬化しているはずの領域。
柄頭を当てる。
短く、鋭く、叩いた。
硬くなった粘体が、細かな破片となって砕け散った。
塞がれていた吸気弁が開き、空気が一気に肺に流れ込んでくる。
むせ返りそうになるのを堪え、私は深く呼吸を繰り返した。
視界の暗転が晴れていく。
私はサバイバルナイフを引き抜き、床で膨張したまま動けなくなっているスライムの核を正確に突き刺した。
対象が光の粒となって霧散し、魔石が落ちる。
私はそれを拾い上げ、布片で表面を拭い、ケースへ収めた。
マスクのフィルターは粘体の付着物で汚染されている。
予備のカートリッジは持参しているが、交換して業務を続行するだけの精神的な余裕はなく、溶剤の仕様が信頼できないものになってしまった以上、このエリアでの業務継続は続行できない。
撤退だ。
私は来た道を引き返し、地上への帰路についた。
探索者協会のロビーへ帰還した。
安全が確認されたところで、私はポーチから凝固剤のボトルを取り出した。
あの時も思ったが、メーカーが界面活性剤の比率を変えたのかもしれないし、別の成分を密かに調整したのかもしれない。
何にしても、
「……このボトルは二度と使えませんね」
買い直し、かつ成分表の照合作業が発生する。
予定外のコストだ。
私は息を吐き出し、意識を切り替える。
換金カウンターへ向かい、トレイの上に本日の成果物を置いた。
係員が意外そうな顔をする。
いつもと違い、一つだけだからだろう。
だが、すぐに表情を戻し、テスターに置いた。
微かな駆動音の後、いつもなら緑色に点灯するはずのランプが、見たことのない色で点滅した。
係員の表情が変わった。
ディスプレイの数値を二度見する。
「……静河さん、この魔石からは通常の属性マーカーが出ていません。未登録の反応パターンで、新種の希少属性の可能性があります。専門の鑑定チームに回してもよろしいですか?」
新種の属性。
凝固剤のように、ダンジョンの仕様変更か?
……いや、あの溶剤との異常な化学反応が、魔石の組成に何らかのエラーを引き起こしたと考える方が自然だろう。
何にしても、それを追究するのは私の業務ではない。
「どうぞ。鑑定してください」
「ありがとうございます。……少々お待ちいただけますか」
係員は魔石を専用のケースに納め、奥の事務室へ消えた。
数分して、彼は戻ってきた。
手にしているのは、通常の換金明細とは異なる書式の用紙だった。
「速報値ですが、希少属性の暫定判定が出ました。正式鑑定は後日ですが、暫定の買取額はこちらになります」
差し出された明細に視線を落とす。
数字が、通常の魔石数個分に相当していた。
……なるほど。
凝固剤の買い直しと、成分表の再確認に費やすであろう時間と金銭。
それが、この一個の想定外の収入で相殺される。
収支の帳尻が合った。
私は明細を手帳に挟み、カウンターを離れた。
宿舎の自室。
換気扇を回し、小さなキッチンに立つ。
今日の夕食は水晶鶏だ。
安価な鶏むね肉を削ぎ切りにし、片栗粉をまぶして低温の湯で静かに茹で上げる。
冷水で引き締め、水気を切る。
梅肉と大葉を添え、ポン酢を少しかけた。
テーブルに運び、箸で一切れ口に運ぶ。
滑らかな口当たりと、しっとりとした肉の旨味が広がる。
「……美味い」
凝固剤の買い直しという予定外の出費は、明日以降に処理すればいい。
成分表を照合し、配合が変わっていないことを自分の目で確認してから、次の業務に持ち込む。
それまでは別の手段で対応するか、あのエリアを回避すればいいだけの話だ。
ポーションを温存するための冷却スプレーが手元にあったように、日々の準備、地味な段取りを怠らないようにしながら。
私は二切れ目の水晶鶏を口へと運んだ。
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